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1/a + 1/b = 1/f ・・・(Lens - 1) | ||||||
a: 物体点の位置からレンズ中心までの距離 | ||||||
b: レンズ中心から結像点までの距離 | ||||||
f: レンズ焦点距離 | ||||||
M = b/a = l / L ・・・(Lens - 2) | ||||||
M: 撮影倍率 l: 像の大きさ L: 物体の大きさ |
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【レンズの厚みを無視できるとき】 | |||||||
1/f = (n - 1)・(1/r1 - 1/r2) ・・・(Lens - 3) | |||||||
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【レンズの厚みがtであるとき】 | |||||||
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2θ = 2・tan-1(A'B'/2・b) ・・・(Lens - 5) | ||||
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2θ = 2・tan-1(A'B'/2・f) ・・・(Lens - 6) | ||||
(上式は、物体が像よりも20倍以上大きく、bが限りなく焦点距離fに近い時のもの。) | ||||
f = 1.072・A'B' ・・・(Lens - 7) | ||
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M = b/a ・・・(前述) | |||||
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F = f /φent= (f - χ)/φexit ・・・(Lens - 8) | |||||
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F = f / D ・・・(Lens - 10) | |||||
F: レンズ逆口径比(Fナンバー、F値) | |||||
f: レンズ焦点距離 | |||||
D: レンズ口径 | |||||
N.A. = n・sinθ ・・・(Lens - 11) | |||||||||
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F = 1/(2・N.A.) ・・・(Lens - 12) | |||||||||
レンズのF値とN.A.の関係。 | |||||||||
光と光の記録「レンズの分解能」参照 | |||||||||
T = F/√τ ・・・(Lens - 16) | |||||
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Feff =(1 + M x 1/ψ)F・・・(Lens - 17) | |||||
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E = Eω・cos4θ ・・・(Lens - 20) | ||||
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DP1 = L x (H + f) / (H +L) ・・・(Lens - 21)
DP2 = L x (H - f) / (H - L) H = f 2 / (δ x F) |
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1/a + 1/b = 1/f = 2/R・・・(Lens - 22) | |||||||
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球面鏡の結像公式
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- 米国フロリダにあるセントオーガスチン(St. Augustine)灯台。
- ほとんどすべてが光学ガラスでできている。
- 静岡県御前崎市の灯台(明治7年、1874年建設)。
- 建設当時は一等閃光レンズでしたが、太平洋戦争時連合軍の標的にあって破壊されました。
- 戦後、三等大型レンズになりました。
- 窓の中にはフレネルレンズが装備されていて、中心に置かれた点光源を平行光にして遠い海の先に投げかけています。
- フレネルレンズ灯体は、20秒で一回転しています。
- レンズが両面にあるので、10秒周期で海上に光を水平にスキャンしています。
- 2006.02.14に見たこの灯台の光は白い光でした。キセノンランプかHMI ランプと思われます。
- この灯台の高さは22.5m、光軸は海抜約54mにあります。
- 灯台の光度は、56.0万カンデラ。到達距離は、19.5海里(約36km)。
- 木下恵介監督映画「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台となった有名な灯台です。
レンズ前面部:フィルタを取り付けるネジが切ってある。 | カメラに取り付けるレンズマウント。産業界では、ニコンのFマウントとCマウントが一般的。 | ||||||||||||||
フォーカスリング部: 鏡筒を回してピント調整を行う。撮影距離を示す数値が左に、絞りによるピントの合う範囲が右に示される。撮影距離の数値は、メートル表示とフィート表示の2系列で示されている。 | 絞りリング部: 鏡筒を回してレンズの絞りを調節する。絞りの値は、開放値から√2の倍数(1.4、2、2、2.8、4、5.6、8・・・)で数字が刻まれている。 | ||||||||||||||
レンズの内部は、上の図のようになっている。レンズは焦点距離Fを持っているが、焦点距離は前方の焦点距離(F)と後方焦点距離(F')の2つある。焦点距離は、レンズの主点からの位置で求められ、前方と方向の焦点距離のため主点はHとH'の2つある。主点は、レンズによって変わり、この位置はレンズメーカーに問い合わせなければ正確な位置はわからない。 | |||||||||||||||
- ▲ 焦点距離(Focal Length)
- レンズのもっとも基本的な性能の一つです。
- レンズは、当然の事ながらレンズの前と後ろに焦点位置を持っています。
- 前方の焦点距離を(F)で表し、後方焦点距離を(F')で表します。
- 焦点距離が長いと屈折力が弱く焦点距離が短いと屈折力が強くなります。
- 拡大撮影や広い範囲を撮影するには焦点距離の短いレンズを使い、遠い所のものを引きつけて撮影するには焦点距離の長いレンズを使います。
- 人間の標準的な視角(50°)を画角に持ったレンズを標準レンズと言い、それよりも広い画角をカバーするレンズを広角レンズ、狭い画角をもつものを望遠レンズと言っています。(「焦点距離と画角」参照)
- ▲ レンズの主点
- カメラ用レンズは、収差を抑えるために複数のレンズを組み合わせてレンズを作っています。
- レンズの焦点距離を決める際に、レンズの光学的中心が問題となります。
- このレンズの中心位置が主点と呼ばれるもので、Hで示されます。
- 通常レンズには二つの主点(HとH')がありこの主点の距離を主点間距離と言います。
- 通常薄いレンズや曲率の対称な球面レンズではレンズの主点(H、H')はレンズの中心にあり、両者は同一です。
- しかし複数のレンズエレメントで構成されるレンズでは主点が異なるのが普通で、厳密な光学式を定義するときに 主点間距離(HH')を考慮します。主点間距離を考慮した光学式は以下の式で表されます。
- D = f(2 + M + 1/M )+ HH' ・・・(Lens - 24)
- D: 撮影距離 = 被写体から撮像面までの距離
- f: レンズ焦点距離
- M: 撮影倍率。
- M=b/a bとaは(Lens - 1)で定義。
- HH': 主点間距離
- a = f(1 + 1 /M ) ・・・(Lens - 25)
- b = f(1 + M) ・・・(Lens - 26)
- M: 撮影倍率
- a: 物体点の位置からレンズ主点Hまでの距離
- b: レンズ主点H'から結像点までの距離
- (2009.07.02 Len-24の記述に誤りがありました。
- 2009.06.27 S氏よりご指摘があり訂正しました。Sさんどうもありがとうございました。)
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■ 球面収差 - 軸上での焦点が合わない。
■ 非点収差 - 光軸外での焦点が合わない。 ■ コマ収差 - 光軸外で彗星のような尾を引く。 ■ 歪曲収差 - 像の歪み。 ■ 像面湾曲 - 結像面上に像が集まらない。 |
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● 単色での収差
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収差
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■ 軸上収差 - 波長による屈折率の違いで光軸での焦点が合わない。
■ 倍率色収差 - 色によって像の倍率が異なる。 |
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● 多色の収差(色収差)
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- d、F、C: d線はヘリウム発光に含まれる589.3nmの輝線、F線は水素発光に含まれる486.1nmの輝線、C線は水素発光に含まれる656.3nmの輝線。ちなみに、D線(アルファベット大文字のD)は、ナトリム発光の複数輝線の中央線である589.3nm。アッベ数は、当初ナトリムの輝線のD線が使われていたが、近傍に複数の輝線があって精度を求める上で適切でないため、ヘリウムの輝線であるd線が使われるようになった。
- 【ザイデル (Philipp Ludwig von Seidel:1821-1896)】
- 1821年ドイツに生まれます。
- 日本の年代でいくと江戸時代後期にあたります。
- 彼の幼少期は、郵便局に勤める父親の仕事の都合で学校を転々としました。
- 18才で学校を卒業した後、すぐに大学に入らずに数学の家庭教師を雇い数学の勉強を始めます。
- このときの家庭教師が、ガウスの元で数学を勉強していた優秀なギムナジウム(大学進学コースの高等学校)の教師であったため、彼の数学素養をいっそう開花させることになりました。
- 1840年、19才の時にベルリン大学に入学します。
- 当時の慣習として大学在学中に他の大学への留学が認められていたので、彼もその例にならってケーニヒスベルグ大学に学び、当代の最高数学者、ヤコブ(Carl Gustab Jacob Jacobi)、ベッセル(Friedrich Wilhelm Bessel)、フランツ・ノイマン(Franz Ernst Neumann)らの手ほどきを受けました。
- この後、ミュンヘン大学へ移り博士号を取得しました。
- .
- 博士号は、天体望望遠鏡に使われるミラーの数学的考察についてであり、6ヶ月後には、光学とは関係のない連鎖分数の収束と発散に関する数学論文を書き上げてミュンヘン大学の講師の職を得ました。
- 以後、ミュンヘン大学にて天文学と数学に功績を残した。
- ザイデルの功績は、光学、特にレンズの収差論において傑出した足跡を残したことです。
- 彼の収差論は、数学を巧みに応用して単色光で現れる5つの収差を一つの式で書き表し、収差を除去するレンズ設計の際の一つの指標を作り上げたことでした。
- レンズの設計およびその考察には、オランダのスネル(もしくはフランスのデカルト)が発見した屈折の法則によって三角関数が多用されます。
- 複数のレンズを組み合わせた光学設計では、sinθ = θと近似した近軸領域(ガウス領域)が主流でした。
- 計算が楽だからです。
- しかし、この領域での考察は像のできる位置は特定できるものの、像の質を論議するには何のヒントも得ることがなく、誤差が大きすぎました。
- ザイデルは、入射/射出光線を sinθ = θ + θ3/6 まで展開して光線の式を構築しました。
- 3次の項によって数式化された光学式は、球面から成るレンズの収差が数学的にきれいに整理され、5つの係数となって数式化された。5つの係数は、とりもなおさず上で述べている5つの収差となりました。
- ザイデルは、レンズの性質を3次項まで取り上げた数式でまとめ上げましたが、この数式を解いて5つの収差が取り除かれるレンズデータが即座に得られるかというとそういうものではありません。
- あくまでもレンズの性質を1つの式で書き表せるというものであって、レンズの性質を理解して補正への手引きをしてくれる有用なツールとして位置づけられるだけのものです。
- ザイデルの式では、3次項までしか考慮していないので、写真レンズのように広角で明るいレンズ(焦点距離が短く口径の大きなレンズ)では誤差がなお無視できなくなります。
- 精密な光学設計では光線追跡法にかなうものはありません。
- ザイデルは、自分の学問の成果を同じ大学の天文学者で光学器械製造会社を持っているシュタインハイル(Karl August von Steinheil: 1801-1870、息子はAdolph:1832-1893)に提供し、アプラナート(Aplanat)という対称型広角レンズを1866年に作りました。
- このレンズは、非常に性能がよく、以後、このレンズから様々な発展型レンズが生まれました。
- このレンズは、1840年にペッツバールの設計したポートレートレンズと双璧をなす初期の写真レンズの傑作でした。
- 彼の晩年は決して幸福とは言えませんでした。
- 失明が原因で大学教授とアカデミーの要職を早期に辞し、全く見えなくなった彼の看護は、彼が生涯独身で通し家族がいなかったために同じ独身を通した姉が彼の面倒を1889年まで看ました。
- 彼の亡くなる最後の7年間は、教会の聖職者の未亡人の看護にたよったと言われています。
- また、学術的に功績の多かったザイデルでしたが、同国で同年代の数学者リーマン(Georg Friedrich Bernhard Riemann:1826-1866)の編み出した幾何学を邪道なものとして生涯を通して認めませんでした。
- ■収差の補正されたレンズ
- 以下に挙げたレンズの名前は、どのような収差補正を施したレンズであるかを知ることができます。
- 歴史的に見てみるとアクロマート(色消しレンズ)が最初の収差補正のレンズで、最後にアナスチグマートに落ち着いたと言えます。
- 色消しレンズは、写真レンズができる前から望遠鏡レンズや顕微鏡レンズで使われていました。
- アナスチグマートレンズの出現は1890年です。
- ダゲールが写真手法を編み出してから50年あまりが経っています。
- ★ アクロマート(Achromat)レンズ:
- 二波長の色収差を補正したレンズ。
- 1757年英国の光学器械業者ドロンド(John Dollond:1706-1761)によって発明。特許を取得。
- ドロンドは、絹織物工だったが後に光学の専門家となり、1761年皇室メガネ商に任命された。
- ドロンドの娘婿がラムスデン(六分儀、接眼レンズの光学技術者)。
- ★ アポクロマート(Apochromat)レンズ:
- 三波長の色収差を補正したレンズ。
- 1868年、アッベが発明。1886年、顕微鏡レンズとして商品化。
- ★ アプラナート(Aplanat)レンズ:
- 球面収差とコマ収差を補正したレンズ。
- 1866年、ドイツのシュタインハイルが命名。
- ★ アナスチグマート(Anastigmat)レンズ:
- 非点収差と像面湾曲を補正したレンズ。
- 1890年、ドイツツァイス社のルドルフ(Dr. Paul Rudolph:1858〜1935)が命名。
- Protarレンズという商品名で販売。
- 以上のように写真レンズは、色消しレンズから始まって、非点収差、像面湾曲までの補正をおこなったアナスチグマートレンズが出来上がりました。
- 次項で、これらのレンズがどのような経緯を経て進化してきたのかを述べてみたいと思います。
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- 【ツァイスとアッベとショット】
- 現代光学機器の原点ともなったツァイスとアッベとショットは、どのような関係であったのでしょう。
- 3者のどの人を欠いても現代の光学の発展は遅れていたに違いありません。
- 以下に、3人の人となり、相互の関係を述べることにします。
- ■カール・ツァイス(Carl Friedrich Zeiss:1816-1888)
- カール・ツァイスは、ドイツワイマールに生まれました。
- 父親は玩具職人であったと言われています。
- グラマースクールを卒業後、光学機器を製造するお店(師匠はフリードリッヒ・ケルナー)に奉公人として働き、イエナ大学(The University of Jena)で光学、物理学の講義を受けました。
- 1846年、彼が30才の時に独立して、小さな光学機器を作る店をイエナに開業し、簡単な顕微鏡や光学機器などの製造販売を細々と始めました。
- イエナ大学も当然大切なお客様でした。
- 顕微鏡製作を始めたのは、植物学の教授であるシュライデンからの勧めがあったからと言われています。
- 当時の彼の会社はまったく無名で、ツァイスの名前が少しは知られるようになったのは、1847年、彼が31才の時あたりからであり、奉公人を一人雇った時からでした。
- この年には顕微鏡を専門に製造する店となって、解剖学用の単玉の顕微鏡製造を始めました。
- この顕微鏡は、その年23セット売れたと言われています。
- 彼は次に複合レンズを使った顕微鏡製造に乗り出して、これが評判となりました。
- 出来が良かったのです。
- 1861年、彼が45才の時にはドイツで最高の栄誉とされる科学器機のゴールドメダルを受賞しました。
- この頃には彼の工房には20名の従業員をまかなうまでに大きくなっていました。
- 1866年までに、彼は1000台の顕微鏡を製造し販売しました。
- 彼は正規の大学教育を受けていなかったので、顕微鏡製造で性能を向上させていくのはトライアンドエラー(試行錯誤)しか方法がなく、現状に甘んじることなく絶えなる光学の問題点を解決していくためには、光学の理論的な裏付けのできる技術指導者が必要なことを痛感していました。
- そうした折り、彼はイエナ大学で数学と物理学で教職をとっている26才若い有能な学者、エルンスト・アッベと知り合うことになります。
- 当時のアッベは駆け出しの無給の大学講師でした。
- 田舎大学のイエナ大学には潤沢な物理実験器具が無く、アッベは満足に動きそうもない実験器具に手を加えながら、学生に物理実験を教えていたと言います。
- 実験器具を手直しをする時に、自分の手ではどうしてもできない所は外に頼むしかなく、イエナの町では腕の良い精密機械業者がカール・ツァイス社であったので、それがもとで二人は交流を深めることになります。
- 当のカールの会社でも、先に述べたような顕微鏡作りに性能の良いものができずに悩んでいた矢先でもあったので、双方は良き理解者と協力者になって行きました。
- カールは、アッベと共同で1869年に顕微鏡の光源装置を開発します。
- 1872年、カールはエルンスト・アッベを彼の会社に招き入れて、共同で光学機器の性能向上を目指して技術開発を行っていきました。
- アッベは、光学に関して明晰な判断と数学の理論を持っていて、彼の発見した球面収差を補正する正弦条件(sine condition)を用いて理想のレンズ作りがツァイス社で始まりました。
- 1884年頃からは、オットー・ショットがガラス光学技術を提供することとなり、ショットの良質ガラスをレンズ材料とすることによって世界最高水準の光学機器を提供できるようになり、ツァイスの名前をさらに有名にしていきました。
- カール・ツァイス自身は、ツァイス財団を築きあげず72才で天寿を全うします。
- .
- 彼の意志を受け継いで、ツァイスを財団に仕立て上げ労働条件を改善した会社運営の舵を切ったのは、彼よりも24才若く、彼の死後17年長く生きたアッベ博士でした。
- .
- 20世紀に入って第二次世界大戦が終わる1945年までの半世紀は、カール・ツァイス社は世界の最先端を行く光学機器会社でした。
- しかし、第二次世界大戦におけるドイツ敗戦によって、ロシアに占拠されたイエナの地はカール・ツァイス社が分断されるという事態に見舞われました。
- 第二次世界大戦後、ドイツの東西分断によって、ドイツ東部にあったイエナはソ連占領統治下に置かれることになります。
- しかし、連合軍は、世界最高技術を持つカール・ツァイスの光学技術がソ連にわたることを恐れ、ソ連軍に先んじてイエナに入り、技術者の多くを半ば強制的にシュトゥットガルトに移動させ、もう一つのカール・ツァイス社として光学機器の生産を引き継がせました。
- 一方、ソ連軍はイエナにあった工場群を接収、残った技術者もソ連に送りました。
- これによってカール・ツァイスは東西に分裂し、西側はシュトゥットガルト近郊のオーバーコッヘンに新会社が設立され、東側はイエナに半官半民の「人民公社カール・ツァイス・イエナ」が置かれることになりました。
- カール・ツァイスは、東西ドイツ双方で生きることになったのです。
- 東西両国に分かれたカール・ツァイス社は、どちらがツァイスの名やコンタックス等商標の権利を持つかで法廷闘争に及ぶ長年にわたる争議が続けられました。
- 1989年、ドイツ統合後には、再び一つになりました。
- 財団傘下の企業として、カール・ツァイス社やツァイス・イコン社(Zeiss-Ikon)、ショット・グラス社 (Schott Glas)などがあります。
- ■エルンスト・アッベ(Ernst Abbe:1840-1905)
- アッベは、紡績工を父に持つ貧しい家庭に生まれます。
- 奨学金によってイエナ大学で物理学と数学を学び、その後ゲッチンゲン大学で熱力学によって学位論文を取得しました。
- 1863年、23才の年にイエナ大学に講師の職を得て物理学と数学の研究に入ります。
- 1870年にはイエナ大学の物理学と数学の教授(ただし員外教授)になり、1878年、38才の時にはイエナ天文台と気象台の台長に任命されています。
- 天文台とはいえ、田舎町イエナの天文台は質素なもので、家族の住む小さな家が天文台についていたのでそこで生活をしていた程度でした。
- 天文の施設はお粗末なものであったと言われています。
- その間、1866年にはツァイス社から技術所長の招聘を受け、光学の研究に没頭していくようになります。
- ツァイス社の技術所長と言っても従業員5名の小さな会社のことです。
- 光学顕微鏡の理論的解明協力を依頼された当時のアッベは、26才の無給の大学講師でした。
- 暮らし向きは貧しかった。
- しかし、当然、彼には光学によって財をなしたいとか、学問の世界で有名になって学府の長に立ちたいという野望は希薄でした。
- その証拠に、彼の学問が世間に認められるようになった1878年、ベルリンの有名な物理学者ヘルムホルツが彼の家を訪ね、学問の都であるドイツ帝国の首都ベルリンに出て、ベルリン大学の物理学教室の特別教授の職に就く申し出をしたそうです。
- 彼は、しかし、その職を断りイエナでのカール・ツァイスとの顕微鏡の共同研究の道を選びました。
- 清貧の求道者のようでした。
- 彼がイエナ大学であまり良い待遇を受けていなかったのは事実のようで、彼は生涯正教授になることはありませんでした。
- それは一つには彼の出自がよくなくプロレタリアート出身であった事が大いに影響していました。
- アッベは、イエナ大学の正教授であるカール・スネルに認められ、彼の娘を嫁にもらうという幸せをつかんでいましたが、イエナ大学から認められるまでには至らなかったのです。
- また、彼の家族に不幸が襲います。
- 1874年末から彼の家族のすべてがチフスにかかってしまいます。
- 家族を救うためには自分も健康になることはもちろん経済的な助けが必要でした。
- この状況の中で、アッベはツァイスに手紙を出しています。
- ツァイスからの提案は、彼の会社の共同経営者となることであり、その見返りとして全売り上げの利益のうち1/3をアッベが受け取るというものでした。
- 彼らは、1876年にその契約を交わします。
- 1868年、アッベは顕微鏡におけるアポクロマチックレンズを考案します。
- ただし、この顕微鏡もこれを作り上げる光学ガラスがなかったために、ショットが作ったイエナガラスができあがるまでの20年間、1886年まで待たねばなりませんでした。
- また、アッベは、1869年に顕微鏡に使う照明手法を考案し、その光源装置を製作します。
- 1872年には、彼を有名にするレンズ収差に関する正弦条件(Sine Condition)や光学の倍率限界を解き明かします。
- 数年の後には、彼の理論に裏打ちされたツァイスの17種類の顕微鏡レンズが完成しました。
- 顕微鏡レンズの開発にあたって、彼が示した光学材料の性質を示すアッベ数(Abbe Value)は、光学設計の大切な設計数値となりました。
- アッベ数とは、3成分の波長(C線、D線、F線)の屈折率を使った逆分散値で、この数値をきめ細かく決めた光学ガラスの製造と品質管理によって、光学機器は設計通りの性能が出るようになりました。
- またアッベは、精密工学分野でも足跡を残し、測定物と基準物を同一の軸上に配置して機械的に生じる誤差をできるだけ小さくするアッベの原理を編み出し、これを応用した測長器を開発しました。
- 測長器は、ツァイス社で光学機器を製造する際に、精度が良く歩留まりのよい製品を作るのに不可欠なものでした。
- アッベは生産技術でも多大な足跡を残したことになります。
- 1882年、イエナガラスも完成せず、アポクロマチックレンズもできていない時期、ドイツの医学学者コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch:1843-1910)がツァイスの顕微鏡を使って結核菌を発見します。
- その当時のコッホは、ベルリンの帝国衛生院の所員でした。
- アッベは、コッホに油浸系顕微鏡を紹介し、明るさを大幅に向上させるための改良を施した照明装置付き顕微鏡の活用をアドバイスしたと言われています。
- ツァイス社は、レンズのみならず装置そのものまで深い洞察力で装置を向上させていたことが伺えるエピソードです。
- ちなみに、細菌はフランスのパスツールが1862年に発見しています。
- 20年もの歳月をかけてようやく完成させた至宝のアポクロマート顕微鏡を、アッベは意図的に特許化しませんでした。
- 当時、ツァイスには、同国のライバルであるエルンスト・ライツ社(Ernst Leitz, Wetzlar:1850年設立)がいました。
- アポクロマート顕微鏡ができたとき、いよいよ自分たちの会社(ライツ)も終わりかと思ったと言います。
- しかしアッベがあえて特許を申請しなかったことにより、ヴェッツラーにあるエルンスト・ライツ社もアポクロマート顕微鏡製造ができるようになりました。
- 1888年、アッベのよき理解者、カール・ツァイスが亡くなります。
- アッベが58才の時です。
- アッベはツァイスの亡くなった1年後、彼らの会社を私物化せず公のものにするためカール・ツァイス財団を作ります。
- 財団を作る際に、カールの息子ローデリッヒ・ツァイスがカールの財産を相続して発言権を持ち、アッベとは違う方向で会社を運営しようとしていたので、アッベは善意を尽くして財団設立に同意させたと言われています。
- この財団のすごいところはアッベ自らの財産を提供したのみならず、ツァイス社が発明した多くの特許を無料で公開したことです。
- この財団は、現代の企業が取り入れている労働者の働きやすいいくつかのアイデアを盛り込んでいました。
- その代表的なものは、1日8時間労働であり、有給による休日休暇や、労働災害や病気による保険の適用などでした。
- アッベの父が、紡織工として一日16時間の労働で身を粉にしてアッベを育てた時代背景と、同時期の同じ地域の哲学者、経済学者、革命家であるカール・マルクス(Karl Heinrich Marx:1818-1883)が共産主義を唱えて闘争に立ち上がった社会背景を考えると、プロレタリアート出身のアッベが、当時の極悪なまでの社会労働環境をマルクスとは別の方向で改革し、先進的な会社経営を打ち立てたことは記憶にとどめておくべき事だと思います。
- アッベの晩年は、光学技術の科学者と言うよりも会社を運営する経営者という色合いが濃くなります。
- 経営者としても時代を先取りする優れた雇用システムを取り入れた希有な才能を発揮しました。
- ■オットー・ショット(Friedrich Otto Schott: 1851-1935)
- ドイツウィッテン(Witten)で板ガラス製造を営む家に生まれました。
- 父親がガラス工業組合の副会長を務めるほどであったから、彼は比較的裕福な家で育ちました。
- 幼い頃よりガラスに馴染んで成長し、ガラスの製造、特性をそらんじるまでになりました。
- 彼は、光学ガラスの祖と言われています。
- ショットは、アーヘン工科大学で化学工学を学んだ後、1875年、イエナ大学で窓ガラス製造時の欠陥に関する論文で博士号を取得しました。
- 1876年、彼が26才の年にスペインにヨウ素と硝石を精製する工場を立てます。
- アッベ博士とは、年が11才離れています。
- カール・ツァイスとは35才離れています。
- ショットがイエナ大学に入った当時、アッベ博士は同大学の員外教授の職にあり、カール・ツァイスの会社の技術顧問としても活躍していました。
- ショットは、アッベ教授の光学理論を理解し、精度の良い光学ガラスの必要性を十分に認識していたと思われます。
- ショットとアッベ教授とは光学ガラスに関する意見交換がずいぶんとあったようで、1877年から光学ガラスの基礎研究が両者の間で始められています。
- 1879年、ショットは新しい光学ガラス特性の見解を聞くために、酸化リチウムを含んだ新しい光学ガラスをアッベ博士の元に送りました。
- 測定の結果、そのガラスはアッベが望んでいた性質を持つものではなかったがショットの仕事ぶりに大いに感銘を受けたと言われています。
- 以後、アッベとショットは光学ガラスに関して長い書見のやりとりを続けることになります。
- 3年の技術書見交換を通じて新しい光学ガラスを作り出す段階にまでこぎつけ、1882年、ショットは研究する場所をイエナに移しました。
- そしてさらなる新しい光学ガラスの試作実験が続けられました。
- この試作実験は、ショットとツァイス社による光学ガラス研究所の設立という形であらわれました。
- しかし、この研究には非常に多額の資金が必要であったため、ツァイスとアッベだけの力だけでは研究を継続することは不可能になりました。
- そこで、彼らはプロイセンの助成金を申請し、その資金で新しい設備投資を行い研究所をスタートさせました。
- 1884年には、マインツ(Mainz)に新しい光学ガラスを開発するためのSchott & Genossenガラス工業所を設立しました。
- この会社はカール・ツァイス社との共同出資の工場でした。
- 1886年には、非分散光学ガラスを開発し、44種類のガラスをリストアップした製品目録を完成させました(■ 光学ガラスチャート 参照)。
- 彼らの製品目録は、従来の体系とは大きく異なっていました。
- 従来の光学ガラスが比重だけで区別されていたのに対し、彼らの製品リストには、屈折率や3本のスペクトル線の分散値、比例値まで記載されていました。
- この精密な光学特性を出せるショットの光学ガラスの完成によって、アッベが20年以上も構想してきたアポクロマートの顕微鏡が実現しました。
- ショットはさらに、1887年から1893年にわたってホウ酸珪素による光学ガラスを開発し、イエナガラスの品質を不動のものとしました。
- 1891年、彼が40才の年には、アッベ博士の趣旨に賛同して自分の持っていたショット企業に関する持ち株をすべてカール・ツァイス財団に移しました。
- 以後この財団は、ツァイスグループとショットグループの2本柱で運営されることになりました。
- ▲ 写真レンズの基礎の確立と光学ガラス製造の確立、ドイツとイギリス: (2005.10.02追記)
- イエナガラスが、光学レンズの世界に与えた影響は多大なものがあります。
- イエナガラスができるまでの光学機器は、イギリス製のものが圧倒的に性能がよく、ドイツの製品には2流のレッテルが貼られていました。
- イエナガラスができてからというもの、光学機器の精度が一気にあがりました。
- イエナガラスを作ったCarl Zeiss社は、この素材をもとに顕微鏡、写真レンズ、双眼鏡、望遠鏡、光学測定機器などに珠玉の製品を作り出して行きました。
- イエナガラスは、ツァイス社のみならずイギリスやフランス、自国の光学機器メーカからも競って買い求められ、この光学ガラスによって性能の良い光学機器が作られて行きました。
- このようにして、光学機器の歴史を振り返って見ますと、イギリスが意欲的に光学機器を作り、光学ガラスはドイツのイエナで確立された感を持ちます。
- 1800年代は、産業革命を果たしたイギリスが機械工業では群を抜いた技術を持っていました。
- イギリスはヘンリー・モーズレー、ジョセフ・ウィットウォースなど傑出した工作機械の技術者が現れ、当時最先端の工作機械を世に送り出していました。
- ネジなどの機械要素の規格化にもいち早く着手していました。
- レンズなどの光学製品も自然イギリス製のものが一番品質がよく、写真カメラもレンズもイギリス製のものが良質とされていました。
- ドイツ製は当時二流品とみなされていました。
- 今の観点から見ると想像もできないことです。
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- 機械・光学産業で二流の国であったドイツが、エルンスト・アッベとオットー・ショットによって光学の国と言われるようになった基盤を作ります。
- そのもっとも大きなものがイエナガラスの開発でした。
- アッベは、ショットと協力して今までに無かった新しい光学ガラスを開発し、新種の光学ガラスを誰に対しても分け隔て無く広く使ってもらうようにしました。
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- 【ドイツ数学の巨匠 - ガウス(Johann Carl Friedrich Gauss:1777-1855】 (2005.07.27記)
- ドイツが生んだガウスは、天才の名をほしいままにした数学者としての位置づけが私の中にあります。
- 同時代に、フランスのフレネル(Augustin Jean Fresnel、1788-1827)がいます。
- ガウスの小学校時代、1+2+3+・・・+98+99+100の合計和をいとも簡単な数式に置き換えたエピソードや、当時の教師が、もう彼に教えることは何一つ無いと言わしめたほどの早熟で早くから数学的才能が開花していました。
- 多くの優秀な数学者がそうであるように、彼は天文学を専門とし、1807年、30才の年にゲッチンゲン天文台長となって後、40年間その職にとどまりました。
- ガウスは数学者としての位置づけが強い反面、数理をもとにした物理学への貢献も多大なものがありました。
- 磁気の単位であるガウスや、複素平面の概念を取り入れたガウス平面、最小二乗法の発見、自然界に現れる誤差の分散(正規分布=ガウス分布)の定義など馴染深いものが数多くあります。
- 光学の分野でもガウスは足跡を残しています。
- レンズの主点という考え方を最初に使ったのがガウスであり、主点を用いてレンズ公式(近軸光線)を導きました。
- レンズ公式とは、1/a + 1/b = 1/f という馴染みの深い簡単な公式です。
- この公式が成り立つ光学の領域を近軸光線、ガウス領域と言っています。
- レンズの主点の考えを著した彼の論文は、1840年の発表であるので彼の晩年の研究ということになります。
- 彼の研究テーマは、数学と天文学が主なものであり、光学は天体望遠鏡の関係から考察の対象としたように見受けられます。
- レンズ設計も行っていて、後に写真レンズの標準となるガウスタイプのレンズはガウスの設計したレンズが発端となっています。
- しかし、現在のガウスタイプのレンズそのものをガウスが着想したかというとそうではなく、有名な学者の名前をニックネームのようにして使ったという感をぬぐいきれません。
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JIS解像力チャート。解像力の細かさを若干ずらして直交配置したもの。数値は、格子巾ペアの間隔。3.5は、白黒一対が3.5mmの間隔を示す。 | ||||||||||||||
JIS規格の解像力チャート。2^1/3の等比級数で作られる。縦方向と横方向で組み合わせられている。 | ||||||||||||||
ドットチャート。歪曲の度合いをチェック。 | ||||||||||||||
濃度と色情報をチェックするカラーチャート | ||||||||||||||
四半円形状のターゲットチャート。自動読み取りソフトで使うチャート。レンズの歪みを計測。 | ||||||||||||||
ジーメンススター(Siemens' Star)ターゲット。放射状に拡がる菊状のターゲット。焦点ポイントのチェックや非点収差のチェックに利用される。 | ||||||||||||||
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数字の10進法表記(上段)と2進法表記(下段)
10進法 0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 2進法 0 1 10 11 100 101 110 111 1000 1001
- 円をデジタル化する際の注意点。
- 画素を荒く(量子化を間違える)と十分な情報を記録できない。
- 左の図は360dpi(dot per inch)で画像にしたもので、右は50dpiで行ったもの。
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- 【紫外線の発見】
- 紫外線の発見は、赤外線の発見から遅れること1年、1801年にドイツの化学者リッター(Johann Wilhelm Ritter: 1776-1810)によってなされました。
- 彼は、英国人天文学者ハーシェル(Sir Willam Herschel:1738-1822)が発見した赤外線の追試験を行っているときに、青色の外側にも、人の眼には見えないけれど塩化銀が反応する光があることを突きとめたのです。
- 当時、光が波長に依存して色が変わるということはまだ明確になっていませんでした。
- リッターが紫外線を発見した1801年にイギリスのヤング(Thomas Young、1773-1829)が光の干渉・回折理論を発表しています。
- したがってこの頃はまだニュートンの光の粒子論が主流であり、色と波長の特定は明確ではなかったのです。
- この時代では、ニュートンが行ったプリズムを使って光を分散し、可視光の外側にも何か光めいたものがあるという発見で十分だったのだと思います。
- 十数年ほどして、回折格子を作ったドイツ人の職人フラウンホーファーが太陽光を分析して暗線があることを発見しました。
- これがフラウンホーファー線と言われるものです。
- 1814年のことでした。
- この時には回折格子はまだ性能が悪かったのでプリズムを使っていました。
- フラウンホーファーは、この暗線がどんな波長であるのかを調べるために、1817年に回折格子を使って特定します。
- この頃には光の波長と色の関係が十分に認知されていたと思います。
- ■ 赤外レンズ(IR = Infra Red Lenses) (2006.07.21追記)
- 赤外レンズは、可視光の範囲外にあたる赤外域を使って像を作るためのレンズです。
- 一般の写真レンズでは900nm程度までの赤外光を透過します。
- それ以上の長い波長、例えば1um〜10umでは光学ガラスそのものが透過特性を示さないために、専用の光学材料を使います。
- 光学材料のおおざっぱな波長透過特性を以下に示します。
- ・フッ化カルシウム(CaF2): 0.2um〜7um (低分散、望遠レンズに使用)
- ・フッ化リチウム(LiF): 0.12um〜7um (コーティング材として使用)
- ・フッ化マグネシウム(MgF2): 0.12um〜7um (コーティング材として使用)
- ・石英ガラス(SiO2): 0.22um〜2um (機械強度良好)
- ・サファイア(Al2O3): 0.25um〜3um (機械強度良好)
- ・シリコン(Si): 1.5um〜6.5um (機械的強度良好、高温に耐える、赤外線光学材料として使用)
- ・ジンクセレン(ZnSe): 0.7um〜15um (赤外線光学材料として使用)
- ・ゲルマニウム(Ge): 2um〜20um (赤外線光学材料として使用)
- ・岩塩(NaCl): 0.2um〜21um (赤外分光装置に使用。潮解性あり。脆い)
- ・臭沃化タリウム(KRS-5): 0.5um〜40um (難溶であるが柔らかい。赤外線ウィンドウ用)
- ・臭塩化タリウム(KRS-6): 0.4um〜34um (難溶であるが柔らかい、赤外線ウィンドウ用)
- ・臭化カリウム(KBr): 16um〜40um (分光プリズムとして使用、吸湿性あり)
- ・塩化カリウム(KCl): 15um〜30um(分光プリズムとして使用、吸湿性あり)
- ・沃化セシウム(CsI): 0.25um〜70um(もっとも長波長まで透過。X線の蛍光板にも利用)
- これらの光学材料のなかで、シリコン(3um〜5um帯域の赤外カメラ)、ゲルマニウム(10um帯域のカメラ)がレンズ用に使われます。
- 赤外レンズは、可視光のカメラの持つ近赤外域の感光特性を利用したものと、中赤外の3-5um帯域の熱映像装置(サーマルカメラ)、それに遠赤外の10um帯域の熱映像装置(サーマルカメラ)に分類されます。
- 熱映像装置は、物体から放射される赤外線そのものを検知して映像化するもので、照明装置は必要ありません。
- 暗闇でも熱を持っている物体であれば像として可視化することができます。
- 低い温度(摂氏20度)ではLong Waveの10um帯域のサーマルカメラが有効で、摂氏100度程度になりますとShort Waveの3-5um帯域のサーマルカメラが有効です。
- その理由は、低い温度では近赤外域の光エネルギーを多く放射しないので暗い物体となってしまうからです。
- 物体が摂氏400度程度になりますと、可視光手前までの赤外線を放射するようになるので簡便な赤外CCDカメラで映像が映るようになります。
- 赤外レンズは、従って近赤外領域(700nm〜900nm)であれば通常の可視光レンズを利用することができます。
- ただし、レンズ表面にマルチコートを施してある場合には、コーティングによって赤外領域がカットされてしまうので注意が必要です。
- 近赤外領域のカメラは、レンズ、固体撮像素子を含め安価に入手できるので、監視カメラによく使われます。
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- Mo = A'B'/AB ・・・(Lens - 43)
- Me = A"B"/A'B' ・・・(Lens - 44)
- M = Mo x Me = (A'B'/AB) x (A"B"/A'B') = A"B"/AB ・・・(Lens - 45)
- ・Corr、W-Corr、CR: 補正環付
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- 上図: 基本的な接眼レンズの仕組み
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写真提供: 国立天文台 | ||||
- 【仕様】
- ・主焦点に配置された10枚の背面照射型CCDチップで構成されるカメラ
- ・撮像素子数: 2,048 x 4,096画素 x10枚
- 合計 10,240 x 8,192画素
- ・画素サイズ: 15um x 15um
- ・撮像面積: 153.6mm x 122.9mm(10枚のCCD合計)
- ・撮影波長: 300nm〜1,100nm
- ・濃度: 16ビット
- ・画像容量: 168MB/1枚合成
- ・メーカー: 米国SITe社、英国EEV(E2V)社、米国MIT-LL
- ・冷却: スターリングサイクルエンジン(3W x 2unit、176K = -98℃)
- ・撮影視野: 約30'(30/60°)。月の直径と同じ視野。
- ・読み出し時間:60秒
- ・飽和電荷: 80,000e-
- ・読み出しノイズ: 10e-
- ・シャッタ: メカニカルシャッタ 1秒〜
- ・フィルタ: 有効サイズ 192mmx158mm、 10種類同時格納
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全世界の大型天文台
ハッブルに搭載されているカメラ(WFPC2)(2009.05月まで運用)には、フルフレームトランスファー型CCDカメラ(Full Frame Transfer Charge Copuled Device)が使われています。
従って、転送中は光が入らないようにメカニカルシャッターで撮像面を覆わなければなりません。- 【仕様 - 可視域カメラ】
- ・タイプ: 薄型背面照射CCD、2素子1枚構成
- ・画素: 2,051x4,096画素 x 2素子
- (合計4,102x4,096画素)
- ・メーカー: E2V - Marconi 社
- ・素子サイズ:15um x 15um
- ・波長感度: 200nm〜1,000nm
- ・撮像素子面処理: UV アンチリフレクションコーティング
- ・視野角: 164"x163" (0.04"/画素)
- ・内蔵フィルタ: 62枚
- ・読み出しノイズ: 3.1e-
- ・ダークカレント: 0.00014e-/s/pixel(@-88℃)
- ・飽和電荷: 85,000 e-/pixel
- ・A/D変換: 16 ビット
- ・露出時間: 0.5秒〜10時間
- ・電子冷却: -100℃
- 【仕様 - 赤外カメラ】
- ・タイプ: HgCdTeアレイ素子 モデル Hawaii
- ・画素: 1,024 x1,024画素
- ・メーカー: Rockwell Scientific社
- ・素子サイズ:18um x 18um
- ・視野角: 123"x137" (0.13"/画素)
- ・波長感度: 800nm〜1700nm
- ・内蔵フィルタ: 15枚
- ・読み出しノイズ: 30e-
- ・ダークカレント: 0.2e-/s/pixel(-88℃)
- ・飽和電荷: 100,000 e-/pixel
- ・A/D変換: 16 ビット
- ・露出時間: 4.3秒〜10時間
- ・画像読み出し時間: 約8秒
- ・電子冷却: 6段式電子冷却にて 145K(-123℃)
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- ▲ モード(Mode)
- 画像用ファイバーではあまり大きな問題とされず、通信用ファイバーで大きな問題となるものに、ファイバー内部を伝送する距離の違い、いわゆるズレがあります。
- 光ファイバーは、光の全反射の性質を使ってファイバー内を伝搬することを述べました。
- ファイバー内部の光の伝搬状況は、右の図のようになります。
- 光が伝わる光路をモードと呼びます。
- モードは、全反射を起こす角度が一番大きい( = 入射角が最大)ものを基本モードと呼んでいて、基本モードを0次として、以下1次、2次、・・・、n次となります。
- 入射角度が次数で表されるのはなぜかというと、光ファイバー内では、長い距離を伝送するためには定在波(Standing Wave)の存在が必要で、定在波は連続ではなく飛び飛びとなるためです。
- 光ファイバーのように伝送する口径が小さい(光の波長の100倍以下)ですと、離散的なモード分布が顕著に現れます。
- 光ファイバーには、たくさんの光路伝送を持つマルチモードファイバーと、一通りの伝送経路しか持たないシングルモードファイバーがあります。
- さらに、マルチモードファイバーには、コア部の屈折の方式によってステップインデックス(SI、Step Index)型とグレーテッドインデックス(GI、Graded Index、Gradient Index)型があります。
- モードは、画像伝送用に使うファイバーではそれほど重要な意味を持つものではありませんが、データ伝送用の光ファイバーでは重要な意味を持ちます。
- つまり、データ通信用として右図(a)のステップインデックス型マルチモードファイバーを使うと、いろいろな角度を持った全反射光が伝搬され、反射角の大きいもの(θ2)は光路が長いので、長い距離を伝搬し、反射角の小さいもの(θ1)との光路差がでてしまいます。
- これをモードの分散(mode dispersion)と呼びます。
- モードの分散は、周波数の高い光データ信号を送る場合に混信の原因となります。これを解決するためには、
- 1. モードが変わっても伝搬時間が揃うようにする。
- 2. 単一モードだけしか伝搬できないようにする。
- という二つの方法が考えられます。
- 1.の複数モードの伝搬時間を揃える方法として、右図の(b)に示されるGI型マルチモードファイバーがあります。
- この光ファイバーは、コア部の屈折率が外側に行くに従い屈折率が小さくなるような屈折分布を持っていて、コアの外側を通る光は内部を通る光よりも速く伝搬できるようにしてあります。
- このような理論(屈折率の放物線分布)を元に、コア部の屈折分布を最適化すれば複数のモードで伝搬する光に対して遅れがなくなります。
- GI型光ファイバーの欠点は、理想通りの屈折分布を持つファイバー製造が難しい点にあります。
- 従って、長距離データ転送には、現在のところ2.の単一モード転送の光ファイバー、つまり、右図に示す(c)のシングルモードファイバー(Single Mode optical Fiber、SMF)が使われています。
- シングルモードファイバーは、コア径をどんどん細くしていって全反射を行う角度範囲をどんどん狭めていく手法をとります。
- こうするとファイバー内を伝搬する経路は一通りしか取りえなくなり、基本モードだけが残るようになります。
- シングルモードファイバーのコア径は10um程度で、マルチモードファイバーの50umに比べて1/5程度に細くなっています。
- シングルモードのコア径は、使用する波長の10倍以下と言われています。
- シングルモードファイバーでは、コア径が小さくて、かつ入射できる光の角度が制限されるため、N.A.が低く、これを画像伝送用途として使うには伝送効率が悪くて暗い光学系となってしまい、あまり望ましいものとは言えません。
- シングルモードファイバーは、データ転送用で使うことが多いものの、光をファイバー内に入れるのが難しく、光源との結合や光ファイバー同士の接合に細心の注意を払う必要があります。
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- シングルモード光ファイバーは現在の光データ通信では最も適したものであるために、日本で生産される光ファイバーの90%以上がシングルモード光ファイバーであると言われています。
- 【ライトガイドとイメージガイド】(Light Guide and Image Guide)
- 光ファイバーは、ガラスの純度が良いと良好な可撓性(可とう性 = flexibility)を持ちます。
- ファイバーを曲げてもその曲率が全反射を損なわない程度の曲がり具合であれば、入射した光は問題なく全反射を繰り返して射出していきます。
- 細かくみると、ファイバーの曲がり具合によっては多少漏れが生じて伝達しないことがありますが、しかしながら総じて問題なく伝達をしていきます。
- ライトガイドやイメージガイドは、光ファイバー単繊維を束にしたものです。
- 入力側と出力側の位置関係が正しく配列されたものがイメージガイドになり、配置関係を考慮していないものがライトガイドとなります。
- イメージガイドはファイバースコープとして使われ、ライトガイドは光ファイバー光源用の光伝送用光学部品として使われます。
- イメージガイドは、画質の向上、明るさの向上、そしてファイバー径の最小化の要求があります。
- これまでのところ、200x200画素程度の40,000本のファイバーを束ねたものが限界です。
- ライトガイドは、一見なんの配列の考慮もなされていないような束ね方をしているように見受けられますが、最近では光源の種類によって配列を考慮したものもあります。
- たとえば、ファイバーに入射させる光源にムラがあって中央部が明るくて周辺部が暗い場合に、射出側でそれを補正してファイバー全体に均一な光になるようにしたものもあります。
- ファイバーを束ねる場合、下図にあるようないろいろな束ね方がありますが、左端のものが最もオーソドックスなもので単繊維を単に束ねただけの構造となります。
- この方法によるファイバーバンドルは、単純で製造が楽なので安価にできるメリットがある反面、繊維間の隙間が大きくて解像度や明るさに問題が生じます。
- 同じ図に示した右の二つは、製造時にファイバーを型に入れて枡寿司ように押しつけて成形する方法です。
- この方法は、ファイバーバンドルの集積度が上がって明るくなりますが、繊維が円形とならないためにファイバーの稜線で光が漏れるという問題があります。
- そのためにクラッド部に迷い出た光を吸収する染料を混ぜて、コントラスト低下を防ぐ工夫をしたものもあります。
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代表的なテレセントリックレンズの仕様 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- ■ デジタルカメラと像側テレセントリックレンズ
- 最近、主流になっているデジタル一眼レフカメラのレンズにもテレセントリックレンズが使われる傾向にあります。
- テレセントリックレンズと言っても、像側テレセントリックレンズです。
- ご承知のようにデジタルカメラは、銀塩フィルムと違って1画素の受光部が回路の奥に引っ込んだ奥目構造になっています。
- この構造故に、画像の周辺部は中央部よりも光量が十分に到達できず、光量低下の原因を作っています。
- この問題の解決のために像側テレセントリックレンズを開発する動きが出てきています。
- オリンパスと米国Kodakが中心となって、フォーサーズ(Four Thirds)という規格を作り上げて、カメラとレンズを提供しだしています。
- この規格の骨格は、従来使われてきた(銀塩)フィルムカメラ用のレンズが果たしてデジタルカメラレンズに最適だろうか?という疑問から来ています。
- 撮像素子の奥目に対応するためには、デジタルカメラ用レンズを新たに作る必要があるだろうとするものです。
- そして、新しい撮像素子サイズの提案です。
- 彼らは、固体撮像素子の大きさを4/3型(3分の4インチサイズ、3分の1が四つ、だからfour thirds)としました。
- この素子は、17.3mmx13mmの大きさを持っています。
- フィルムの半分(対角線長がφ43.27mm→φ21.64mm)の大きさです。
- 縦横比(アスペクト比)は、1:1.33です。
- これは、フィルム(映画)のアスペクトではなく、テレビ画面(4:3)のアスペクトです。
- もちろん、カメラ側のマスキング操作によって、フィルムカメラの3:2やハイビジョンの16:9に対応できるようになっています。
- 現在、このグループには、Kodak、Olympus、Panasonic、Leica、SIGMA、FujiFilm、SANYOが参加して、レンズ、素子、カメラ本体を供給しています。
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