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- 13. パソコンの文化13 (2000.10.10)
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- 13-1. 「オフィスビジョン」(OS-2の統合ソフト)
- コンピュータで使うアプリケーションソフトは「Office」(WORD、Excel、Power Point)しか知らない、というパソコンユーザが多いことと思います。しかし、パソコンにはたくさんのアプリケーションソフトに支えられて今日の大きな市場に成長してきました。アプリケーションソフトも時代とともに淘汰(とうた)が繰りかえされました。『オフィスビジョン』というのは、IBMが意欲的に取り組んだ統合ソフトです。現在のマイクロソフト社の『Office』のようなものです。しかし、これも荒波にもまれて藻屑(もくず)と消えてしまいました。
- 1989年5月16日、このアプリケーションソフトはIBMの大々的な発表で幕が開きました。IBMの国内マーケティング部門の部長であるジョージ・コンレイズがその発表の演壇に向かいました。まだ43歳のコンレイズは、IBMの出世街道をすばらしいスピードで駆け上がっていました。テレビカメラの向こうでは、25,000人に及ぶIBMの社員のほか、部品会社の人間や重要な顧客たちが衛星経由でこのプレゼンテーションに見入っていました。
- 「オフィルビジョン」は4,000人年の労力と10億ドル以上(2400億円以上)の費用がかかっていました。慎重に作られた台本をもとに、コンレイズをはじめとする関係する人々がこの製品を説明しているのを聞いていた人達はオフィルビジョンはアメリカのビジネス界に革命を巻き起こすのではないかと思えてきたと言います。巨大なメモリと処理能力を持つIBM PCの『オフィスビジョン』は、彼らの構築するコンピュータシステムの中で「プログラマブル・ターミナル」と呼ばれていました。プログラマブル・ターミナルは、ビル内にあるすべてのメインフレームからもしくは必要であれば地球上のあらゆるメインフレームからデータを集めてくることができました。ネットワーク環境に強い、大型コンピュータとの相性のよいアプリケーションソフトだったのです。ユーザは、データがどこにあるかを知る必要はありませんでした。必要なデータが集まると、今度はそれをわかりやすいカラフルなグラフィック表示に変えてくれるのです。オフィスビジョンの登場で、企業の経営者たちは初めて社内のコンピュータに蓄えられた貴重なデータを直接、そして気楽に目を通せるようになるのです。このシステムがあれば重役室の向こうからでもデータにアクセスし洗練されたツールを使って通信を行い、直感的に理解できる方法で全社的な情報を表示し利用できるのです。さらに『オフィスビジョン』は、タイピストやファイル整理係の仕事まで助けてくれるはずでした。
- 「このすべてが一台あたり7600ドル(\1,100,000)で手に入るのです。もちろん、この価格にはIBMのメインフレームの料金は含まれておりませんが。」とコンレイズは壇上で発表します。
- IBMはPS/2(コンピュータ)、OS/2(OS)、そしてオフィスビジョン(アプリケーションソフト)を使って、他の誰もがチャンス到来と考えていたコンピューティングの新しい波に彼らも飛び乗ろうとしていました。
- コンピューティングの第一の波はメインフレームでした。
- 第二の波はミニコンピュータで、
- 第三の波はパーソナルコンピュータでした。
- そして次に、
- 「ネットワーク・コンピューティング」という第四の波
- が迫ろうとしていると考えられていました。そこでIBMはSAA( Systems Application Architechture = 大型コンピュータからパソコンまでの統一的に構築する考え) と『オフィスビジョン』の両側面に大量の資金を投入し、第四の波が最初の三つの波とどうよう彼らを中心に回るように努力したのです。つまり、ネットワークの時代になってもIBMは主導権を握り続ける、という波乗りを目指したのです。
- メインフレームは大企業向け、ミニコンピュータは中規模の企業向けでした。そしてパーソナルコンピュータは小企業だけでなく、企業の経営者たちが『オフィスビジョン』環境の中で、「プログラマブル・ターミナル」として利用することを目指したものだったのです。
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- だがIBMにとって残念なことに、1991年になってもオフィスビジョンは姿を見せませんでした。結局、使いものにならないコード(プログラム)の山を築いただけで、出荷期日も守れませんでした。
- そのうえ、アメリカの産業界は、従業員が使うコンピュータに各従業員の経費の一割しか割り当てるつもりがないという事実に直面するのです。
- つまり、秘書が使えるコンピュータは、3000ドル(\450,000)のパーソナルコンピュータであり、エンジニアが使えるワークステーションは一万ドル(\1,500,000)であるといった具合です。
- 仮にも、もし、『オフィスビジョン』がきちんと動いたとしての話なのですが、オフィスビジョンはこの基準の少なくとも二倍の費用がかかるのです。これに気付いたIBMは新しく贅肉をそぎ落としたオフィスビジョン2.0の発表を行いましたがこれも見事に失敗しました。
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- 13-2. 「トップビュー」(IBMの作ったマルチウィンドウ表示画面ソフト)
- もう一つ、IBMが開発して失敗したアプリケーションソフトウェアを紹介しましよう。
- IBMは戦略の一つとして、パーソナルコンピュータビジネスで優位に立つために顧客に対し、ライバルが開発している製品を自社もすでに開発をしていると発表し、顧客の注意を引いてライバル製品の立ち枯れさせる作戦をよく取ります。パーソナルコンピュータの性能は常に上がり、価格は常に下がるのが原理原則ですから、買う側はもっといい製品がでてくるまで購入を遅らせようと考えます。IBMはそうしたユーザーの心理を逆手に取った戦略を良く立てるのです。これは、IBMに限らず大手メーカーは新製品の発売予定がないときでも対抗措置としてこのユーザー心理を巧みに利用します。
- たとえば1983年から1985年にかけて、アップルはGUI環境で動く画期的なパーソナルコンピュータ、リサと Macintosh を発売しました。これに対してビジコープ社は、IBM PC用グラフィック環境である「ビジオン」を発売し、マイクロソフトは「ウィンドウズ」の最初のバージョンを出荷し、デジタルリサーチでは「GEM」を作り、サンタモニカにあるクォーターデック・オフィス・システムズという小さな会社は「DesQ」を作りました。
- IBMは競合するようなグラフィック関係の自社製品がないにもかかわらず、こうした製品をすべて脅威と受け取りました。IBM PCのソフトウェアのパートナーであるマイクロソフトのウィンドウズさえ、IBMにとっては脅威だったのです。そこで、すでに販売されているこうしたグラフィック環境に対抗するために、IBMは「コンピュータの画面にポップアップ・ウィンドウを表示し、複数のアプリケーションの切り替えやプログラム間のデータ変換が簡単にできる独自のソフトウェアの開発をする」と発表したのです。このソフトウェアは1984年夏、PC-ATと同時に発表されました(発売ではなく発表です!)。IBMはこの新しいソフトウェアを「トップビュー」と名付け、一年以内に出荷されるだろうと発表したのです。
- クォーターデック・オフィス・システムズが開発した「DesQ」は、1984年春にアトランタで開かれたディーラー向けの展示会コムデックスで大評判になりました。このショーの直後、クォータデック社はベンチャーキャピタルから二度目の資金調達を行って、550万ドル(7億円)を手に入れました。そしてサンタモニカの浜辺から1ブロックしか離れていないところに移転し、月に2,000セットのペースでDesQを出荷し始めました。DesQは他のウィンドウ・システムと違って、既存のMS-DOSアプリケーションと一緒に動かせるという利点を持っていました。また、複数のアプリケーションを同時に走らせることもできました。これは当時、アップルコンピュータの「リサ」以外のシステムでは不可能なことでした。
- そこへ、IBMが「トップビュー」を発表したのです。「DesQ」の全潜在ユーザーは、そのニュースを聞いてたちまちのうちに鞍替えって、IBMが発売すると約束した驚異的なソフトウェアを待つことにしたのです。IBMは驚異的ソフトウェアを作るのがたいして得意でないことを、みんな忘れてしまったようです。
- 実は、IBMが独力でパーソナルコンピュータ用ソフトウェアを作ったことなど、かって一度もありませんでした。「トップビュー」はその定説を覆して、マイクロソフト社の助けなしでIBMが独自に開発することになっていました。
- 「トップビュー」のアイデアは他のウィンドウ・システムすべてに打撃を与え、「ビジオン」と「DesQ」の息の根を止めました。「DesQ」を製造販売していたクォーターデック社にいたっては、50人いた社員が13人まで減ってしまったほどなのです。クォーターデック社の共同設立者で、パーソナルコンピュータのソフトウェア業界では珍しい女性経営者の一人テリー・マイヤーズは、母親から二万ドル(\3,000,000)借りて、なんとか赤字を出さないように会社をやりくりしたそうです。その間に部下のプログラマたちが死にものぐるいになって、これから発売されるはずの「トップビュー」と互換性を持つようにDesQを書き換えたのです。この新しいプログラムは、「DesQビュー」と名付けられました。
- 1985年にようやく登場した「トップビュー」は、まったくの失敗作でした。この製品は処理速度が遅いうえに使いにくく、そのうえIBMが約束した機能を何一つ実現していなかったのです。現在でもトップビューを買うことはできますが、そんなことをする人間は誰一人としていないでしょう。「トップビュー」がいまだにIBMの製品リストに残っているのは、そうしないと全開発費を損失として処理しなければならず、その結果、決算に悪影響を及ぼすことになるからです。(これは1995年当時の話ですから、現在は損失として計上してるかもしれません)。
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- 13-3. GUI(Graphic User Interface)を成功させたアップル
- アップルが時代をリードしてパソコンの一大潮流とさせた、使いやすい表示画面 = GUI(Graphic User Interface)も、もとを辿ると、アップルがゼロックス研究所から強引な形でアイデアをいただいたものでした。
- アップルの成功で、他のライバルも同じような試みをしますが、アップルほどたくみに、洗練された形で組み上げた会社はありませんでした。
- ライバルとは先にも述べましたが以下のような会社がGUIを想定したパソコンの表示画面ソフトを作っていました。
- ・ビジコープ社の「ビジオン」
- ・マイクロソフト社の「ウィンドウズ」
- ・デジタルリサーチ社の「GEM」
- ・クォーターデック・オフィス・システムズ社の「DesQ」
- ・IBMの「トップビュー」
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- ■ ビジコープ社
- 話のついでにビジコープ社についてお話しておきましょう。
- ビジコープ社は1982年以前は、パーソナル・ソフトウェア社と呼ばれていました。それ以前はソフトウェア・アーツ社と呼ばれていました。なぜそれほど社名を変えたかわかりませんが、パーソナルコンピュータ業界では忘れてはならないソフトウェア開発者の一人であるダニエル・ブリックリン(Dan Bricklin)の会社です。彼は、「ビジカルク」と呼ばれるパソコンのソフトウェアの最も基本的な表計算の概念を考え出しソフトを作った人です。このビジカルクが、マッキントッシュでヒットし、マイクロソフト社がマルチプランに採用し、Lotus1-2-3を作り、エクセルを作り出していく元になったソフトです。ビジカルクは、恐らく最初のキラーアプリケーションと呼ばれるものでしょう。非常に訴求力が強く、そのソフトを使うためだけにコンピュータを買う人がいるほどのソフトのことをキラーソフトと言います。
- そのビジコープ社は、1982年秋にネバダ州ラスベガスで開かれたコムデックスで、IBM PCを魅力的に見せるグラフィカルなインターフェース、「ビジオン」(コードネームはクエーサー)を発表します。マイクロソフトのウィンドウズの初期バージョンが出たのが1985年11月ですから、これより3年も前に出荷されていたことになります。また、アップルがゼロックスのパロアルト研究所を訪れてGUIのアイデアを盛り込んだコンピュータLisaを発売したのが1983年1月ですから、「ビジオン」は3ヶ月も早くMS-DOSのマルチウィンドウズソフトができていたことになります。ですから、このソフトはWIMP(Windows' Icon' Mice' Pointers = ウィンドウズ、アイコン、マウス、ポインタ)を使ったシステムを見る初めてのものだったのです。
- ただ、ビジコープ社にとって不幸だったのは、「ビジオン」は既存のDOSのアプリケーションを走らせることができなかったので、実際に「ビジオン」を使ってワープロなどを走らせようとすると、ビジオン上で動くアプリケーションソフト、つまり、スプレッドシート、グラフ描画プログラム、ワードプロセッサ、そしてマウスがセットになったパッケージを1,765ドル(420,000円)という大金をはたいて買わなければなりませんでした。
- この「ビジオン」は出荷が遅れ、価格も高すぎ、動作は遅く、バグも多く、ハードウェアに対する要求もやっかいなものでした。
- ビジコープ社の「ビジオン」は歴史の中に埋もれましたが「ビジカルク」(表計算ソフト)は生き続けました。1年後の1983年10月にコントロール・データ社が「ビジオン」を買い取りましたがその後いつの間にか市場から姿を消してしまいました。しかし、スプレッドシートだけは1985年にロータス・デベロップメント社が権利を買い取り「ロータス1-2-3」の中で生き続けMS-DOSのキラーソフトとなっていきました。
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- ■ ゼロックスパロアルト研究センター(PARC)
- アップルがその洗練したパソコンの画面表示を成功させ、マイクロソフト社のビル・ゲイツが喉から手がでるほどほしがり、彼の戦略をWindows1本に絞ったGUI(グラフィックインターフェース)の最初の開発は、ゼロックスのパロアルト研究所(米国カルフォルニア州パロアルト コヨーテ)で産声を上げます。この機能を備えたパソコンは、Alto(アルト)と呼ばれていました。1973年初頭のことです。面白いことにこのコンピュータは開発されただけで発売はされませんでした。ゼロックス社のパロアルト研究所は親会社の財力にものを言わせ世界の最高水準の研究者を集め将来のコンピュータを研究させていた機関です。
- 1970年パロアルト研究所が発足された当時、ゼロックスはコピー機の世界市場を独占していましたが、同社の役員たちは紙はいずれなくなる運命にあると悲観的になっていました。1990年には、ペーパーレスオフィスが誕生するだろうと予測していたのです。人々が紙でなくコンピュータの画面を読むようになったら・・・・。ペーパーレスオフィス市場で支配的な地位に立てるような計画を考え出さない限り、ゼロックスは危機に陥ってしまう。その計画をゼロックスPARCが考え出してくれるはずでした。PARCは、とても頭のキレる研究者のグループで、彼らはスタンフォード大学の近くにあるスタンフォード工業団地のコヨーテ・ヒル・ロードに施設を構えていました。
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- ■ ビットマップ表示(発明者:バトラー・ランプソン)
- Altoを開発したのは、バトラー・ランプソンというハーバード大学物理学を卒業した人物です。彼はコンピュータ画面のグラフィック強化を図るため、「ビットマップ」表示方式を導入します。ビットマップというのは画面を1点1点コンピュータで管理し描画させる方式です。 画面上(A4判の紙を横に置いた程度の大きさ)のすべての点(ピクセル)がコンピュータのメモリ上のビットに写像(=マップ)されて、あるビットがオンかオフかによって、画面上のピクセルが消えたりついたりするというものです。ビットマップ方式は非常にたくさんのメモリを消費します。Altoの画面は何と50万個ものピクセルから構成されていました。これは当時としてはとても負荷のかかる方式でした。
- 今では画像の表示を1,280x1,024の100万画素、それにも各画素を8ビットx3原色を与えるようになっています。当時は白と黒だけでしたから今は当時の3400万倍の情報量を提供してます。この方式を採用することによってコンピュータの表現が格段に向上するようになりました。
- Altoには、(現在主流になった)マウスを登場させています。マウスは、エンゲルバートとその研究者たち(ビル・イングリッシュら)が持ち込んだ入力装置です。
- 「Alto」コンピュータには、このほかにもアイデア盛りだくさんの機能がありました。例えば彼らは、Altoの画面にアイコンの導入しました。画面を机の上と見立てた表示構成としたのです。これを難しい言葉を使うとdesk topメタファーの導入を果たしたのです。
- ユーザは画面の中のファイルキャビネットから書類を取り出し、プリンタに書類を印刷し、他のコンピュータから送られてきたファイルを郵便受けで受け、一連の書類をファイルフォルダに格納し、そして書類など一つ一つをアイコンで表してました。ディレクトリの中からファイルを選ぶ代わりにAltoでは実際にそのファイルを目で「見る」ことができたのです。印刷についても印刷コマンドを入力する代わりにカーソルをプリンタに移動すればことが足りました。これは画期的な出来事でした。パソコンが真に個人ユースの時代になる能力を随所に持っていたのです。
- しかし、ゼロックスはこのAltoを発売しませんでした。
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- ■ マウス(発明者:ダグラス・エンゲルバート)
- ダグラス・C・エンゲルバートについて少し触れておきましょう。
- 1945年20才で海軍レーダ技師だった彼は、フィリッピンの海軍図書館でバニーバ・ブッシュ(MITの元副学長で米国科学研究所開発局局長)の書いたエッセイ「科学技術の今後の動向 - As We May Think」(アトランティック誌)を読み触発されます。5年後NASA風洞実験に従事した後、西海岸スタンフォード研究センター(SRI)に職を得ました。その後83年、コンピュータネットワークの会社「タイムシェア」社を設立します。彼はSRI時代にウィンドウシステムを考案しました。同時にマウスを発明します。エンゲルバートのグループが最終的にマウスに決めるまでには、ありとあらゆる種類のものが試されました。ジョイスティック、トラックボール、ライトペン、等々。結局、他のものと比較してマウスが優れていることを彼らの実験を通して覚っていったのです。
- このプロジェクトは政府の資金援助(ARPA = 国防省先端技術研究計画局)を得ていましたがこれも長く続きませんでした。お金を出してれていたSRI(西海岸スタンフォード研究センター)側が彼らが研究したマウスの将来性を見抜けずお蔵入りにしてしまったのです。こうして1970年初め、エンゲルバートチームの主要メンバーの一部はゼロックスの研究所に去って行き、かの地でマウスを熟成させ、アップルのマッキントッシュに搭載されることで日の目を見ることになります。
- ダグラス・C・エンゲルバートは、歴史的な発明をしたにもかかわらずアップル社とは親密ではなく、大金持ちになったわけでもありませんでした。
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- ■ イーサネット(発明者:ボブ・メトカーフ = Robert Metcalfe)
- Altoの2番目の画期的な機能はネットワーク機能です。ゼロックスのAltoはイーサネットを備えてました。今、イーサネットは、10Mビット/秒から100Mビット/秒、そして1Gビット/秒に行こうという業界標準になっているネットワーク通信機能です。Altoはこの機能を装備しコンピュータ間をこのネットワークでつなげようとしていました。
- PARC(Xerox Palo Alto Research Center)のボブ・メトカーフ(Robert Metcalfe)が率いるチームは、1973年当時、何台ものコンピュータやプリンタ間の通信速度を上げる方法を探していました。コンピュータもプリンタもそれ自体の処理速度は速くなっていましたから、プリントに時間がかかる原因はそのどちらでもありませんでした。問題は、二つのマシンをつなぐケーブルにありました。
- 印刷するページの画像はいったんコンピュータのメモリ上で組み立ててから、ビット単位でプリンタに転送しなければなりません。プリンタの解像度が600dpi(ドット・パー・インチ = 解像度の単位で1インチ当たりのドット数を表す)の場合、ケーブルを経由して1ページあたり3,300万ビット以上のデータを送り出さなければなりません。コンピュータは1ページ分の画像を1秒間でメモリ上に展開でき、プリンタはそれを2秒でプリントできます。しかし当時は高速だと考えられていたシリアル転送を使っても、このデータを全て送り出すには15分近くかかったのです。
- メトカーフは、この通信方式に、電話の共同加入線(パーティライン = party line)を導入しました。パーティラインの共同加入者である隣人が善良な人間であれば、電話をかける前に受話器に耳を傾けます。イーサネットの装置も、これと同じ事をします。つまり、回線の様子をうかがって、他で転送が行われているようならばランダムに時間をあけてもう一度かけ直します。イーサネットには同軸ケーブルが使われ、一秒間に267万ビットのデータを転送できます。解像度600dpiで印刷する場合、いままでは15分かかっていた転送時間を12秒まで短縮できるようになったのです。
- 2.67Mbps(メガビット・パー・セカンド)の転送速度を持つイーサネットは、とんでもない製品でした。これは後でわかったことですが、コンピュータとプリンタをつなぐだけでなく、コンピュータ同士の接続もできるようになりました。どのAltoにもイーサネット機能が付いていましたから、このAltoをネットワークで接続した場合には各コンピュータにアドレスと名前をつけることになります。全ユーザが自分のアルトに好きな名前をつけるのです。
- 2.67Mbpsのイーサネットは頑丈で比較的単純な技術でした。これをPARCは10Mbpsまで速度を上げました。
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- ■ Small Talk = GUIのプログラムモジュール(発案:アラン・ケイ)
- ゼロックスパロアルト研究所で開発されていた「Alto」コンピュータの画面表示をするためのプログラム言語に「small talk」と呼ばれるコードモジュールがありました。この言語は現在では主流になっているオブジェクト指向の言語であり、画面を構築する上で必要な要素、例えば、画面のポップアップメニュー、オーバーラップするウィンドウ、スクロールバーなどの機能を全てに渡って統一することができる大変便利なものでした。この共通コードを導入したアップルはさらにメニューバー、プルダウンメニュー、1ボタンマウス、クリップボードを使ったカット&ペースト、ゴミ箱といったコンセプトを導入していったのです。
- この言語を発案したのが、アラン・ケイです。アラン・ケイは、コロラド大、ユタ大学コンピュータサイエンスを卒業しています。ユタ大学は、常温核融合研究で有名な大学で1960年代にはコンピュータの環境が副次的にそろっていました。ここでの研究資金はARPA(国防省先端技術研究計画局)と呼ばれる軍需予算が当てられていました。学科長にはディブ・エバンズがいてMITから優秀な人材を引き抜いていました。最大の獲物はイバン・サザーランドで、彼はTXコンピュータを使い「スケッチパッド」と呼ばれる製図ソフトウェアを開発しました。アラン・ケイは、イバン・サザーランドの影響を受けて、インターフェース「small Talk」と呼ばれるコードモジュール(プログラム言語)、及びオーバラップウィンドウ(紙が重なって有限のディスプレー上に表示される手法)を発案しました。
- アラン・ケイは、XEROXパロアルト研究所でアルトのソフトウェア開発を担当しました。アラン・ケイは、ジャズミュージシャンという異色の肩書きも持っています。常に発案をする人のようで、パロアルト研究所を退社し、アップルのを引き抜きに応じてアップルに移り、リサの開発に関わりました。また、マイクロソフト社もアラン・ケイをアップルから引き抜きウィンドウズの開発を始めました。
- 彼はその間一貫して小型コンピュータ(ダイナブック)でこれらの処理を行う、という彼のビジョンを持ち続けています。
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- ■ アップルへの触発 = GUIへの胎動
- Altoは一般向けには販売されませんでしたが、シリコンバレーではよく知られた存在でした。PARCの研究者たちは自分たちが創ったものを誇りに思っていたので、訪問客が来る度にこの装置を見せびらかしていました。彼らの仕事に格別な感銘を受けた訪問客の中にジェフ・ラスキンという人物がいました。彼はアップルの社員で、マッキントッシュというコード名の小さな目立たない研究プロジェクトを指揮していた人物でした。彼は、1970年代初期に、スタンフォード人工知能研究所の研究員としてPARCを訪問した際に、多くの時間をここで過ごしここでの研究に大いに触発されていました。
- ジェフ・ラスキンの勧めでアップルの創始者スティーブ・ジョブズがPARCを訪問するのは1979年12月のことです。ジョブズがPARCを訪問するまでにはかなりの紆余曲折がありました。ジョブズは当時(もっともこれは今もそうだと言われていますが)物事を良いものと悪いものの2種類にしか見ず、ラスキンのことは「役に立たないろくでなし」と見なしていました。そのため、ラスキンの勧めを全く無視していました。
- ジェフ・ラスキンには、ビル・アトキンソンというソフトエンジニアの味方がいました。彼は、カルフォルニア大学サンディエゴ校でラスキンの生徒だったのです。彼は大学卒業後アップルに入社し、ラスキンとは別のジョブズが直接指揮を取っている「リサ」というコンピュータの基本的なグラフィックソフト『リサグラフ』という仕事をしていました。リサグラフは後年Quick Drawと呼ばれるアップルの基本的な描画ソフトになるものです。アトキンソンは実はジョブズの大のお気に入りだったのです。ジョブズはアトキンソンの仕事ぶりを高く評価し、彼は絶対に間違いなど犯さない英雄と見なしていました。ラスキンはそこで、アトキンソンに入れ知恵をして彼からゼロックスPARCを訪ねるようジョブズに進言させます。するとジョブズは、彼から魔法にでもかけらたように快く聞き入れたのです。
- ビックマウス(大ボラ吹き)のジョブズは、複写機の巨人ベンチャーキャピタル部門であるゼロックス・デベロップメント社に声を掛け、大胆にも「ゼロックスPARCの中を見せてくれたら、アップルに対して100万ドルの投資をさせてあげますよ」と言い放ったのでした。当時、アップルは輝かしい成長を遂げていた時期で2回目のプライベートな増資の最中でした。ゼロックスは、これに一枚加わることに乗り気で、アップルからの視察団がPARCをのぞき見することを許可することにも積極的でした。アップルに投資することは、やがて株式が公開されれば、かなりの利益を生むことが期待できるからです。
- こうして、創始者スティーブ・ジョブズ以下主だったアップルの技術者がゼロックスPARCを訪問し、彼らがやろうとしていたことがその地にあったことに大いに驚き、喜び、啓発されて自分たちのプロジェクト「リサ」、そして「マッキントッシュ」に反映して行ったのです。
- よく、アップルはゼロックスからアルトを盗んでリサとして売り出したなどと言われますが、これはちょっと違います。そうだとすれば、「リサ」チームのひらめきと困難な仕事を過小評価していることになります。アップルはゼロックスから設計図を受け取ったわけではありません。インスピレーションを得ただけなのです。
- ゼロックスは、1981年6月「Alto」の市販品である「Xerox Star」というワークステーションを$16,595(約400万円)で発売します。このコンピュータは、マウスで動き、マルチウィンドウで、スクロールバーが付きポップアップするウィンドウを備えていました。遅れること1年と半年、1982年10月10日、アップル社はGUIを兼ね備えた「アップル・リサ」を発売します。価格は$9,995(約240万円)でした。このコンピュータはゼロックスのスターをさらに進化させ、メニューバー、プルダウンメニュー、1ボタンマウス、クリップボード機能によるカット&ペースト、ゴミ箱と言った新しいアイデアを盛り込んでいました。
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