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このコンテンツは、Dreamweaver CS6で制作しています。 | ||||
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フォトダイオード(参考)。 形状はいろいろなタイプがある。写真は左部の開口部の円形状がフォトダイオード部。右端子がBNCになっていて使いやすい。 |
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【CCD撮像素子の種類】
1. インターライントランスファー型(IT-CCD) - 現在、一般的なもの
2. フレームインターライントランスファー型(FIT-CCD) - 放送局用として使われているもの
3. フルフレームトランスファー型(蓄積部なし)(FF-CCD) - CCDの初期のもの
4. フレームトランスファー型(蓄積部あり)(FT-CCD) - フレームトランスファ型の改良版
5. 全画素読み出し(プログレッシブスキャン)型 - インターライントランスファの改良型(インターレースを行わないもの)
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参考:Richard F. Lyon, Paul M. Hubel, Foveon, Inc. ,"Eyeing the Camera: into the Next Century", 2003 | Bayer素子が平面的に色情報を収集するのに対し、Foveonは垂直に色情報を収集する。従って、Foveonは色のにじみがない。 | |||||
N ∝ √(Nr2 + Nd2 + Ns2 ) ・・・(Rec -15)
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X線イメージャは、以下の3つの部位から成り立っています。すなわち、
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写真提供: Miikka Raninen氏
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同軸ケーブル(3C-2Vと10C-2V)の特性表
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- * ピン1:STROBE:パソコンがデータを送信したことをプリンタに伝える同期信号。
- * ピン2-9:DATA1 - DATA8:8ビットのデータ信号。
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- * ピン10:ACKNLG:プリンタがデータを受信したことをホストに伝える同期信号。
- * ピン11:BUSY:プリンタが次のデータを受信できないことを示す信号。
- * ピン12:PE:プリンタ用紙の終わりを知らせる信号。
- * ピン13:SEL:プリンタの選択信号。
- * ピン14:LF:プリンタの行換え信号。
- * ピン15:ERROR:プリンタのエラー信号。
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- * ピン16:PRIME:コンピュータの初期化信号。
- * ピン17:SEL:コンピュータの選択信号。
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- * ピン18 - 25:GND:8本のグランド信号線。
GP-IBケーブル。長さは70cm程度と短いものが多かった。 ケーブルは8本のパラレルデータ線なので太い。 コネクタは、重ねて接続できるようにメスとオスが双方にもうけられていた。 下の図は接続例。重ね接続でも芋づる接続でも双方の接続方法が可能であった。 接続機器にはすべてアドレス(4ビット)が割り振られ、アドレスに沿ってデータの送受信が行われた。
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- 『1000BASE-Tでは、既存のツイストペアケーブルを使って高速通信をするために4対の信号線をすべてを使って送信し、信頼性のあるデータとするために8ビット情報を9ビットにし、これをさらに4ラインに9ビット情報を振り分けるために5進法データとした。』
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■ USBの歴史 (2018.11.12)(2018.12.27追記)
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アナログビデオ端子(上写真)とデジタルビデオ端子(DVI)(下写真)
デスクトップパソコンではデジタルビデオ端子が普及しているが、ノートパソコンの付属モニタ出力や液晶プロジェクタの端子には依然として上図のアナログ端子が使われている。 |
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ファイルフォーマットによる画質の違い | ||||||
TIFF、BMP、PICTのビットマップ画像。圧縮されてないので容量は大きい。しかし、画質は良好。 | ||||||
圧縮率10%のJPEG画像。JPEG独特のノイズ(モスキートノイズ)が現れる。文字の隙間の背景色が白く褪せたようになっている。JPEGでは圧縮率を高めると、細かい情報がなくなる。 | ||||||
上の10%に圧縮したJPEG画像を拡大表示したもの。圧縮による画像の荒れが目立つ。モスキートノイズが出るのは、8画素x8画素で圧縮を行うため。 | ||||||
圧縮ファイルであるGIFの画像を拡大表示したもの。GIF画像は可逆圧縮であり、原画像の情報欠落はない。文字などは、GIFの方がJPEGよりもきれい。同じ圧縮方式にPNGがある。GIFは特許の問題があったが、PNGにはない。 | ||||||
EPSファイル。EPSは数式で画像を記述している。ビットマップと違って、スケーリングしても最適な画像を表示。従って画像を拡大しても滑らかに表現する。 | ||||||
- 上の画像は、デジカメで撮影したExif画像とその画像に入っているExifデータ。 データの詳細を右に示す。
- このファイルから、撮影した年月日と時間、使用したカメラ、撮影条件、ファイル容量など事細かな情報を見ることができる。
- この画像は、マッキントッシュの画像アーカイブソフトウェア「Graphic Converter ver.5.9.5」を使用して閲覧した画面のコピーである。 (2006.06)
- 名 称
- 解像力
- サイズ
- 用 途
- 縦x横(解像力)
- 画素数
- MB
- Base/16
- 128 x192
- 24.8 k画素
- 0.07
- プレビュー、サムネイル
- Base/4
- 256 x 384
- 98.3 k画素
- 0.28
- インターネットWeb用
- Base
- 512 x 768
- 393.2 k画素
- 1.13
- コンピュータスクリーン
- インターネットWeb用
- 4Base
- 1,024 x 1,536
- 1.57 M画素
- 4.50
- 高解像力TVスクリーン
- 16Base
- 2,048 x 3,072
- 6.29 M画素
- 18.0
- 印刷用
- 64Base
- 4,096 x 6,144
- 25.2 M画素
- 72.0
- プロ印刷
PhotoCDの規格- この規格ができた1990年代後半、DPEショップにフィルムネガを持ち込むと、Base/16から 16Base までの5つの画像を1セットとしてCDに焼いてくれた記憶があります。
- PhotoCDでは、CD1枚に100画像を記録できる規格になっていました。
- Pro PhotoCDでは4倍の大きさになるので1枚のCDに25枚の画像を保存できました。
- PhotoCDの5つの画像のファイル容量を合計すると23.99MBとなります。
- CD1枚に100画像分を記録すると2.4GBとなります。
- これではCDに収まりません。
- 650MBのCDに100枚のPhotoCDを記録するとなると、1つの画像は6.5MB以下に抑えなければなりません。
- 16Baseの画像でも18MB相当あるのです。
- 従って、PhotoCDは可逆圧縮手法が使われています。
- これは、Image Pacと呼ばれる形式でした。
- ■ イメージパック形式(Image pac)
- PhotoCDは、16Base( = 2,048 x 3,072画素)の解像力を最大として5つの解像力で表現できる画像ファイル形式を持っています。
- (Pro PhotoCDは、64Baseを含めた6種類の画像ファイル持っていました。)
- イメージパックは階層化構造を持ったもので、基本画像(Base)画像から付加情報によって5種類の解像力を持つ画像を任意に呼び出すことができるものです。
- この階層化技術(hierarchical storage format)は、米国のHP社(Hewlett-Packard)が提供したと言われています。
- 先に述べましたように、PhotoCDは5つの解像力を持つ画像形式で、最大のものは、16Baseの2,048 x 3,072画素フルカラーです。
- しかし、この画像はファイル容量を単純計算すると18MBとなります。
- PhotoCDでは、Baseが画像の基本となっていて、高解像度の画像を作るときには、Base画像を基本として画素間を補完して4倍の情報を持つ4Baseを作ります。
- さらに高解像度を要求する場合は、4Baseの画像を元に画像情報を補完して4倍の情報を持つ16Baseを作ります。
- また、Base/4とBase/16の小さい画像は、容量が少ないので直接画像ファイルを作って保存しています。
- PhotoCDの基本画像は、Baseという512 x 768画素でありこれから高画素を構築していく方式をとっています。
- 一番高い解像力の画像ファイルから間引きして画素数を減らしていくのは理解しやすいものですが、Baseという比較的小さな画素で高解像度の画像を構築していくというのは魔法じみていて、ホントに高画質の画像が得られるのかと疑問に感じてしまいます。
- これは、Baseを最終的に作り上げるとき、最初に16Baseの画像でデジタイジング(デジタル化)して、ここから1/16のBaseまで縮小していき、縮小する過程の履歴を残していくからこそできる方法だったのです。
- 縮小の履歴は、16Base相当に現状復帰できる情報であり、この情報をさらに圧縮(Huffman圧縮)して保存するというものでした。
- 1990年代当時は、この方法が画像をコンパクトにまとめて画像をストレスなく表示をし、なおかつ高解像度まで対応しているベストな方式であったと言えるかも知れません。
- イメージパックが採用している画像圧縮は可逆圧縮であり、JPEGのような画像の劣化がありません。
- (正確には、細かい所の色情報を割愛し輝度情報だけを残すので完全な可逆圧縮ではありませんが、ほとんど問題になりません。)
- イメージパックの可逆圧縮方式の基本は以下の通りです。
- 1. 最初の画像(フィルム画像)を16Base、すなわち、2,048画素 x 3,072画素のフルカラー(24ビット)で取り込む。
- 2. この画像を、RGB(3原色)ではなく、YCC(輝度と色差、YUVとも言う)に変換する。
- YCCの方が色の圧縮が行いやすい。基本的にY(輝度)は重要なのでこの情報は残す。
- 色差情報は、細かい部位に関しては人の目は対応しないので間引く。
- (これはテレビのカラー技術と同じ。)
- 3. 原画像を1/4に変換して4Baseの画像を作る。
- この時に、変換手順を画像ファイルに残しておき、16Baseの画像を作るときの処方箋とする。
- 4. さらに、4Baseを1/4に変換して「Base」画像を作る。併せてこの変換手順を画像ファイルに残す。
- 「Base」画像を基本画像として保存する。これをもとに4Baseと16Baseを作り上げる。
- 5. Base/4とBase/16は、画像が小さいので予め作って画像ファイルとして保存する。
- 6. 64Baseは、Pro PhotoCDと呼ばれるもので、これは、最初に4,096画素 x 6,144画素を作り、
- 上と同様の手法で合計6種類の画像を構築する。
- 1990年代、4Baseの画像(4.5MB)をパソコンで開けるのは至難の業でした。
- 画像を開けるだけで30秒程度の時間がかかっていたと記憶しています。
- 画素数だけを見ますと、Base画像は2000年当時に見られたデジタルカメラ(640画素x480画素相当)とほとんど同程度となりますが、しっかりしたフィルム画像から高性能スキャナー(PhotoCDに使われたスキャナーは千数百万円)でデジタル化した画像は、一粒一粒揃っていて(1画素のノイズが少ない)、ヌケの良いデジタル画像が得られていました。
- また、単板CCD素子で得られたデジタル画像よりもカラー情報がしっかりしていました。
- しかし、2010年にあっては、3000画素x2000画素相当のデジタルカメラが安価に出回るようになると、画素数に絶対的なパワーがあるので縮小して使えばフィルム画像以上の画像が得られるようになりました。
- これにより取扱のよいデジタルカメラがフィルムカメラを駆逐していくことになりました。
- ■ Flashpix(フラッシュピクス) (2010.03.15)(2010.04.29追記)
- 画像の階層化技術をより高めたものがFlashpixです。
- この画像フォーマットは、イーストマンコダック社の主導でヒューレットパッカード社、ライブピクチャ社、マイクロソフト社の協力を得て1996年に策定されました。
- Flashpixフォーマットは、ライブピクチャ社が開発したIVUEというタイル機能/マルチリゾルーション機能を踏襲しています。
- Flashpixは、Exifフォーマットにも対応していて、デジタルカメラで得られたExifフォーマット画像をFlashpixに変換保存して閲覧することができます。
- Flashpixは、迅速に高画質画像ファイルを閲覧したいという要求から生まれました。
- 元画像とは別に、96x96画素のサムネイル画像がこのフォーマットに組み込まれていて、画像の概要を事前に見られるようになっています。
- それに加え、元画像を細分化して(タイル機能)、どのエリアを抜き出すかを自由に選ぶことができます。
- また広い範囲を見たい場合、細かい画像を送る必要はないので間引きした画像を送って通信と表示の負荷を軽減させています(マルチリゾルーション機能)。
- Flashpixでは、最小単位が64x64画素で管理されていて、この画素ブロック(ユニット)をタイル貼りの構造のようにして元画像が作られています。
- 広い範囲を見るときは、64x64画素の中の代表的な情報が繰り上げられて1画素として画像を構築するようになります。
- 通常の画像フォーマットは、画像をパソコンにいったん取り込んでパソコン内で拡大やスクロールを行うのが普通ですが、この方法だと大きな画像をすべて取り込まなければならないので時間がかかったり通信網やコンピュータに負荷がかかります。
- この不具合を考慮して画像を細分化して格納し、自由にかつ高速に読み出すことができるのがFlashpixです。
- 【マルチリゾルーション機能】
- Flashpixは、それ自体が物理的なファイルフォーマットを定義しているわけではなく、格納するデータや方法などのルールを定めたアーキテクチャであり、基本的にはさまざまな物理フォーマットに応用できるようになっています。
- 要するにJPEG画像でもTIFF画像でもFlashpixにできるということです。
- Flashpixの大きな特徴は、画像を 64x64ピクセルの1つのブロックとして管理し、このブロック単位で表示や印刷などのアクセスが行われていることです。
- 従って、高解像力の画像を表示したり印刷する場合に、能力のないコンピュータやプリンタでは必要以上にかかる処理時間を短縮させることができます。
- Flashpixでは、画像の表示を最小1/64にすることができます。
- こうしたやり方は、PhotoCDと似ています。
- しかし、PhotoCDが画素数やアスペクト比がBASEというきまりで固定されているのに対し、Flashpixは自由に選ぶことができます。
- さらにこの自由な画像サイズをもとにして、各辺をそれぞれ1/2、1/4、1/8と4段階に下げた解像度を持たせて迅速に画像表示や出力ができるようになっています。
- 低いCPU 能力を持つコンピュータで画像処理を行うときは、画像を間引いて処理を行い、プリントするときに時間をかけて高い解像力でプリント出力することもできます。
- これを「マルチリゾルーション = MultiResolution」機能と呼んでいます。
- 【タイリング機能】
- Flashpixのもう一つの大きな特徴は、「タイリング = Tiling」機能です。
- 先ほど、Flashpixは64x64ピクセル四方のブロック単位で画像を管理処理していると言いましたが、このきまりを利用して、全体の画像から必要な部分だけを取り出す(これが全体を取り出さないので高速に取り出せる)機能があります。
- これをタイリングといいます。
- 従って、画像データは最初に全体をロードしておく必要はありません。
- 最小限のストレスでその都度保管されているメディアからロードしながら、大きな画像データを処理することができるのです。
- このタイリングとマルチリゾルーションの組み合わせはズーミングでも有効に機能します。
- こうしたFlashpixの特徴は、絵画や書物などの貴重な過去の資産やフィルム画像を高精細画像として保管し、必要に応じて希望する大きさで再生表示する目的に有効です。
- 例えば図書館に所蔵している絵巻物や古文書をFlashpix画像で保存して、利用したい閲覧者にネットワークを通じてViewerで見てもらうという方法です。
- 原画像は、1GB(ギガバイト)にも達することがあります。
- Flashpixでは、間引きして全体を小さい表示画像として送ったり、見たい部分だけの拡大画像を送ることができるので、必要最低限のデータ量で画像送信ができ表示スピードがアップします。
- Flashpixを使用するにはライセンスが必要であり、Flashpix画像を見るにも専用のビュアが必要なため、Flashpixという名前が世の中に広く使われているということはないようです。
- ■ 圧縮ファイル - 画像によるファイル容量の違い
- 現在使われている画像ファイルは、圧縮が一般的になっています。
- 圧縮を行う一番の目的は、画像ファイル容量を小さくすることです。
- メモリが高価であった時代やパソコンの性能が上がらなかった時代、それにインターネットの通信速度が上がらなかった時代にはとてもありがたい機能でした。
- しかし、圧縮をむやみにかけると期待に添えない結果となります。
- 例えば、圧縮率の高い設定で保存されたJPEG画像は、見苦しい画像となります。
- 画像を計測手段として扱う場合には、圧縮ファイルの特徴とファイル容量の特性を十分に理解しておくことが必要だと考えます。
- 下に示す左右の写真は、左がBMP(ビットマップ)ファイルで、右がJPEGの10%まで圧縮した画像ファイルです。
- 画質は一目瞭然で、JPEG画像は粗さが目立ちます。
- BMPファイルは、非圧縮ですから画素数がそのままファイル容量となります。
- 512x417画素@8ビット濃度では、以下のファイル容量となります。
- 512 画素 x 417 画素 = 213.5k バイト/画面 ・・・(Rec-38)
- 【写真画像の圧縮】
- 下に示したJPEG画像では、10%に圧縮してますのでファイル容量は1/37の5.7kバイトです。
- 両者を比べると、ファイル容量がかなり小さくなった分画質が悪くなっているのが理解できます。
- 同じ画像でPNGファイルを作ると、155.7kバイトとなります。これは、BMPファイルの73%程度しか圧縮できません。
- このことからPNG(可逆圧縮ファイル)では写真のような細かい画像に対してはあまり得意ではないことがわかります。
- 【グラフィック画像】 その下に示したサンプル画像は、白と黒がはっきりした単純なパターン画像です。
- この画像でファイル容量を見ますと、BMPファイルは、通常の写真画像と同じ215.0kBとなり、JPEG10%圧縮ファイルは7.4kBで1/29の圧縮になっています。
- 注目すべきは、PNGファイルで、2.7kBと驚異的な可逆圧縮になります。
- PNGは、アニメや文字などのパターンが明確なものに対して非圧縮画像と変わらない品質で高い圧縮ができることがわかります。
- JPEGは、文字やグラフィック画像の圧縮では画が汚くなります(モスキートノイズが出る)。
- 【真っ白な画像】 最後に真っ白な画像について考察します。真っ白な画像でもBMPファイルは画素数分だけのファイル容量(215.0kB)となります。
- JPEGは、8x8画素で画像のパターンを見ていきますので、1/(8x8) = 1/64以下にはなりません。
- しかし、PNGでは1.9kBとなり1/119の圧縮になります。パターンが単純化したものほどPNGファイルの威力が発揮できると言えるでしょう。
- 512x417画素8ビットの白黒写真画像のファイル容量を比較。 ・BMPファイル:215.0kB - 上左の画像。 ・TIFFファイル:215.0kB - 圧縮を行わないTIFFファイルはBMPと同じファイル容量を持つ。 ・PNGファイル:155.7kB - 可逆圧縮ファイルなので細かい写真画像の圧縮率はよくない。 ・JPEG90%圧縮ファイル: 51.9kB - ファイル容量は1/4程度になった。画質は遜色なし。 ・JPEG50%圧縮ファイル: 18.6kB - ファイル容量は1/11程度になった。画質は若干荒れている。 ・JPEG10%圧縮ファイル: 5.7kB - 上右の画像。ファイル容量は1/37。
- ・JPEG 1%圧縮ファイル: 4.0kB - ファイル容量1/53。画質はかなり荒れる。
- 512x417画素8ビットの白黒パターン画像のファイル容量を比較。 ・BMPファイル: 215.0kB - 上左の画像。 ・PNG圧縮ファイル: 2.7kB - 1/79の圧縮となる。画質の遜色はなし。 ・JPEG90%圧縮ファイル: 16.0kB - ファイル容量は1/13程度になった。画質は遜色なし。 ・JPEG10%圧縮ファイル: 7.4kB - ファイル容量は1/29程度になった。画質は遜色なし。 ・JPEG 1%圧縮ファイル: 5.8kB - 上右の画像。ファイル容量1/36。画質は荒れる(モスキートノイズ)。
- パターンの大きな画像は、少しの圧縮率設定で大きなファイル圧縮ができる。その理由は、JPEGの8x8の圧縮アルゴリズムが、パターンのはっきりした画像では1/64にすることができるため。パターンの粗い画像はPNGが圧倒的に有利で高い圧縮率が得られる。
- 512x417画素8ビットの 白色画像のファイル容量比較 ・BMPファイル: 215.0kB - 左の画像。 ・PNG圧縮ファイル: 1.9kB - 1/119圧縮。 ・JPEG 90%圧縮ファイル: 3.6kB - 1/59。 ・JPEG 50%圧縮ファイル: 3.6kB - 1/59。 単純な白一色の画像でも、BMPファイルでは画素分の容量が与えられる。PNGファイルでは、1/119の圧縮を行い、JPEGより圧縮率が良い。これは、JPEGとは違う圧縮アルゴリズムを使っているため。JPEGは、8x8画素を一つのブロックとしているため、1/64程度が限界となる。単純な画像であればPNGの方が圧縮率がよい。
- 保存フォーマット
- 通常の画像
- 白黒のパターン画像
- 真っ白な画像
- 512x417画素 8ビット(256階調)
- 白黒
- BMP
- 215kB
- 215kB
- 215kB
- TIFF
- 215kB
- 215kB
- 215kB
- PNG
- 155.7kB
- 2.7kB
- 1.9kB
- JPEG 90%
- 51.9kB
- 16kB
- 3.6kB
- JPEG 10%
- 5.7kB
- 7.4kB
- 3.6kB
- JPEG 1%
- 4.0kB
- 5.8kB
- 3.6kB
画像パターンの違いによるファイル容量の違いのまとめ(表)
- 上の表から、JPEGは写真画像に威力を発揮し、 パターンのはっきりした画像ではPNGが効果のあることが理解できます
- ■ DNG(Digital Negative) (2018.11.07)
- DNGは、米国Adobe社が2004年に開発した画像フォーマットです。
- デジタルカメラの画像が、旧来の8ビット濃度(カラー画像は8ビット x 3 = 24ビット濃度)から10ビット濃度、12ビット濃度を持つものに増えて、各カメラメーカが独自のファイルを採用し出したことから、生画像ファイルフォーマット( ファイル)を統一する目的で開発されました。
- 名前が「ネガティブ」としているのは、フィルムのネガ画像から来ていると思われます。
- DNGは、Adobe社が手がける画像処理ソフトウェア「Photoshop」や「Lightroom」への移植性をよくして、これらのソフトでの画像処理を行いやすくしています。
- DNGは、TIFF/EP(TIFFファイルを2001年に追加制定したもの)をベースにしています。
- TIFF(Tag Image File Format)は、1986年にできた古いフォーマットで非圧縮です。
- Aldus社が開発しAdobe社がAldus社を買収したためTIFFはAdobe社の所有物となっていました。
- TIFFは、他の画像ファイルフォーマットが白黒8ビット(カラー8ビット x 3 =24ビット)であったのに対して、白黒16ビット(2バイト)、カラー48ビットを与える特色を持っていたため、Adobe社がこのTIFFフォーマットに注力したと考えます。
- TIFF/EP(Tag Image File Format / Electric Photography)は、オリジナルのTIFFにデジタルカメラで普及しているExif情報を組み合わせたもので、デジタルカメラの画像フォーマットに特化したものとして2001年に制定されました。
- DNGは、TIFF/EPをさらに進化させてファイルフォーマットに特化させ、8ビット画像(JPEG、PNGなど)への切り出しを容易にさせる意図があります。
- このDNG画像ファイルは、高尚な理念で作られてはいるものの、制定から14年がたってもこれを採用しているカメラメーカーはシグマ、ライカ、ペンタックスなど数社で、大手のカメラメーカーは依然として自社のファイルを採用し続けています。
- 「Photoshop」や「Lightroom」への移植性が認められればこの画像ファイルは大きく飛躍していくものと思われます。
- ■ HEIF(High Efficiency Image File Format) (2018.11.07)
- HEIFは、2017年、アップル社が自社のOS(macOS High Sierra及びiOS11)でサポートを始めた画像ファイルフォーマットです。
- JPEGよりも画質を向上させ、同等以上の品質でファイル容量が1/2に抑えられるものです。
- スマホを使用した高画素写真/動画が増えたことによってファイル保存容量が切迫することになり、気運が高まりました。
- この画像ファイルは、圧縮動画ファイルを手がけるMPEG機関が2013年から着手し2015年に開発を終えました。
- H.265という新しい規格のコーデックを採用しています。
- HEIFの実際の運用はアップル社が初めてであり、マイクロソフト社はまだサポートを決めていないので、Windowsではフリーウェアやサードパーティによる画像閲覧アプリケーションソフトウェアを利用する必要があります。
- HEIFは静止画像ですが、もともとはH.265を採用した動画ファイルのHEVC(High Efficiency Video Codec)という規格が作られ、これをもとに静止画のファイルフォーマットが規格化されました。
- このフォーマットが今後標準になっていくかどうかはまだわかりません。
- 使用人口が多いiPhoneに標準で装備されたので、認知はされていくのだろうと思います。
- 現状のiPhoneは、あまねく利用されているJPEGを尊重して、カメラ側の設定によって、HEIF フォーマットではなくJPEGで保存する設定にしたり、ブラウザでJPEGファイルに簡単に変換別保存できるようにしています。
- ■ デジタル記録(動画像) (2007.4.15追記)(2010.05.19追記) この項では、動画像について触れます。 アニメ動画の原理がそうであるように、静止画を時間軸に並べて再生すると動画像が得られます。
- パソコンの動画像はこの発想で作られました。
- 動画像そのものは、パソコンが発達する前からありました。
- テレビ放送と映画です。
- これら三者は、独自の進展をしながらしかも互いに影響し合って今日に至っています(「動画像の歴史的な流れ」参照)。
- 映画やテレビがアナログ動画であったのに対し、パソコンの動画はデジタル画像からスタートしました。
- しかし、この動画像は放送信号(NTSC、PAL規格)から少なからぬ影響を受けています。
- パソコンを開発したIBM社がMSDOSコンピュータに与えた標準画面は、NTSC映像信号を規範とした640x480画素をもつVGA(Video Graphics Array)規格でした。
- コンピュータの動画像は、静止画を連続して再生することから出発しました。
- もちろん、これに音声を入れてテレビ放送のような仕組みとしました。
- コンピュータの動画像は、テレビ放送よりも柔軟性を持たせることができたので、いろいろな動画像ファイルフォーマットができました。
- しかし、初期のパソコンは性能がよくなかったので、テレビ放送レベルの画質と音を自由自在に操ることができませんでした。
- デジタル画像・音声技術が進歩してNTSC画像に匹敵するようになると、デジタル画像がテレビ放送を引っ張るような形となりました。
- 両者は互いの文化を守りながら、パソコンで育った動画像ファイルと、テレビで培われたテレビ映像、それに映画で採用してきた映画フォーマットが入り組むようにして、デジタル動画像フォーマットが形作られて行きました。
- 【AVI】(Audio Video Interleaved Format)(えいぶいあい) (2009.05.19追記)(2022.04.19追記)
- 我々計測分野で最も良く使われている動画ファイルフォーマットがAVI(1992 年開発、1997年開発終了)です。
- 最も古い規格であるこのフォーマットが30年近くも一線で使われているのは驚きです。
- しかも25年近くも開発元がサポートを中止してしまったにもかかわらずです。
- AVIファイルは、Audio Video Interleaved Formatの略です。
- マイクロソフト社が1992年にPC用に開発したムービーフォーマットです。
- AVIは、Windows標準のDIB(Device Independent Bitmap = BMP)画像の連続したファイルシーケンス間に、WAVEデータ(音声データ)(WAVフォーマット)を挟み込んだフォーマットとして出発しました。
- ■ 2GBの制約 (2022.04.19追記)
- Windws95で開発されたMicrosoft Internet Explorerには、AVIファイルフォーマットがインラインムービーとして利用されていました(右図)。
- AVIファイルは、WAVE音声データと合体させている関係上RIFF(Resource Interchange File Format)という入れ物を利用しています。
- このRIFFの入れ物が、32ビットの文字の制約を受けるため、ファイルのサイズも32ビット(4,294,967,296 = 4Gバイト)までとなります。
- また、データ量にも制限が加えられ、16ビットのAVIで1Gバイトのファイル、32ビットのAVIで2Gバイトの制限となります。
- ファイルを圧縮して2GB以下にしても、AVIでは再生時に非圧縮と同等のメモリ領域を確保するようで、このときに2GB容量を超えるとエラーとなり再生ができなくなってしまいます。
- 多くのマルチメディアデータにおいて、1GBや2GBのデータは十分な容量ですが、ことムービーに関しては、この限りではありません。
- ビデオ並のクォリティで扱おうとすると、あっという間にメモリの壁に突き当たってしまいます。
- 2000年以降の高速度カメラでは、カメラに2GBから4GBのメモリ(時には16GB〜32GB)を搭載していて、撮影した画像をパソコンに転送してそのまま画像ファイルとして保存しようという傾向にあります。
- 2022年時点では、大容量のデータはRAW(各メーカー独自の原画像ファイル)で保存する傾向にあります。
- RAWは、メーカーの供給するビュワーでないと再生できません。
- AVIファイルは、とても古い規格で継ぎ足し継ぎ足しで存続している規格ですから、4GBのような膨大なデータでAVIファイルを作ろうとするといろいろな障害がおきます。
- それに、開発元のマイクロソフト社は、1997年(13年以上も前)にサポートを中止してしまいました。
- AVIでは、どうにも拡張性がないということのようです。
- マイクロソフトは、1996年にAVIに変わるフォーマットとしてASF(Advanced Streaming Format)を登場させて普及をはかりますが、芳しい結果になりませんでした。
- そこで、マイクロソフトは、WMV(Windows Media Video File)ファイルを2000年に登場させ、WindowsOSの標準動画ビュアであるMediaPlayerの標準フォーマットにしました。
- WMVをサポートする現在のMediaPlayerでは、もちろん旧来のAVIファイルを読み込むことはできます。
- しかしながら、OSやAVIそのものの規格から外れた2GB以上の容量を持つAVIファイルに対しては、ユーザーの責任において処理しなければならない問題として残っています。
- そうは言っても、計測分野での動画処理では2020年時点でもAVIは圧倒的に主流です。
- 多くの計測用動画処理ソフトが、現在もなおAVIファイルを主ファイルフォーマットとし、MPEGやWMVファイルには対応していないのが実情です。
- DVDなどの映画がMPEG2の規格で動画像を保存しだしているため、AVIを扱うのは計測を目的とした分野に限られるようになってきました。
- なぜ、AVIが今も使われているのかと言うと、AVIは一枚一枚の画像を分離して保存できるからです。
- しかし、AVIのコーデックには、MPEGや、H.264などの時間圧縮方式も出てきたので(この方が、圧縮率が高くて画質が良い)、こうしたコーデックを持ったAVIを計測に使う場合には、従来の常識である「AVIは一枚一枚が独立した画像」という考えができなくなり、画像処理上では問題になることがあります。
- 【AVIファイルの圧縮 - 圧縮コーデック】
- コーデックはCodecと書き、Compression & Decompression の略です。
- 圧縮と復調という意味です。
- AVIでは、データの圧縮メカニズムがシステム(OS)そのものと関係なく独立しているので、圧縮コーデックドライバがインストールされていれば、いろいろなタイプの圧縮が可能です。
- 逆に、適切なドライバがインストールされていないと圧縮されたデータが読み出せず映像部が再現されません。
- 使用している圧縮コーデックに関する情報は、ビデオストリームのヘッダに4文字のIDのかたちで記録され、再生時に指定されたドライバを読み出して映像を再現するようになっています。
- コーデックで有名なものでは、インテルが開発したIndeo(1992年〜)、SuperMac社が開発したCinepak(1992年〜)、マイクロソフト社が開発したMicrosoft Video1(1992年〜)、MotionJPEG圧縮、MPEG圧縮、H.264圧縮などがあります。
- 右の表に、各種のコーデックで保存したAVIファイルとその容量の比較を示しました。
- 表の一番左はTIFFの連番ファイルで21枚の合計です。
- 非圧縮AVIはTIFFファイルを寄せ集めただけのものですからファイル容量は同じです。
- 一番右のQuickTimeはAVIファイルではありませんが、2010年時点で一番圧縮がよくて画質がよいので参考までに比較に入れました。
- AVIは今や古いタイプのフォーマットで、コンテナという異名を持つほど、つまり、単なる箱というほどになってしまいました。
- その箱にいろいろなコーデック(Codec)を仕掛けてAVIファイルとしています。
- ですから、ひとくちにAVIと言ってもどのコーデックで格納したかをしっかりと把握しておく必要があります。
- 【2GB以上のファイルを扱えるAVI2.0】
- マイクロソフト社がサポートを中止したAVIフォーマットの箱だけを活かして、現在でも使えるようにした規格がAVI2.0です。
- この規格には、マイクロソフト社自体は関与していません。
- これは、1996年に画像ボードメーカのMatrox社が中心になって、OpenDML(Open Digital Media Language)という技術を作り、この技術を元にしてOpenDML AVI(AVI2.0)を作りました。
- このAVIでは、2GB以上のファイルが扱えるようになり、また、MotionJPEG動画をAVIフォーマットで再生できるようにしました。
- SonyのVAIOは、システムに「DVgate」と呼ばれる動画編集ソフトが同梱されていて、これで2GBを越えるAVIファイルを作ることができます。
- また、動画像キャプチャーボードを扱っているカノープス社もAVI2.0に保存できる動画像保存ソフトウェアを作っています。
- Adobe社の動画編集ソフトウェア「Premier」では、ver.6.0からOpenDML AVIに対応しています。
- これらの環境のあるパソコンでは2GB以上のAVIファイルを再生することができますが、多くのパソコンにはそのような環境を持ち得ない場合が多いので、それらの大容量AVIファイルを配布するときには、もらった相手が再生できることを確認する必要があります。
- また、2GBを越えるAVIファイル作成については、参照型AVI(Reference AVI)というものも存在し、複数のAVIフィアルを切り替えながら再生を続けて、見かけ上2GB以上の壁を越える方法を取っているものもあります。
- この方法を取るAVIも、配布先にこの種の動画ファイルが再生できることを確認して配る必要があります。
- 2GB以上のファイルを持つ動画像の場合には、JPEGなどの1枚単位の静止画を連番で一つのフォルダーに保存する方法が確実と考えます。
- AVIで一つのファイルにまとめるのは、データが飛散してしまわずに便利な側面がありますが、計測という観点からは、一つ一つの静止画で画像処理をするというのが基本なので、静止画の連番ファイルを薦めます。
- パワーポイントに動画像を貼り付ける場合は、このファイルから、必要な範囲を抜き取り、必要十分な画素サイズに変換してMPEG2などの圧縮ファイルで保存する方法がスマートだと考えます。
- 【64bit用AVI、32bit用AVI】 (2020.03.01追記)
- AVIは、1992年に策定された動画フォーマットで1997年にサポートを終えました。
- 従って、AVIは32bit用CPUで開発されたものではなくコーデックもほとんどが32bit環境で開発されたため、64bit環境では使用することも再生することもできません。
- 計測分野では、古くはIndeoコーデックが使われ、DivX、Xvid、VCM9、Cinepakも使われてきました。
- これらは、32bit 対応のコーデックす。
- 64bit環境でAVIが扱えるのは、非圧縮(uncomp)とmicrosoft、cinepakの3種類程度です。
- H264コーデックは、現在のところ最も圧縮が高くかつ画質がよいものです。
- けれど、このコーデックはWindows7/Vista/8/10に標準でバンドルされていないため、別途インストールする必要があります。
- これは、「x264vfw download / SourceForge.net」からダウンロードします。
- 【WMV】(Windows Media Video、だぶりゅえむぶい)(2000.06)(2020.03.01追記)
- マイクロソフト社が、AVIファイル及びASFファイルに代わる規格として2000年に発表したデジタルビデオの新しいプラットフォームです。
- 2020年の時点ではこのフォーマットでの動画はあまり使われていません。
- スマホ(2009年 iPhone)での動画作りにMP4( = MPEG-4)が使われ始め、YouTubeなどのインターネット上の動画でもMP4が広く使われていることから、このファイルフォーマットは使われることはなくなりました。
- 従って、2010年代以降の動画はほとんど使われていません。
- AVIファイルの後継ファイルとして登場したWMVは、AVIに比べ高い圧縮率と大容量化が図られています。
- このファイルは、時間圧縮をしているのでAVIオリジナルの1枚1枚を保存する形式とはなっていません。
- MPEG圧縮技術を採用しています。
- MPEG圧縮といってもマイクロソフト社が独自に手を加えたMS-MPEG4なので、互換性が問題になったこともありました。
- いずれにせよ計測分野には使いづらいフォーマットでした。
- WMVファイルは、開発当初はインターネット上で徐々に浸透してきました。
- Windows Media Player で標準の動画ファイルとして大々的に採用した経緯上、当初影響力は大きなものでした。
- AVIファイルが1997年にサポート中止をされた後、幾多の変遷を経てWindowsの動画はこのフォーマットに落ち着きました。
- しかし、我々計測分野では依然としてAVIファイルの利用が多いのが実情です。
- WMVファイルは、計測用の動画処理ソフトウェアでは認識しないようです。
- 計測分野になぜWMVが浸透しないのかというと、WMVの採用している圧縮方式(MS-MPEG4←MPEG4と若干違う)が計測分野にそぐわないからだと考えます。
- 計測分野では動画は1枚1枚独立していたほうが計測をする関係上都合が良いのです。
- その意味でAVIは、古い規格ながらその願いにかなったフォーマットなのです。
- 【QuickTime】(くいっくたいむ) (2010.03.27追記)
- QuickTime(くいっくたいむ)は、コンピュータ動画ファイルの老舗的なものでアップル社が1991年に仕様を決めたマルチメディアフォーマットです。
- 20年の歴史を持ちます。
- マイクロソフト社の開発したAVIは、QuickTimeを過剰に意識して1年遅れでリリースされたものでした。
- QuickTimeの初期のものは、圧縮アルゴリズムとしてSuperMac Technologyが開発したCinePakを搭載していました。
- パーソナルコンピュータで最初に動画を扱ったフォーマットとして歴史に残るものです。
- このフォーマットは、2010年にあっても最強の動画フォーマットとして使われ続けています。
- QuickTimeの一般的なファイル拡張子は、movあるいはqtです。
- QuickTimeは、ムービー、サウンド等が取り扱え、また比較的簡単にムービーを作ることができるため、インターネットでの代表的なフォーマットとなりました。
- QuickTimeはまた、ビデオデッキ等の制御、ビデオキャプチャ、データ圧縮、メディアの同期再生などの機能とそれを利用するためのツールボックス(システム)を提供しています。
- このデータのファイルを「QuickTimeムービーファイル」といいます。
- QuickTimeの名前は動画用ファイルフォーマットとしてあまりにも有名になってしまいましたが、実際には、静止画、テキスト、サウンド、MIDIといったさまざまなメディアを扱うことができ、これらのメディアを時間軸を追って制御することができます。
- クイックタイムは、開発当初、AVIとよく比較されました。
- しかし、マルチメディア環境を時間軸に従って同時刻性を持たせる点ではAVIとは比べものになりませんでした。
- 1993年には、Windows上で再生するための再生エンジンQuickTime for Windowsが発表され、Windows上でも再生可能となりました。
- さらに1998年には、Java版の「QuickTime for Java」も発表されました。
- QuickTimeムービーファイルでは、RIFF(Resource Interchange File Fomat)のチャンクに相当するものをアトム(atom)といいます。
- サイズ情報は、32ビットを符号付き整数として扱うので、管理できるのは最大2Gバイトまでです。
- これはAVIでも同じです。最近のファイルは、2GB以上のファイル容量をカバーするためにシームレスにファイルを読み出す機能を追加しています。
- QuickTimeは、非常に良くできたインターネット通信の動画ファイルで、映画用予告編(Trailer)でその能力をいかんなく発揮しています(下図参照)。
- ハイビジョン対応のQuickTimeの画質は、非常にキレイで音声もクリアです。
- またインターネット上で動画像を再生する際に、データ通信(ストリーミング)をしながら再生もできます。
- この機能は、QuickTimeとRealPlayerの二つが秀でています。
- アップル社は、2001年に発売を開始したiPodの成功により、iTuneの動画ファイルにQuickTimeを標準装備させたり、デジタル動画編集ソフト「Final Cut Pro」でQuickTimeを標準形式としています。
- クイックタイムプレーヤによる映画の動画サンプルの縮小画像。 オリジナルは、1280x532画素のもので、H.264デコーダを使用。
- 映画用のトレーラでは、フルハイビジョン(1080p)でのサンプル配布を行っている。
- 現在のQuickTime(QuickTime7、2005年)は、MPEG4に加えH.264/AVCを標準フォーマットにしているため、互換性の高いものになっています。
- 2009年には、MacOSが新しくなったことにより(Mac OS ver.10.6 Snow Leopard)、H.264圧縮を高速処理するQuickTimeXを発売しました。
- これは、iPhoneで投入された動画処理技術を用いたもので、高画質のハイビジョン画像をストレスなく変換表示したり保存できる機能をもっています。
- 従来のQuickTime7とは互換性がなく、MPEG-4/H.264に特化したもので古い動画ファイルは読み出すことができません。
- QuickTime7とQuickTimeXは共存できるので両者をパソコンにインストールして使用することができます。
- 歴史的に見ますと、QuickTimeは以下のような進化を遂げています。
- 1991 QuickTime1 コンピュータで動く最初のビデオファイル。CD-ROM動画像の再生。Cinepak圧縮技術搭載。
- 1994 QuickTime2 フルスクリーンビデオ。Windows対応。MPEG-1対応。
- 1998 QuickTime3 リアルタイム表示(インターネット対応)、Java対応。H.261、H.263対応
- 1999 QuickTime4 ストリーミング技術拡張。QuickTime TV。Macromedia Flash対応。
- 2001 QuickTime5 Sorenton Video3、拡張DV、Macromedia Flash4対応
- 2002 QuickTime6 MPEG-4対応、3GPP、3GPP2対応、MPEG-2再生対応、JPEG2000対応、iTunesに標準装備。Apple Lossless codec採用。
- 2005 QuickTime7 H.264対応。フルスクリーン制御。
- 2009 QuickTimeX iPhone OSより開発。H.264ファイルを高速処理。
- Mac OS ver.10.6(Snow Leopard)にバンドル。
- インテル64bitCPUに対応。従来のQuickTimeとは別ラインのもの。
- 古いMacintoshやWindowsには対応していない。
- 【Motion-JPEG】(もーしょんじぇいぺぐ) (2010.06.29追記)
- 静止画像フォーマットであるJPEGを高速で伸張処理して、連続再生することで動画に見せかける方式です。
- M-JPEG(えむ・じぇいぺぐ)とも呼ばれています。
- MPEG-2がパソコンでストレスなく使えるようになるまでよく使われていた手法です。
- リリースされた時期は明確ではありませんが、JPEGが規格化されてから4年後の1996年頃に規格化への会合が活発になり、以後、ビデオ編集部門や画像計測部門でよく使われるようになりました。
- MPEGが圧縮処理に時間がかかったり、処理に高性能のCPUを必要としていたため、それらの環境が整うまでの間、Motion JPEGは重宝されました。
- 1996年当時は、このファイルを作るのに米国Zoran社とC-Cubed社の2社が供給するMotion JPEGのチップセットを使うのが最もスマートだったので、画像ボードにこれらのチップを搭載してM-JPEG画像を作っていました。
- 1996年当時は、動画をパソコンで見るという環境が整っていませんでした。
- コンピュータの能力(CPUやRAM、HDDの容量)がとても非力であったため、こうした動画作成には画像ボードを使って処理することが多く行われていました。
- MPEGをパソコンで作ることなど及びもしない時代でした。
- こうした時代に培われたMotion JPEGは、ビデオ編集分野で重宝され2010年時点でも編集用動画ファイルとして使われています。
- Motion JPEGは、MPEGと異なり、一枚一枚独立した画像として保存しているのでフレーム単位で編集するのに都合が良いのです。
- その後、コンピュータ内部のソフトウェアだけでM-JPEG画像が作られるようになり、AVIやQuickTimeではMotion JPEGのコーディックが開発されました。
- デジタルカメラの動画ファイルには現在も使われていますが、昨今のデジタルカメラは画素数が多くなりすぎ、これをMotion-JPEGで保存すると記録メモリに負担がかかるので、圧縮効率が良くて高画質のH.264を採用するカメラが増えています。
- Motion JPEGはまた、専用のハードウェアを使ってデータ圧縮を行いながらリアルタイムで動画の取り込みが行えるため、パーソナル向けのビデオキャプチャ・カードなどにこのフォーマットが採用され動画処理に威力を発揮しました。
- また、Motion-JPEGはMPEGデータなどと異なり1コマが静止画像として存在するため、任意の箇所での編集が容易に行えます。
- 圧縮率は1/5から1/20程度であり、圧縮をかけすぎると粗い画像となります。開発当時、この圧縮画像を使って画像計測を行おうとしたところ、圧縮されたデータが誤動作を起こして正確な位置情報が得られませんでした。
- Motion JPEGとMPEGは、名前が似ていますが、フォーマットが違います。画像計測用にMotion-JPEGはしばしば使われますが、MPEGは不向きです。
- MPEGフォーマットでは画像を静止させたりコマ送りしたり逆転再生することが不得意です。
- (そうした要求でフォーマットを作っていないので)。JPEG画像でも圧縮の度合いによっては計測は苦しくて、読み取り値が正確ではなくなるという指摘も多くあります。
- 画像計測にはあまりおすすめできないフォーマットです。
- そうは言っても2010年にあってはMPEG画像が大量に出回り、好むと好まざるにかかわらず、撮影されたMPEG画像から画像計測をしなければならない状況が多くなってきました。
- 計測精度はどうあれそういう時代になりました。(2010.05.25記)
- 【MPEG】(Motion Picture Expert Group)(えむぺぐ) (2009.05.04追記)(2010.06.27追記)
- MPEGは、Motion Picture Expert Group の略です。このフォーマットは、1988年に設立された同じ名前を持つグループが動画の符号化技術研究をする中から生まれました。
- 一般的な拡張子は、mpg、あるいはmpegです。
- WMVやQuick Timeと異なり、ISO標準化機構が仕様を決めています。
- DVDやデジタル放送の圧縮フォーマットに採用されたため、2010年時点ではもっとも一般的な動画圧縮ファイルフォーマットとなっています。
- この動画フォーマットは歴史もあり、今なお発展が続いている動画フォーマットではありますが、扱う範囲が広くなってしまって、例えば、MPEG-4でもいろいろなカテゴリー( = プロファイル)ができてしまい、MPEGと一口に言っても再生できないケースがでてきています。
- ■ キーフレーム
- MPEGは、上の概念図が示しているように、すべてのフレーム( = 画面)にわたって独立した画像があるわけではありません。
- MPEGでは、キーフレームと呼ばれる全体の画像を構成するフレームがあり、それ以外は、キーフレーム間で動いている部位だけを保存する方式が取られています。
- この方法を使えば、1フレームすべてを保存するよりも明らかにデータ量が少なくて済みますし、単位時間あたりに送るデータ量も少なくてすみます。
- つまり、この方式は通信帯域が狭くても、帯域以上の情報を持つ映像を送ることができるのです。
- 右の図は、MPEG-2画像の説明図です。
- 拡大をするとMPEG-2画像の特徴を理解することができます。
- この画像は円形の回転円板に四半円形と白丸、黒丸のターゲットマークを貼り付けて回転させている画像の一枚です。
- この画像の拡大図を見ると、ターゲット周りの部位だけトリミングされて細かい画素に区分けされ、動いてないバックグランドは大ざっぱに処理されていることがわかります。
- MPEGの開発は、従って、データ通信の負荷を軽減するために行われました。
- 動画は大量のデータが連綿と続くので、動画像をインターネット回線などを通じて送ると送信帯域の不足という問題がおきてしまいます。
- その不具合を解消する手だてとして、データを圧縮して送るという方法が採用されたのです。
- データ圧縮は、JPEGのように一枚の画面の無駄な情報を省く空間圧縮と、複数画像に渡って変化していない画像情報は送らないとする時間圧縮の二種類があります。
- 空間圧縮と時間圧縮の2方式を使うことにより、圧縮を行わない非圧縮AVIファイルよりも1/100〜1/200程度の圧縮が可能となりました。
- MPEGは、1990年代後半から2000年代にかけて、DVDによる映画やインターネット配信、それとデジタルテレビ放送に採用されるようになり、現在の動画ファイルの主力になっています。
- ■ 時間の遅れ
- このファイルフォーマットで注意しなければならないことは、一つには、リアルタイムでの送受信が難しいことです。
- ファイルの構造上、キーフレーム間の1組の画像(GOP = Group Of Pictures)を単位として、動きのあるところだけを抽出して圧縮処理を行います(下図参照)。
- GOPがMPEGファイル画像の基本かたまりとなります。
- MPEG処理には相当優秀なエンコーダが必要です。
- 我々が使っているPCのソフトウェアを使ってMPEGファイルをエンコードするには相当な時間がかかります。
- テレビ放送ではパソコンのような悠長なことはできないので、専用のエンコーダ装置を使ってMPEG-2処理を高速で行い放送しています。そうした高性能処理装置を使っても画像間での圧縮処理を行う必要上、画像を溜め込む作業を含めてその処理に時間的な遅れがでます。
- それらを合計すると、およそ1〜2秒程度の遅れとなり、実際の現象より遅れて送信経路に入ることになります。
- また、受け取る側でもネットワークの通信回線状況や帯域で通信速度が変わります。
- その上、受け取るコンピュータでもMPEGを解読して再生画像を作る処理が入りますので、ここでもキーフレームと差分画像から動画像を構築するための処理時間(遅れ時間)を覚悟しなければなりません。
- 昨今のテレビ放送は、デジタル放送になりましたけれども、MPEGを採用している関係上アナログ放送の同じ番組と見比べると2秒程度遅れています。
- (事前に録画したものはデジタル遅れを補正して早めに送っている局もあるそうです。)
- NHKの正午の時報などは、昔のアナログ放送やラジオ放送であれば時間の遅れなんどほとんど気にせず送信できたのに、デジタル放送のMPEG-2ではデジタル遅れが出てしまうのでサービスを止めてしまいました。
- デジタルなどという高性能の代名詞のような響がある方式に、時間的な遅れがかなりあるというのは驚きです。
- メモリバッファに画像情報を溜め込んで再構築するデジタル手法では避けて通れない特徴となります。
- ■ Iフレーム、Pフレーム、Bフレーム
- MPEGでは、3種類のフレームが使われています。
- ・ Iフレーム
- ・ Pフレーム
- ・ Bフレーム
- この3つがGOPの中に格納されています(上図参照)。
- キーフレームは、「I」フレーム(Intra coded Frame)と呼ばれています。
- 差分情報だけの小さい容量情報フレームを「P」フレーム(Predicted Frame、予測フレーム、デルタフレーム)、および「B」フレーム(Bi-Predicted Frame、双方向予測フレーム)と呼んでいます。
- 「I」フレームは、自己完結型のフレームで画像全体の情報を持っています。
- これは、キーフレームとして使われます。JPEGなども空間圧縮をほどこしてはいるもののそれ自体にすべての画像情報を持ち合わせているので「I」フレームに入ります。
- 「P」フレームはデルタフレーム、もしくは予測フレームとも呼ばれ、直前のフレーム(IフレームもしくはPフレーム)を参照して変化だけを情報として記録しています。
- 「P」フレームは処理が簡単ですから変換作業が行いやすい反面、圧縮にも限界があり、圧縮率を劇的に上げることはできません。
- 「B」フレームは、双方向フレームと呼ばれるもので、直前と直後のフレーム(IフレームとPフレーム)を参照して差分を記録するものです。
- つまり、後ろのフレームと前のフレーム双方の差分を保存するため、「P」フレームよりもさらに余分な情報をそぎおとすことができ圧縮を高めることができます。
- 「B」フレームは、当然処理が複雑になりますから、圧縮、解凍には処理装置の負荷がかかります。
- ■ 画像計測としてのMPEG
- MPEGでもう一つ注意しなければならないことは、計測目的のためにMPEGを使うのは不適当であることです。
- このフォーマットは、本来、限られた通信帯域で動画像を送るという目的で作られたものであり、テレビや映画などを通信回線で送ることを目的としていました。
- またMPEG-2では4.7GBの容量のDVDに映画を保存再生することを大事な使命としていました。
- DVDによる映画鑑賞は、連続再生が念頭にあります。計測用の動画像は、静止させたりスロー再生を行ったり逆転再生を行います。
- そのうえ、画像一枚一枚から物体の変位を求めたり、濃度を精度よく計測します。こうした目的にはMPEGは不向きです。
- MPEGでは上で述べたようにキーフレームをつかった連続画像を構築することに重点を置いています。一コマ送りやスキップ再生、逆転再生を行う場合、その都度キーフレームを探して(GOP毎に)希望する範囲での連続画像を構築し、一連の動画像を構築します。そうした工程を経るランダム再生画像は自然ぎこちないものとなります。
- 放送業界も編集作業にはブロック単位(GOP単位)での編集がしずらいためにMPEGを用いておらず、最終成果品としてのみ使用しています。
- こうした観点から、MPEGはその性質を十分に理解して使用する必要があると言えましょう。
- (放送局で採用されているMPEG-4 Studio Profileという規格は、編集機能を十分に考慮した規格のようです。)
- 下図に、MPEG-2ファイルを使って回転体に貼付したターゲットマークの変位をプロットした図を示します。
- プロット図は、横軸にフレーム、縦軸に回転するターゲットのY方向(垂直方向)の変位成分を示しています。
- 対象物は回転運動ですからY軸成分は単振動(サインカーブ)になるはずです。
- 図を見てみますとおもしろいことに気づきます。
- 15フレーム毎にコブのような成分が現れています。
- MPEG-2ファイルのオリジナルファイルはAVIです。
- AVIからMPEG-2ファイルを作りました。オリジナルファイルのAVIファイルで同様の解析をしますと(下図、下段)そうしたコブは見あたりません。
- MPEG-2画像でどうしてこのようなコブの成分が検出されるのかを調べてみて、次のようなことがわかりました。
- MPEG-2画像は、GOP(Group Of Pictures)で動画付けが行われていることはすでに述べました。
- 今回使用したMPEG-2画像は、15フレーム分がGOPの1ブロックに相当しています。
- 15フレームで1つの動きを完結させています。
- ここでの問題は、GOPのブロック間のつなぎ目処理がうまくいっていないことに起因しています。
- 15コマ間の動画付けはうまく行えるものの、GOPをまたいで次の最初のフレームが数ピクセル分補間できていない感じを受けました。
- この問題の解決があるのかどうかは今のところわかりません。
- MPEG-2のオーソライズされたフォーマットを使うと、こうした問題が起きてしまうことは事実のようです。
- この問題を解決するために、MPEG-2ファイルを開ける際にすべての画像分を読み込んで中間ファイルを作って、それを処理するという方法があります。
- 上図の解析で使ったMPEG-2ファイルをTIFFの連番ファイルに変換保存して、同様の解析を行ったところコブの不具合はなく、きれいな単振動波形が得られました。
- こうしたことから、MPEG-2画像は本質的に解析に不向きであることが理解できます。
- 計測目的にはできるだけMPEG-2は使わず、TIFF、JPEGの連番画像を用いるか、AVIファイルを用いることがストレスない方法だと考えます。
- やむを得ずMPEG-2でしか画像ファイルが入手できない場合は、このファイルを一旦AVIファイルかTIFFファイルに置き換えて解析処理に回すことが無難だと考えます。
- MPEG-2ファイルの大きな特徴である2時間(220,000枚@720x480画素)にもわたる長時間録画ファイルを解析したい場合、これを一気に解析する有効な手だては今のところありません。
- この場合には、長時間録画されたファイルの中で解析に必要な範囲だけを都度AVIやTIFFにファイル変換して、そのファイルで処理を行うのが簡単で安価な方法だと思います。
- 計測カメラによっては、長時間録画をPCのハードディスクに直接書き込んでいくものがあり、そうしたものは静止画形式で保存するものが多いので、計測はスムーズに行うことができます。
- ・ MPEG-1:
- MPEG-1は、MPEGフォーマットの最初の規格であり、1993年に規格が制定されました。
- 当初MPEG-1は、転送速度が1.5Mビット/秒で、画像サイズは352 x 240 画素であり、30フレーム/秒の録画ができました。
- 今から見ると随分小さい画像です。この画像サイズはテレビ画像の1/4であり、テレビを凌ぐという性能ではありませんでした。
- MPEG-1が作られた(1993年)当時のデータ通信やパソコンの処理能力を考えたら、この規格が精一杯だったのかも知れません。
- MPEG-1のデータ速度は、それでも当時のインターネットに乗せることはまったく不可能でした。
- 1990年代前半の通信回線はアナログ電話機の回線がほとんどで、これで1.5Mビット/秒のデジタル通信を行うことは不可能だったのです。
- 当時のダイアルアップ回線の通信速度は28.8kビット/秒が最高性能であり、MPEG-1が要求する1/52の性能しかありませんでした。
- 従って、MPEG-1は、CD-ROMに動画像を記録する手段として開発され、Video-CDなどに使われました。
- CDの焼き込み速度がこのレートでした。
- MPEG-1は、2010年にあってはその役割を終え、MPEG-4が使われるようになりました。
- MPEG-1のオーディオファイルである「MPEG-1 Audio layer-3」だけは、MP3として2010年でも多く使われています。
- ・ MPEG-2:
- MPEG-2は、1995年に制定されました。
- これは、HDTV(ハイビジョンテレビ)までカバーするデジタルビデオ用の規格でした。
- この規格では、MPEG-1に課したビットレートの制限を外し、転送速度を4Mbps〜24Mbpsとしました。
- 取り扱える画像は、720 x 480 〜 1920 x 1080となり、テレビ画像の品質を意識してハイビジョンにも対応できるものとしました。
- ブロードバンドのインターネットにも対応できるようにしたため、MPEG-2はネット配信できる動画像の確固たる地位を確立しました。
- また、DVDに採用されたため、最も有名な規格となりました。
- ・ MPEG-3:
- MPEG-3は、存在しません。
- このプロジェクトは、1080本インターレース方式で20 Mbps - 40 MbpsによるHDTV映像送信用として規格化が始まりましたが、MPEG-2がそれらの性能を十分に持っているとして、つまり、その方式がMPEG-2と同じであるため開発の意義がなくなり、規格制定中半ばの1992年にMPEG-2に吸収されました。
- ちなみに、音楽ファイルで有名なMP3は、MPEG-3ではなく、MPEG-1のオーディオ規格として出発したもので、「MPEG-1 Audio layer-3」の略称です。
- ・ MPEG-4:
- 1998年に制定された移動体通信用規格です。
- 規格化された当初の画像フォーマットは、176 x 120 〜 352 x 240 と小さく、通信速度も64kbps 〜 512kbpsと遅いものでした。
- この規格は、QuickTime、ASFなどのパソコン上で動くマルチメディアが採用しました。
- その後、MPEG-4は取り扱う範疇が広くなり、パートという形で多くの派生規格が生まれ、通信速度も高速になり高画素高品位の規格になっていきました。
- 2010年にあっては、「MPEG」というとこのカテゴリーを指すことが多くなっていますが、扱う範囲があまりに広いので理解が難しいのも事実です。
- MPEG-4が使われている応用には、1セグやQuickTime7、iPod、iPad、AppleTV、HD DVD、Blu-rayなどがあり、これらに採用されている動画フォーマットは、MPEG-4 AVC/H.264 という規格です。
- ・ MPEG-7:
- MPEG-7は、従来のMPEGの規格と趣が異なります。
- この規格は、マルチメディア・コンテンツに関するさまざまな情報の記述方法を標準化して、検索を行ったりファイリングを可能にする規格となりました。
- MPEG-7は、1996年にスタートし、2000年を目標に規格化作業が進められました。
- しかし、10年を経た2010年にあってもMPEG-7の名前はあまり聞きません。
- 規格の趣旨は、インターネットの進展に伴い、インターネットメディア(文書フォーマット)を統一させて検索や閲覧を容易にさせようという狙いがあったようです。
- しかし、結果はそれほど芳しいものではなかったようです。
- 動画像に関する限りMPEG-7での役割はそれほど大きくなく、2010年にあってもMPEG-4が主流です。
- ・MPEG-4 AVC/H.264:
- AVCは、Advanced Video Codingの略です。MPEG-4のパート10の呼び名としてAVCが付けられました。
- 正式には、「MPEG-4 Part 10 Advanced Video Coding」と呼ぶのが正しいのですが、長いので単にAVCと呼ぶこともあります。
- また、開発した機関を尊重してH.264を付けています。
- AVCは、MPEG-4のカテゴリーの中にH.264規格を入れて(Part10)ラインアップしたという位置づけです。
- AVCは、2003年に制定されてから徐々に使われるようになり、2010年にあってはもっとも優れた動画像圧縮フォーマットとなりました。
- 取り扱う画像の大きさは、320 x 240画素から1920 x 1080画素と広範囲で、通信レートは320kbps〜10Mbpsと地上デジタル放送規格に当てはまるようになっています。
- この規格では、動き補償のためのブロックサイズを16x16画素から4x4画素まで選ぶことができ細かい画像まで補正処理ができるため、ブロックノイズやモスキートノイズの発生を抑えることができます。
- ▲ H.264規格
- H.264は、動画圧縮ファイルの規格です。MPEGがISOとIECの組織の下で規格化されたのに対し、H.264は、ITU(国際電気通信連合、International Telecommunication Union、前身がCCITT)の下部組織であるITU-TのVideo Coding Experts Group (VCEG)によって、2003年5月に策定されました。
- 最初の規格であるH.261は、1990年にできています。
- 制作年月から言えば古い規格と言えます。
- それが進化を続けてH.264になりました。
- この規格がMPEGにも採用されることになり、MPEG-4のパート10として仲間入りして、MPEG-4 AVC/H.264となりました。
- MPEGとH.264は、本来開発している機関が違っていたのですが、圧縮アルゴリズムは同じでした。H.264は、非常に優秀なアルゴリズムであり、圧縮率が高い割に画質の劣化がなかったためにMPEGがそれを採用しました。
- ISO/IECでは、「MPEG-4 Part 10 Advanced Video Coding」として規定し、名前の中にH.264は入っていません。
- しかし、内容はH.264そのものであるため開発機関に敬意を表してつぎに示すように併記するようになりました。
- 「H.264/AVC」 「H.264/MPEG-4 AVC」
- 「MPEG-4 AVC/H.264」
- ▲ VC-1(Video Codec 1)
- H.264のライバルは、マイクロソフト社のVC-1(Video Codec 1)です。
- 両者は、圧縮率も画質もほぼ同等といわれています。
- VC-1は、マイクロソフト社が独自に開発したMS-MPEG用の圧縮コーデックであり、Windows Media Video 9 (WMV9)としてWindows Media Playerに実装されました。
- これが2003年に米国映画テレビジョン技術協会(SMPTE = the Society of Motion Picture and Television Engineers)に申請され、2006年に規格化されました。
- VC-1の正式名称は、SMPTE 421M video codec standardですが、こちらは名前が長く覚えずらいので、気軽さも手伝ってVC-1の呼称が広く使われています。
- DVDフォーラムでは、このマイクロソフト社の開発したVC-1とH.264であるMPEG-4 AVCの両者を必須アイテムとして承認したため、以後、この二つが動画圧縮ファイルのスタンダードとして使われるようになりました。
- VC-1は、HD DVD、Blu-rayディスク、Windows Media Video 9、マイクロソフトSilverlightに採用されています。
- 【DV-AVI】(でぃぶいえいぶいあい)
- DV-AVIは、Digital Video AVI の略です。デジタルビデオ規格のデータをそのままAVIという入れ物に入れたフォーマットです。
- 先に述べたAVIがまさに箱になってしまったという典型的な例です。
- DV-AVIは、AVIという箱に入れればいろいろな動画ソフトで再生できるので便利であるという観点から作られ、デジタルビデオカメラからの動画ファイルを作るのに普及しました。
- デジタルビデオカメラ録画したDVテープをパソコンに保存するときにDV-AVIが使われます。
- MPEGに変換するよりは編集が楽という理由からです。
- しかし、当然ながらファイル容量の2GBの壁があります。
- DV-AVIファイルの根本は、以下に述べるDV規格です。そのDV規格はMotion JPEGを基本としていますが、計測用の動画像処理ソフトではこのフォーマットに対応していないものが多くあります。
- 【DV】(でぃう゛ぃ) (2010.07.10追記)
- DV(デジタル・ビデオ、ディヴィ)は、Digital Videoの略です。
- これは1995年に決められた民生初のデジタルビデオ規格で、従来のアナログビデオテープ方式カメラに替えて、デジタル映像データとして磁気テープに記録するために規格化されました。
- デジタル録画ですから、従来のアナログ式のVHSビデオテープレコーダと違って編集や複製に伴う画質の劣化がありません(「デジタルビデオ信号(DV)」参照)。
- この規格ができる伏線には、テレビ放送のデジタル化とパソコンの普及があげられます。
- 1980年代、VTRの普及によりアナログビデオ信号によるビデオ機器が家庭内に広く行き渡るようになりました。
- (アナログビデオ信号については、NTSC(Q23.NTSCって何?)を参考にしてください。)
- このアナログのテレビ(ビデオ)信号をデジタル化したものがDVフォーマットです。
- 従って、DVにはNTSC信号の映像情報を最大漏らさずデジタルに置き換える意図がありました。
- ビデオ信号をデジタル化したことにより、コピーによる画像の劣化がなくなりました。
- それまで普及していた8mmビデオテープレコーダも、これを機会にデジタルビデオテープに替わっていくようになりました。
- しかし、そのDVも、2000年後半から登場した80mm径のDVDや1インチ(25.4mm)HDD、半導体メモリ(SDカード)を記録媒体とするビデオカメラの開発により、市場をそれらのカメラに譲るようになりました(AVCHD参照)。
- こうしたビデオカメラでは、DVではなくMPEG-4が使われました。
- MPEGの方が圧縮が高いからです。
- しかし、何度も述べていますが、編集を目的とする業務用の分野ではMotion-JPEGをベースとしたDVは非常に魅力的であるため、そうした分野では2010年においてもDV規格のデジタルビデオテープを利用したビデオカメラが使われています。
- ■ DV - Motion JPEG保存
- DV規格での画面サイズは、720×480ピクセルで、フレームレートは30fps、圧縮率は約1/5となっています。
- 画面サイズは、NTSC信号をデジタルにするために必要かつ十分な画素としています。
- 30コマ/秒という録画・再生速度もビデオ信号の規格をそのまま踏襲しました。
- 画像は、Motion-JPEGによるフレーム内圧縮を採用していて、MPEGとは違い一枚一枚の静止画を保存しています。
- MPEGは、画像間圧縮を行うためにエンコード処理がとても複雑となり、1995年当時はそれを可能にする安価なMPEGエンコーダチップがなかったため、アマチュア向けの製品には搭載できませんでした。
- Motion JPEGは、反面、映像編集が楽にできました。
- 音声は、サンプリング周波数48kHz、量子化ビット数16bitのリニアPCM2chか、32kHz、12bitのノンリニアPCM4chとなっています。
- 録画時間は標準カセットで270分、ミニカセット(Mini DV)で60分か80分のいずれかの録画が可能です。
- DVには上に述べた一般用のもの(SD)と、ハイビジョン用(HD)用のフォーマットHDV規格があります。(デジタルビデオ信号 参照。)
- ■ DVとMPEG-2
- デジタルビデオテープで保存するDVと、DVDに採用されているMPEG-2を比べると、DVのビットレートは約25MbpsでありDVDの8Mbpsに比べて3倍強のデータ量になります。
- DVは時間圧縮をしないMotion JPEGが使われているので、データ量が多くなります。
- 反面、時間圧縮処理を行わないので処理時間が速く、再生も素直に行うことができます。
- 2010年時点で民生用デジタルカメラの市場を見てみますと、DVテープを使ったデジタルビデオカメラの生産はほとんど行われておらず、HDDやフラッシュメモリ、DVDを用いたMPEG-2録画のビデオカメラが主流となっています。
- この流れは、MPEG-2圧縮/解凍がストレスなく行えるまで装置の高速化が進んだことと、使用する記録メディアに汎用性がありコンピュータ、DVD装置との相性がよいこと、記録時間も飛躍的に長くとれるようになったことが主な理由と考えます。
- 【HDV(High-definition Video)】
- HDVは、2003年にDV規格の派生として作られたハイビジョン録画のできる規格です。
- HDVについては、ハイビジョンデジタルビデオ(HDV)信号の所でも詳しく触れています。
- DVが規格化されるときに、ハイビジョン映像を民生ビデオ機器に組み込むことが考慮されていて、DV規格で開発された素子やテープなどを最大限に利用することが盛り込まれていました。
- 従って、使用するDVテープも同じものを使うことが前提でした。
- この前提に従ってハイビジョン対応が図られました。
- そのための大きな規格として、録画フォーマットにMPEG-2が採用されました。
- DVがMotion-JPEGを採用していたのに対し、HDVではMPEG-2を採用しました。
- ハイビジョンにはMotion JPEGフォーマットでは荷が重すぎました。
- 2010年にあってHDV規格のビデオコーダは、セミプロ使用や業務用の高価な機器だけに限られ、安価なモデルは以下に示すAVCHD規格のビデオコーダが主流となっています。
- 【AVCHD(Advanced Video Codec High Definition)】 (2010.07.10記)
- AVCHDは、HDVが採用しているDVテープの記録手法にこだわることなく、さまざまな記録メディアに対応した高圧縮、高画質のハイビジョン規格です。2006年にパナソニックとソニーの共同で基本仕様が策定されました。
- AVCHDの基本骨子は、動画像フォーマットにH.264/MPEG-4 AVCを採用し、画像データをパソコンのファイル管理のようなツリー構造としていることです。
- テープ録画方式のシリーズ録画とは異なった保存方式です。
- このため記録した画像をPCで再生、編集するのに都合良くできいます。
- MPEG-4 AVCは、2010年においては最も効率のよい記録フォーマットです。
- 記録メディアは、基本的には80mm径のDVDであり、このほかにSDカードやHDDなどに対応できるようになっています。
- 2010年現在、民生用ビデオカムコーダのほとんどはこの規格のものとなっています。
- ▲ なぜ、720x480画素がNTSC規格の4:3の画面アスペクト比になるのか? (2007.04.15記)(2010.07.10追記)
- 720 : 480 = 4 : 3 になるか? という疑問です。
- これはなりません。
- 720 : 480 は、3 : 2 であり、4:3になりません。
- それなのに、4:3の画面アスペクト比をもつDV規格ではなぜ720画素x480画素になっているのでしょうか。
- この素朴な質問に答えるサイトはなかなかありません。
- この不思議な疑問は、NTSCの放送規格がデジタルに移行されていく過程での微妙なズレから来ています。
- まず、NTSCは、画面アスペクト比が 4 : 3 と厳格に決められています。
- そして走査線が525本であることも決められていて、これが縦の解像力を決定しています。
- 縦の525本の解像力から換算して、アスペクト比から横の解像力を求めると700本となります。
- CCDカメラが放送局用に作られたとき、CCDメーカは、この規格に併せた撮像素子を作ろうとしたはずです。
- しかし、最初からこのような高画素のCCDを作ることができませんでした。
- 縦方向の画素は525本の走査線を考えれば525個の画素は必要だとしても、横方向はそれに相当する画素を配置するだけの技術がありませんでした。
- ソニーが1980年に最初に作ったCCDは、381画素x525画素(20万画素)だったのです。
- この配列でNTSCのアスペクト比を満足させるには、381個しかない横方向の画素を縦の画素サイズに比べて1.38倍ほど長くしなければなりませんでした。そうした経緯を経て、技術力が高まっていくと画素数をどんどん増やせるようになり、横方向の画素の多いCCDが作られるようになりました。
- 縦の画素は525個と決められているので、これは増やすことはできません。
- 従って、横の画素を増やして水平解像力を高め高画素化を果たして行ったのです。
- これは、詰まるところ、1つの画素のアスペクトレシオが水平解像力の増大(画素数が増えていくこと)によって変化していったことを物語っています。
- 画素が、最初は横長だったのに高画素化になるに従い縦長になって行ったのです。
- CCDカメラが計測用に使われるようになって、画素が1:1のものができてくるようになりました。
- 正方格子型撮像素子というものです。
- コンピュータの発達とともに、コンピュータ上で画像を扱えるようになると、コンピュータに合わせた画素数やCCDのサイズが求められるようになり、VGA規格に合わせた640x480画素の正方格子(1画素のアスペクト比が1:1)が作られるようになりました。
- VGAでの画面のアスペクト比は4 : 3 でした。コンピュータの世界は(VGAは)、アスペクト比とおよその画素数はNTSCを見習いましたが、1画素の大きさは正方格子としました。
- 「1画素 = 正方格子」、これがコンピュータ画像の始まりであり、放送の画面の成り立ちとは大きく異なる点でした。
- 放送品質を睨んだDV規格は、計測用(コンピュータ用)とは別の道を歩んでいました。
- つまり、画質を優先し1画素のアスペクト比を1:1とせず、画素数を優先して720x480画素としました。
- それにもかかわらず、画面のアスペクト比は4:3に保ちました。
- とすると、1画素の寸法の縦横比が1:0.889となります。
- この規格を計測用としてパソコンに取り込む場合、どのようなことがおきるのでしょう。
- DV規格での1画素を正方形とみなしてしまうとアスペクト比が変わり、横の寸法が実際よりも12.5%も長く表現されてしまいます。
- これでは、この画像から寸法や変位、速度、角度などを求めることができなくなります。
- これは、一般の映像機器を計測用に使うときに注意しなければならない重要なポイントです。
- 計測用には計測用のCCDがあり、放送用やアマチュア用テレビカメラには計測用とは違う要求による(すなわち見かけの画質を優先した)CCDがあったということです。
- 【DVD-video】(でぃぶいでぃびでお) (2010.7.10追記)
- DVD-videoは、DVDに採用されている動画ファイルフォーマットです。
- 規格化の背景には、上で述べたDV(デジタルビデオ)をDVDに記録するという目的がありました。
- 2010年時点で、映画、テレビコンテンツのDVD録画メディアとして最もよく使われている方式です。
- DVDは、CDと同じ直径と厚さで、CDの約7倍の情報を記録できるディスクです。
- 片面1層で4.7Gバイトの映像(8MbpsのMPEG-2ファイルの場合は、約1時間分、4MbpsのMPEG-2ファイルの場合は約 2時間分)を記録できます。
- 片面2層では倍の記録となります。
- これらの記録時間はひとつの目安で、映像の質と圧縮の度合いにより変わります。
- DVD-videoは、読み出し専用のDVD-ROMやDVDプレーヤーでの再生が可能で、一度だけ書き込めるDVD-R、何度も書き換えのできるDVD-RWなどがあります。
- DVDのアプリケーション規格では、 以下の3種類があります。
- 1)DVD-Video
- 2)DVD-VR(Video Recording)
- 3)DVD-Audio
- DVD-Video は、映像に MPEG-2 を採用した映像再生専用規格です。映画用DVDとして最も一般的なものです。
- DVD-VR(Video Recording)は、DVD-RW や DVD-RAM を使用して映画などの映像を記録するビデオレコードの規格です。
- DVD-VRFとも呼ばれています。
- 小間切れの録画が可能で、解像度も複数(480x480、544x480など)が許容され、DVD-Videoよりも緩い規格です。
- DVD-VRは、日本の企業が作った独自の規格であり、正式な規格ではありません。
- DVD-Audioは、オーディオCDのDVD版ですが、一般的ではありません。
- DVDビデオ(DVD-Video)は、動画圧縮にMPEG-2を使い、133分の映像と音声が収録されたビデオディスクです。
- 画素数720ピクセル×480ピクセル、水平解像度約500本程度が主な規格です。
- 音声は、ドルビーデジタル(AC-3)サラウンドとリニアPCMのどちらかで収録されます。
- そのほかにオプションフォーマットとして、MPEGオーディオも認められています。
- ■ DVD-Videoのファイル構成
- DVDビデオ(DVD-Video)ファイルは、PC(コンピュータ)で見ることができます(右写真参照)。
- DVDドライブにDVDビデオの収まったDVDディスクを入れ、エクスプローラで開くと、
- [AUDIO_TS]と
- [VIDEO_TS]
- というフォルダが確認できます。
- [VIDEO_TS]フォルダには、
- 「IFO」
- 「BUP」
- 「VOB」
- の3種のファイルが入っています。
- 「IFO」はメニュー情報やマルチアングルなどの制御情報ファイルです。
- 「BUP」は「IFO」内のファイルが破損した場合のバックアップで、「IFO」と同じファイルが入っています。
- 「VOB」には映像や音声、字幕などの実データが入っています。
- 通常は、PCにDVDが挿入されると自動的に認識して再生を行います。
- 【デジタル放送規格】
- この規格は、テレビ放送分野で規格化されてきたテレビ映像のデジタル規格です。
- デジタル放送規格は、各国様々な思惑が絡みデジタル規格に乗り出したので1950年代のテレビ放送と同様世界統一規格とはなりませんでした。(セグメント放送(Segment Broadcasting)参照。)
- 日本のデジタル放送規格は、ISDB(Integrated Services Ditital Broadcasiting、総合デジタル放送サービス)というもので、画像の大きさが4つの画像(と1つのおまけ)で選べるようになっています。
- 4つの画像とは、以下のものです。
- 1. 480i: NTSCの映像サイズをもとにする720x480画素インターレース方式
- 2. 480p: 720x480画素プログレッシブ方式
- 3. 720p: ハイビジョン映像である1280x720画素プログレッシブ方式
- 4. 1080i: ハイビジョン映像である1920x1080画素インターレース方式
- (ただし、地上デジタル放送では、帯域の関係上1440x1080iで送り、受像側で1920x1080iに引き延ばしている。)
- おまけ5. 1セグ: 320x240画素分の映像
- この規格は、デジタル放送と液晶/プラズマテレビの台頭によって脚光を浴び一般的になりました。
- なお、ISDBには、地上より送るデジタル放送(ISDB-T)(地上デジタル放送)と衛星から送られるデジタル放送(ISDB-S)(デジタル衛星放送)があります。
- また、地上波による移動体通信向けのデジタル放送(ISDB-T SB)やケーブルテレビ向けのデジタル放送規格(ISDB-C)もあります。
- デジタル放送規格は、コンピュータ文化が育んできたAVIやQuickTimeなどの動画ファイルとは少し趣が異なっています。
- テレビ放送では、通信帯域と30フレーム/秒の再生速度が最も重要な仕様であり、これは1945年に決められたアナログのNTSC映像信号から息づいているものです。
- 放送画像は、30フレーム/秒の撮影・再生速度を維持していかに巧みに画質の良い録画と再生を行うかが技術の粋を集める所であり、そのためにいろいろな圧縮技術が開発されました。
- 方やコンピュータ動画では、静止画を動画付けする所から出発しています。
- 画素数も再生速度もなんら束縛するものはありませんでした。
- また、テレビ放送が2時間録画を視野に入れながら動画記録方式を決めているのに対し、コンピュータ動画はせいぜい10分程度を視野に入れていました。
- なぜ短いのかと言えば、コンピュータの再生能力、保存能力、転送能力が追いつかなかったからです。
- ■ テレビ放送からの画像計測
- テレビ放送は、ビデオ録画装置(ビデオレコーダ、DVDレコーダ、BDレコーダ)に蓄えることが可能で、これをDVDやBlue-rayディスクにMPEG-2フォーマットとして保存することができます。
- これを計測用として使えるかという素朴な疑問がわきます。
- MPEG-2の画像計測への限界はすでに述べました(■ 画像計測としてのMPEG )。
- テレビ放送には、画像のインタレースの問題や、アスペクトレシオの問題、コピーの問題などが横たわっていて、これらの諸問題を十分に考慮した扱いが必要であると考えます。
- 【HEVC(High Efficiency Video Coding)】 (2018.11.07)
- HEVCは、H.265/MPEG-H Part2の呼び名で、AVC(MPEG-4 AVC/H.264)の後継となる動画ファイルです。
- 2103年にJCT-VC(MPEG & VCEG Joint Collaborative Team on Video Coding)グループによって制定されました。
- AVCに比べ2倍の圧縮効率(同じ通信帯域で2倍の解像力)を持ち、8192 x 4320画素までを対応可能として4K放送8K放送をも念頭にいれたものです。
- HEVCが扱える主要なOSには、Widnows10、Mac OS High Sierra, iOS 11が対応して ます。
- HEVCは、特許使用料の問題が複雑に絡んでいて、H.264のように単一機関への特許発生とはならず、複数の開発団体が権利行使をしているため使用にあたってはそれぞれの団体へ特許使用料が必要となります。
- これがクリアにならないと普及は難しいと感じます。
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- ■ 画像(電子画像)の記録媒体 (2007.09.11)(2010.08.08追記)
- 電子画像(ビデオ画像)を記録する媒体にはどのようなものがあったのでしょうか。
- この項目では、電子画像に使われてきた記録媒体について述べたいと思います。
- 電子画像を記録する媒体の代表的なものは、鉄の磁性体、プラスチック盤を使った光記録、半導体メモリの3つがあります。
- これらの3つの記録媒体が発達する前にはフィルム(銀塩感光材)が使われていました。
- ▲ フィルムの時代
- テレビカメラが開発された当初(1940年代)、テレビ画像を録画する手だてはありませんでした。
- テレビ放送と言えば、撮影と同時に遠隔地へ映像信号を送るライブ映像がほとんどだったのです。
- 当時(1960年頃まで)、映像を記録して放送をする手だてと言えば、唯一の録画媒体であったフィルム(銀塩)しかなかったので、ライブにできない映像は映画カメラで一旦撮影して記録し現像しフィルム画像になったものをテレシネ装置という機械(特殊テレビカメラ=フライング・スポット・スキャナー)でテレビ信号に直して放送していました。
- この方式による放送は、2005年あたりまで行われていました。
- コマーシャルフィルムは、35mm映画カメラで撮影して、これをテレシネという装置にかけて放送していました。
- また、スタジオなどでテレビカメラを使って放送したものを記録保存したい場合にはどうしていたかと言うと、映画フィルムを使っていました。
- この装置は、フィルムに相性の良い特殊蛍光面を持った歪みの少ないテレビモニタ(ブラウン管)にテレビ映像を映し出し、これを特殊なフィルムカメラ(キネレコ装置 = Kinescope Recording)でフィルムに撮影していました。
- キネレコ装置というのは、現在でもさかんに使われています。
- 最近の映画はCGによる電子画像が多く、これをフィルムに焼き付ける際にデジタル信号からレーザを使ってフィルムに直接焼き込んでいます。
- 記録の仕方は、フィルム上を細いレーザビーム光が走り(スキャンし)、テレビ画像の表示と似たような方式で面記録しています。
- 現在の映画の原本はデジタルで保存されていて、旧来のようにオリジナルネガフィルムを保存するというのではないようです。 → フィルムによる記録へ行く。
- ▲ 磁性体による記録
- テレビ映像記録(電子記録)を初めて行ったのは、酸化鉄による磁気テープの記録装置、すなわちビデオテープレコーダ(VTR = Video Tape Recorder)が開発された1956年です。
- 磁性粉体が電気信号の記録に使えるという発見(1898年)があってVTRの登場まで、58年の年月が経っています。
- 映像を磁気記録するというのは、とてつもない技術開発だったのに違いありません。
- この項目では、磁性体を使った記録媒体(磁気テープ、フロッピーディスク、ハードディスクなど)を、順を追って紹介したいと思います。 → 「磁性体による記録」へ行く。
- ▲ 光による記録
- 1980年代からは「光」による記録、それもレーザを使った記録が発展します。
- レーザの発明なくして現在の映像記録の歴史はあり得ませんでした。
- レーザの発明とコンピュータの発達(デジタル技術)が光の記録を高度に成長させました。
- この項目では、レーザを使った映像装置(レーザディスク)からCD、MO、DVD、Blu-rayの特徴を紹介したいと思います。
- → 「光による記録」へ行く。
- ▲ 半導体による記録
- 半導体製造技術が急速な発展を遂げる中、トランジスタを記録媒体とする手法が考え出され、半導体メモリとして注目を集めるようになります。
- 半導体メモリが一躍脚光を浴びたのは、フラッシュメモリの登場からでしょう。
- それまでは、半導体素子を使った記録のアイデアはあるものの映像を記録するメディアとして使用するには、大きさも価格も使い勝手も実用的ではありませんでした。
- フラッシュメモリが開発される前の半導体メモリは、コンピュータに使われているDRAMに見られるように、電源を切るとメモリ内容が消えてしまうものでした。 フラッシュメモリは、電源が無くてもデータを保持し続けるという大きな特徴を持っていました。 → 「半導体による記録」へ行く。
- 磁性体による記録
- 映像記録という途方もなく高速で大容量のデータを電子的に保存する手法は、酸化鉄による磁性体の磁気記録により光明を見ます。
- それまでは、(映画)フィルム(銀塩写真感光材)でなければできないことでした。
- 映像を記録する磁性体は、ビデオテープの発明から始まります。
- これは、音声テープができて後の24年経った1956年のことです。
- ビデオテープレコーダ開発も幾多の苦労がありました。
- 【磁気テープ】 (2008.08.17追記) (2008.12.07追記)
- ■ 磁気テープの開発
- ビデオテープは、家庭用ビデオテープレコーダのVHSテープなどで広く知られているように、磁性体(記録媒体)を安定のよいポリエステルフィルム(支持体)に塗布したものです。
- ビデオテープは、音声用(オーディオ)テープから派生しました。
- オーディオテープの開発は、1930年代よりドイツBASF社で始められ、ビデオテープは、1950年代後半に米国3M社が確立しました。
- 1970年代からは、日本のメーカが磁気テープ開発と製造の主役になりました。
- 2000年以降の磁気テープは、デジタルテープとしての位置づけが大きくなっています。
- ■ 磁気テープの歴史
- 磁気テープの開発を歴史的に見てみますと、磁性体を電気信号の記録媒体として使う手法が1898年、デンマークのValdemar Poulsen(ポールセン:1869 - 1942)によって開発されます。
- 彼は、磁性を持つ鋼線や鋼帯を記録媒体に使った磁気ワイアレコーダを発明しました。
- テープではありません。
- 当時は、薄いプラスチックフィルムを作る技術がなかったのです。
- この媒体(磁気ワイヤ)は、しかしながら、記録密度が低くて雑音も多く、1970年代のオーディオテープに比べて1000倍近く劣っていたと言われています。
- ポールセンは、アメリカのエジソンが発明した蓄音機(Phonograph、1877年)とベルが発明した電話機(Telephone、1876年)に着想を得て、電話機の録音用としてこの装置を開発して特許を取りました。
- 彼の録音機は、従って「Telegraphone」(テレグラフォン)と呼ばれました。
- この録音機は、電気増幅器がなくて信号が弱く(増幅に必要な三極真空管の発明は、30年後の1906年でした)、それにワイアが絡まったりして録音の信頼性は低いものでした。
- この装置は、特許が切れる1918年までそれほどの普及を見ず、1924年に製造を中止します。
- アメリカでは、1950年代中頃まで軍を中心として磁気ワイア方式の録音機が使われていたようです。
- ■ ドイツのテープレコーダ開発
- 【磁気テープの開発】
- 録音機の研究開発は、「Telegraphone」の特許が切れる1918年以降再び始まり、1932年にドイツ人のエンジニア Fritz Pfleumer(フリッツ・フロイマー:1881.03〜 1945.08)がテープ方式による録音機を発明します。
- この装置は、当初、紙テープを使っていて、これに酸化鉄の磁性体粉をラッカーに溶かして塗布したものでした。
- プラスチックテープは、当時の技術では薄くて強度のあるものが作れなかったのです。
- 彼は、紙巻きタバコの薄紙を扱う技術を持っていたようで、この技術を応用したようです。
- 彼は、自ら取得した特許をドイツのAEG社(Allgemeine Elektrizitats-Gesellschaft、当時、ドイツの最も大きな電機会社)に売ります。
- AEG社は、これを「Magnetophon(マグネトフォン)」という商品名にして、テープレコーダを世に出しました。
- このテープレコーダは改良が重ねられ、BASF社(Farben社傘下)の協力により磁気テープも改良されて、オーケストラの演奏する交響楽の録音に使われるまでになりました。
- BASF社は大きな化学工業会社で、この会社にはテープの支持体であるアセテートフィルム(Acetate film、1920年代より生産、1924年ブリティッシュ・セラニーズ社工業化)の製造技術と純度の高い磁性体粉末(カーボニル鉄、Fe(CO)5、Carbonyl Iron)を作る技術を持っていました。
- 磁気テープの製造には、良質で安定したフィルムベースが必要だったのです。
- 磁気テープで標準支持体となったポリエステルフィルム(Polyester film、1941年英国キャリコプリンターズ社開発、1953年米国デュポン社特許取得)は、寸法安定性が極めてよく、しかも強靱なので厚さを薄くしたフィルム状テープを作ることができます。
- しかし、当時はまだこの材料はありませんでした。
- ポリエステルフィルムの登場は、1960年以降で、その材料ができるまではアセテートフィルムが主流となっていました。
- AEG社のマグネトフォンの成功には、BASF社の磁気テープ開発の功績が大きかったと言われています。
- 磁性体は、カーボニル鉄からマグネタイト(Fe3O4)に代えられて、改良の足跡を残します。
- ■ ACバイアス記録(AC bias method)
- また、磁気媒体への録音技術にも改良が加えられて、音質が向上しました。
- その改良と言うのは、音声信号を磁気媒体に記録する方式の改良です。
- 磁気記録は、直流バイアス(DC bias)と呼ばれる手法を経て、交流バイアス(AC bias)法が開発されます。
- これにより、音質が飛躍的に向上しました。
- マイクロホンから拾った音声信号をそのまま磁性体に記録する方法は、磁気記録方式ができた当初から試されていましたが、芳しい結果を残せませんでした。
- 磁性体には、ヒステリシスという特性があり、入力の信号に対して正しく比例した記録ができず、微小な入力信号成分は鈍って(なまって)しまいます(右図「通常の磁気録音」参照)。
- 微弱な信号では、磁性体に十分な磁力を与えることができないのです。
- 磁性体に十分に磁化できるだけの磁束エネルギーを与える方法として、電気信号に予め一定の電圧を与えて下駄を履かせる方法(バイアスをかける方法)が考え出されました(「DCバイアス法による磁気録音」参照)。
- この方法を採用すると、微弱な信号から大きな信号にいたる広い範囲を磁性体の持つリニア(直線)成分に収めることができます。
- この方法は、録音時、入力信号に一定の電圧を加えたので直流バイアス(DC bias)法と呼ばれました。
- ■ バイアス法 DC
- バイアス法は、1907年、デンマークのValdemar Poulsen(ポールセン)が開発します。
- デンマークの電話技師であった彼は、自分の発明した録音機でビジネスを成功させようとアメリカに渡りますが、失敗に終わります。
- そうした最中にDCバイアス法を考案して、磁性体を使った録音手法にある程度の目処をたてました。
- DCバイアスによる記録法は、ドイツのテープレコーダ Magnetophon(英語名:Magnetophone)にも採用されました。
- その当時の装置の周波数特性は、50Hz 〜 5kHzで、ダイナミックレンジが40dB、歪率は5%だったそうです。
- ダイナミックレンジが40dBというのは1:100であり、この音圧を記録できたことになります。
- 1:1000(= 60dB)程度になると、なんとかものになる値ですから、当時の録音機はまだまだ音質が悪かったと言えましょう。
- 現に、マグネトフォンが開発された当時、AEG社はこれを放送向けに使って欲しいという希望を持っていましたが、当時の78回転のレコード(SP盤 = Standard Player Disk)に比べてはるかに音質が悪かったため、採用されませんでした。
- また、DCバイアス法には、決定的な欠点がありました。
- この手法はバイアス電圧をいつも一定にかけているので、音が無いときでも磁気テープには一定の電圧が加わって録音されることになり、無音であるはずの所でもジーとかシー、サーというヒステリシスノイズが乗ってしまうのです。
- ■ 交流バイアス法
- その録音品質を変えたのが、交流バイアス法(AC bias method)です。
- ACバイアスは、1935年にドイツのBASF社で開発されています。
- これが開発された当初は、製品化にはほど遠い性能であったためBASF社はこの研究を中断します。
- AEG社もBASF社とは別の観点から同じ発見をしますが、これもものになりませんでした。
- 1940年に、ドイツ放送会社のRRG社(Reichs- Rundfunkgesellschaft)がこの方法を再度試みて完成させ、マグネトフォンに移植して製品化にこぎ着けます。
- マグネトフォンに採用されたACバイアス法は、磁気テープ録音性能を飛躍的に向上させました。
- ACバイアスによるテープレコーダの周波数特性は、50Hz 〜 10kHzまで伸び、ダイナミックレンジは 65dB( = 1:1780)となり、歪率は3%に改善されました。
- 65dBの性能はりっぱな数値です。
- ACバイアス法と言うのは、100kHz程度の人間の耳には聞こえない高周波を音声入力信号に重ね合わせて(重畳させて)磁気媒体に録音させるものです。
- この方法によると、100kHzの高周波成分のエンベロープ部(包絡線、側波帯)に2つの音声信号が形成され、ヒステリシス曲線の正極側と負極側にまたいで記録されます(右図「ACバイアス法による磁気録音」参照)。
- 2つの記録信号は、再生時に適切な処理が施されると、力強い信号となり、ノイズ成分を除去できるようになります。 また、無音の場合、2つの音声信号成分の処理によって無電圧信号が得られるので、DCバイアスで問題になったヒステリシスノイズを除去できるメリットも出てきます。 ACバイアス法は、バイアス信号に100kHzという当時の磁気テープには記録できない高い周波数を使っています。 これは、当然のことながら正しくは記録できません。 上の図(上左)にも示したように、磁気テープの記録周波数(M Hz)は、最終的には磁気媒体の記録密度に影響されるものの、それ以前の基本的な約束として、磁気ヘッドのギャップ(d mm)とテープ走行スピード(V m/s)で基本的な録音周波数が決まります。
- M = V / (2 x d) ・・・(Rec -39)
- M: 記録周波数 Hz V: テープ速度 mm/s
- d: 磁気ヘッドギャップ mm
- 一般的な(当時のオーディオ用)磁気ヘッドの空隙(ギャップ)は、10um〜40umであり、テープの走行速度は 45mm/s〜190mm/sです。
- この条件から導き出される記録周波数は、560 Hz〜9.5 kHzとなり、ACバイアス法で用いられる100kHzの周波数はとても記録できない値となります。
- 従って、ACバイアス法では、エンベロープ(包絡線)が磁気テープの記録範囲いっぱいに記録されることをねらったものと考えなければなりません。
- この目的のために、記録周波数に影響を与えないはるかに高い(記録周波数の5倍以上)交流を作って音声信号と重ね合わせて、記録信号幅を広くしたものと考えられます。
- 交流バイアス法(AC bias method)は、ドイツ、アメリカ、日本で同じ時期に別々に発見されたようです。
- 以上をまとめると、ACバイアス法はDCバイアス法に比べ、以下の有効な改善がみとめられます。
- 【ACバイアス法の特徴】
- ・ 高出力
- ・ S/N比の向上
- ・ ヒステリシスノイズの低減
- 日本におけるACバイアス法の開発は、1938年に東北大学の永井健三氏と同大学を卒業した安立電気の五十嵐悌二氏らによって行われ、日本での特許が取られています。
- この特許は、戦後、ソニー(当時、東京通信工業株式会社)が取得して、これを使ったテープレコーダが開発されました。
- この特許のおかげ(とトランジスタ技術の開発)で、ソニーは音響録音機器メーカの覇者になって行きました。
- ■ 米国の躍進
- Magnetophon(マグネトフォン)は、第二次世界大戦中、ドイツ軍ナチスの重要な戦略機器となり、ナチスの管轄するラジオ放送で多用されるようになりました。
- 当時、ナチの情勢を監視していた連合軍でしたが、なぜかテープレコーダの存在を知らず、ラジオ放送は全て生放送かレコード盤(SP盤)の短時間録音放送と信じていたようです。
- 従って、SP盤以上の性能を持った録音などありえないと信じ、交響曲(長い演奏時間)などは生演奏だと信じていたようです。
- 米国陸軍通信隊(U.S. Army Signal Corps)のJack Mullin(ジャック・マリン、1913 - 1999)が、終戦間際の1945年にスーツケースに収められた携帯用のAEG社のMagnetophonを2台と、BASF社製の磁気テープ50巻を入手しました。
- Mullinは、この録音機をアメリカに持って帰って徹底的に調べ、改良を施して新たな録音機を作りました。
- この録音機開発に関わったのが、米国AMPEX社です。
- 磁気テープに関しては、同国の3M社(Minnesota Mining and Manufacturing Company)が BASF社に劣らないものを開発して、Scotchのブランドで販売を始めました。
- AMPEX社は、VTR(ビデオテープレコーダ)の開発で有名になった会社ですが、アメリカで最初に高品質のオーディオテープレコーダを作った会社でもあります。
- この会社は、オーディオテープレコーダ開発製造の下地があったので、VTR開発にも着手できました(1952年)。
- しかし、AMPEX社がオーディオテープレコーダを開発したときの人数は、たった6名でした。
- AMPEX社は、1944年に設立された会社で、設立当初は、小型モータと発電機を作っていました。
- AMPEX社は、当時、米国陸軍通信隊の仕事をしていたのでMullinとも面識があり、技術力の高さを買われて彼が持ち帰ったマグネトフォンの製品調査と国産レコーダの開発を任されたのでした。
- ■ なぜ米国は、ドイツのテープレコーダの存在を知らなかったのか
- 出典: Wikipedia Commons
- 第二次世界大戦中にドイツで開発されたオーディオテープレコーダ(Magnetophon)(1939年)。
- ラジオ放送局で使用されていた。
- 装置のテープ走行系メカニズムやスイッチの配置などを見ると、完成された域に達していることが見て取れる。電子回路は当然真空管を使っていた。
- ここで、素朴な疑問がわき上がります。
- 1943年までの間、アメリカ、そしてフランス、イギリスなどの連合軍は、なぜ高性能なドイツの磁気テープレコーダの存在を知らなかったのでしょうか。
- また、ドイツと比較的親しかった日本においても、1930年代後半から1940年代前半にかけてドイツのMagnetophonを積極的に輸入したという事実は見あたりません。
- 当時、音の記録(録音)と言えば、レコード盤(SP盤 = Standard Playing Disk、78回転/分)が主流であり、終戦当時(1945年)、昭和天皇が国民に向かってラジオ放送で訴えた玉音放送にもSP盤に録音したものを使っていました。
- 天皇の御言葉は、ラジオの生放送でも磁気テープレコーダによる録音放送でもありませんでした。
- 映画の世界でも無声映画からトーキー(Talkie、1927年)なった時に採用された録音装置は、光学式録音(映画フィルムの片端に音声に応じた濃淡像を焼き付け、エクサイターランプで光の強度情報を電気信号に換える同期再生方式)でした。
- この事実の裏側には、磁気テープレコーダの品質が1930年代後半になるまでかなり悪かったことを伺わせています。
- 1930年代後半から1940年代前半にかけて、録音装置の性能をドイツが急速に良くして行った時代を、米国ハリウッドに目を移してみると、ハリウッドは、レコードと光学録音に関心を寄せていました。
- ドイツでテープレコーダが発達するこの時期は、政治的にはナチスが台頭しヒットラーを中心として軍備を拡大して第二次世界大戦に突入して行った時代でした。
- 技術的な側面から考えると、この時期、アメリカもヨーロッパも、もちろん日本も録音機に磁性体を使うという方法に難色を示していて、もっぱら光学録音(映画フィルム = サウンドトラック録音)か、もしくは、レコード盤を使った録音に目が向けられていたようです。
- たしかに、当時の磁気録音は音質が悪かったので、長時間録音とか簡単な録音再生、
- そして携帯に便利という利点以外には、レコード(SP盤)の方が優れていたようです。
- ハリウッドでテープレコーダが注目されるのは、戦後AMPEX社がドイツのMagnetophonを複製してからのことです。
- 戦時中の米国軍は、Marvin Camras(1916 - 1995、イリノイ工科大学教授、Armour Research Institute研究員)が開発した磁気ワイアによる録音機を多く採用していました。
- アメリカでは、デンマークのValdemar Poulsen(ポールセン:1869 - 1942)が開発した「Telegraphone」が持ち込まれていたので、その流れができていたようです。
- 磁気ワイアレコーダーは、戦時中でも軍需を中心に1,000台以上生産され、戦後の1956年頃まで生産を続けていたそうです。
- ドイツでは、磁気テープによる録音機が急速な発展を見たのに対し、アメリカの録音機は磁気ワイアのままでした。
- アメリカには、当時、薄いプラスチックフィルムを使って磁気テープを作る技術がありませんでした。
- イギリスは、1935年にMarconi(マルコーニ、電信会社で有名な会社)とその子会社であるBBC(英国放送会社)が中心になって、薄い鉄テープ(フィルムではなく鉄!)を使った録音機を開発していました。
- この鉄テープは、3mm幅で50umの厚さがあり、1.5m/s走行で30分間の録音ができました。
- 30分の録音ができる鉄テープは、60cmの直径となり9kgの重さだったそうです。
- 1.5m/sというスピードはかなり速い速度です。
- 9kgの重さのテープリープを回すのにかなり大きな駆動モータが必要だったでしょう。
- それに、鉄製のテープでは、走行ノイズ、回転ノイズがすごかったと想像されます。
- この製品は、一般に売り出されることはなく、放送局内で1950年代まで使われていたと言われています。
- こうした事実を見てみると、1930年から1940年にかけての磁気録音技術は、ドイツが突出した開発力を持っていたと言えましょう。
- しかし、各国はなぜか関心を示しませんでした。
- おかしなことに、AEG社とBASF社が、ACバイアス法録音方式とアセテートフィルムテープを使った録音機「Magnetophon」を開発した1941年当時、ナチスはこの製品を秘密にしませんでした。
- にもかかわらず、この製品をアメリカ側は無視していました。
- この製品は、1941年のベルリンの新聞にも掲載されました。
- 第二次大戦が勃発した時期、アメリカは6ヶ月間は参戦せず、外交官をベルリンにおいていました。
- 外交官が興味を示せば簡単に手に入れることができ、本国に送ることもできたのです。
- にもかかわらず、彼らは、その新製品に対しては、なぜか無関心でした。
- 世界が無関心でいる中、ドイツは極めて高性能なテープレコーダを開発して行きました。
- 磁気テープによる高品質録音が可能になったのは、以下の3点に集約されます。
- 【高品質磁気録音の理由】
- 1. 秀逸な磁気テープの開発。
- 2. ACバイアス法による高品質な録音方式。
- 3. 性能の良いモータと三極真空管をはじめとした電気部品の発達。
- ■ ドイツのテープレコーダ特許はどうなったか
- 第二次世界大戦後のどさくさに紛れて、という言い方が適切かどうかわかりませんが、アメリカはドイツで熟成されたテープレコーダを本国に移植し、同じものを作ってしまいます。
- ドイツでは、テープレコーダの開発にあたって特許を取得して製造をしていたはずでした。
- 米国は、戦後、ドイツAEG社やBASF社に対してテープレコーダ開発のための特許料を払ったのでしょうか。
- ドイツは、世界大戦の首謀者、敗戦国という理由により、連合国側から世界大戦前後に得た製品の特許無効を言い渡されていました。
- 従って、テープレコーダを開発したAEG、BASF、Agfa各社は、戦後、彼らが開発した特許からの利益を得ることはできませんでした。
- そうした中で、アメリカは、いち早くドイツの技術をコピーして、AMPEXや3Mが高性能のテープレコーダと磁気テープを開発しました。
- そのテープレコーダの開発も、アメリカの大企業が大きな資本を使って進めたというよりも、Jack Mullin と彼を取り巻く小さな会社がMagnetophone(ドイツ名:Magnetophon)を模倣して作り上げた、という見方の方が正しいようです。
- アメリカで作り直されたテープレコーダは、アメリカのゲージ(すなわち117VACの電源、インチサイズの部品)で作り直されました。
- まず、駆動を受け持つモータをドイツの220VAC駆動から米国の商用電源である117VACに変更し、ドイツの50Hzの電源周波数で動くキャプスタン(テープを一定速度で送るローラ)もアメリカの60Hzで正しく回転するように変更されました。
- 磁気テープは、ドイツが採用した6.5mm幅をインチに直して1/4インチ(6.35mm)としました。
- テープスピードもドイツの77cm/sに近づけて30インチ/秒(76.2cm/s)としました。
- この規格(1/4インチテープ巾、テープ走行30インチ/秒)が音声テープの標準規格となって、戦後、本家のドイツもこの規格に従うことになりました。
- ■ テープ支持体
- テープレコーダがドイツで大成功を収めたのは、プラスチックの薄いフィルムができたからです。
- 磁気記録は、1898年にポールセンが提案して以後、磁気ワイア、磁気鋼薄板、紙テープ、プラスチックフィルムなどの変遷を経て、信頼性と使い勝手を向上させました。
- 1934年、BASF社は、30um厚のアセテートベースに20um厚のカーボニル鉄(Fe(CO)5、Carbonyl Iron、純度の高い鉄粉、1925年にBASF社で発明)をコーティングしたテープを開発しました。
- このテープは、6.5mm幅で1m/sのテープ速度、25分間の録音ができました。
- 従ってテープの長さは、1,500mとなり、テープリールは直径30cmとなりました。
- また、1938年には、塩化ビニール(poly vinyl chloride)を用いたテープも開発され、より安定した磁気テープが供給できるようになりました。 1950年代半ばに、米国のDu Pont社と英国ICI社(Imperial Chemical Industries)がポリエステル(Polyester、Mylar)を開発すると、このフィルムが磁気テープフィルムとして使われるようになりました。
- PETボトルでよく知られるPET(Polyethlene Telephthalate、ポリエチレンテレフタレート)はポリエステルの一種です。
- 1989年、VHS全盛の頃に使われていた一般的なビデオテープは、フィルムベース厚14.7um、マルチコート磁性体層厚4.3umの計19um厚のものでした。
- テープ支持体フィルムは、時代とともに薄くなって行き、DVCAMのテープは6.3umのベース厚(全厚7.0um)となりました。
- 磁性層は何と0.3umです。
- 薄いテープの素材としては、先に述べたPETと、PEN(ポリエチレンナフタレート、Polyethylene Naphthalate)が使われています。
- PENはPETよりも2倍近くのヤング率があり、強靱な特性を持っています。
- ■ 磁性体 (2010.09.23追記)
- 磁気テープの一般的なものであるフェライト磁性体は、酸化鉄を主成分としたセラミックスであり1927年〜1930年代にかけて開発されました。
- 磁気テープが開発された当時の磁性体は、カーボニル鉄(Fe(CO)5、Carbonyl Iron)であり、これは1925年にドイツのBASF社で開発されました。
- カーボニル鉄は、純鉄の一種の粉状のものであり、テープに塗布するのに非常に有効でした。
- この磁性体は後に、Fe3O4(マグネタイト、magnetite、天然の磁鉄鉱の主成分)に変わりました。
- 1950年には、米国イリノイ工科大学のMarvin Camras(1916 - 1995)が針状粒子のガンマ-ヘマタイト(γ-Fe2O3、mag hematite)を用いた磁気テープを発表しました。
- これは、黒色のサビの一種の酸化鉄であるため、使用中に錆びることなく安定しているのが特徴でした。
- 製造コストも安価なため、磁気テープのスタンダードとなったものです。
- 磁性体は、その後多くの研究が行われ、クロム(二酸化クロム、1961年、Du Pont開発)を用いたものや、純鉄、コバルト(Avilyn、1973年、TDK開発)などを使ったものが開発されました。
- 高密度記録ができる磁性体としては、1960年に、Fe-Ni-Co(ニッケルコバルト磁性体)の合金粒子が開発され、1968年には、CrO2(クローム合金磁性体)合金粉末が開発されました。
- これらは、γ-ヘマタイトよりも3倍の記録密度を持っていました。
- しかし、これらは磁気保持力も強かったので、バイアスのかけ方や消磁の方法が従来とは異なるものとなりました。
- また、磁性体自体が硬いのでヘッドの摩耗が激しく、これらの磁性体を使う場合は、磁気ヘッドを適切に選ぶ必要がありました。
- 磁性体は、1980年代からメタルテープの時代になります。
- メタルテープは、純鉄を使っていました。従来の酸化鉄を用いた磁性体に比べ、純鉄の方が保持力は高く安価にできます。
- 純鉄を用いる問題は純鉄の酸化であり、使用と共に酸化が進んで初期性能を満足させることができなくなることでした。
- このために、純鉄の酸化を防止するバインダーの技術や多層化の技術が進みました。
- また、純鉄の他にも強磁性金属としてコバルトと腐食防止用のニッケルを用いて1um以下の微粒子にして、これを塗布するという技術が確立されました。
- 1980年代の終わりには、メタル磁性体を蒸着技術によって生成する技術が進み、メタル蒸着テープとして8mmデジタルビデオやDVCAMに利用されるようになりました。
- メタルテープは、従来の技術を高めた塗布型のMP(Metal Particulate)テープと蒸着技術で作るME(Metal Evaporated)テープの2種類があります。
- この二種類は、現在(2010年)のデジタルビデオテープの主流になっているものです。
- 両者を比較した場合、MEテープの方が新しく、多くの技術的な特徴を持って登場しました。
- MEテープは、バインダーを使わずにCo-Ni合金の磁性体をテープに直接蒸着させるので、極めて薄くて高い記録密度を持つ磁気テープとなります。
- MPテープは、MEテープよりも先に開発されたものですが、富士フイルムが独自の技術を使ってナノメータレベルの多層膜塗布方式テープを開発してからは、その優秀さが注目されて現在もメタルテープの代表として使用されています。
- MPテープは、MEテープに比べて生産効率が高いため製造コストが安く、使用時の耐久性も高いため現在も高い評価を受けています。
- ■ バインダー
- 磁気テープでは、磁性体材料も大切ながら、磁性体を支持フィルムに安定して固定させるつなぎ(バインダー)が大変重要な意味を持っていました。
- 磁性体だけでは、支持フィルムにうまく定着できず安定した記録ができないのです。
- 初期の磁気テープは、磁性体とバインダーの比率が3:7で、バインダーの方がたくさん含まれていました。
- バインダーの技術が進み、酸化防コーティング技術も進むと、クロームとかコバルトのような高価な材料を使わなくても、バインダーを減らして純鉄をたくさん含有させれば特性が出るようになったので、高価で取り扱いの難しいクロームテープは市場から姿を消していきました。
- 磁性体を支持フィルムに塗布する時代から蒸着する時代に変わると、バインダーの意味はなくなってきます。
- ビデオテープは、音声テープよりも遙かに高い周波数で、なおかつS/Nよく記録しなければならないので、DV規格のカムコーダに使われる磁気テープは、バインダーを排除した蒸着テープ(MEテープ)が受け入れられました。
- ただ、2010年にあってもバインダーを使ったメタル塗布型テープ(MPテープ)が使用されています。
- MEテープは生産効率が悪く、大量生産ができずコスト高だったからです。
- MEテープが開発されてもMPテープはバインダーの改良が進み、MEテープにひけを取らない高性能なものができてきたため、MPテープとMEテープの双方が存在しています。
- MPテープに使われるバインダーは、メタル磁性粉を均一に分散させて吸着させる働きの他に、帯電防止、潤滑、塗布補強の働きを持っています。
- MEテープは、バインダを使わずにテープにメタル磁性粉を蒸着させています。
- そのためにベースフィルムとの蒸着性をよくする必要上、予め下塗り層処理を施しておいてから蒸着を行っています(上図参照)。
- MEテープは、蒸着層がテープから剥がれたり磁気ヘッドとの接触性や摩耗の不具合があったため、磁気ヘッドと接触する面に炭化水素のアモルファス構造の硬膜処理を施した保護層をもうけています。
- これをDLC(Diamond Like Carbon)と呼んでいます。
- この処理はダイアモンドのように硬い構造を持っているためMEテープの問題であった蒸着層の剥がれや静止モードでのテープの摩耗を抑えることに成功しました。
- ▲ 磁気テープ - アナログからデジタルへ
- 磁気テープはドイツで発明され、録音機器の発展に呼応してドイツ、米国、日本で進化しました。
- 日本でのオーディオ・ビデオテープの発展は目を見張るものがありました。
- ソニーを始め、松下(現パナソニック)、TDK、日立マクセル、富士フィルム、バインダー技術の花王、ベースフィルムの東レなど、優良なメーカが品質の良い磁気テープを開発し、全世界に供給しました。
- 日本のメーカによる磁気テープの品質が良いのは、磁性体材料開発に優秀な技術者が集まっていたことと、製造品質においても類い希な技術を有していたことによります。
- そうした磁気テープも、1990年代後半あたりから転換点を迎えます。
- 時代の趨勢により、従来のオーディオ用途の磁気テープが、CDやHDD、フラッシュメモリーに奪われ、VHSを中心としたビデオ録画の分野においてもDVDなどのポリカーボネート記録媒体が普及したため需要が減少してしまったのです。
- 現在(2008年)の磁気テープは、デジタルカムコーダのデジタル磁気テープ(DV)や、放送局用録画テープ、そして、コンピュータ分野のストレージデータテープに需要を伸ばしているに過ぎず、需要の絶対量は減ってきています。
- そして、磁気テープもデジタルの時代を迎えることになりました。
- ■映像の記録
- ▲ ビデオテープレコーダの開発 - 米国AMPEX社 (2010.08.20追記)
- 電気信号による画像の保存は、ビデオテープレコーダの発明で光明をみます。
- この技術は、磁気録音装置の延長線にあるもので、1956年以降のことです。
- オーディオ記録とビデオ記録では要求される技術が桁違いに異なりました。
- ビデオテープレコーダの開発には多くの技術的問題があり、それを解決するため多額の開発費と時間がかかりました。
- その困難を乗り越えて世界で初めてビデオテープレコーダを開発したのは、米国AMPEX社でした。
- ■ 回転ドラムヘッド
- 酸化鉄磁性体を使ったテープを使って、映像が電子的に記録できるようになったのは1956年のことです。
- 米国のAMPEX社(1944年設立、米国カルフォルニア州サンカルロス)が、テレビカメラでとらえた電子画像をテープに録画する装置の開発に成功したのです。
- 映像は情報が多いため、オーディオテープのような記録方式ではとても満足いく画像を記録することはできません。
- AMPEX社は、録画ヘッドを14,400rpm(240Hz、ビデオ信号のフィールド画像60フィールド/秒の4倍)で回転させて、そのヘッドをテープの走行方向に対して垂直にスキャンするという方式を考え出しました(下右図参照)。 通常、オーディオに使われている録音・再生ヘッドは、移動したり回転したりはしません。
- 固定です。
- 固定ヘッドの上を磁気テープが走行して音声信号を記録し再生するのが一般的な方法でした。
- しかし、ビデオ信号は情報が多いので(記録周波数が高いので)、この方法に頼っていたのではとても周波数帯域を確保することができませんでした。
- 磁気ヘッドを回転させる発想は、奇抜なものだったと言えます。 記録周波数を上げる方法としては、ヘッドを複数配置してテープ速度を上げてマルチチャンネル記録すると言うのが常套手段です(現在のコンピュータの磁気テープ装置はそのようにしています。MT参照)。
- しかし、そうは言ってもテープ走行を10m/sで走らせて、その上、そのスピードを一定にさせるという技術が当時できなかったのでしょう。
- 10m/sというのはかなりの速度です。
- このスピードで10分程度の画像を録画したとしたらどのくらいの容量になるでしょう。
- 6,000mもの長さになります。
- VHSテープが240mですからVHSテープよりもさらに25倍もの長さが必要となり、その長さでも10分しか録画できないのです。
- そうした方法よりも、回転ドラムにヘッドを取り付けて、テープと磁気ヘッドの相対速度を上げて周波数帯域をかせぐ方がより現実的だとAMPEX社の技術者は考えました。
- 磁気ヘッドが回転して磁気テープに情報を記録する方式は、記録をとぎれとぎれに行うことになります。
- しかしテレビの映像信号は走査線で画面を構成していたので、走査線1本分をヘッドがテープをスキャンする時間にあてがえば問題となりませんでした。
- この考え方をもとにして、家庭用VTRで一般的になるVHSもベータもU-maticもすべて回転ドラム方式を採用するようになりました。 ベータ方式やVHS方式では、さらに周波数帯域を上げるために斜めにテープをスキャンするヘリカルスキャン方式を採用しました。
- VHSは、この方法によってテープとヘッドの相対速度を5.8m/sとしています。
- ちなみに、オーディオテープは1/4インチ(6.35mm幅)のテープで、30インチ/秒(76cm/s)での走行が最高でした。 テープだけの走行では、1m/sの速度が耐久性を含めた運用上の限界だったのかもしれません。
- 回転ドラムによる磁気記録を最初に開発したAMPEX社は、テープ走行に対してドラムが垂直に横切るバーティカルスキャン(vertical scanning, transverse scanning)方式を採用しました。
- これは、回転ドラムの周囲90°毎に4つの磁気ヘッドを配置して、ドラムが90度回転するごとにテープがヘッドの厚さぶんだけ走行移動するようにし、4つのヘッドのいずれかが常時磁気テープにコンタクトするように考案されていました。
- 使用した磁気テープは、2インチ(50.8mm)幅のある太いものでした。
- このビデオテープレコーダは、2 inch Quadruplex Videotape Recorderと呼ばれました。
- テープ走行とドラムヘッドの回転(14,400rpm)によって作られるヘッドとテープの相対速度は40m/sとなりました。
- 固定ヘッドではこの速度はとても達成できない値です。
- この記録速度によって、約13MHzの信号を記録・再生できるようになりました。
- 2インチ(50.8mm)巾のテープは、両端にオーディオトラックとコントロールトラック信号、それにブランク領域を確保する関係上、1 - 4/5 インチ(48.26 mm)巾が映像記録ができる1ライン( = トラック)となります。
- 実際は、4つのヘッドが順番にトラックに入って来るので、1ヘッドが1トラックに記録する長さは、1 5/8 インチ(41.275 mm)となります。
- 回転ドラムは1秒間に240回まわりますので、ヘッドは1秒間に960回トラックをなぞって行きます。
- テレビ映像は1秒間に30コマの映像を作っているので1コマのテレビ映像は、32トラックで構成されることになります。
- 【AMPEX社開発のVTR概略仕様】
- ・ 使用テープ: 2インチ巾(50.8mm)磁気テープ、4800ft(1500m)、1時間録画
- ・ 磁気ヘッド: 回転ドラム式
- ・ 回転ドラム径: φ52.55mm(ヘッド・テープスピードより算出)
- ・ ヘッド数: 4
- ・ スキャン方式: 垂直スキャン(vertical scan)方式
- ・ ドラム回転数: 240 Hz(14,400 rpm)
- ・ ヘッド - テープ相対速度: 1,560インチ/秒(39.6 m/s)
- ・ テープ走行速度: 15インチ/秒(0.381 m/s)
- ・ 信号記録帯域: 13MHz (ヘッドギャップを1.5umとして換算)
- ・ 記録方式; FM(周波数変調)方式 ・ トラック巾: 10 mil(254 um)
- ・ トラックピッチ: 15 mil (381 um)
- 【ビデオテープレコーダの開発背景】
- ビデオテープレコーダが開発された直接の動機は、米国のテレビ放送の時間差にありました。
- アメリカは国土が広いため、ニューヨークのある東海岸とロスアンゼルスのある西海岸では4時間の時差があります。
- プライムタイム(ゴールデンアワー)でニュース番組を流したり、しゃれたトーク番組を放送しても4時間の時差のある反対側では真夜中になってしまったり、まだ人々が働いている時間帯だったりするわけです。
- こうした時間差を克服するために、映像を蓄えてタイムリーに流すことができたら便利だと彼らは考えました。
- こうした要求に応えるためAMPEX社が開発に乗り出し、1956年11月30日、CBSの「the Douglas Edwards with the News」(ダグラス・エドワーズのニュース)においてビデオテープレコーダを使った放送を初めて行いました。
- もちろん白黒画像でした。
- 初期の時代のビデオテープレコーダは非常に高価でした。
- それ以上に、消耗品である2インチテープがとても高価であったと言われています。
- 1時間の録画ができるオープンリール式2インチビデオテープが当時、日本で100万円相当したそうです。
- 当時の大卒者の初任給が1〜2万円だったことを考えると、現在(2009年)の価格にして1500万円相当になります。
- 1時間の録画に1500万円をかけるというのはとんでもない話だったに違いありません。
- そのために、当時はビデオテープを使い回しをして、録画しては消して、上書きの録画を行っていました。
- その結果、1960年代のテレビ映像の多くは、録画はされたけれども次々と消されてしまい、記録として残せなかったという残念なことになりました。
- また、AMPEXのVTR装置は非常に大きくて重く、巾が1m50cm、高さが1m60cmあったそうです。
- 大きな本棚のようなキャビネットの装置で、そこに重さ5.5kgもあるビデオテープが鎮座していました。
- ビデオテープを取り替えるときは、両手でテープを胸の高さまで持ち上げて足下にあるペダルでバキュームロックを外して取り替えていたそうです。
- そしてまた、回転するビデオヘッドのアライメント調整がとてもシビアで、使用する部屋は一定の温度と湿度を保たないと正常に動作しなかったと言われています。
- 回転ヘッドは消耗品で、テープとの摩耗でヘッドが目詰まりしたりアライメントが狂ったりします。
- そうした場合の調整はとても難しくて現場ではできないので、テレビ局はヘッドアセンブリを常時保管していて、交換が必要な時にアセンブリ毎交換していたと言います。
- そうした中で、ソニーがトランジスタを使った放送用2インチテープビデオテープレコーダを開発し(1961年)、3/4インチテープをカセットに入れたU-maticを開発し(1970年)、1/2インチ幅のベータ方式のベータカムを開発(1975年)して行きました。
- 装置もコンパクトになり信頼性を増し、使用するテープもどんどん安価になっていきました。
- 1980年代後半には、磁気テープを使ったデジタル録画ができるようになりました。
- ▲ ドルビー(Ray Milton Dolby、1933 - 2013)氏のこと
- AMPEX社でVTRを開発したエンジニアの一人にRay Dolby氏がいます。
- 映像分野では、ドルビー(Ray Dolby:1933.01〜)氏の業績はそれほど高くはなく、音響分野でノイズリダクションシステムを開発した人として、ドルビーシステムの名前でなじみが深いと思います。
- そのドルビー氏は、上記のAMPEX社に高校時代アルバイト生として、そして夏休みには長期のアルバイトという形でオーディオテープレコーダの開発を手伝っていました。
- 彼は、オレゴン州ポートランドで生まれてサンフランシスコで育ちました。
- また、彼がスタンフォード大学(1951-52、1953 - 1957)に入った時もAMPEX社と関わり続け、アルバイトの形でAMPEX社のビデオテープレコーダの開発に関わりました。
- 彼はスタンフォード大学の電気工学科を卒業し、英国に渡ってケンブリッジ大学に通い物理学で博士号を取得します。
- ケンブリッジ大学を出た後は、インド政府の招きで技術アドバイザーをしていましたが、1965年に英国に戻りドルビー研究所(Dolby Laboratories)を設立します。
- 設立した年に、音響のノイズリダクション方式であるドルビーサウンドシステムを発表しました。
- この方式は映画の音響システムに採用されて大きな反響を呼び、彼の音響工学に対する技術を揺るぎないものにしました。
- 私がここで話題にしたいのは、ドルビーシステムのことではなく、映像の磁気記録装置に関わった若き日のドルビー氏のことです。
- AMPEX社のビデオテープレコーダの開発は1952年に始まります。 完成の年1956年から遡って4年前にプロジェクトがスタートしました。
- 4年の開発年月が長いと見るべきなのか妥当と見るべきなのかはよくわかりませんが、AMPEX社の社内事情やプロジェクトの中断などがあって4年という歳月が費やされました。
- 若きエンジニアのドルビーが加わっていなければ、AMPEXのVTR完成はさらに遅れていただろうと言われています。
- AMPEX社は1944年に創設され、小型モータと発電機を作る会社としてスタートしました。
- 6人の会社でした。
- 同社は、米国陸軍通信部隊と取引があった関係で、米軍が第二次大戦中にドイツから持ち帰ったテープレコーダの国産化を託され、1947年から開発を始め、1年後の1948年に完成してABC(米国の放送会社)に採用されました。
- 少人数の技術集団でしたが技術力は高かったようです。
- こうしてAMPEX社はテープレコーダ製造会社として発展を続け、放送局用のテープレコーダのみならず、米軍の計測用テープレコーダや、ハリウッドの映画音声システムを手がけるようになりました。
- ドルビー氏は、AMPEX社がオーディオテープレコーダの開発を始めた当初からアルバイトとして同社に出入りし、音響工学の知識を深めて行ったようです。
- AMPEX社がビデオテープレコーダの開発を始めた1952年は、ドルビー氏がスタンフォード大学の2年生でした。
- 19才の学生ですからまだまともなエンジニアリングの経験と実績は乏しかったと思いますが、技術的アプローチと発想の才に秀でていたようで、瞬く間にプロジェクトの中核となって行きます。
- 彼は、その仕事にのめり込みすぎて大学を中退してしまいます。 おかげで大学生の特典である兵役の免除が切れてしまい、1953年の3月に徴兵されてしまいました。
- 彼が徴兵に出ている間、AMPEX社のプロジェクトは、一進一退を繰り返し、またAMPEX社そのものの経営方針の都合で、そのプロジェクトが一時棚上げされて中断もしました。
- 1954年1月にプロジェクトが再開され、1955年の春にドルビー氏が兵役から帰って来ました。
- その1年後にビデオテープレコーダは完成します。
- ドルビー氏は、今度は大学に通いながらアルバイトという形でプロジェクトに参加し、FM変調回路(周波数変調方式、ラジオ放送のFM放送方式に似た方式)を用いたシンプル化設計に能力を発揮しました。
- ビデオ信号をテープに録画する上で、FMによる信号記録(録画)は一つの技術革新でした。
- この技術によって高い周波数の映像信号を録画し再生できるようになりました。
- ▲ FM記録(Frequency Modulation Recording) (2010.08.21記)(2010.08.24追記)
- FM記録は、AMPEX社がビデオテープレコーダ開発に採用した磁気テープへの信号記録方式です。
- 従来のオーディオ録音技術を使ったのではとても満足な映像記録ができないために、この手法が開発されました。
- VTRの開発にあたっては、広帯域信号記録を行うためにまず磁気ヘッドの高速化が図られました。
- 回転磁気ヘッドの採用により、テープとヘッドの相対速度を1,560インチ/秒(39.6 m/s)として広帯域録画に対応させました。
- AMPEXが開発したビデオテープレコーダは、13MHzの信号帯域を録画できる能力を持っていました。
- この録画信号帯域とテープ・ヘッド相対速度から、ヘッドギャップ長を求めると、1.52umのギャップ長となります。
- d = V/(2 x F) = 39.6E6 um / (2 x 13 MHz) = 1.52 um
- AMPEXは、この方式によって広帯域の録画性能を満たしました。
- (VHS方式の磁気ヘッドでは、さらに狭い0.3umのギャップ長になっています。)
- NTSC信号の信号帯域を見てみますと、規格で4.2MHzと決められています(NTSC規格の水平解像力参照)。
- AMPEX社はこの帯域の3倍強を持つ磁気ヘッドとビデオテープの開発を行ったことになります。
- なぜ、仕様をオーバーするような開発を行ったのでしょうか。
- それは、オーディオで使われているACバイアス法を映像記録に用いると、帯域が大幅に不足して、さらに低い周波数領域では歪みも大きくなってしまう問題があったからです。
- このような理由から、ACバイアス法を諦めて周波数変調による記録法(FM記録)を採用することにしたのです。
- FM(Frequency Modulation)とは、入力信号(振幅情報)を周波数に変換する手法で、振幅の大きいものは周波数を高くして小さいものは周波数を低くする信号変換手法です。
- アナログテレビ放送でもこの方法は採用されていて、FM信号による映像信号を無線を使って送信しています。
- ラジオ放送にもFM放送があり、同様の方式を取っています。
- FM記録はラジオ放送を聞いてわかるように、ノイズが少なく高品質です。
- 扱う信号帯域を広く取ることができ、ノイズに強いというのがFM記録の特徴です。 AMPEX社は、FM記録を行うにあたって基本周波数(搬送波 = carrier)を8.6MHzとしました。
- この周波数を中心として入力信号を上下の側波帯(±4.2MHz)を乗せると、
- 4.4MHz <(8.6MHz) < 12.8MHz
- が磁気テープに記録される周波数帯域となります。
- 磁気テープには、常時この範囲の周波数が記録されることになります。
- AMPEX社が13MHzの記録帯域を目指した理由がここにあります。 テレビ画像の周波数を考えるとき、モノトーンの部位から細かい部位までの画像周波数は30Hz〜4,200,000Hzとなります。
- このレンジは、1:140,000であり、103dBに相当します。
- このダイナミックレンジをカバーする磁気記録など当時では不可能に近い値でした。
- 多くの電子機器は、60dB(1:1,000)程度の機器を作るのがやっとで、100dB(1:100,000)を越えるものの開発は現実性が極めて乏しいと言わざるを得なかったのです。
- このテレビ画像の周波数をFM記録にすると、4.4:12.8 = 1:2.9( = 9.3dB)となり、狭いダイナミックレンジでも十分に映像を記録できることになります。
- FM記録の大きな特徴がここにありました。
- FM変調は、周波数のゲタを履かせて周波数成分のダイナミックレンジを見かけ上小さくする手法でした。
- この手法は、以降、VHS方式のVTRにも採用されて行きました。
- アナログ信号処理の救世主のような存在がFM記録だったのです。
- ▲ MT(Magnetic Tape)- コンピュータ用デジタル磁気テープ (2008.08.18追記)(2010.12.12追記)
- 磁気テープを使った記録装置について、今度は映像の世界からコンピュータの世界に目を向けて見ることにします。
- 磁気テープは、アナログ記録からスタートしました。
- アナログ記録では、信号の強度を磁化の強さとして記録していました。
- デジタル記録が大前提であるコンピュータ用外部記録としても磁気テープは比較的早くから注目されていました。
- ■ IBM726
- コンピュータ用の外部記憶装置として開発された最初の磁気テープ記録装置は、IBM社の開発したモデル726というものです。
- モデル726が完成したのは、1952年のことですから、磁気テープ(セルロース・アセテートベース)が米国で販売されるようになってすぐにこの装置の開発に入った感じを受けます。
- 1952年と言えば、まだ本格的な電子計算機は市販化されていません。
- 当時の電子計算機はまだ試作の域を出ていなかったのです。
- IBMも、この当時は大型計算機を作っておらず、レミントンランド社(後、ユニシス社)の電子計算機を自社のパンチカードと組み合わせて売っていました。
- そのIBM社が自社の電子計算機(IBM701)を開発し、それにIBM726を組み合わせて販売したのです。
- もちろんIBM726は新しい装置ですから、高価であり信頼性もわかっていなかったので、長らくはパンチカードシステム(PCS = Punch Card System、URE = Unit Record Equipment)が主流の座を占めて行きます。
- しかし、1952年の比較的早い時期に、磁気テープを使ったデジタルデータ記憶装置を開発したのは特筆すべきことと言えましょう。
- 大型計算機が、商業ベースに乗ってその存在を確立するのは、1964年のIBM360からです。
- この時代にあってもデータの入出力装置の主流はパンチカードでした。
- パンチカードの方が安価で使いやすかったのです。
- モデル726のキーコンポーネントは、磁気テープであり、高速で安定した品質を保つため、IBMは3M社にコンピュータ用ストレージ専用のテープを注文しました。
- テープは表面にわずかの異物の付着を認めず、それは、マンハッタンとポキプシー(ニューヨーク州)間の96kmの道路をわずかの小石をも認めない品質であったと言われています。
- そのため、IBM社はポキプシーにクリーンルーム装備を備えたテープコーティング工場を建設し、品質の向上に努めました。
- 精密な検査を経て製造される磁気テープは極めて高価なものでした。
- 音声記録装置としての磁気テープがアナログ記録だったのに対し、IBMは最初からデジタル記録を行いました。
- ただ、当時のデジタル記録はそれほど高速かつ高密度にできたわけではありませんでした。
- IBM726は、45,000ビット/秒の読み書き能力を持っていました。
- 現在の音楽用CDの記録速度が4Mビット/秒(データ実効値は1.4112Mbps)であるので、IBM726の記録速度はCDの性能の1/31程度でした。
- その上、記録時間は3分程度でした。
- この事実は、この時代の磁気テープで音声デジタル録音をすることなど全く不可能であり、音声技術よりも帯域の広い映像技術の確立はほど遠いことを物語っています。
- IBMは、磁気テープを使った記録装置を開発していくにあたり、テープ幅を1/2インチ(12.7mm)としました。
- これは、現在にいたるまで終始一貫したものであり、オープンリールからカートリッジ仕様へと外装は変わっても同じテープ幅のものが使い続けられています。
- ■ モデル726のデータアクセス
- モデル726は、テープ幅1/2インチ(12.7mm)に7トラック(6ビット + 1パリティ)の記録方式を採用しました。
- テープリールの大きさは直径300mmであり、テープの長さは1,200フィート(366m長)でした。
- 両腕で持ち上げてずしりとする重さでした。
- 記録密度は、600BPI(bit per inch)であり、75インチ/秒(1.905m/s)のテープ速度で書き込みを行いました。
- この性能から計算すると、記録速度は45,000ビット/秒(5.6KB/秒)となり、1,200フィート(366m長)のテープには約3分にわたって1.08MBのデータが保存できることになります。
- CDの容量の1/600にも満たないこの容量でも、1950年代の記録媒体としてはおそろしく大きなものでした。
- モデル726磁気テープ装置には、大きな特徴がありました。
- それは、テープを大きくU字にたるませる機構でした。
- 上右図に示すように、磁気テープの走行経路では300mm径の磁気テープリールから磁気ヘッドに導かれる途中に、500mm程度のテープのたるみを作るスペースを取っています。
- また、磁気ヘッドから巻き取りリール(テイクアップリール)に行く途中にも同様のスペースが設けられています。
- テープのU字状のたるみは、真空ポンプを使ってテープを吸い寄せて作っていました。
- なぜ、このような大きなたるみを作ったかというと、当時の磁気テープはデータを頻繁に書き込んだり読み出したりする装置であったため、テープは頻繁にデータアクセスがなされ、その都度テープはストップ&ゴー(停止と走行)が繰り返されました。
- このため、テープ走行経路にこうした緩衝(バッファ、たるみ)を設けないとテープをレスポンス良く高速に動かすことができなかったのです。
- 現在の我々が考える磁気テープ装置は、システムのバックアップとして一気にデータを書き込んだり読み出したりするものと考えがちですが、当時は都度データを読み書きする装置だったのです。
- モデル726は、この方式によって、1/100秒でデータをアクセスすることを可能にしました。
- テープは1/100秒で0.5インチ(12.7mm)進むので、この間はデータを記録することができません。
- モデル726では、データを細切れにして保存するため、データブロック間はこの分だけのスペースを設けていました。
- 1960年代から1980年代の大型計算機室には、巨大な磁気テープ装置群が鎮座していて、高速でストップ&ゴーを繰り返しながらデータをアクセスしていました。
- その動きが目新しかったために、磁気テープ装置とその動きがコンピュータそのものの代名詞のようにメディアに取り上げられていました。
- LTO規格のデータストレージテープ。 1巻方式のカセットに収納されている。
- これを書き込み/読み出し装置に挿入して使用する。
- ■ LTO(Linear Tape-Open)Ultrium (2010.12.12追記)
- 磁気テープは、時代と共にマルチヘッドによる高密度高速記録ができるようになりました。
- 2009年当時にあっても1/2インチ(12.7mm)磁気テープは、メインフレーム(大型コンピュータ)のバックアップ記録装置として使われ続けています。
- 新しい磁気テープは、LTO(Linear Tape-Open)Ultrium規格になっています(右図、下図参照)。
- この規格は、1998年にIBM、HP、Seagateの3社が策定したオープン規格です。
- この規格の基礎となっているのは、IBMが1980年代より採用しているカートリッジ3480です。
- 従来、コンピュータデータストレージの磁気テープには共通の規格というものがなかったため、利権争いの温床となっていました。
- これをユーザが使いやすいように規格を練り直し、オープン化したのがこの規格です。
- この規格は時代とともに進化してLTO-1からLTO-5まで発展し、2010年以降もLTO-6(3.2 TB容量)、LTO-7(6.4TB容量)、LTO-8(12.8TB容量)の仕様策定が準備されています。
- 2010年に策定されたLTO-5規格を以下に示します。
- ・発売日: 2010年
- ・カートリッジ寸法: 102.0 x 105.4 x 21.5 mm
- ・保存容量: 1.5TB
- ・テープ巾: 1/2インチ(12.7mm)
- ・最大データ速度: 140MB/s
- ・テープ走行速度: 3.8m/s 〜 7.5m/s
- ・テープの厚さ: 6.6um
- ・テープ長さ: 846m
- ・テープのトラック数: 1,280
- ・書き込み端子数: 16
- ・バンド当たりのラップ数: 20
- ・記録密度: 15,142 bits/mm
- ・データ通信インタフェース: Serial-attached SCSI (SAS)
- この規格では、カートリッジ式テープ内に1.5TBのデータを保存することができ、最大140MB/秒の記録速度を持っています。
- また、この規格はテープを4バンドに分けて、1バンド当たり16chのヘッドを使ってテープ上を20回行き来(10往復)して、データを書き込み/読み出しを行っています。
- 16chの磁気ヘッドは、テープの往復にミクロン単位の位置制御を行い、最適なトラック位置でのデータ読み書きを行っています。
- 下図にテープのトラックパターンを示します。12.7mm幅のテープには、1,280トラックが走り、テープの両端には走行安定のためのサーボ(制御)信号が記録されています。
- トラック一つ分の幅は5um程度となり、これをマルチチャンネル磁気ヘッドを使って読み書きを行っています。
- カートリッジ内のテープは、データ読み書きのためにカートリッジから出たり入ったりの繰り返しを煩雑に行うことになります。
- (serpentine recording = サーペンタイン法。サーペンタインは蛇の蛇行運動の意味)。
- そのスピードは、3.8m/s〜7.5m/sととても速く、磁気テープの走行では最速です。
- このテープの持つデータ容量を見る限り、現在注目を浴びているDVDやHDDと比較しても記録容量や記録速度、メディアの価格などの点で依然として磁気テープのメリットがあることに気づかされます。
- LTO-5では、最大140MB/sの記録速度を持ちます。この速度はHDDの4倍の記録速度に相当します。
- メディアも1.5TB(1巻)当たり15,000円程度です。
- 1.5TB容量は、100円程度のDVDだと320ヶ必要ですから、金額にして32,000円ほどになり、保管も大変ですからLTOのメリットは十分にあります。
- ただし、当然のことながら、テープは連続した一連の記録が得意であり、任意の部位を取り出したりファイルを入れ替えたり(ランダムアクセス)することはできません。
- 従って、膨大なデータをバックアップする目的に威力を発揮します。
- ▲ 磁気テープのデジタル記録とビデオ録画
- コンピュータに使われてきた磁気テープ装置と、テレビ分野で使われてきた映像を記録する磁気テープ(ビデオテープ)装置は、それぞれ別々の目的を持って開発されたもので、それぞれのエンジニアが心血を注いで開発を続けてきたものです。
- 磁気記録の本質は違いないものの、記録方式が異なっていたために開発はそれぞれ独立した道を歩んで行きました。
- 両者の大きな違いは、出発点がデジタル記録かアナログ記録かです。
- そして、デジタル記録はコンピュータのデータ保存が出発点であり、アナログ記録は映像(もしくは音声)記録が出発点でした。
- コンピュータの周辺装置としての磁気記録は、デジタル記録が大前提なのでこれは譲る事ができません。
- 方やビデオ録画はNTSC規格を代表とするビデオ信号の記録が大前提であり、規格当初から2011年の放送終了に至るまでアナログ信号です。
- そして、ビデオ信号は1秒間に30フレーム、走査線数525本という大きな決まりがあり、これをカバーする記録・再生を行わなければなりません。
- ビデオ録画には、開発当初から周波数帯域の高い性能と長時間記録性能が求められていました。これをデジタルで行う事など全く不可能でした。
- 米国AMPEX社がビデオテープレコーダを開発した1956年の電子部品と言えば、真空管が全盛の時代でした。
- その時代に、9MHzの映像信号をテープに記録して再生するという装置を完成しなければなりませんでした。
- この映像情報をデジタル信号に直して保存するとすると、1情報を8ビット(白黒256階調)としても72Mビット/秒の信号処理を必要とします。
- 圧縮など思いもよらない時代でした。 周波数の高いテレビ信号にあっては、これを組み伏せるだけの技術がデジタル信号処理にはなく、追いつくことなど到底できない仕様上の大きな障害でした。
- アナログはデジタルに比べて高速処理ができるメリットがあったのです。
- ただ、アナログ処理はノイズが入り込む要素が非常に多く、転送やコピーを繰り返す毎に品質が劣化します。
- デジタル処理は、基本的に信号劣化がありません。
- しかし、デジタル処理には装置の電子処理の負荷が相当にかかります。
- 高速記録の観点から言うと、アナログの方がデジタルよりも速く行うことができました。
- そういう時代が長く続いたのです。
- 映像のデジタル録画は、1982年にD1という規格で現れます。
- これは、放送局のVTRに採用された規格です。
- VHSビデオが開発された1976年の6年後の事です。
- 1970年代から1980年代、VTRがすごい勢いをもって技術力を高めて行ったことがこのことから理解できます。
- ▲ ビデオテープレコーダ - VHS vs ベータ
- ここで、ビデオテープレコーダの代表的規格となったVHS規格とベータ規格について触れます。
- VHS規格のビデオテープレコーダは、1976年に日本ビクターによって開発されます。
- VHSは、Video Home Systemの略と言われていますが、開発初期はVideo Helical Scanの略であったと言われています。
- 米国AMPEX社が2インチ(50.8mm)幅の磁気テープを使って、回転ビデオヘッドを垂直にスキャン(transverse scanning)する機構のビデオテープレコーダを完成したのを契機として、よりコンパクトな1/2インチ(12.7mm)テープ幅を使ったカセットに収めるビデオ録画装置が開発されました。
- 放送局用では、3/4インチ(19.05mm)幅テープをカセットに入れたU-matic(1970年開発、主開発はソニー、ファミリーは松下電器産業 = パナソニック、日本ビクター、海外5社)が一般的であったので、テープ巾をさらに小さくした1/2インチ(12.7mm)のカセットテープを使ったコンシューマ用(民生用)として開発されました。
- 磁気テープによる映像録画は、アンペックス社のVTR開発以降、磁気ヘッドが回転するスキャン方式が定着します。
- ソニーが放送局用に1976年に開発した1インチ(25.4mm)VTRは、直径134mmの回転ドラムのほぼ全周(354°)を巻き付ける「C」フォーマット(もしくはオメガ = Ω 巻き)でした。
VHSとベータのビデオ戦争は、ユーザを巻き込んだ激しいシェア争奪戦でした。(ビデオ戦争:1976年〜1988年)
- VHSフォーマット概要
- * 開発年: 1976年
- * 主開発メーカ: 日本ビクター
- * 陣営: 松下電器(現パナソニック)、
- 日立製作所、三菱電機、シャープ、
- 赤井電機
- * 記録方式:ヘリカルスキャン方式
- * 記録ヘッド数:2
- * ヘッドドラム直径:62mm
- * ヘッドドラム回転数:29.97Hz (約1,800rpm)
- * カセットテープサイズ: 188mm×104mm×25mm
- * テープ幅:1/2インチ(12.7mm)
- *テープ送り速度:約33.34mm/s(標準)
- * 記録トラック幅:約58um(標準)
- * 信号方式 VHS方式
- ■ 映像信号:周波数変調 (FM)
- シンクチップ3.4MHz
- 白ピーク:4.4MHz
- クロマ信号:低域変換方式
- S-VHS方式
- ■ 映像信号:周波数変調(FM)
- シンクチップ:5.4MHz
- 白ピーク:7.0MHz
- クロマ信号:低域変換方式
- ■ 音声信号:2チャンネル長手方向記録
- (ノーマル音声トラックの場合)
- ベータフォーマットの概要
- * 開発年: 1975年
- * 主開発メーカ: ソニー
- * 陣営: 東芝、三洋電機、日本電気、アイワ、 パイオニア
- * 記録方式:ヘリカルスキャン方式
- * 記録ヘッド数:2
- * ヘッドドラム直径:約74mm
- * ヘッドドラム回転数:29.97Hz (約1,800rpm)
- * カセットテープサイズ: 156mm×96mm×25mm
- * テープ幅:1/2インチ(12.7mm)
- * テープ送り速度:約40mm/s
- * 記録トラック幅:約58um
- * 信号方式:
- ■ 映像信号:周波数変調 (FM)
- シンクチップ:3.6MHz
- 白ピーク:4.8MHz
- クロマ信号:低域変換方式
- ■ 音声信号:2チャンネル長手方向記録
- 最終的に民生用のビデオ装置は、VHSが勝利しました。
- 技術の高さとマーケッティングの巧みさで連戦連勝を続けるソニーには相当に手痛い敗北でした。
- しかしその勝利もつかの間、次なる新しい技術 = デジタル映像の台頭により、アナログ記録であるVHS装置も終焉の時期を迎えなければなりませんでした。
- 2008年1月に、VHSによるVTRの生産は全て終了しました。
- VHSは、32年の歴史だったと言うことができるでしょうか。
- アナログのVTRは姿を消しましたが、デジタル方式によるVTRは、現在も主流で使われています。
- 1/4インチ(6.35mm)幅のメタルテープ(miniDV)を使用したデジタルビデオカメラには、回転ドラムヘッドによるデジタル記録方式を採用しています。
- 放送局用のデジタルビデオコーダにもデジタルビデオテープが使われています。
- 1/2インチカセット方式のビデオ録画装置開発は、映像の歴史に大きな足跡を残しました。
- これは、真にビデオの時代の到来を告げた出来事だったと言っても過言ではないでしょう。
- 一般家庭に普及することがこれほどの効果をもたらすのか、と思い知らされた出来事でした。 また、民生用のVTRの普及に伴ってビデオ関連装置が派生的に発展し、CCDカメラの熟成を促しました。
- CCDカメラと小型ビデオテープレコーダ(8mmビデオ)の開発と成功は、「ビデオ」、「CCD」という言葉を生活の底辺まで定着させ使用用途を拡大させたのみならず、そこで得た技術と利益を放送局用のカメラやビデオテープレコーダへ還元することができました。
- 市場の拡大により、CCDカメラは格段に安くなり、手軽にビデオ画像を扱うことができるようになりました。
- コンピュータ(CPU)の発展は、デジタル映像技術にさらに拍車をかけました。
- コンピュータの発展なくして、今のデジタル映像の発展はないでしょう。
- 高画質の映像が得られても、簡単に見ることができなれば利用価値がないからです。
- ▲ DV規格とメタルテープ
- 磁気テープは、ビデオ録画媒体として発展を遂げ、1982年にはVHSテープを利用した200コマ/秒の高速度ビデオカメラが生まれました。
- 1984年には専用の高密度磁気テープを使った2,000コマ/秒の高速度カメラも現れました。
- 磁気テープは長時間、高速録画という要求に見事に応えた記録媒体でした。
- 現在の放送局用のデジタルハイビジョン用の映像記録媒体にも磁気テープが使われています。
- しかし、磁気テープと言っても中身は大分変わりました。
- 磁気テープ開発の大きな技術革新は、記録方式がアナログ記録からデジタルになったことと、磁気テープ自体がコンパクトになりメタル蒸着テープが採用されたことです。
- 我々の使い勝手の面からではわからない裏方の技術として、磁性体開発のブレークスルーもありました。 それまでの磁性体は、酸化鉄をバインダーと呼ばれる支持体に混ぜてこれをテープに塗布していました。
- こうした方式に代えて磁性体をそのままテープに蒸着する技術が開発されました。
- これがメタル蒸着テープ(ME = Metal Evaporated)テープと呼ばれるものです。
- メタルテープには、磁気記録に関与しないバインダーが無いのでテープを薄くすることができ、記録密度も向上させることができました。
- こうした技術発展の中で、磁気テープは、
- 2インチテープ幅(50.8mm)のオープンリール
- → 1インチ(25.4mm)
- → 3/4インチ(19.05mm)
- → (8mm)
- → 1/4インチ(6.35mm)
- → 1/2インチ(12.7mm)
- と小さくなっていきました。
- 高い周波数帯域まで十分な性能が高められてくると、映像もデジタルで記録できる可能性が出てきました。
- 8mmデジタルビデオカメラは、メタルテープのコンパクトさと記録密度の高さによって実現できたと言えます。
- DV規格は、先にも述べたNTSCアナログ信号をデジタルに直した規格で、アマチュア向けのビデオ信号に広く利用されるようになったものです。
- 【フロッピーディスク(Floppy Disk = FD)】 (2009.10.18追記)(2010.12.22追記)
- フロッピーディスクは、個人目的を含めて2005年頃までのパーソナルコンピュータの一般的な記録媒体であり、コンパクトさと安価であることから非常によく使われていました。
- しかし、2005年以降、このメディアが使われることはほとんどなくなりました。
- その証拠に、2000年以降発売されるパソコンにはフロッピー装置が装備されなくなりました。
- フロッピーディスクは、画像を扱うファイル用記録媒体としての利用価値はなく、もっぱらドキュメントファイルの保存に使われていました。
- このメディアは、記憶容量が少なくてデータアクセスの速度が遅いので、画像データを扱うには不向きだったのです。
- フロッピーディスクは、手軽に持ち運べて媒体も安価であったのに、2000年を境にして急速に市場から姿を消していった理由として以下のものが考えられます。
- ・ パソコンの扱うデータ容量に対応できなくなった。(画像ファイルの台頭、OSの肥大化)
- ・ フロッピーディスクの読み書き速度が遅かった。 (約125kビット/s)
- ・ CD-R/RWが普及して、これがパソコンの標準装備となった。
- ・ フラッシュメモリの普及により、手軽に大容量のデータが バックアップできるようになった。
- ・ パソコン本体にUSBが標準装備され、手軽に周辺機器(CD、DVD、HDD、USBメモリ)と接続できるようになった。
- ▲ 開発
- フロッピーディスク(IBM社はディスケット = disketteと呼んでいた)は、薄い(約77um厚の)ポリエステルフィルム(米国Du Pont社の開発したマイラーフィルム = Mylar)の円板(floppy = フロッピー)に磁性体を塗布して保護ケースに入れたもので、これを読み書き装置に挿入してデータを読み込んだり、書き出しを行っていました。
- フロッピーディスクの読み書きを行う磁気ヘッド内蔵装置をフロッピーディスクドライブ(Floppy Disk Drive = FDD)と呼んでいました。
- フロッピーデスクシステムが最初に開発されたのは、1967年のことです。 パソコン(1981年)が登場するはるか以前のことです。 この装置は、IBM社のエンジニア、アラン・F・シュガート(Alan Field Shugart: 1930.09 - 2006.12)がパンチカードの代用として開発しました。
- 当時のフロッピーデスクの記録容量は、8インチ(φ203mm)の大きさがあるにもかかわらず、わずか256KBでした。
- IBM社は、当時、彼らが開発したメインフレームであるIBM370のシステムロード用として、取り扱いが簡便な外部記憶装置を求めていました。
- その代用として開発されたのが、8インチフロッピーディスクだったのです。
- フロッピーディスクは、従って、当然のことながら開発当初からデジタル記録媒体でした。
- 8インチフロッピーディスクは、Memorex社から販売されました。
- Memorex社の設立は、1961年です。
- この会社は、VTRを開発したAMPEX社を退職した3名によって磁気テープ製造を目的として設立され、IBM社向けの磁気テープと磁気ディスクの製造で成長しました。
- 同社は、2006年、Imation社に吸収されました。
- ■ IBMパンチカード(IBM 80 Column Punched Card Format)
- 1928年に開発され、1970年代まで主流であったIBM パンチカード。 カードの大きさは、7 -3/8 x 3 -1/4インチ(187.3mmx82.55mm)。 厚さは、0.007インチ(0.178mm) = 143枚で1インチ(25.4mm)。
- 当時の大型計算機は、このカードを読みってバッチ(束)処理された。
- IBMが開発したフロッピーディスクは、当時記憶装置の主流であったパンチカードを多分に意識していました。
- 要するに、パンチカードに置き換える目的でフロッピーディスクが開発されたのです。
- パンチカードによる情報処理は1800年代からあり、コンピュータができる以前からありました。
- パンチカードを最初に使ったのは、フランスの発明家ジョゼフ・マリー・ジャカール(Joseph Marie Jacquard)で、彼が発明した織物の文様を形作る装置(ジャカード織機)に採用されたと言われています。
- これをイギリスの数学者チャールズ・バベッジ(Charles Babbage、1791年 - 1871年)が、数学解析を行う機械に組み込むことを1800年代後半に考案し、コンピュータへの入出力装置として注目されました。
- コンピュータ自体は1940年後半になるまで実用的なものが現れず、パンチカードは大量のデータ処理を必要とする分野に使われ、1890年の米国国勢調査で米国の発明家ハーマン・ホレリス(Herman Hollerith、1860年 - 1929年)が作った集計装置タビュレーティングマシン(Tabulating Machine)に使われていました。
- 米国IBM社(設立:1911年)は、ホレリスの興したTabulating Machine Companyを母体(他に2社、計3社の合併会社)として、タビュレーティング装置(パンチカードシステム)を製造販売する会社として発展しました。
- パンチカードはIBMの心臓部だったのです。
- IBMが採用したパンチカードは、1928年に開発したIBM 80欄パンチカード(IBM 80 Column Punched Card Format)が有名で、以後このカードは電子計算機の時代になっても1980年代半ばまでの約60年に渡って使い続けられました。
- IBM 80欄 パンチカードの特徴は、以下の通りです。
- ・ 穴の形状は長方形。
- ・ 1枚のカードに80欄。1欄は12穴。
- つまり1枚のカードに12ビット80キャラクタが記録(= 960 bit = 120B)
- ・ カードのサイズは、7-3/8インチ x 3-1/4インチ(187.325mm x 82.55mm)。
- 当時の1ドル紙幣の大きさ。(現在の1ドル紙幣は、これより縦横20%小さくなっている。)
- ・ カードの厚さは、0.007インチ(0.178mm)。1インチの厚さで143枚のカード。
- ・ カードは、取り扱いが楽なように表面をスムーズ処理し、かつ丈夫さも確保。
- ・ 高速処理をするため、1964年からカードの隅を丸くした。
- ・ カードには専用の収納箱があり、2000枚のカードを収納。
- ・ 1欄12穴の情報は、数字は12穴の中の上から3番目〜12番目を0から9にあて、
- 英文字は、一番上から三つ分(Y、X、0)のゾーンパンチエリアと組み合わせた。(上右図参照)
- ・ 12ヶの穴あけは、電子計算機に使用される際に
- EBCDIC = Extended Binary Coded Decimal Interchange Code
- に準拠して穴位置が決められた。
- 上の図からもわかるように、パンチカードに入力する文字とパンチ穴のコーディングは簡潔で、現在我々が認識する二進法を取っていません。
- 人間がパンチ穴の開け方ら判断しやすい方法となっています。
- パンチカードは、コンピュータができる以前からあったので、人間が認識しずらい二進法そのものの穴あけは採用しなかったものと思われます。
- 上の図では数字とアルファベット大文字、特殊文字を含めた213文字が示されています。
- 実際は、EBCDIC(拡張二進化十進法)に準拠するときにさらに文字が追加されて、最終的に256文字となりました。
- パンチカード自体は12穴であるので、これを二進法にあてたビットに直すと、212 種類(4,096種類)の記号をあてることができます。
- しかし、パンチカードは歴史的な経緯から人が認識しにくい2進法コーディングにすることはせず、このような方法を取ったと考えます。
- パンチカードは、手頃なデジタル記録媒体であり、データの追加や消去、並び替えが簡単にできました。
- 私の大学時代(1970年代後半)のことを思い出すと、当時、コンピュータは大学内に数台しかなく、別棟で空調設備の整った建物(大型電子計算機室)を建てて、そこに大型コンピュータを設置して共同使用する運用方法を取っていました。
- 大型コンピュータのプログラムの保存は、パンチカードでした。
- 1970年代の安価なデジタル記録媒体と言えば、パンチカードか紙テープだったのです。
- 使用者はパンチカードの束を携えて計算機室に入り、カードリーダでパンチカードを読み取らせて、一日程度開けて計算結果を取りに行っていました。
- パンチカードは1980年頃まで使われていました。
- フロッピーディスクの登場によって、簡便で記憶容量の大きいデジタル記録媒体の時代になりました。
- フロッピーディスクが一般的に使われるようになったのは1980年代からと記憶しています。
- ■ トラックとセクタ(Track, Sector)
- フロッピーディスクに採用された記録媒体は、レコード盤のようにシリーズに記録する方式ではなく、細切れに間仕切りして、ランダムアクセスを可能としました。
- 細切れの最小単位は、当時よく使われていたパンチカード(右上写真)の記憶容量から割り出されました。
- IBMが当時採用していたパンチカードは、12列(12ビット)x80欄 = 960bit(120バイト)の容量を持っていたので、8インチフロッピーディスクでは1セクタ(部屋割り)をビットの切りの良い128バイト(27)としました。
- (1セクタは、その後 512バイト = 29バイト が標準となりました。ディスクの大容量化とともにセクタは大きくなり、2011年にはフラッシュメモリの1セクタが4096バイト = 212バイトとなりました。)
- セクタ分割によるディスク内のデータ保存は、全周を26分割に分けさらにデスクを放射状に横切るトラック数(77トラック)で分割しました。
- こうすることにより、8インチフロッピーディスクは、77トラック x 26分割 = 2002セクタの部屋割りができました。(右下図参照)
- 1セクタは、カードパンチャ1枚分の記録容量なので、初期のフロッピーディスク(256KB)は、2002枚のパンチカードのデータを保存できたことになります。
- 当時、パンチカードは2,000枚を収納するパンチカードボックスに入れて保管されていたので、パンチカードボックス1箱分が8インチのフロッピー1枚にそのまま入れ替わることになりました。
- フロッピーディスクは、ディスクの回転数を一定にしてデータを読み書きする方式(CAV = Constant Angular Velocity方式)なので、フロッピーの内側と外側では線速度が異なり、内側のセクタが外側のセクタに比べて記録品質が劣るという問題がありました。
- 従って、フロッピーのデータ容量は、内側のセクタのデータ容量を標準にして決められました。
- ▲ パソコンに搭載 - CP/M
- フロッピーディスク装置は、パソコン目的用としてではなく大型コンピュータ用として開発されたことは今述べたとおりです。
- IBM-PCが発売された1981年より7年も前の1974年に、マイクロコンピュータと8インチフロッピーデスクドライブをつなげた人物がいます。
- それがゲーリー・キルドール(Gary Arlen Kildall:1942.5.19〜1994.7.11)です。
- 彼は、インテル社が開発した8ビットのマイクロコンピュータ(i8080)を使って、データをマイコンにアップロードさせたりダウンロードさせたりする管理プログラム(OS = Operating System)を作りました。
- これが、パーソナルコンピュータ用OSの元祖とされるCP/M( Control Program for Microcomputers、マイクロコンピュータのための制御プログラム)でした。
- CP/Mは、マイクロソフト社で発売されたMS-DOS(MicroSoft Disk Operating System)の原型をなすものでした。
- CP/Mには、マイクロコンピュータにデータを入出力させるBIOS(Basic Input/Output System)と呼ばれる心臓部があり、この心臓部の大きな役割が8インチフロッピーディスク管理だったのです。
- 当時、フロッピー装置の価格は1台当たり500ドル(約15万円)もしたので、彼らの手の出る代物ではありませんでした。
- そこで、彼はフロッピーディスクドライブのメーカ、シュガート・アソシエーツ社(Shugart Associates、IBM社の元Managerシュガートが1972年に設立した会社)を説得して、一万時間の耐久テストが終わった使い古しのドライブをタダで手に入れ、これを管理する「CP/M」というオペレーティングシステムを開発したのです。
- このエピソードから何がわかるかというと、当時、開発者のゲーリー・キルドールにとって500ドルがとても高価な投資であったことから、CP/Mは個人ベースで開発されたと解釈できます。
- パソコン(マイコンキット)は、1970年代後半にあっては個人の趣味で(もしくは仲間内で自分のコンピュータ技術を自慢するために)作られていたのです。
- 電卓の心臓部として日本のビジコン社の嶋正利が4ビットマイコンをインテルに作らせた1971年当時、マイコンは性能的に中途半端であり、開発したインテルでさえも応用を見いだせずにいました。
- せいぜい電子工学が好きな若者のオモチャ程度だったのです。
- インテルは、8ビットマイコン(i8080)をまともに動かすための環境ソフトを開発するために、当時、西海岸の海軍大学大学院でコンピュータサイエンスの教授をしていたゲーリー・キルドールを技術顧問(パートタイム)として雇いました。
- 彼は、生来呑気だったようで(それでいて天才的なプログラマーだった)、インテルの事務所に車で出向くのがイヤで自宅で請け負った仕事をしようと考えました。(2022年の現在では、全世界家庭で仕事をするというのは、インターネットのおかげで普通になっていますが当時は認可が難しい仕事形態でした。)(2022.04.19追記)
- そこで、自宅で8ビットマイクロプロセッサi8080が動くソフトを書き上げるために中古のフロッピーディスクをシュガート社から譲り受け、BIOSの原型と最初のパソコン用OSであるCP/Mを作り上げました。
- このソフトをインテルに持ち込んだのですが、インテルはまったく関心を示しませんでした。
- それで、自分で会社(デジタルリサーチ社、Digital Research, Inc.)を興し、1976年にCP/M(インテルi8080用OS)を販売するようになります。
- これが、マイクロソフト社のMS-DOSの母体です。
- マイクロソフト社がIBM社に売ったMS-DOSは、CP/Mと中身(コーディング)がほとんど同じものだったと言われています。
- ただ、MS-DOSはインテルの16ビットCPU i8086に合わせてコーディングされていました。
- 以後、IBM-PCの爆発的ヒットは周知の通りで、パソコンにフロッピー装備は当たり前のことなりました。
- 8インチサイズのフロッピーデスクは、1976年に5.25インチ(5 - 1/4インチ)サイズの小さなものとなり大きな普及を見ます。
- 日本で一斉を風靡した日本電気の16ビットパソコンPC-9801F(1983年発売)には、2基の5.25インチ2DDのフロッピーディスクドライブがついていて、一方にはMS-DOSのシステムフロッピーが挿入され、もう一方にはデータ保存用のフロッピーが挿入できるようになっていました。 当時HDD(ハードディスクドライブ)はとても高価だったので、コンピュータにはシステムを保存しておく記録媒体を持っていませんでした。
- システムをフロッピーから立ち上げていたのです。
- 当時はその程度の容量でシステムができていたのです。
- さらに、1982年には、日本のソニーがハードカバーで覆った3.5インチのフロッピーデスク(280kB)を開発します。
- その後、いろいろなメーカが同種の記録媒体を開発していきますが、世界的に見て、ソニーの開発した3.5インチのフロッピーデスク(下右写真)が一番の成功を収めたように思います。
- ソニーのハードカバー3.5インチフロッピーが成功した主要因は、
- ・ 1984年のアップル社マッキントッシュに標準装備されたこと、
- ・ 1985年には、アタリやコモドールも続いてパーソナルコンピュータの標準として行ったこと、
- ・ ディスケットがプラスチックカバーで覆われ、ディスク面も自動開閉のスライドカバーで覆われて携行性が良かったこと、
- ・ データ容量も十分に大きかったこと、製品の信頼性が高かったこと、
- などが挙げられます。
- 3.5インチFDDは進化をとげ、
- → 開発当初(1982年)は片面で280KBであったものが、
- → 両面倍密度(2D、360KB)
- → 両面倍密度倍トラック(2DD、720KB、1984年)
- → 両面高密度(2HD、1.44MB、1987年)
- と発展していきました。
- ▲ 画像保存用のフロッピーディスク
- フロッピーディスクが画像保存用に使われたことがあります。
- 1981年、ソニーがCCDカメラ、マビカ(Mavica)を開発したときに、カメラの記憶媒体として2インチのフロッピーディスクを採用しました。
- 保存形式は、デジタルファイルではなくFM変調したアナログ記録で、570x490画素相当の画像を50枚保存しました。
- 再生は、NTSCアナログ信号による読み出しで、既存のテレビモニタのビデオ端子にケーブルを接続して見るようになっていました。
- 1981年当時、静止画像を記録するカメラと言えばフィルムカメラが圧倒的でした。
- 当時は、デジタルフォーマットによる画像は整備されていませんでした。
- 計測用画像ファイルで有名になるTIFFができるのが、1986年のことです。
- 圧縮画像で有名なJPEGは、1992年の開発です。
- 従って、この時代にあっては画像の保存をアナログであれフロッピーに詰め込んだのは画期的なことでした。
- ソニーは、フロッピーデスクの開発元であったが故にフロッピーに執着し、デジタルマビカを出した1990年代も3.5インチフロッピーディスクを使ったデジタルカメラを販売していました。
- 1999年に発売したデジタルマビカMVC-FD88Kは、130万画素CCDを搭載し、4倍速に進化した3.5インチフロッピーデスクにJPEG画像を4枚(1280x960画素)〜40枚(640x480画素)分を保存できるようにしていました。
- このカメラは、パソコンとのデータ受け渡しを簡単にできることを狙ったものでしたが、フラッシュメモリの台頭とともに、記録容量と書き込み速度、それに取扱勝手に劣るこのタイプのものは終焉の時を迎えるに至りました。
- ▲ フロッピーディスクの性能限界
- 2000年を越えた頃より、パソコンの性能向上とともにインターネットが普及して音声や画像の通信がさかんになると、頻繁に扱うデータの容量と転送速度がフロッピーディスクの潜在性能を超えてしまうようになりました。
- 従来、テキストだけであったパソコンの文書作成に、画像が貼り付けられようになると、文書の容量が桁違いに大きくなりました。
- A4サイズで40文字x45行を埋める文字を扱っている時代は、4KB程度のファイルサイズで済んでいたのに、300dpi相当の80mmx60mmのカラー画像(BMP)を貼り付けるようになると、画像だけで2MBの保存容量が必要となります。
- この容量は3.5インチ2HDのフロッピーディスクの記録容量1.4MBをゆうに超えてしまいます。
- また、フロッピーディスクは、データを取り出すのに時間がかかります。
- 転送速度は、125kビット/s程度であるため、1.4MBいっぱいに保存されたデータを読み出すには、90秒程度かかります。
- パリティなどのエラーチェックやセクタ間の移動時間を考えると3分程度のアクセス時間を覚悟しなければならないでしょう。
- こうしたことから、パソコンの世界では、フロッピーよりも大容量でより高速にアクセスできる、CD(コンパクトディスク)や、HDD(ハードディスクドライブ)、MO、DVD、フラッシュメモリへと記録媒体の主軸が移って行きました。
- ▲ フロッピードライブ(FDD)メーカ生産撤退の動き加速 (2009.07.28)(2010.07.10追記)
- 2009年7月27日付の朝日新聞では、フロッピーディスク駆動装置(FDD)メーカ主要3三社(ティアック、ワイ・イー・データ、ソニー)が製造を終了する方向で調整に入っているという記事を掲載していました。
- フロッピーディスクの最大供給会社であったソニーも2009年9月に駆動装置の製造は終了し、中国でディスクの製造を行っていました。
- それも2011年3月に打ち切りFDD事業の完全撤退をすると発表しました。
- 3.5型のFDDは1984年からコンピュータに搭載されはじめ、Windows95が発売される1995年がFD需要のピークであったそうです。
- そういえば、私が最初にパソコンを買った1993年、マッキントッシュ(LCIII)には3.5型のフロッピードライブがついていて、15枚のフロッピーを入れ替え差し替えしてOSを入れた記憶があります。
- この時期はまだ、CDがパソコンに標準で搭載されていなかったのです。
- そのFDDも2009年では最盛期の1/30にまで生産規模を縮小して、需要は企業向けのオプションに限られてしまったそうです。
- 1967年のフロッピー開発から43年を経て、その命を全うしました。
- 【Jaz、Zip、Bernoulli(じゃず、じっぷ、べるぬーい)】
- フロッピーが容量不足となっていく1990年後半、メガバイトクラスのリムーバブルメディアの要求が高まっていました。
- そんな中で登場したのが、米国のIOmega社の開発した Jaz、Zip、Bernoulli です。
- アイオメガ社は、米国カルフォルニア州サンディエゴ市で1980年に設立されたコンピュータ周辺機器の会社です。
- 2008年4月にEMCに買収されました。
- IOmega社が開発した磁気ディスク商品の年代順番は、
- Bernoulli (1983) → Zip(1994) → Jaz(1995)
- となります。
- 現在では、これらの名前を聞くことも少なくなりましたが、1990年代にあっては、一躍スポットを浴びたメディアです。
- しかしながら、この製品も安価で信頼性が高いCDやDVDとの競争の憂き目にあい、現在は一部のユーザが使うのみとなりました。
- 2008年の時点では、BernoulliもJazもありません。
- CDやDVDがコンピュータの標準メディアとなって本体に直接内蔵されるようになったのに対し、これらの製品は標準装備となることはなく、周辺機器としての位置づけに終始しました。
- フロッピーディスクの歴史をみて見ると、8インチの128kBのフロッピーディスクが1970年にIBM社のアラン・F・シュガートによって開発されて、13年後の1983年にアイオメガ社(IOmega)が大容量のフロッピーディスク(Bernoulli)を出したことになります。
- 同じ頃(1982年)には、業界標準となる3.5インチのハードケースに入ったフロッピーディスク(280kB)が日本のソニーから発売されます。
- この時期にアイオメガ社は、50倍のデータ容量を持つフロッピーディスクを完成させたのです。
- ▲ Jaz(1GBのリムーバブルハードディスク)
- Jazドライブは、IOmega社が1995年に開発した1GB容量のリムーバブルハードディスクです。
- 1998年2月には、2GBが発売されました。
- しかし、4年後の2002年に製造を中止しました。
- JazとZipとの違いは、Zipがフロッピーディスクベースであったのに対し、Jazはハードディスクであったことです。
- Jazドライブは、構造がハードディスクなので同時代のMOやZipより読み書きが格段に速く行えました。 1995年当時は、OSがWindows95になりパソコンのシステムが巨大化し、インターネット時代に突入してメガバイト容量のメディアの要求が高まっていました。
- これに呼応するように、いろいろなメディアが開発されて覇を競っていました。
- そんな中にあって、CDと小型ハードディスクが市場を駆逐して行ったため、Jazは撤退を余儀なくされました。
- Jazドライブは、ハードディスク方式を基本として、しかもプラッターを抜き差しするという方式(ヘッドは固定装置に内蔵)のためか、信頼性に乏しく、トラブルが多くて使用に差し障りがありました。
- Jazは、プラッタ表面にゴミが付着する危険性が高いリムーバブルデスクで、5,400rpmもの高速回転によって、1umの距離に置かれたヘッドとプラッタのクリアランスは大丈夫なんだろうかという疑問がわきます。
- ちなみに、各種メディアの回転数を較べてみると以下のようになります。
- ・ Jaz: 5,400 rpm
- ・ Zip: 2,945 rpm
- ・ Bernoulli Box: 3,000 rpm
- ・ フロッピーディスクドライブ: 360 rpm
- ・ MO: 3,600 rpm〜6,700 rpm
- ・ CD: 200 rpm〜5,300 rpm
- ・ ハードディスクドライブ: 4,200 rpm〜15,000 rpm
- レーザ光をピックアップに使ったメディアは、ピックアップとのクリアランスが比較的広く取れるので回転数を上げても安全のような気がしますが、ヘッドとプラッターの距離が極めて近い磁気ディスクでは、ホコリやモータの振動、軸受けなどの対策をしっかりと行う必要があるように思われます。 IOmega社にあっては、Jazの信頼性を向上させる方向には向かわず、製品の生産をストップさせ、フロッピー方式のZipに軸足を移していた感じを受けます。
- ▲ Zip(フロッピー感覚の大容量ディスク)
- Zipドライブは、IOmega社が1994年に開発した取り外し可能な磁気ディスクによるメディアシステムです。
- フロッピーディスクと同様の感覚で取り扱え、しかもデータ容量が多いのが特徴でした。
- ディスクの大きさは、3.5インチであり、形状も3.5インチフロッピーディスクに似ています。
- 開発当初のディスクは、100MBであったものが、後に250MB、750MBに増えました。
- データの転送速度は1MB/秒で、シークタイムが28msであり、1.44MBのフロッピー(62.5KB/秒、シーク0.2秒)に較べ1桁以上の高速アクセスができました。
- Zipシステムの開発の前身に、ベルヌーイディスク(Bernoulli Box system)がありました。
- ▲ ベルヌーイ(Bernoulli)(最初のリムーバブルディスク)
- Bernoulli Box Systemは、米国IOmega社が1983年に開発したリムーバブル磁気ディスク(5.25インチ、10MB)です。
- 日本にはほとんど輸入されませんでしたが、米国では結構使われていたようです。
- 1980年代、大容量のメディアはそれほど多くの種類があったわけではなかったので、このメディアは出色でした。
- このメディアは、3.5インチのフロッピーディスクと外観は似ていましたが、大きさは5.25インチでした(巾136mm x 長140mm x 厚9mm)。
- このサイズに35MB〜230 MBの容量を載せていました。
- このメディアの面白い所は、ペラペラのポリエチレンテレフタレート(PET)製フロッピーディスクを高速で回転させて(3,000rpm)、高速流体回りに起きる気流の陰圧を利用して固定ヘッドに吸い付かせる(しかし接触しない)機構を取り入れたことです。
- ヘッドとフロッピーの間は、気流が介在するために決して接触せず1ミクロンの間隙を形成します。
- ハードディスクドライブが、ヘッド部と接触状態から気流で浮揚(0.03um)させているのに対し、ベルヌーイボックスはデスクを湾曲させて近づけています。
- ディスクの回転が止まれば気流が止まり、フロッピーも元の位置に戻るので固定ヘッドとの距離は自動的に離れる構造になっていました。
- 従って、ベルヌーイボックスではハードディスクドライブで必須であったリトラクト(ヘッドをプラッターから離す機構)の必要性がありませんでした。
- この方式は、オランダ・スイスの天才数学者ファミリーの一人であるダニエル・ベルヌーイ(Daniel Bernoulli:1700.02〜1782.03)の発見したベルヌーイの法則を応用しています。
- そのためメディアの名前もベルヌーイと名づけられました。
- このメディアが、日本でなぜ普及しなかったのかはよくわかりませんが、ベルヌーイが登場した同時期に日本ではMO(光磁気ディスク)が開発されたために、日本ではこちらが支持されたものと考えられます。
- 理論的には安定している構造でしたが、実際は、読み込み時のトラブルがかなりあり、CDの簡便さと安さには太刀打ちできませんでした。
- 【ハードディスクドライブ(HDD)】 (2007.11.25)(2008.10.24追記)
- ハードディスクドライブ(HDD = Hard Disk Drive)は、フロッピーディスクドライブに相対する装置として登場しました。
- フロッピーディスク装置のスペースと電気信号(データ信号)に互換を持たせて、装置を簡単に入れ替えられるような設計思想を持っていました。
- ハードディスクの記録媒体の構造は、フロッピーディスクのように薄くてペラペラの磁性体ディスクと違って、ディスクに鏡面加工を施したアルミ基板、もしくはガラス基板になっていて、この表面に酸化鉄磁性体を塗布したものを使っています。
- 開発元であったIBM社は、これをHDDを固定ディスク(Fixed Disk)と呼んでいます。
- ハードディスクドライブは、大容量の記録媒体として開発され発展して来ました。
- 初期の開発は、大型コンピュータ用の外部記録用でしたが、パソコンの発展と共に小型大容量化、高速アクセスなどを可能にした製品が市販化されました。
- HDDは、現在(2010年)にあってもパソコン、ワークステーションにおける最強の記憶装置として君臨しています。
- コンピュータのデジタル記憶装置として生まれたHDDは、大容量、高速アクセス、安価である特徴が認められ、ビデオカメラの記録装置、家庭ビデオレコーダの記録装置、カーナビゲーションの記録装置、携帯用音楽再生装置として活躍の場を拡げています。
- ▲ 磁気ディスク
- ハードディスクの構造は、フロッピーディスクと大所は同じです。
- 磁気ディスク面に磁気記録されたデータを磁気ヘッドを使って読み書きするという方式は変わりません。
- しかし、HDDはフロッピーディスクドライブと較べて、データのアクセスが桁違いに速く、容量も大きくて扱いも大変楽です。
- その分、開発や製造の難しさも桁違いであったと思います。
- 技術開発問題の一つは、磁気ヘッドと磁気ディスク(プラッター、platter)のギャップです。
- 両者は、近接して高速アクセスするので信頼性や耐久性が大きな課題でした。
- しかし、その耐久性も信頼性も向上して、振動や衝撃が加わる携帯音楽プレーヤにも自動車のデータ記憶装置にも搭載されるようになりました。
- 磁気ディスク装置は、1980年までは大型計算機の外部記憶装置として大きなラックに組み込まれて大電力モータを使って運用されていました。
- 初期のもの(1970年まで)は、磁気ドラム装置(Magnetic Drum Memory)でした。
- 磁気ドラムは円筒状のドラム面に磁気コーティングを施してドラム面に配備された複数の磁気ヘッドでデータを読み書きするものです。
- 磁気ヘッドは、ハードディスクドライブのようにスウィングアームによって可変するものではなく固定となっていて、ドラムだけが回転してデータを読み取っていました。
- 構造はシンプルでしたが、ドラムが大きくてその割には3MB程度の容量しかありませんでした。
- その後、磁気記録面は円筒形状からディスク形状に変わり、それが何枚も重なった磁気ディスクに変わりました。
- この装置は、800MB程度の記憶容量をもっていました。
- かって、大型計算機室に配備されたキャビネットラックの多くは、この磁気ディスク装置でした。
- そんな大きな磁気ディスク装置が、手の平に載るぐらいのコンパクトなものになったのです。
- コンパクトな設計思想のバックグランドには、フロッピーディスクの開発技術があったことは否めません。
- ▲ 最初の小型ハードディスクドライブ
- 現在まで続いている小型HDDの原形は、1980年に開発されました。
- 小型HDDは、フロッピーディスクを開発したIBM社の元製造部門のマネージャであったAlan Shugartが開発しました。
- 彼は、フロッピーディスクを作るために 1973年にShugart Associates社(1977年 Xerox社に買収)を創設し、今度は、HDDを作るために同社を退社して、1979年に仲間のFinis Conner(1943.07〜)とShugart Technology社を設立しました。
- 最初の会社も、2番目の会社も自分の名前を冠しました。
- Shugart Technology社は、そのShugart Associates社から"Shugart"という名前は紛らわしいから使ってはならないと言うクレームをつけられたので、同年、会社名をSeagate Technology と改めています。
- 最初のHDDは、ST-506と呼ばれた小型HDDでした。
- ST-506は、5MBのデータ容量を持っていてフロッピーディスク装置と同じインタフェースで制御することができました。
- これは、パーソナルコンピュータに実装するのに非常に楽な設計思想でした。
- フロッピー装置に置き換えて、そのスペースにHDDを組み込めばそのままパソコンで使えたのです。
- ST-506のハードディスク(platter)は、5.25インチ(133.35mm)の大きさで、フロッピーデスクと同じ大きさでした。
- ハードディスクドライブ装置も、フロッピーディスクドライブ装置とほぼ同じ大きさに似せて作られ、装着の互換性を良くしました。
- これらのことから、Seagate Technology社は、フロッピーディスクドライブをかなり意識して、技術もFDDを踏襲したと考えられます。
- もっとも、フロッピーディスクもハードディスクも同じShugart氏が構想して開発したものなので、同じコンセプトになるのは当然です。
- ST-506のデータ転送速度は、最大625KB/秒でした。
- この速度は、フロッピーディスクドライブの40倍の速度を持っていました。
- このデータ転送速度は、当時、十分な速度を持っていたために、瞬く間に記憶媒体の主流となりました。
- ハードディスクドライブは、記憶容量が大きい媒体分野で当時主流であった磁気テープ方式と比べて、ランダムアクセスできる点が大きな強みでした。
- データファイルを追記で保存したり、読み出すことが楽にできるのです。
- このハードディスクドライブを、高速でデータ読み書きできることを可能にしたのは、高速データ転送方式(インタフェース)の開発です。
- 彼らはこの目的のために、1981年、Shugart Associates System Interface(SASI、後にSCSI = Small Computer System Interface、スカジー)というインタフェースを開発します。
- この方式は、ギガバイトベースのイーサネットやUSB2.0が登場する2000年までの高速データ通信インタフェースの代名詞となったものです。
- ハードディスクドライブは、当初、ディスク口径が5.25インチサイズ(133.35mm)のものから始まり、8インチ(203.2mm)のものも開発されましたが、開発の流れは小さい口径に向かい、3.5インチ(88.9mm)が主流となっていきます。
- さらに、徐々に小型化に移行して、2.5インチ(88.9mm)、1.8インチ(45.7mm)、1.3インチ(33mm)、1インチ(25.4mm)まで小さくなっていきました。
- 小型になると、保存容量も小さくなります。
- 従って、小容量、小型HDDでは、近年、発展が著しい半導体メモリ(フラッシュメモリ)と競合するケースも増えてきています。
- ▲ ハードディスクドライブのクリアしなければならない問題点
- ハードディスクドライブ装置が小型高速化になるにつれてクリアしなければならない点の一つに、可動部を少なくした信頼性の高いムーブ機構の採用があります。
- テープレコーダがフラッシュメモリに代わってきているのも、機構部が少なくて故障が少なく小型コンパクト、安価にできるからでした。
- フラッシュメモリは、現在(2009年)急速にシェアを拡大しています。
- しかし、100GB以上のメモリ容量を要求される目的や、価格、耐久性などの観点からは(フラッシュメモリは書き込み回数に制約がある)、未だHDDの需要は大きいと言えます。
- ハードディスクが開発された当初は、故障が多くありました。
- ハードディスクのクラッシュは、交通事故かガンの告知のような感覚で扱っていました。
- いずれいつか、自分のパソコンにもそうした不具合が起きるのではないかと恐怖を抱きながら、大切なデータのバックアップを他のメディアにとっておられた方も多いと思います。
- 信頼性が増したハードディスクドライブではあるものの、構造上、耐久性に関していまだ問題も多いのが実情です。
- 「ハードディスクは壊れるものだから、その認識と対応を日頃から取っておけ」、というのが一般的な見識のようです。
- 私自身、ハードディスクドライブを使ったパソコン生活を続けて25年近くなります(2020年時点)。
- フロッピーだけでパソコンを立ち上げていた時代に較べると、立ち上げやデータのアクセスが随分と楽になりました。
- 今まで、20個ほどのハードディスクドライブにお世話になって来たでしょうか。
- 幸いなことに、それらのハードディスクはすべて順調に機能してくれました。
- 一日中コンピュータを動かし続けている間、ハードディスクもせっせと回っていてくれたはずです。
- それを3年の間(だいたい3年でコンピュータが古くなるので交換してきた)、ずっと回り続けてアクセスし続けてくれました。
- たいした耐久力と性能と言わねばなりません。
- 車や飛行機に乗って持ち歩いたノートパソコンでも、ハードディスクが壊れた経験はありません。
- ノートパソコンの場合、HDDよりもディスプレイが壊れることが多かったと記憶しています。
- また、アップルが発売したハードディスク内蔵のiPod(2001年11月発売、5GB HDD)の成功は、ハードディスクの堅牢性と信頼性をいやが上にも高めたと言えましょう。
- 全世界で1億台以上のiPodが売れました。
- その内の半分以上がハードディスク内蔵製品だと思います。
- iPodの普及によって、HDDの耐久性が実証されたのです。
- 大したことだと言わざるを得ません。
- もっとも、iPodも3年程度でモデルが代わったりバッテリの寿命が来たりで、それ以上使っている可能性は低いので、ハードディスクの故障が大きく問われることが少ないのかも知れません。
- だから、iPodはハードディスクにとっては渡りに船のような環境かもしれません。
- 私自身、iPodは半導体メモリのモデルしか持っていませんが、家族のものや知人の話を聞く限り、ハードディスクが壊れたという話は聞きませんでした。
- iPodの場合、バッテリが弱って充電に時間がかかるようになり、モデルも古くなったので買い換えるケースがほとんどでした。
- パソコンのハードディスクに関しては、友人や会社の仲間の体験を加えると、ハードディスクのクラッシュに遭遇した例を何回か聞きました。
- 従って、ハードディスクのクラッシュは、本当に交通事故に遭遇するようなもので、いつ自分の所に降りかかってくるのかわからいと思うようになりました。
- いろいろな意見を総合したり、自分の経験から言うと、ハードディスクの寿命は5年が限度であり、それを境に新しいハードディスクにデータを移し替えることが望ましいと言えましょう。
- また、ハードディスクが壊れてもバックアップがとれるRAID(レイド、Redundant Arrays of Inexpensive Disks)も個人ユーザでできる価格帯になったので、そうした機能を母艦パソコンに設備するのが賢明と言えます。
- ■ ヘッドとプラッターの間隔
- ハードディスクドライブのプラッター表面には、磁性体上にライナーと呼ばれる潤滑剤が塗布されています。
- ライナーは、磁気ヘッドがプラッターを移動するときに役立つものです。
- 磁気ヘッドは、ディスクが回転していないときはプラッターと接触しています。
- ヘッドアームはバネによって予圧がかけられプラッタに押しつけられています。
- ディスクが回転してしばらくの間、ヘッドはプラッターを擦っていることになります。
- 回転が上がるに従って、プラッタと一緒に回転する気流によってヘッドが浮揚するようになります。
- この間隙(ヘッドギャップ、フローティングハイト、フライングハイト)は、わずか10nm〜30nmと言われています。
- これは光の波長よりも遙かに短い間隙です。
- この間にホコリが入ったりプラッタにホコリが付着したらひとたまりもない距離です。
- ハードディスクドライブを長年使っていると、プラッター表面のライナーが劣化し、ヘッドがプラッターと接触し衝突するという事態に発展します。
- これが起こると、ディスクはクラッシュして寿命が尽きることになります。
- 考えただけで恐ろしいことですが、ハードディスクではいずれ起こることです。
- ハードディスクのもう一つの問題として、ヘッドとプラッタが張り付いてしまう「張り付き」という問題があります。
- プラッタは非常に精度よく磨かれた鏡面になっていて、ヘッドも同様に鏡面加工されています。
- 両者が静止した状態で接触すると、分子間作用で強い吸着現象がおきます。
- ハードディスクの初期の頃(1980年代)は、停止命令を送るとヘッドがプラッタから待避する機構がつけられていましたが、部品点数削除による製造原価低減から、この機構が取り除かれてしまいました。
- そうすると、ヘッドはプラッタに置かれたまま電源が切れることになり、「はりつき」が起きるようになりました。
- こうした問題を解決するために、パソコンの「OS」からハードディスクに待避命令を送ったり、ハードディスク側でヘッドを自動的に待避領域に戻す機構が再び復活するようになりました。
- ■ 軸受け
- ハードディスクが連続して長期間回り続けていて心配になるのは、プラッタを支えている軸受けの耐久性と装置内部の気流温度の上昇です。
- プラッタを支える軸受けは、ボールベアリング式と流体動圧軸受(Fluid Dynamics Bearing、FDB)の2つの方式があり、最近のものは流体動圧軸受が主流です。
- 流体動圧軸受は、軸を潤滑油で保持する方法で、高速回転体の軸受によく使われています。
- 潤滑油は、軸の回転と共に軸受け部で流動を始め、潤滑油の流動圧力(動圧)によって軸を軸受けから浮かすような構造になっています。
- 回転がないときは、動圧は働かないので軸は軸受けにメタル接触していることになります。
- また潤滑油の温度も上がっていず静止しているので粘性が高く、ハードディスク起動時にはモータに強いトルクが必要となります。
- もし、モータが劣化したり潤滑油の粘性の劣化で起動時に強いトルクが得られない場合は、ハードディスクが回らなくなるという不具合がおきます。 ハードディスクを長時間作動させていると、当然ながら熱を発生させます。 熱の発生源は、ディスク内を回る気流の発熱、モータの回転発熱、軸受け部の発熱、外部温度による加熱などが考えられます。
- ハードディスク内はホコリを特に嫌いますから、外部からホコリが入らないように密閉構造になっています。
- しかし完全密閉にすると気流の温度によって内部圧力が変わりヘッドとプラッタ間のギャップに変化が出てきます。
- そうした不具合をなくすために、ハードディスクには一箇所だけ小さな空気取り入れ口をもうけて、ディスク内の圧力を一定にする配慮がなされています。
- ▲ 磁気記録方式 - 水平磁気記録方式
- (面内磁気記録方式、Longitudinal Magnetic Recording、LMR)と 垂直磁気記録方式(Perpendicular Magnetic Recording、PMR) (2010.07.30記)(2010.08.20追記)
- 垂直磁気記録方式は、新しいタイプの磁性体の高密度記録方式です。
- デジタル記録方式として、HDD(ハードディスクドライブ)に採用されています。
- この方式は、1976年に岩崎俊一氏(1926.08〜: 東北大学電気通信研究所)が提唱を始め、 2005年に東芝が小型HDD(1.8型HDD、80GB、サイズ:54mm x 78.5mm x t8mm、重量:62g)での実用化に成功しました。
- 2011年にあっては小型HDDのほとんどがこの方式を採用して、高密度記録のハードディスクドライブ製品を販売しています。
- 従来の磁気記録は、水平記録方式(Longitudinal Magnetic Recording, LMR)と呼ばれるもので、磁極(S極とN極)が磁性面に拡がって記録されていました(右図)。
- 垂直磁気記録方式(Perpendicular Magnetic Recording, PMR)では、S極とN極を垂直状態で記録しています。
- なおかつ、記録スポットも小さくしています。
- 従って、垂直磁気記録の方が記録密度を3倍程度向上させることができ記録容量を増やすことができます。
- 磁性体に磁極を縦に打ち込む、というのがこの記録方法のキーポイントです。
- 水平(面内)磁気記録では、高密度記録を行おうとすると「熱ゆらぎ」(superparamagnetic effect)問題が浮上し、磁気記録が消失してしまう不具合がありました。
- 磁気記録装置の高密度化を達成していく上で、垂直磁気記録は福音となりました。
- ただ、垂直記録はデジタル記録に向いており、オーディオのようなアナログ記録では従来の水平磁気記録の方が特性が良いとされています。
- 垂直磁気記録は、高密度デジタル記録に向いてはいるものの、実用化には長い年月がかかりました。
- 実用化の大きな障害は以下のものでした。
- 1. 高密度で垂直に磁気記録を行う技術の確立
- - 新タイプの磁性体の開発と、垂直磁気ヘッドの開発。
- 2. ノイズとの戦い
- - 垂直磁気記録は磁性体の持つノイズが多かった。
- 新タイプの磁性体の開発。
- 3. スパイクノイズ
- - 垂直磁気記録に特有の再生時に発生するノイズ。
- 新タイプの磁性体の開発。
- 4. 広域イレーズ(WATER; Wide Area Track ERasure)
- - 記録時に、記録ヘッド主磁極から数十倍(数〜
- 数十ミクロン)離れたトラック信号が減衰または
- 消失してしまう問題。
- 新タイプの磁性体の開発。
- ■ PMR用磁気ヘッド
- 垂直磁気記録を行うには、あたらしく磁気ヘッドを開発する必要がありました(右図参照)。
- 垂直磁気記録用の磁気ヘッドは従来のものに比べて構造に大きな違いが見られます。
- 従来の水平磁気記録ヘッドは、リングヘッドと呼ばれるものでギャップに発生する磁界の作用で磁気記録面を磁化させていました。
- 垂直磁気記録では、記録を垂直に行う関係上ヘッドを単極構造として磁界を垂直に発生させています。
- この磁気ヘッドはとても小さいもので微細化技術が確立されて初めて実用化されました。
- ■ PMR用磁性体 垂直記録には、新しいタイプの磁性体の開発が不可欠でした。
- 磁性体は1960年代から金属蒸着法が開発されて主流となっていきます。
- メタル磁性体は、支持母体(アセテートフィルム、アルミ基板、ガラス基板)に磁性体金属材料をスパッタによって蒸着させるものです。
- この方法は、非常に薄い磁性体膜を形成することができます。
- 垂直磁気記録では磁極を縦に配列させる関係上、磁束を垂直に形成しなければなりません。
- そのために、磁性記録媒体はこれまでのものとは構造が異なったものが求められました。
- 右図が垂直磁気記録媒体の構造図です。
- この図からもわかるように、この記録媒体は二つの磁性体膜で構成されています。
- 一つが垂直磁化膜と呼ばれるもので、もう一つが磁性裏打ち層(軟磁性磁化膜、SUL = Soft Under Layer)と呼ばれるものです。
- 厚さ約0.8umの垂直磁化膜は、カラムと呼ばれる柱状の結晶構造体で形成され、小さな磁石を形作っています。
- カラムは、8nm〜10nm径の大きさをもったものでCoを主成分としています。
- この膜は、コバルト(Co)とクロム(Cr)をCo:Cr=4:1の割合で配合しRFスパッタ(Radio Frequency Sputter)によって蒸着を施すことによって、このような結晶構造が出来上がるそうです。
- この構造は、垂直磁化を行うのに極めて都合の良い構造でした。
- カラムは、磁性の強いCoの結晶で出来ていて、その周りを非磁性のCrが取り囲む構造となっているため、カラムは小さな磁石となります。
- 磁性裏打ち層(軟磁性磁化膜)は、垂直記録する際に磁界を安定させる働きがあります。
- これがないと磁気ヘッドを記録媒体に挟まなければなりません。
- このような磁気ヘッドは実用上不可能に近いので、磁性を垂直に打ち込んでなおかつ安定させるための工夫、すなわち磁性裏打ち層が必要だったのです。
- ▲ RAID(レイド、Redundant Arrays of Inexpensive [or Independent] Disks)
- ハードディスクは壊れるもの、という観点に立って、ディスクが事故によって壊れてもバックアップハードディスクで障害を復旧するシステムが構築されました。
- それがRAIDと呼ばれるシステムです。
- このアイデアは、1988年、カルフォルニア大学バークレー校のDavid Pattersonによって提唱されたものです。
- このシステムは、ハードディスクを2台以上使ってデータを分散保存させ、1台のハードディスクがクラッシュしても別のディスクに保存されたデータをバックアップとして使うというものです。
- RAIDは、データの分散処理を基本思想としているため、データの安全保存の観点と、データの高速処理を行うことを目的に使われています。
- RAIDは、ハードディスクの構成(ハードウェア)とディスクを管理するソフトウェアから成り立っていて、ユーザの要求するレベルよって7段階に分かれています。
- 最も簡単なRAIDシステムが、RAID0とRAID1と呼ばれるものです。
- タイプ
- ハードディスク数
- 特 徴
- RAID 0
- 2台〜
耐故障性のシステムではなく、高速読み書きを目的としたシステム。 並列処理するので高速のデータの読み書きが可能。 2台以上のハードディスクにデータを分散して書き込む。RAID本来の目的ではないため「0」レベルが与えられている。 RAID本来の目的ではないため「0」レベルが与えられている。
- RAID 1
- 2台〜
ミラーリング機能。 複数台のハードディスクに同じ内容のデータを書き込む。 もっともシンプルな構成。
- RAID 5
- 3台〜
RAIDシステムの主役的存在。 データを巧妙に複数のハードディスクに分散させ、 かつデータをブロック毎にわけ誤り訂正機能を充実させている。 迅速なバックアップ処理ができる。
- RAID 0 +1
- 4台〜
RAID0とRAID1の双方の機能を持たせたシステム。 高速性と耐故障性を持たせたシンプルなシステム。 ハードディスクは最低4台必要。- RAID 0では、高速読み書きのシステムとなっていて、分散してデータの読み書きをします。
- このレベルのものは、データを2重に保存しないので、障害復旧としての機能はありません。
- 障害復旧を目的としたバックアップシステムは、RAID 1が最も単純で、2つのHDDに同じデータを保存する機能になっています。
- RAIDを構築するには、ハードディスクドライブを管理するソフトウェアと複数のハードディスクを購入します。
- 市販品では、さまざまのRAIDシステムが供給されていて、管理ソフトとHDDを組み合わせたパッケージで販売しています。
- HDDはモジュールで交換できるようになっていて、不具合が生じた場合、管理ソフトウェアが警告を出して、新しいものと交換を促すようになっています。
- こうしたことからも、ハードディスクドライブは、現在(2009年)も、高速、大容量、バックアップメモリとして現役で使われていることが理解できます。
- 【磁気ディスクのファイルシステム(FAT、NTFS、HFS)】 (2010.05.20記) (2010.06.23追記)
- コンピュータ、特にパーソナルコンピュータの普及に伴ってフロッピーディスクやハードディスクなどの磁気ディスク装置がたくさん開発されてきました。
- 磁気記憶装置は、コンピュータのOS(オペレーティングシステム)で管理されるもので、保存形式の規格(ファイルシステム)はOS毎に作られてきました。
- ディスクの物理的な割り振りはセクタ(sector)と呼ばれる細切れの記憶単位で構成されますが、そのセクタをファイルとどのように関係づけて簡単に読み書きできるようにするかがOS(Operating System)の役割の最も大きな一つでした。
- パーソナルコンピュータに使われているOSの大きな流れは、マイクロソフト社のMS-DOSとWindows、アップル社のMacOS、それにUNIXがあります。
- この流れに沿って多くのファイルシステムが規格化されて使われてきました。
- 我々が使うコンピュータはWindowsかMacであるので、この項ではこうしたパーソナルコンピュータで良く使われてきた3種類の規格(FAT、NTFS、HFS)について述べたいと思います。
- ■ FAT(File Allocation Table)
- FAT(ふぁっと)は、マイクロソフト社がOSを作り始めた1970年代にできたもので、MS-DOSとWindowsの成功によって今日まで使われている最も有名な標準フォーマットです。
- このフォーマットに従って、MS-DOSやWinodwsで動くコンピュータのハードディスクやフロッピーディスクのファイル構造が作られ、データの書き込みが行われていました。
- ディスクにデータを格納する手法は、IBMがフロッピーディスケットを開発した当時の構造と基本的には変わりません。
- FATは、そうした物理的なフォーマットをもとにして、データファイルをより効率的に高速且つ確実に読み書きできる管理プログラム(台帳)でした。
- コンピュータの高性能化と取り扱うデータ容量の大容量化に伴って、以下の4種類の拡張がなされてきました。
- ・ FAT (= FAT12) - 1977年
- ・ FAT16 - 1987年
- ・ FAT32 - 1996年
- ・ exFAT - 2006年
- ▲ FAT12
- FATは、パーソナルコンピュータに使われた一番最初のファイルシステムで、ビル・ゲイツとマーク・マクドナルドによって1977年に開発されました。(IBM-PCが発売された1981年の4年前のことです。)
- マイクロソフト社が、DISK-BASICの管理仕様の中で取り決めた規格です。
- この規格では、12ビットカウントのクラスタ(cluster)でデータ管理されていたので、ディスクは4,084個のクラスタで構成されていました。
- 本来、12ビットカウントですと4,096個の管理ができます。
- そのうちの12個は管理用に割り当てられるため、有効なデータ管理数は4,084個となりました。
- クラスタはOSが管理するディスクデータの「まとまり」であり、方やディスクはセクタと呼ばれる記憶単位(小部屋)を持っています。
- クラスタは、セクタ(小部屋)のさらに大きなひとまとまりという位置づけで良いでしょう。
- セクタだけだとあまりに大きなカウント数になってしまうため、セクタを束ねるクラスタの概念を導入して記憶容量の大小によりクラスタの大きさを変えてOSの管理できるカウント数にしたのです。
- クラスターは、別名アロケーションユニットサイズ(allocation unit size)とも呼ばれ、マッキントッシュ(HFS、HFS+)ではこの言い方を使っています。
- クラスタは、OSがファイルを管理するための1ブロックであるため、文書や画像ファイルの大きさによって複数のクラスタが割り当てられました。
- 1つのクラスタには、Windows9xの場合、512バイト〜32kB( = 32,768 B、64セクタ分)が組み込めます。(セクタ管理なので、512 x 2n、n = 0〜6 の飛び飛びの値となります。)
- クラスタは1セクタであることもあり、64セクタであることもありました。
- ディスクには、物理的に部屋割りされているセクタがあり、これは512バイト( = 29 バイト = 29 x 23 = 212 ビット)と決められています。
- 1セクタは、フロッピーディスケットが開発されたときに、パンチカード1枚分の情報量(128バイト)と決められていましたが、MS-DOSの時代に512バイトとなりそれが標準規格として長く続きました。
- フラッシュメモリで2011年1月から発売されるものについては、セクターサイズを4096バイトと大きくして、画像や音楽ファイルのアクセスをしやすくするようになっています。
- これはメモリが大容量化してファイルサイズも大きくなってきていることへの対応です。
- クラスタの大きさは、ディスクの容量によって最適なセクタ数が定義されます。
- クラスタサイズが小さいとディスク容量を大きくすることができません。
- クラスタサイズが大きいと読み書きが速くなる反面、容量の小さいディスクでは総クラスタ数を多く取ることができず、たくさんのファイルを保存できなくなります。
- この兼ね合いでクラスタサイズは決められます。
- 1990年代に使われていたフロッピーディスクの場合は、1クラスタが1セクタ( = 512バイト)となっていました。
- OSによるデスク管理は、CPUが16ビットの場合には総セクタが216 = 65,536までしか管理できず、1セクタが512バイトですから、最大容量が33.5MBまでとなります。
- これが16ビットCPUで管理できるデータ容量の限界です。
- このセクタ数と最大容量の制約の中で、12ビットカウントによるクラスタ管理が行われました。
- 1980年当時の33.5MBの容量は十分なものでしたが、時代と共にこのデータ管理では手狭になったためFAT16が規格されました。
- FAT12で扱うファイル名は、8文字の英数字と拡張子3文字で構成されました。
- このフォーマットは、主にフロッピーディスクで使われました。
- しかし、磁気ディスクが一般的になってくると、これでは手狭になりました。
- ■ フラグメンテーション(fragmentation)
- 記憶装置へのデータ保存が、上で述べたようなクラスタと呼ばれる区割りで行われるため、8セクタ(= 4kB)を1クラスタとして構成される磁気ディスクでは、FAT12は総合計16.73MB容量となります。
- この磁気ディスクに1kB容量のデータを記憶する場合、ファイルは1クラスタ単位でしか保存できないので、磁気ディスクには1クラスタ = 4kBが割り当てられます。
- 100kBのデータには25クラスタが当てられます。
- このようにしてデータをクラスター単位で割り振るために、小さなファイルを消去して大きなファイルを記録しようとすると消去した小さいファイルに入らなくなります。
- この場合、別に大きな記憶領域があればそこにデータが保存されますが、ない場合には空いたクラスタを見つけて別々に保存します。
- また、ディスク内にはうまく詰め込めなかった小さな空いたクラスタも点在するようになります。
- これが断片化(フラグメンテーション)です。
- 断片化がおきると、ファイルを読み出すときに時間がかかるようになりアクセスが遅くなります。
- このようにして分散化してしまった関連データのクラスタを効率よく再配置するのがデフラグ(defragmentation)です。
- ▲ FAT16
- FAT16は、1987年にDOS3.31で管理できるフォーマットとして作られました。
- データを管理するアドレスが初期の12ビットから16ビットとなりました。
- 16ビットとなったことにより、総クラスタは65,517個となりFAT12より16倍に増えました。
- クラスタは、FAT12と同じで512バイト〜32kB( = 32,768B)での設定となっていました。
- ディスク自体は、16ビット規格で割り振られますのでボリュームは最大2GB( = 32kB x 216)となります。
- つまり、2GB以上のハードディスクはこのフォーマットでは認識できないことになります。
- FAT16は、Windows95まで使用され、Windows98からは32ビット対応のFAT32となったため、 以降、Windowsのディスク管理はFAT32が主力となりました。
- FAT16の後期には、ファイルネームが従来の英数字8文字だったものから255文字まで使用できる規格になりました。
- 日本語などの2バイトを使用する名前については、16文字まで使用できました。
- この機能が使えるFAT16をVFAT(Virtual FAT)と呼んでいました。
- ▲ FAT32
- FAT32は、1996年にWindows95以降で管理できるフォーマットとして作られました。
- データを管理するアドレスが32ビット(実際は、4ビット分は予約に割り当てられるので28ビット)となりました。
- このため、ハードディスクを管理できるボリュームが2TBまで拡張されるようになりました。
- FAT32は、Windows95、Windows98、WindowsMeでよく使われましたが、Windows2000/XPでは以下に述べるNTFSが主流となりました。
- NTFSは、WindowsNTで開発されたフォーマットですが、信頼性や機能性、安定性が優れていることからFAT32よりもNTFSが使われることが多くなりました。
- USBタイプのフラッシュメモリにはFATが採用され、小容量のものはFAT16、16GBなどの大容量にはFAT32が採用されています。
- この方式の採用によりMacintoshでもWindowsXP/Vista/7でも双方で使えるようになっています。
- ちなみに、WindowsXPで標準採用されているNTFSは、Macintosh(Mac OSX)からでは直接アクセスができないため(読み込みはできるが、書き込みはできない)、データの書き込みはネットワーク経由で行うか、一旦FATによるディスク(フラッシュメモリ)に書き込んで処理する方法が取られています。
- ▲ exFAT(extended File Allocation Table)
- exFATは、大容量化するフラッシュメモリを管理するフォーマットとして2006年に作られました。
- これは、Windows Embedded CE(携帯用端末装置)向けに開発されたものです。
- 携帯用端末装置のOS向けに規格化されたものとはいえ、64ビット対応であるため、扱えるデータ容量(ファイルサイズ)は最大16EB(エクサバイト)(16E18バイト = 264バイト)に及びます。
- exFATではボリューム全体を最大ファイルサイズにあてることができますので、最大ボリュームサイズは16EB(エクサバイト)となります。
- クラスタサイズも理論上2255セクタまで定義でき、実装上は1クラスタを32MB( = 225 B)までとすることができます。
- 非常に大きなクラスタを確保することができます。
- exFATは、WindowsVISAにも導入されました。
- WindowsXPには基本的には対応しておらず、Windows XP SP2/SP3にてマイクロソフトが公開しているexFAT対応の更新プログラムを適用する必要があります。
- アップル社のMacintoshからのアクセスもできません。
- また、このファイルシステムは、内蔵ハードディスクには対応していません。
- ■ NTFS(NT File System)
- このフォーマットは、WindowsNT用に作られたフォーマットで1993年に規格化されました。
- 同じマイクロソフト社の開発品であるのにFATとの互換性はありませんでした。
- つまり、このフォーマットで管理された磁気ディスクはMS-DOSやWindows95搭載のパーソナルコンピュータでは使えなかったのです。
- このフォーマットは、マイクロソフトがサーバーなどの基幹OSであるWindowsNTを開発したときにその一貫として規格化したもので、パーソナルコンピュータのOSであるWindows95/98とはまったく別物でした。
- しかし、このフォーマットは当初から大容量でのディスクアクセスができ、信頼性もFATより高かったので、Windows2000/XPで使用されるようになりました。
- 以降、NTFSは2000年代後半のWindowsXP、WindowsVista、Window7の標準フォーマットとなりました。
- 右図は2004年に購入したWindowsXP搭載DellノートPCのハードディスクのプロパティで、これを見るとファイルシステムがNTFSになっていることがわかります。
- ボリューム
- サイズ
- アロケーション
- ユニットサイズ
- > 512MB
- 512B
- 512MB - 1024MB
- 1kB
- 1024MB - 2048MB
- 2kB
- 2GB <
- 4kB
- WindowsXPでのNTFSフォーマットに使用されるクラスタサイズ(アロケーションユニットサイズ)
- 【NTFSの特徴】
- ・ Bツリー構造の採用。
- Bツリーは、Binary Treeの略で、2分木と略される。
- ツリー状のデータ構造のため検索が速く管理がしやすい。
- BツリーはMacintoshのファイルシステムにも採用されている。
- ・ 大容量化
- 1ファルが1ボリューム丸ごと占拠する容量にまで拡張された。
- 1ファイルの最大容量は2TB( = 241 B)。
- これは、1ファイルの最大が2GB( = 231 B)であるFAT32よりも大容量。
- 理論的には、1ボリュームは最大16EB
- (エクサバイト、16E18 B = 264 B)まで可能。
- ・ ジャーナリングファイルシステム(Journaling File System)
- この機能は、ディスクへのデータ保存などで電源遮断などの不具合が
- 起きた際に、必要最低限のダメージでディスクを守る機能。
- この機能がない場合は、ハードウェア自体のクラッシュに陥る。
- この機能によって、FATより信頼性が高くなった。
- この機能を採用しているのは、NTFSの他、UNIXとMacOS( = HFS+)。
- この機能は、コンピュータがファイル処理を行う毎に逐次ログを残しておき
- CPUの異常停止などでファイル処理が中断したとしても、そのログを頼りに
- 迅速にファイルデータを復旧させるというもの。ファイル保存手順はその分時間がかかる。
- ・ 圧縮機能
- 個々のファイルやフォルダ、もしくはボリューム全体を圧縮することが可能。
- ・ 暗号化機能
- 個々のファイルやフォルダに対して暗号をかけることができる。
- ・ セキュリティの向上
- 個々のファイルやディレクトリにACL(Access Control List)によるアクセス権の設定や監視の設定ができる。
- ・ Windows9X系、Macintoshとの親和性がない。
- ■ HFS(Hierarchical File System)
- このファイルシステムは、アップル社のマッキントッシュが採用したもので、1985年に開発されました。
- 「Mac OS標準フォーマット」とも呼ばれています。
- アップルが1985年以前まで採用していたフォーマットは、MFS(Macintosh File System)と呼ばれていたもので、箱(ディスク)の中にデータをそのまま入れ込むようなフラットな構造でした。
- これをツリー構造(フォルダーで管理する構造)に変えたため、階層化(Hierarchical)という言葉が使われました。
- ツリー構造はB分木(Binary Tree)と呼ばれ、コンピュータのデータ管理の基本的なものであり、検索や保存のための管理が容易な構造です。
- B分木は、B+木(B + Tree)やB*木(B* - Tree)の二つに派生し、MacintoshではB*木構造が採用されています。
- Windowsの世界では、NTFSがB分木を採用しています。
- マックのファイルシステムの大きな特徴は、2つのコンポーネントを持つフォーク構造にあります。
- HFS+では、二つ以上のフォークを持つ構造となりました。
- フォークとはコンピュータ用語でプログラムの派生という意味で、食事に使うフォークのように根本から分岐している様から名付けられました。
- HFSではファイルそのものであるデータフォークのほかに、アイコンやファイルの属性を書き記したリソースフォークの2つのフォークでファイルが構成されていました。
- アップルは昔からファイル名に拡張子をつけなくてもファイルの属性がわかったり、フォルダやファイルをアイコンで表示できたのは、リソースフォークに柔軟性があったからです。
- 1998年には、HFS+(Mac OS拡張フォーマット)というフォーマットが作られMac OS8.1に組み込まれました。
- MacOSXでは、HFS+が標準フォーマットになったため起動ディスクとしてHFSは使用できなくなりました。
- HFS+の大きな特徴は、ファイルのブロックを4kB(=アロケーションサイズ、クラスターサイズ)とし、最大ファイルサイズが4EB(エクサバイト)となり、最大ボリュームサイズが16EBまで扱うことができるようになったことです。
- アロケーションブロックは、記憶媒体の総容量によって変わり、以下のような設定となっています。
- ファイル文字は255文字まで対応しています。
- また、ジャーナリング機能を持たせていました。
- こう書くとHFS+は、NTFSと性能が良く似ていることがわかります。
- 要するに、ファイルシステムは時代とともに大容量化し、信頼性も向上させて使いやすくなってきたと言えます。
- HFS+は、iPodにも採用されています。
- ボリューム
- サイズ
- アロケーション
- ユニットサイズ
- > 256MB
- 512B
- 256MB - 512MB
- 1kB
- 512MB - 1GB
- 2kB
- 1GB
- 4kB
- HFS+フォーマットに使用されるアロケーションユニットサイズ(クラスタ)
- ■ HFSの規格
- ・ 規格年: 1985年
- ・ フォーク: 2
- ・ 構造: B*木
- ・ ファイルサイズ: 最大 2GB ( = 231B)
- ・ ファイル数: 最大65,535 ( = 216)
- ・ ファイル名: 最大31文字 ( = 25)
- ・ ボリューム: 最大2TB ( = 241B)
- ・ ジャーナリング: 無し
- ■ HFS+の規格
- ・ 規格年: 1998年
- ・ フォーク: マルチフォーク
- ・ 構造: B*木
- ・ ブロックサイズ: 4kB固定 ( = 212 B)
- ・ ファイルサイズ: 最大 8EB ( = 263 B)
- ・ ファイル数: 限度無し
- ・ ファイル名: 最大255文字(Unicode対応)
- ・ ボリューム: 最大16EB ( = 264 B)
- ・ ジャーナル機能: 有り
- ↑にメニューバーが現れない場合、
- ←クリックして下さい。
- 光による記録 (2009.07.26追記)(2011.03.03追記)(2022.04.10追記)
- 映像を記録する媒体は、1830年代の銀塩感光材料から始まり、100年後の1930年代に開発された酸化鉄による磁性体(薄膜フィルム)で大きく飛躍しました。
- 酸化鉄磁性体による映像記録は、電子記録を可能にするものでした。
- 1980年代になると、銀塩感光材料や酸化鉄磁性体とは方式の異なる光を使った記録装置が登場します。
- この光記録にレーザが大活躍します。
- ■ レーザの役割
- 光ディスクと呼ばれる記録メディアは、レーザの発明と発展により完成を見ました。
- レーザが発明されていなければ、ここに述べる光ディスクメディアは日の目を見なかったことでしょう。
- それほどにレーザの発明は画期的なことでした。
- レーザが光ディスク記録に大きな貢献をした理由を挙げます。
- 1. ミクロン単位のビームスポットが容易に得られる。
- 2. エネルギー密度が高く、しかもエネルギー出力を制御しやすい。
- 3. 単一波長であるため、ノイズ光を取り除きやすい。
- 4. 波面が揃っている。干渉が起きやすいためノイズ成分を除去しやすい。
- 5. 偏光が利用でき、信号検出が行いやすい。レーザ光は偏光を持ち合わせているので偏光を利用した光学系が作りやすい。
- ■ 光ディスクの種類
- 光ディスクを代表するものは、CD(コンパクトディスク)です。
- CDが母体となって、DVD、Blu-rayディスクへと発展しました。
- また、レーザーの持つ高密度熱エネルギーを利用して熱によって磁性が変化する磁性体材料が開発され、MOやMDの開発が行われました。
- ここでは、レーザを使った光ディスクによる映像(データ)記録媒体を紹介します。
- 【光磁気ディスク(Magneto - Optical Disk = MO)】 (2007.11.30)(2011.03.03追記)
- ■ MO以前の光ディスク - レーザディスク(LD)
- MO(光磁気ディスク)は、1980年代後半に登場します。
- MOは、コンピュータ用の記憶装置としての位置づけが強い製品ですが、MOが出される前の光メディアには光ディスクがありました。
- これは、レーザディスク(Laser Disc)という名前のもので、日本のパイオニアが1981年に市販化しました。
- レーザディスク(LD = Laser Disc)は、デジタルではなく、アナログ録画でした。
- レーザディスクが開発された1981年当時、高速デジタル技術は進んでいなかったので、記録媒体は光ディスクであってもアナログ映像信号(NTSC信号)を光変調して、30cmサイズのディスク(塩化ビニールのLPと同じ大きさ)に映像情報を書き込んでいました。
- この時期は、家庭用のVHSとベータマックスが熾烈な競争をしていた時期です。
- この時期に開発された光レーザディスクは、絵の出るレコードとして売り出されました。
- このメディアを使って、カラオケが映像付きとなり、映画がディスクに焼き直されて9,000円前後の値段で売られ始めました。
- 最盛期は1990年で、約81万台の販売規模があったそうです。
- 1998年以降、DVDの発展とともに衰退して製品の開発がストップし、2009年3月にパイオニアの製造中止によって寿命が終わりました。
- 光レーザディスクが淘汰されたのは、以下の要因があったからです。
- ・ 光レーザディスクが30cmという大きさ(LPレコード盤の大きさ)であったこと。
- ・ アナログ記録であったこと。
- ・ 安価にならなかったこと。
- ・ 再生専用がメインであり、記録可能な装置は高価であったこと。
- ・ DVD、CDがメディア分野とコンピュータ分野に急速に浸透して行ったこと。
- 【LaserDisc VP-1000の仕様 1980年パイオニア社】
- ・ディスク: 直径30cm、アクリル材質
- ・記録面: アルミ蒸着
- ・ピット(記録情報): ピット巾0.4um、深さ0.1um、トラックピッチ1.6um
- ・記録: ダイレクトFM変調によるスライスした矩形波によるNTSC信号記録(アナログ)
- ・再生時間: CAVにて片面30分、CLVにて片面60分
- ・モータ回転数: CAV(回転数一定)にて1,800 rpm、
- CLV(線速度一定)にて1,800 rpm(内側)〜600 rpm(外側)
- ・レーザ: ヘリウムネオンガスレーザ、出力1mW、発振波長λ = 632.8 nm
- ・ビデオ出力: NTSC(アナログビデオ)信号
- ・解像力: CAVモードにて、内周部336本、外周部440本(平均400本)
- CLVモードにて336本 ・S/N: 42dB以上
- ・スチル再生: 可能。円周1回転がビデオ映像1フレームに相当。
- ・正逆サーチ機能: あり
- ・電源: AC100V、 95W
- ・寸法: 550W x 142H x 405D、 17.5 kg
- ■ VHD(Video High Density Disc、う゛い・えいち・でぃ)
(2009.11.17) - レーザディスクが登場した時代に、LD(レーザーディスク)に対抗したビデオディスクがありました。
- それはVHDと呼ばれたもので、1983年に日本ビクターが開発しました。
- このビデオディスクは光学式ではなく静電容量式のピックアップを持っていて、26cmのディスクサイズでした。LDは30cm径でした。
- 信号を取り出すピックアップはディスクに接触していて、ディスク面に記録された静電容量による情報を取り出す方式となっていました。
- もちろんアナログ方式です。 ディスク面には溝はなく、900rpmの一定回転で回るCAV方式でした。
- ディスクがピックアップと接触する関係上、ディスクはキャディ(カートリッジ)に入れられていました。
- ホコリを嫌ったのです。
- 競争相手のLDは、キャディ無しのベアディスク(CDやDVDと同じ)でした。
- 興味あることに、このVHDはVHSビデオテープレコーダを開発した日本ビクターが手がけて、この方式に参入するメーカには松下電器(パナソニック)、三洋、日本電気、シャープ、三菱電機など15社が名を連ねるという、数とネームバリューではライバルを圧倒していました。
- レーザディスク方式は、パイオニアの一社でした。
- ソニー(と日立)は、当初、なぜかいずれの陣営にも組みせず、後になってレーザディスクに参入しました。
- この事実は、技術的に考えてみますと、当時レーザ光源はとても高価でありそれに安定性の問題もあったため、多くのメーカがLDに参入するのを躊躇したのではないかと考えます。
- 1980年初頭の半導体レーザは、CD用の赤外小型小出力のものはできていたものの、映像を記録・再生するだけの短波長(赤色)で高出力のものはまだできていませんでした。
- 当時は、VHSが松下・日本ビクターを中心としてすごい勢いをもっていましたから、その陣営が開発する新製品を扱えば道は拡がるとも思ったのかも知れません。
- 次世代の絵の出るレコードの開発を巡って各社が激しい競争をする中で、レーザを制御する技術を獲得したパイオニアがVHD陣営よりも早く商品化にこぎ着けました。
- VHDもLDと同時期に発売する予定であったのが、技術開発の遅れで大幅にずれ込み1983年となりました。
- VHDは、しかしながら、水平解像力が240本程度とVHS程度の低さであり、しかもピックアップのメンテナンスも行わなければならないため、当時主流になりつつあったテープ方式のVHSの方が使い勝手が良かったこともあり(安価、ダビング、コピーができる)、それほど需要を喚起するにはいたりませんでした。
- また、使い勝手がよく画質に優れるレーザディスクに大きく水をあけられることにもなりました。
- VHDは、盤面が汚れると音飛びや画像乱れが多くあったそうです。
- レーザディスク(LD)装置にCDも読み込めるようになった CLD-9000の発売(1984年)が、VHDの息の根を止めた出来事だったと言われています。
- このためVHDは、早々にホームビデオ市場からは撤退して、カラオケ市場に軸足を移ました。
- しかし、それも2003年6月をもって市場から撤退することになりました。
- ■ MO(Magneto Optical Disc、光磁気ディスク)の開発 (2010.07.10追記)
- コンピュータ周辺装置としてのMO(= Magnet Optical Disc)は、1988年に5.25型(インチ)の光磁気ディスクとして登場します。
- 3.5型(インチ)タイプのMO。2HDフロッピーとほぼ同じ大きさで厚さは2倍以上あった。ハードカセットに収納されている。
- その後、一般的になる3.5型(インチ)サイズ128MBのMOは、1991年に出荷されました。
- 当時は、パソコンの急速な発展に伴ってFDD(フロッピー)の記憶容量に限界を感じていた時期であり、フロッピーディスク感覚でデータを保存、消去できる光磁気ディスク(MO)の登場は、そうした要求を十分に満たすものでした。
- MOは、CDよりも開発が遅く高度な技術を必要としていました。
- MOの画期的な所は、データを何回も消去でき、しかもランダムに読み書きができることでした。
- データ容量も3.5型(インチ)タイプでは、128MB、230MBが販売され、540MB、640MBと進化していきました。
- その後、2.3GB容量のMO( = GIGAMO)が製品化されました。
- 後年、CDが音楽メディアからコンピュータのデータメディアに進出してきて、コンピュータのデータ記録メディアの主流となったとき、MOは脇役とならざるを得ませんでした。
- CDがパソコンメディアの主流になった時、CDのデータ記録方式がフロッピーやハードディスク、MOのそれとは異なっていたために大いに戸惑ったことを記憶しています。
- CDは、細かなファイルの読み書きができず、媒体内(CD)に一気に書き込みを行わなければなりませんでした。
- これは、CDがデータの読み書き用に開発されたのではなく、音楽を再生するために作られたことに起因しています。
- 音楽録音は、LP(塩ビのレコード)に見られるように蚊取り線香のような渦巻き状に一本の溝で連綿と記録していくものです。
- データをセクタ毎に入れ込んでいく細切れの録音ではないのです。
- 音楽のレコードの代用として開発されたCDでしたが、メディア容量の大きさとディスク単価の安さからパソコン業界に大いに受け入れられて行きました。
- 2000年後半のMOは、CD及びDVD、半導体のスティックメモリの発展に隠れてしまい、一時期の趨勢を挽回できなくなりました。
- その理由の第一は、MOメディア(ディスク)とMOドライブ装置が高価だったことです。
- MOが128MBの容量を持って登場したときには、CDはすでに5倍も大きい650MBの容量を持っていて、ディスク価格も1/20以下と安価でした。
- また、汎用性の高いCD/DVDドライブ装置がコンピュータの標準I/O(入出力装置)として装備されて行ったのに対し、MOは最後まで外付けの周辺装置であったため、ことさらにMOを買う必要性がなくなってしまいました。
- CDやDVDが、データの消去と書き直しができるようになったり、急速にデータ容量を増やして行ったことも、MOが主導権を奪えなかった要因となりました。
- また、日本ではそこそこの需要を掘り起こしたのに対し、欧米でのマーケティングは芳しいものではありませんでした。
- ▲ MOの記録・再生原理
- MOの情報記録には、酸化鉄の磁性体と異なり、温度に依存する磁性体を使っています。
- 記録面を一旦高温(摂氏150度〜180度)に熱して磁性状態を開放し、温度が冷えて磁性が回復する時点で、外部から磁力を与えて磁化させるという方式をとっています。
- 磁化された記録面は、常温ではその情報を保ち続けます。
- ですから、MOは通常の状態で磁石を近づけても磁化されることはありません。
- ここの所が、酸化鉄磁性体を使ったフロッピーディスクや磁気テープ、ハードディスクドライブと異なる点です。
- 物性が磁性を失う温度をキュリー点と言います。 そのキュリー点に到達させるのに、エネルギー密度の高いレーザ光を使います。
- 一般的には赤色レーザが使われてきました。
- このように、MOとCD/DVDでは記録方式が異なったものになっています。
- MOが磁気記録を基本としているのに対し、CD/DVDは磁気記録方式を採用していません。 記録が一回だけのCD-Rは、有機色素材料を用いてMOより強いレーザ光でピット面を焼き切る形で光学的な記録をします。
- CD-RWというタイプはデータを何度も消去して記録できる方式であり、この点ではMOと似ています。
- しかし、CD-RW(およびDVDのリライタブル)ではアモルファス金属を用いて、この面をレーザの熱エネルギーによって結晶構造を変えます。
- この時に結晶構造面の反射率が変わるため、その反射率を検知してデータを読み出す方式をとっています。
- 磁性材料ではないのです。
- MOでは、CD/DVDの記録方法とは異なり磁性という形で記録されます。
- データを読み出す時には、磁化された面が偏光という特性をもって入射した光を偏光反射させるので(磁気光学カー効果)、記録時よりも弱いレーザ光を当てて偏光の度合いを検出して記録した情報を取り出します。
- こうした記録を可能にする記録材料には、希土類(R)と遷移金属元素(TM)による合金アモルファスがあります。
- この材料をポリカーボネート基板の上にサブマイクロメータの厚さで真空蒸着(薄膜生成)させています。
- 光磁気ディスクは、光(熱)による記録再生を基本としているので、ディスク製造には安定した記録保持ができる記録材質の開発が大切な課題でした。
- ▲ MOの存在価値
- MOは、2011年時点のコンピュータ周辺記録装置の中にあって、CDやDVDに主導権を奪われてしまっています。
- しかし、MOにはMOならではの大きな利点があります。
- それは耐久性です。
- MOのデータ保持する寿命は50年とも100年とも言われ、記録回数は1000万回と言われています。
- この耐久性は、ハードディスクやフラッシュメモリなどと較べて桁違いの性能です。
- この観点から、MOは大切なデータを長く保存したい要求に十分に応えることができ、今現在も根強い支持を得ています。
- MOが高い耐久性を持ち得るのは、以下のような要素によるものです。
- 1. MOディスクが堅牢なカートリッジに収納されているため、 外部からのチリやホコリ、引っ掻き傷に強い。
- 2. MOディスクは、CDやDVDディスクに較べて2倍ほどの厚さがあり、表面を厚いポリカーボネートで覆われているのでキズに強い。
- 3. MOに使用されるレーザ光は、弱い出力で読み書きを行うのでディスクへのダメージが少ない。
- 4. 常温での磁石による磁化がない。
- 5. 非接触操作なので、ハードディスクやフロッピーディスクのようにディスクの摩耗がない。
- 6. CD-R、DVD-Rの記録メディアよりも紫外線に対して強い。経年変化に強い。
- MOは世界的な普及はありませんでしたが、日本では比較的堅調にシェアを維持していて、官公庁などでの長期間文書を保存する必要のある機関や、出版関係では根強い需要を持ってきました。
- また、5.25インチのものは引き続き開発が行われ、青紫レーザを用いた200GB容量のディスク開発が行われています。
- 2011年にあってMOディスクドライブを製造しているメーカはありません。
- メディア製造は、2009年9月末に日立マクセルが製造を終了し、同年12月末に三菱化学メディアが販売を終了しました。 製造を続けていたソニーも2018年に販売を終了しました。(2022.04.20追記)
【CD = Compact Disc】
- (Discは英国表記、通常はDiskであるがソニーはDiscを登録商標に用いた)(2009.09.17)(2009.11.20追記)(2020.05.10追記)
- CD(コンパクトディスク)の誕生は1982年です。
- CDの登場は、データメディアに一大革命をもたらしました。
- 650MBの記憶容量をもつCDは、オーディオをデジタルにパッケージングするのに十分であり、パソコンのデータ保存にも十分でした。
- CDが開発された時期の1982年は、IBMがパーソナルコンピュータが開発された年であり、またフロッピーディスクやハードディスクドライブが開発された年でもあります。
- CDは、今の感覚からするとコンピュータのデータメディアとして開発された印象があります。
- しかし、実際は音楽用として開発されました。
- 黒い塩化ビニールのレコード(LP = Long Play Record Album、大きさφ12インチ = 30.5cm、 両面録音、アナログ記録ディスク)に代わるデジタルディスクとして開発されたのです。
- CDは、ハードディスクドライブのようにコンピュータ用データ保存用として開発されたわけではありません。
- CDは、ソニー、日立、日本コロムビアによって、デジタルオーディオディスクとして発売されました。
- コンピュータ用メディアであるCD-ROM(Compact Disc Read On Memory)は、音楽用CDが発売された3年後の1985年に作られました。
- データファイルをPCを使って記録保存できるCD-Rは、1989年にソニーとフィリップスによって開発されました。
- CD-ROMとCD-R(後年のCD-RW)は、パソコンの発展に無くてはならないものとなりました。
- 音楽用CDは、実用的なデジタル録音メディアであり、品質がよくて取り扱いも楽なことから市場に急速に普及し、発売7年後の1989年にはそれまで主流であったレコード盤(LP)に対する売上シェアを90%としました。
- 2007年、新譜LPの姿は店頭にありません。
- CDは、1982年の発売以降28年の歴史(2010年時点)を持つことになります。
- 随分と長い間音楽ソースとして君臨して来たように思います。
- ちなみに、ステレオのレコード盤は1958年に開発されました。
- 24年後の1982年にデジタルオーディオの元祖であるCDが発売されました。
- 1982年は、デジタルオーディオ元年と呼ばれています。
- CDの対抗馬であるレーザディスク(LD)は、1972年、オランダフィリップス社で開発されました。
- このディスクは、光学式ビデオディスクでしたがデジタルではありませんでした。
- 1977年に、このビデオディスクを基本としたオーディオディスクが、ソニー、三菱、ティアック、日立、日本コロムビアから発売されました。
- (そのCDは、2001年のiPodの発売を契機にMP3音楽ファイルが主流となり、インターネットからダウンロードされるようになると急速に需要を減らしていきました。(2020.05.10追記))
- ■ 光ディスクの標準となった120mm径、厚さ1.2mm規格
- 1979年、フィリップス社は現在のCDの原型となった直径11.5cmのコンパクトディスクを発表します。
- このサイズの根拠は、フィリップスが開発したオーディオカセットの対角線から割り出したサイズと言われています。
- このディスクサイズで、14ビットの量子化による60分のデジタル録音ができる設計になっていました。
- しかし、この仕様に満足しなかったソニーは、ベートーベンの第九交響曲がそっくり入る67分の録音と16ビットの量子化を提案したために、最終的に12cmの直径となりました。
- 12cm径のCDは、75分の録音が可能でした。
- 1980年には、フィリップスとソニーによってコンパクトディスクの規格統一の合意がなされ、本格的なCD時代が到来しました。
- CDが開発されて以降、光ディスクの高速大容量化の技術が進み、DVD、HDDVD、Blu-rayが開発されていきます。
- しかし、いずれもディスクのサイズは12cmの円形であり、厚さも1.2mmと同じ寸法になっています。
- 方やMOやフロッピーディスク(FDD)やハードディスク装置(HDD)は、8インチ、5.25インチ、3.5インチ、2.5インチ径という米国仕様で取り決められました。
- CDとFDD(HDD)は、デジタル記録でありながら別々の分野から開発が行われて、コンピュータのストレージ(データ保存)分野に根付いて行きました。
- ■ CDの仕様
- 【仕様】
- ・直径: 12cm(または8cm)
- ・厚さ: 1.2mm厚 ・材質: ポリカーボネート
- ・線速度: 1.2m/s〜1.4m/s
- ・回転数: 500rpm(中心部)〜200rpm(外縁部)
- ・トラックピッチ: 1.6um
- ・最小ピット長: 0.87um
- ・読み取りレーザ: λ=780nm赤色半導体レーザ
- ・対物レンズ開口数: N.A. = 0.45
- ・記憶容量: 640MB、650MB、700MB
- ・読み込み速度: 1.2M bps(1411.2k bps 等倍速、最大72倍速)
- ▼ オーディオCDの記録周波数:44.1kHz
- CD開発の根本仕様の一つに、記録周波数があります。
- 記録周波数が大事であるのは、デジタル録音をするのですから当然と言えば当然です。
- 音をデジタル化する場合、どの程度の周波数でデジタル変換すれば原音に近く録音できて、しかも取扱が楽かという設計思想にたって、44.1kHzが決定されました。
- 人の可聴周波数の上限が20kHzと言われていますので、その倍の40kHzにすれば20kHzまでの音を忠実に再現できるというのが根拠でした。
- また、この周波数に合わせて音を16ビット(65,000階調)に量子化しています。
- 音の大きさを65,000階調に分けたということです。
- こうしてCDによる音声のデジタル録音は、原音を左右それぞれ44.1kHzのサンプリングレートとし、16ビットによって量子化されました。
- 録音の段階では、16ビットを8ビットずつ2つに分けています。
- この8ビット分を1シンボルと呼びます。 従って、量子化された1サンプル( = 1/44,100秒単位)の音は、16ビット = 2シンボルとなります。 CD-ROM(1985年開発)のデータ読み取り速度は、音楽CDと同じ速度で定められたため1.2Mビット/秒(正確には、1,411.2k bps)となっています。
- 44.1k Hz x 16 bit/ch x 2 ch = 1411.2k bps ・・・(Rec -39b)
- これを等速(1倍速)とし、データの高速転送に伴って速度が上げられ、x2、x4、x8、x48と呼ばれる高速読み出しができるようになりました。
- 2006年には、x52倍速をもつCDが開発されました。
- ▼ EFM変調方式 (Eight to Fourteen Modulation)
- デジタルオーディオの録音方式で、CDの性能を決定づけたEFM変調方式について述べます。
- この発明によってデジタルオーディオの実用化が決定づけられたと言っても過言ではありません。
- 音楽は、待ったなしに長時間にわたり音声データが流れてきます。
- オーディオ装置は、間違いをできるだけ少なくして確実にデータを読み出さなくてはなりません。
- デジタルデータの確実な高速受け渡しを可能にしたのが、EFM変調方式だったのです。
- CDの録音では、音声データの1シンボル = 8ビットは14ビットに変換されます。
- 8→14なので、これをEFM(Eight to Fourteen Modulation)と呼んでいます。
- この技法は、オランダのフィリップス社 の科学者Kees A. Schouhamer Immink(1946.12〜)(ケイス・スホウハメル・イミンク)によって開発されました。
- なぜ、8ビットの音情報をわざわざ14ビットに膨らませて記録させるのでしょう。
- デジタルデータは、圧縮技術を使ってどんどん少なくしている傾向があるのに、CDは倍近いデータに膨らませて、しかも情報は8ビットのまま据え置いているというのは、すぐには納得できないことです。
- しかし、こうしないとデータを確実に送ることができませんでした。
- 読み間違えをしないための方法でした。
- EFMは、データを確実に読み取るために避けて通ることのできない変調方式だったのです。
- 例えば、音が全くない「0」を考えてみましょう。
- この時、8ビットの音情報は、0000000となって「0」が8つ並びます。
- この場合、CDプレーヤーはちゃんと「0」を8個として読み取ってくれるでしょうか。
- 同じ信号が連続して続いたとき、CDのピックアップの読み取り誤差、ディスクの回転ムラ、CD表面の汚れ、欠陥、ディスクの撓みや傾きなどで正しく情報を読み込まない可能性が十分に出てきます。
- そうした読み取り誤差をなくすために、8ビットの間にあらたに情報成分を6個入れ込んで長く続く同じ信号成分をカットし、誤りを少なくして情報の読み取り精度を高めたのです。
- 8ビット情報にあたる256種類には、予め14ビット情報に変換するテーブル(表)が決められていて、この変換テーブルに従って14ビット化した情報をCDに書き込み、CDから読み出す時は14ビットの情報を再び変換テーブルを使って8ビットに戻すという仕組みを採用しました。
- なにやら暗号文の暗号化/復号化のようです。
- なぜ、CDはこれほどまでにデータの読み取りを慎重にしているのでしょう。
- 他の記録媒体、例えばフロッピーディスクやハードディスクでも同じような方式でデータを記録しているのでしょうか。
- 答えはノーです。 CDは、CDならではのデジタル音声データ読み出しの事情がありました。
- 事情とは、67分間もの長い間連綿とデータを出し続けなくてはならない事情です。
- これは、文書ファイルなどのデータ出力手順とは決定的な違いです。
- 待ったなしのデータ出力に対しては、一回の読み取りで正確にデータを取り出す必要があり、誤り訂正を幾重にもしてデータの信頼性を高める工夫がなされたのです。
- 文書ファイルや静止画像ファイルデータなどは、ここまで厳しくしなくても何度でも読みに行けば良いので楽かも知れません。
- 映画のような動画像となると、音声同様待ったなしの映像情報になるので、誤り訂正はさらに重要となります。 従って、DVDでもBlu-rayでも同様の誤り訂正機能(しかももっと巧妙な機能)がつけられています。
- ■ 17ビットの1シンボルデータ
- 先に述べたように、44.1kHzでサンプリングされた一つの音は2シンボルで構成されます。
- これをEFMによって14ビット1シンボルとしているので、音の一つは28ビットのデータとなります。
- 画像では画像の一単位を画素(pixel)と言っているのに、音の基本はなんと言っているのでしょう。
- 音素(おんそ = aucel)などという言い方があるのでしょうか。
- 変な疑問はともかく、CDに記録された音の基本単位は44.1kHzの2シンボルということになります。
- デジタル録音される音素は28ビットになりますが、一種の暗号化で大きくなっているだけなので、音自体は16ビットに変わりがありません。
- この手法(EFM)は、結果的には画期的な手法となりCDの再現性の良さを確乎たるものにしました。
- この成功により、DVDの開発においても同じ原理を応用したEFMplusが採用され、Blu-ray Discでは1-7pp変調が採用されました。
- このようにして、この変調方式はディスクメディアに無くてはならないものとなりました。
- さらに、EFMで14ビットにされた1シンボルの音は、3ビットのつなぎビットが挿入されて17ビットとするのでこれが1シンボル単位となります。
- つなぎビットの目的は、記録波形の直流成分を少なくすることにあり、長い期間でみてHIGHとLOWが等しくなるようにしています。
- 14ビット、1シンボルの波形がHIGHになっていればつなぎビットをLOWにしてトータルで0になるようにしています。
- この機能がデータに欠陥があって正しいデータに直さなければならないときに役立ちます。
- つなぎビットで直流成分を低く抑えるには、DSV(Digital Sum Value)という数値から判断して行います。
- つなぎビットは、記録情報が増えて不利になるような気もしますが、実際にはそれ以上のメリットがあります。
- 連綿と続く音を待ったなしで再現して行くには、こうした誤り訂正技術を巧みに駆使していく必要があったのです。
- ■ リード・ソロモン符号(Reed Solomon Coding)
- CDに採用されたシンボルを単位として誤り訂正を行う手法をリード・ソロモン符号処理(Reed - Solomon Coding)と言います。
- リード・ソロモン符号は、1960年に開発されました。
- リード(Irving S. Reed: 1923〜)とソロモン(Gustave Solomon: 1930 - 1996)は、米国の数学者でMIT(マサチューセッツ工科大学)出身者です。
- 1960年は、デジタル処理が十分に発達していない時期なので、この手法はデータ処理の一貫として数学上のテーマで開発されたものと考えます。
- これが情報処理の時代になって、情報の誤り訂正の強力な手法として取り上げられ、CDやDVDの記録や、衛星デジタル通信などに取り入れられました。
- この符号化は、情報をブロック毎に分け(シンボル化)てシンボル内の誤り訂正を行うことを特徴としていて、データの欠損が連綿と続く可能性のある情報処理に威力を発揮しました。
- これは、CDやDVDなどの連綿と続くデータの訂正処理にはうってつけでした。
- この符号処理は複雑なので、計算処理が高いプロセッサが現れるまでは現実味を帯びませんでした。
- 1980年代初頭が、そうした技術環境が熟した時期だったのだと理解できます。
- ▼ CDのデータ容量
- CDは、長時間の音声データが次々に読み出されます。
- CDからの読み出しは、フロッピーディスクに保存された一般の文書保存とは趣が異なります。
- データは後からあとからどんどん出てきますので、速やかに読み出しを行いしかも確実でなければなりません。
- そのためにデータが確実に読み出せるようパリティが組み込まれ、また、連続した同じ信号データが続かないように、8ビットデータを14ビットに変換する処理がなされています。
- 当然、記録されるデータは訂正処理のための信号が組み合わさるので、実際の音声データより大きくなります。
- ■ 1フレーム単位の音声データ
- CDの記録には、データの誤り、欠損の回復を狙いとして、1フレーム単位でデータが格納されています。
- フレーム周波数は、7.35kHzで、チャンネルビット数は4.3218MHz( = フレーム周波数の588倍)となっています。
- フレーム情報は、以下のような構成となっています。
- フレーム情報の概念図は下図を参照して下さい。
- ・1フレームのビット数は588ビットである。その内訳は、
- ・ フレームの最初は、24ビットの同期信号 + つなぎビット3ビット。
- ・ 次に制御信号として、14ビット(1シンボル) + つなぎビット3ビットが当てられる。
- ・ 次にデータのシンボルが12ヶ。(17ビット x12)
- ・ 誤り訂正用パリティビットが4シンボル。(17ビット x4)
- ・ このデータシンボルとパリティがもう一回つながる(17ビット x16)
- 上に述べた構成によって、1フレームあたり、588ビットの塊となります。(下図参照)
- ( 24 bit/同期信号 + 3 bit/つなぎ ) + 14 bit/制御信号 + 3 bit/つなぎ
- + {17 bit/データ・誤り x(12 + 4) データ・誤り }x 2 = 588 ビット ・・・(Rec -40)
- 1フレーム(588ビット)データの配列は、以下の図のようになっています。
- この塊(1フレーム)を取り出して、情報に誤りがないかどうかをチェックし、エラーがあればそれを訂正して再生段に送ります。
- 図からわかるように、データを保存するのに、随分と慎重にエラーチェック機能が組み込まれているのがわかります。
- 1 フレームには上記の説明より音声データが24個分あることがわかります。
- CD音声データは、左右(L.R)2チャンネルあり、また、音声データは2つのシンボルで1つの音声単位を構成しているので、1フレームには、24個のデータを2(左右)x2(シンボル) = 4で割った6対の左右の音声データが格納されていることになります。
- 1フレーム6対のデータで1フレームが構成され、これが 7.35kHzで格納されるため、1つの音声は、
- 7.35 kHz x 6 = 44.1 kHz ・・・(Rec -41)
- 44.1kHzの音声サンプリング周波数で録音されていることがわかります。
- CDの記録容量を計算してみます。 CDは、1フレームという単位で記録されていることは先に述べました。
- これは、588ビットの塊であり、これを7.35kHzで記録していくため、
- 588 ビット x 7,350 Hz = 4.3218 Mビット/秒 ・・・(Rec -42)
- の記録となります。 これが74分間続くと、CD-ROMの記憶容量は、
- 4.3218 Mビット/秒 x 60 秒/分 x 74 分 = 19,188.792 Mビット( = 2,398.599 MB) ・・・(Rec -43)
- となり、合計すると19.2Gビットとなります。
- この計算値は、通常言われているCD-ROMの記憶容量650MBの3.6倍にあたります。
- つなぎや訂正信号を除いた音声自体のデータは、
- 14 ビット x 2 シンボル x 2 チャンネル x 44.1 kHz x 60 x 74 /8 ビット = 1,370.628 MB ・・・(Rec -44)
- 1.37GBとなります。 これは、一般に言われているCD-ROMの容量の2倍の記録容量になります。
- 通常、CDはサンプリング周波数が44.1kHzで、16ビット量子化、左右2チャンネルサンプリング、74分の記録を行いますから、FEM変換を考慮しない音声情報は、
- 16 ビット x 2 チャンネル x 44,100 Hz x 60 秒 x 74 分 /8 ビット = 783.216 MB ・・・(Rec -45)
- 783MBとなり、一般的に言われているCDの容量の数値となります。
- つまり、ここで言いたいのは、CDの記憶容量は、公称のデータ容量の3.6倍程度ある、ということです。
- CDには、記録データの安全な保存のために色々なチェックデータビットが加えられているということがわかります。
- ここまでしないと、まともにデジタル音声信号の記録再生ができなかったことを教えてくれています。
- デジタル記録媒体の歴史を振り返って見ると、ここまで幾重にも誤り訂正処理を施した記録方式はなかったように思います。
- 紙テープにしてもフロッピーにしても簡単なパリティだけでデータを保存していました。
- ハードディスクでの保存は、セクタ毎にデータの確認が行われ、うまく記録できない場合は再度書き込むという方式を取っていました。
- しかし、CDの場合は、膨大な音声データを連綿と流さなければならない性質上、またディスクの歪みや傾き、ディスク表面の汚れなどを考慮して読み取りエラーがあっても訂正できるように、このような方式を取ったものと考えます。
- ▼ データ書き込み
- CDに記録されるビットは、1ヶ当たり約230ナノ秒の時間間隔(= 1/4.3218M bit/s)で記録されます。
- ビットは、0.5umの巾の大きさで、トラック間隔は1.6umピッチで作られています(右図参照)。
- ピットの長さは、9種類あり、線速度が1.25m/sの場合それぞれ、
- 0.87um、1.16um、 1.45um
- 1.74um、 2.02um、2.31um、
- 2.60um、2.89um、 3.18um
- と決められています。
- この長さは、線速度とピットの時間間隔(231.385ナノ秒)を考え合わせると、0.87umのピット長では3ビット分に相当し、以下1ビット分ずつ長さが増えていき、3.18umのピット長では、11ビット分の情報になります。 CDの記録は、このピット長を組み合わせてトラック上にピットを穿っています。
- ピットは11ビット以上の長さはないことになります(EFM変調参照)。
- データを読み出すレーザについて考えてみます。
- 使用している赤外レーザビーム(λ=780nm)とピックアップ光学レンズの開口数(N.A. = 0.45)から、ビームのスポット径(D)は以下の式によって、
- D = 0.89λ/N.A. ・・・(Rec - 46)
- D: ビームスポット径
- λ: レーザ波長
- N.A.: レーザ光学装置の開口数
- 1.54umとなります。
- このビーム径は、ピットの大きさよりも大きく、3ビット長のピットを飲み込んでしまう大きさです。
- この大きなビーム径で細かなピット信号をどのようにして取り出しているかというと、ピットからの反射特性を検知して信号を取り出しています(右上図参照)。
- CDに穿たれたピットは、クロック信号(4.3218MHz)に同期してピット信号を取りだし、信号処理を経てデジタル情報にしています。
- 保存されたデータが「0」や「1」が連綿と長く続くとカウントエラーが起きやすくなるため、長く同じ情報が続かない工夫として先に述べたEFM変調方式(Eight to Fourteen Modulation)が考案されました。
- CDの読みとりは、CLV(Constant Linear Velocity)と呼ばれる線速度一定方式で読みとられます。
- 一般のコンピュータデータディスクは、構造を簡単にするため、ディスクの回転数を一定にしたCAV(Constant Angular Velocity)方式が一般的ですが、音楽メディアの場合、一定のデータ量で送らなければならない関係上、CLV方式になっています。
- 従って、内側と外側では回転数を変化させて線速度を一定に保つようにしています。
- この理由により、デスク回転数はピックアップの位置によって変わり、約600〜200rpmの可変回転速度となります。
- CDの大きさは、直径120mmで中心にφ15mmの穴が空いていて、φ50mm〜φ116mmのドーナッツ領域、つまり半径方向33mmの巾が記録領域となります。
- CDは、連綿と音声信号が続く録音用として開発されたので、フロッピーデスクのように細切れのデータ領域を割り当てるという発想はありませんでした。
- 従って、CDをデータ用に使おうとすると、細切れにデータを格納できないので、一筆書きで一気に記録するという方法をとらざるを得ませんでした。
- 同じ光磁気ディスクでも、MOは、フロッピーやハードディスクの概念を引き継いでいますので、記録領域はセクタで分かれていて任意のデータ保存と消去が可能です(右図参照)。
- ▼ CDとMD(MiniDisc)(2022.04.10追記)
- CD の容量は、75分で650〜700MBです。
- MDも同じ時間のオーディオ録音ができます。
- 但し、データ容量は、CDの持つ容量の1/5の140MBです。
- MD = MiniDisc(Discは英国表記、通常はDiskであるが、ソニーはDiscを登録商標とした)は、1992年にソニーによって開発されました。
- MiniDiscは、CDのサイズをよりコンパクトにして録音・再生が簡単にできる構造でした。
- ただし、MDの記録方式はCDの記録方式とは違い、MOと同じ光磁気方式を採用しています。
- MD(Mini Disc)は、直径2.5インチ(φ64mm)、厚さ1.2mmの光ディスクで、これを72mmH x 68mmW x t5mmのカートリッジに収納して使っています。
- MDのサウンドは、CDとほとんど変わらずに44.1kHz、16bit、ステレオフォーマットになっています。
- しかしMDのコンピュータ的容量は140MBであり、これはCDの約1/5の容量にしか相当しません。
- これは、MDがATRAC(Adaptive Transform Accoustic Coding)という非可逆圧縮技術を取り入れて、CDのデジタルデータよりも1/5に圧縮しているためです。
- ちなみにCDはデータを圧縮していません(逆に膨らませているくらいです)。
- ATRAC は一種のマスキング効果(データ圧縮)で、例えば、大きな音と小さな音が重なっていると、小さな音は大きな音にかき消されてしまうことを利用してマスキングを行います。
- 主に高音と低音の部分でマスキングを行い、1/5の圧縮を行っています。
- ちょっと聴いただけではわからないMDの音も、本当によく聴いてみるとやや音質が落ちていることになります。
- MDは、CDほどの普及はみてません。
- CD音楽ソースをコピーして使うアマチュア向けという位置づけで、ある程度の発展を遂げましたが、MP3の開発と半導体メモリの出現によって(2001年のiPodなどの携帯音楽再生装置の台頭によって)、徐々にその位置を失いつつあります。
- (MDは、2011年をもって生産を終了しました。(2020.05.10追記)(2022.04.10追記))
- ■ ビデオCD(Video CD、View CD、Compact Disc digital video)
- ビデオCDは、本来音楽用であったCDをビデオ再生媒体として使うために規格化されたものです。
- これは、1993年にソニー、フィリップス、松下、日本ビクターによって規格化されました。
- しかし、DVDが大きな飛躍を見せたために、ビデオCDの存在は忘れ去られたものになりました。
- この規格ができたのは、CDを使って動画を保存したいという要求が当然のことながらあったことを教えてくれています。
- ビデオCDが出た1993年から遡って6年前の1887年は、CDビデオ(CDV、CD Video)という製品が開発されています。
- CDビデオは、アナログの映像録画(オーディオ部はデジタル)でした。
- しかし、ビデオCDは、完全デジタルでした。
- 従って、ビデオCDは、当時もっとも普及していたVHSビデオテープ映像と較べて画質の劣化がなく色ムラもありませんでした。
- ただし、画像が352x240画素と小さいため、再生時には画素を補間して倍にする(720x480画素)方式としていました。
- CDは映像を保存するにはデータ容量が小さく転送レートが低いので、以下に示す性能が限度であったのかも知れません。
- 【ビデオCDの規格】
- ・ 解像度: 352 x 240画素(NTSCの4:3とは若干異なる)
- ・ 映像の圧縮: MPEG-1
- ・ 再生速度: 29.97フレーム/秒
- ・ データ:1150kbps
- ・ ビットレート: オーディオCDと同じ
- ・ 記録時間: 74分
- ・ 記録媒体: CD-ROM
- ビデオCDは、安価に製造できることから、DVDが普及するまでの間、東南アジア(香港、フィリピン)などで使われました。
- しかしながら、ビデオCDは、通常のパソコンのCDドライブでは再生できないものが多かったようです。
- ビデオCDの存在すら知らない人もいると思います。
- 【DVD】(Digital Versatile Disc、開発初期は、Digital Video Disc) (2009.04.15追記)
- DVDは、CDと同じ形状をしていながらより高密度化を図った光ディスクで1992年に開発されました。
- CDの開発から10年後のことでした。
- DVDは、ハリウッドを中心とする米国の映画業界が「映画並の映像を家庭で手軽に楽しんでもらいたい」と、東芝を中心とする日本のメーカに技術開発を持ちかけてきたのが始まりです。
- 光ディスク装置の技術は日本のお家芸であったため、日本のメーカに白羽の矢がたったようです。
- DVDの基本仕様である片面一層だけで133分間再生できる能力は、ハリウッドの注文でした。
- 映画はほとんどが100分前後の長さであるため、片面一層に収めることが求められました。
- DVDの開発も、CD開発と同様、コンピュータのデータ保存というよりも映画用のメディア(VHSテープの後継商品)を目的に開発が進みました。 音楽といい映画といい、メディア需要はコンピュータ周辺機器よりも娯楽製品の方がはるかに高いことをこれらの開発の歴史は教えてくれています。
- ■ CDとDVDの違い
- DVDは、CDの技術を応用したより高密度でデータ容量の高いディスク装置です。
- CDとディスク寸法を全く同じにしながら、どのように高密度記録を達成したのでしょう。
- 最も大きな技術革新は、光源(レーザ)をより波長の短いものに変えたことです。
- CDが、780nmの赤外半導体レーザを使っていたのに対し、DVDでは650nmの赤色半導体レーザを使いました。
- また使用するレンズもN.A.0.45からN.A.0.6と大きくし、波長との兼ね合いでビームスポットを1.5umから0.96umと小さくすることに成功しました。
- ビームをより小さく絞り込むことができるようになったので、ディスク面に記録するピットも小さくすることができます。
- このためピットの最小長さを0.87umから0.4umまで小さくすることができ、トラックピッチも1.6umから0.74umと半分以下に狭めることが可能となりました。
- こうすることによって、同じ12cm径のディスクサイズで4.7GB(CDの約7倍)のデータ容量を確保することができるようになりました。
- DVDは、また、当初から記録面を2面持つ設計になっていたので、2層記録では8.54GBのデータ容量をもつことができました。
- 【圧縮技術】
- DVDに記録する動画には、MPEG-2と呼ばれる圧縮技術が用いられています。
- 音楽のCD録音では圧縮を使わなかったのに、さすがに映像ではそうもいかず圧縮技術を使わないと12cmのディスクに映画が収まりませんでした。
- DVDの映像は、720画素 x 480画素、30フレーム/秒が基本となっています。
- この動画を133分記録するとすると、単純計算で、
- 720画素 x 480画素 x 3バイト/画素 x 30フレーム/秒 x 60秒/分 x 133分 = 248.2 GB
- 248.2GBの容量が必要となります。
- DVDは4.7GBの容量なので、単純計算で1/53に圧縮をする必要があります。
- この圧縮のためにMPEG-2が採用されました。
- MPEGは、Motion Picture Expert Groupの略で、映画などの動画像の圧縮を検討するため各国の専門家が作った委員会です。
- MPEGは、1993年のMPEG1で最初の制定がおこなわれました。
- データの圧縮率は約1/30でした。
- この技術は、当初、カラオケCDで実用化されました。
- 映画などを収めたビデオCDでは、MPEG-1を使用して最大74分間の収録をおこなっていました。
- しかし、MPEG-1方式での解像力は、VHSビデオ並であり、とても十分な画質とは言えませんでした。
- そこで、解像力を720x480画素程度確保するためにMPEG-2の規格が作られ、1995年夏にまとめられました。
- MPEG-2は、ハリウッド映画などのDVD作品になくてはならぬ映像フォーマットとなりました。
- 【片面二層式】
- 片面二層式のDVDは、張り合わせるディスクの両方にピットを作ってあります。
- 貼り合わせた2枚のディスクの一方には従来通りアルミの膜を付け、もう一枚には光が一部透けて通る金などの薄膜をつけておきます。
- この二枚を、ピットのある側に向けて精度良くぴったりと貼り合わせます。
- データを読み出す際に、光が一部透けて通る半透明層についてはレーザの光の焦点をここに合わせて反射光を検出します。
- その下の層(貼り合わせたもう一枚のディスク)に記録されたデータを読みとるには、レーザ光のレンズ位置を微妙にずらします。
- レーザ光は、半透明膜を通り抜けてもう一枚のディスクのアルミ膜で反射してこれを検出するようになっています。
- 【仕様】
- ・ 直径: 12cm
- ・ 厚さ: 0.6mm厚のプラスチックの2枚張り合わせ(厚さ計1.2mm)
- ・ トラックピッチ: 0.74um(CDは、1.6um) 最小ピット長:0.4um(CDは、0.87um)
- ・ 読み取りレーザ: λ=650nm赤色半導体レーザ(CDは、780nmの赤外レーザ)
- ・ 対物レンズ開口数: N.A. = 0.6(CDは、N.A. = 0.45)
- ・ ディスク回転数: 600 rpm 〜 1,400 rpm
- ・ 線速度: 3.49m/s
- ・ 記憶容量: 4.7GB〜17GB(DVD-5、DVD-9、DVD-10、DVD-17)
- DVD-5 片面再生 信号層1層 4.7GB
- DVD-9 片面再生 信号層2層 8.5GB
- DVD-10 両面再生 信号層1層 9.4GB
- DVD-17 両面再生 信号層2層 17GB
- ・ 記録型: DVD-R ライトワンス(一度だけ書き込み)片面3.8GB、両面7.6GB
- DVD-RAM オーバーライト(相変化方式) 片面2.6GB、両面5.2GB
- ・ 水平解像力:500本(S-VHS400本、LD400本)
- ・ データの読み出し: CD-ROMの10倍(4倍速の倍以上)
- ・ CDとの互換性:有り(CDは音楽を60-70分演奏できる目的で作られた)
- DVDフォーラムが認定するロゴ。
- DVD-R、DVD-RAM、DVD-RW、等がこれに属する。
- DVD+RWアライアンスが認定するロゴ。
- DVD+R、DVD+RW等がこれに属する。
- 【二つのDVD規格組織】
- 書き込み用DVDには、以下の2の流れがありました。
- * DVD-RAMを推奨する「DVDフォーラム」グループ
- * DVD+RWを推す「DVD+RWアライアンス」グループ
- DVDメディアを見ると、右のようなロゴが描かれています。 これらが二つの団体を示したロゴです。
- 基本的に、最初のDVD規格は1995年に『DVDコンソーシアム』という団体ができて、1997年に『DVDフォーラム』に引き継がれます
- 『DVD+RWアライアンス』は、4年後の2001年にできます。
- この両者はご多分に漏れず、規格争いの結果、このような図式となりました。DVDは、もともとは、CDが開発された後、新しい光ディスクによる高密度記録媒体が開発されます。 1990年代初めは、ソニーとフィリップスの開発したMMCD(MultiMedia Compact Disc)と、東芝・タイムワーナー・パナソニックなどが進めていたSD(Super Density Disc)の二つの流れがありました。SDは、フラッシュメモリのSDカードの名前の由来ともなりました。 (2020.03.24追記)この流れを一つにまとめる動きがIBMによってなされて、それが『DVDコンソーシアム』という形になりました。 これでDVD業界は一本化できると思われましたが、DVD-RAMの規格に対してMMCD方式を育ててきたソニーとフィリップスが異議を唱えて物別れになり、2001年に『DVD+RWアライアンス』が設立されました。
- ■ DVDフォーラム(1997年設立)参加企業
- *東芝 *パナソニック(松下) *日立製作所 *シャープ *IBM
- *Intel *マイクロソフト * LG * Walt Disney Pictures and Television
- * Warner Bros. Entertainment Inc.
- ■ DVD+RWアライアンス(2001年設立)参加企業
- *ソニー *フィリップス *デル *ヒューレットパッカード
- *三菱化学メディア *リコー *トムソン
- 上に述べたDVDの二つの大きな流れは、2000年から2008年まで続き競争が行われました。
- 2つのグループが作るDVD-R、DVD-RAM、DVD+R、DVD+RW、DVD-Videoなどの10種類ほどのDVDディスクが世の中に出回りました。
- さらに、それに加えて、ハイビジョン対応のHD DVDとブルーレイディスク(Blu-ray Dics)の流れができました。
- ハイビジョン対応DVDに関しては、2008年にBlu-rayに集約されました。
- 2008年になると二つのグループの競走は落ち着いて、DVDフォーラム規格(DVD-R、DVD-RAM)のディスクが大勢を占めるようになりました。
- 新しく購入するDVD装置では、ほとんどの種類のDVDディスク(ただし、Blu-rayは別)を読み出すことができるので、特に大きな問題にはなっていません。
- 書き込む時だけ注意して対応したディスクを使う必要があります。
- しかし、書き込みにおいても、両方のDVDが使える装置が数多く出回っているので、それほど神経質にならなくても良いようです。
- 上の参加企業を見つと、DELLやHPなど外国のPCメーカがDVD+RWグループ(ソニー主導による新しいグループ)に属し、東芝やパナソニックなど日本のメーカは、DVDフォーラム(最初のグループ)に属しているようでした。
- シェアから見ると、歴史的な背景からDVD-R/-RWの方が多く使われているようです。 欧米では、DVD+R/+RWの方がよく使われていると聞きます。
- 2009年4月、所用があって秋葉原に出て、大手ディスカウントストアを訪れました。
- そこでDVDメディアが置いてあるコーナーに行って、どんな種類のブランクディスクが置いてあるのか見てみました。
- 驚いたことに、DVD-Rを始めとしたDVDフォーラムの推進するディスクが圧倒的な売り場面積を占めていました。
- DVD+RWディスクを探すのに5分から10分ほどかかったでしょうか。
- それほど、どの棚を見ても「-」(ダッシュ)のついたDVDディスクしか置いてなかったのです。
- DVD+RWディスクは、ディスク売り場面積の5%も満たないような棚にひっそりと置かれていました。
- 他の棚を見ても、また通路におかれた売り出しのワゴンコーナーを見ても、すべてDVD-R、DVD-RWでした。
- ソニーでさえも、DVD-Rディクスを自社ブランドで売っていたのにはビックリしました。
- 2005年当時までは、このような現象は無かったはずです。 少なくとも両者は拮抗していました。
- どうしてこのようになってしまったのかよくわかりません。
- ヨーロッパでは「+」のシェアが日本より高いと聞きます。
- 日本では、お店の棚から判断するのに「+」は5%もないように感じました。
- ユーザの目からみると、両者に特別な技術的優位性があきらかにあるとは思えず、すべての規格のDVDを読み書きできる光学ピックアップもできたので、競争も沈下している感じを受けました。
- それならば、DVDの最初のタイプであるDVD-Rを使えば、互換性が一番高くて、価格も安価で入手できるという考えが一般的になっているようです。
- それに、当時、時代はDVDからBlu-rayに変わる風潮にあったので、ことさらこの分野で競争をしなくても良いというメーカの判断もあるように感じました。
- 2009年6月に再度同じ量販店を訪れました。
- DVDコーナは2ヶ月の間に模様替えがなされ、1/3の面積がBlu-ray Discに変わっていました。
- そこには、もはや、「+」のついたDVDブランクディスクはなく、「-」のみとなっていました。(2009.06.27追記)
- 【Blu-ray Disc】 (2007.12.09)(2009.08.31追記)
- Blu-ray Disc(BD、ブルーレイ)は、DVDの5倍以上のデータ容量(1層25GB、2層50GB)を持つ直径12cmサイズのディスクです。
- 高画質の動画(ハイビジョンテレビ、ゲームの)保存・再生用として1999年7月にソニーとフィリップスで開発されました。
- 2年半後の2002年2月に、松下(現パナソニック)、パイオニア、日立、LG電子、サムスン、シャープ、トムソン(RCA)ら7社が加わり、BD規格が出来上がりました。
- Blu-ray Discは、次世代DVDとも呼ばれ、地上波デジタル放送とフルハイビジョンデジタル放送の実用に伴い、それに耐えられる保存メディアとして注目されました。
- Blu-ray Discでは、地上デジタル放送(1440×1080i、16.8Mbps)で3時間程度、BSデジタル放送(1920×1080i、24Mbps)で2時間程度のハイビジョン録画ができるようになりました。
- 『ブルーレイディスクの英語表記は、Blue-ray Disc ではなく、Blu-ray Discです。青の「Blue」をそのまま使っていません。「Blue-ray」とすると一般名詞に近くなって固有名詞としての認知が難しく、商標として公認されないおそれがあったためこの表記としたそうです。』
- この表記が本Webで曖昧であったことを、T.I.さんからご指摘を受けました。ここに修正いたします。T.I.さんどうもありがとうございました。(2009.08.31)
- この規格の製品が始めて販売されたのは2003年で、ソニーのBD(Blu-ray Disc)レコーダ「BDZ-S77」というものです。
- 【BDZ-S77の仕様】
- ・記録モード: 1080i、720p にて約2時間(24M bps max.)
- そのほか480p、480i、アナログ録画。
- ・デジタル信号入力: デジタルBS入力端子、IEEE1394(S200 = iLink)
- ・アナログ映像入力: S映像 x2、コンポジットx2
- ・映像出力: デジタルBS出力端子、D4 x1、S映像 x2、コンポジット x2
- ・寸法: 430W x 398D x 135H
- ・重量: 14kg ・消費電力: 65W
- ・価格: 450,000円
- ・カートリッジディスク: 片面1層23GB(3,500円)
- 3年後の2006年には、ソニーのゲーム機PS3(PlayStation3、当時59,800円)にBDが標準装備され、ブルーレイディスクによるゲームソフトの販売が開始されました。
- この年からBDが飛躍的に売れるようになったそうです。
- それまではハイビジョン画像のソースや受像機が普及しておらず、しかもDVDに比べて割高感があったため、それほど普及に加速がついていませんでした。
- 2006年は、次世代DVDの元年とも言えるべき年かもしれません。
- パーソナルコンピュータで、2007年当時にBDを搭載していたのはソニーのみでした
- PC周辺装置では、松下(現:パナソニック)がBD-R(Blu-ray Disc Recordable)ドライブを2007年7月に開発し、PC周辺機器製造メーカがそのモジュールを使って製造販売を開始しました。
- 2009年では、CD/DVDに加えてBlu-rayが読み書きできる内蔵/外付け装置が供給され、通常の感覚でBlu-rayディスクが使えるようになりました。(その後もPCに標準でBDドライバーを装備する気運はできず、インターネットとクラウドの急速な普及もあって2017年頃からのPCにはCD/DVDのドライバーを装備しないものが増えてきました。(2020.05.10追記))
- ■ HD DVD (High Definition Digital Versatile Disc)
- ブルーレイディスクと同様のメディアには、東芝(とNEC)が開発したHD DVD(High Definition DVD)がありました。
- HD DVDはブルーレイディスクとほぼ同じカテゴリの製品で、両陣営は次世代DVDの覇権を争ってシェア獲得にしのぎを削っていました。
- 規格化の覇権を争う様相は、ホームビデオ装置のVHS vs ベータの競争に似たものがありました。
- 次世代DVDの開発初期は、東芝陣営のHD DVDが先行し、アメリカハリウッドの映画会社のほとんどは東芝規格の高品質DVDを支持していました。
- それが、2005年を過ぎたあたりから雲行きがあやしくなり、HD DVDからBlu-rayへ乗り換える映画配給会社が増え出しました。
- 2007年12月のクリスマス商戦ではBD陣営に軍配が上がり、朝日新聞(2007年12月6日朝刊12面)は、「BDレコーダのシェアは98%(DVD全体では21.1%のシェア)」と報道しました。翌年、2008年2月19日に東芝から全面撤退の声明が出されました。
- 2009年、市場にはHD DVDの姿はありません。
- ■ Blu-rayの特徴
- BDが HD DVD分野で勝利した要因はなんだったのでしょうか。
- いろいろな原因が考えられますが、BDはデータ容量が大きかったことが第一にあげられると思います。
- HD DVD(1層15GB)は、BD(1層25GB)の6割しか記録容量がありませんでした。
- これがハリウッド映画業界での切り崩しに成功したと考えられています。
- また、TDKが開発したハードコーティング技術(DURABIS)を採用したブルーレイディスクは、カートリッジレスに成功し、取り扱いと価格を魅力的なものにしました。
- ハリウッド映画業界が一斉にBDになびいたことにより、HD DVD陣営は決定的な打撃を受けたと言われています。
- Blu-ray陣営が勝利した第二の理由は、ソニーが自社のゲーム機プレイステーション3(PS3)にブルーレイ機能を搭載したことでした。
- 映画業界の浸透を援護するようにゲーム分野にもBlu-rayを浸透させるべく、魅力的な仕様と価格でPS3を世に出しました。
- これによりBlu-rayで作られるゲームソフトも増えて行きました。
- この分野での大勢が決まった2008年以降、コンピュータ分野でもブルーディスクを搭載したモデルが数多く出るようになりました。
- 【Blu-ray 仕様】
- ・記録容量: 25GB(一層)、50GB(2層)
- ・ 使用波長: λ = 405nm青色半導体レーザ
- (DVDは、λ=650nm赤色半導体レーザ。CDは、780nmの赤外レーザ)
- ・ 対物レンズN.A.: 0.85
- (DVDは、N.A. = 0.6。CDはN.A. = 0.45。Blu-rayは明るい光学系を使っている。)
- ・ データ転送速度: 36Mbps
- ・ ディスクサイズ: φ120mm(CD、DVDと同じ)
- ・ ディスク厚さ: 1.2mm
- ・ ディスクセンタ孔: φ15mm
- ・ 回転数: 800 rpm 〜 2,000 rpm
- ・ 線速度: 4.917 m/s
- ・ 記録方式: 位相変化
- ・ 信号変調: 1-7PP
- ・ 映像フォーマット: MPEG-2
- ・ 音声フォーマット: AC3、MPEG-1
- ■ ハードコーティング技術を確立したTDK - DURABIS
- ブルーレイディスクが開発された当初、ディスクはMOのようにハードカバーに覆われていました。
- ディスクを裸(ベアディスク)で扱えるようになったのは、TDKが開発したハードコーティング技術のおかけだと言われています。
- この処理によってブルーディスクもカートリッジレスになり、取り扱いが楽になって価格も安くできるようになりました。
- ハードディスクコーテイング処理(DURABIS = Durability + Shield)は2002年に開発され、DVDディスクに応用されました。
- DVDに採用されたハードコーティングは、DURABIS1と呼ばれるもので、ブルーレイではDURABIS2、放送局用のディスクにはDURABIS3と呼ばれるカテゴリーのコーテイングがなされています。
- このハードコーティング技術は、スチールたわしでディスク面を100回こすって傷をつけても読み出しに影響がないと言われているものです。
- また、この処理は指紋などの汚れに対しても汚れが付きにくい性質をもっていたり、静電気による帯電が起きにくくホコリの付着が極めてすくない性質を持っています。
- このハードコーティングがどのような素材を使って、どのような手法で行われているのかは私自身よくわかっていません。
- ■ Disc - CD/DVD/Blu-ray のまとめ (2009.09.17記)(2011.07.13追記)
- CD、DVD、Blu-ray、(HD DVD)は、同じ延長線で進化を遂げてきたものです。 同じ延長線の意味するところは以下のものです。
- 1. 直径12cm、厚さ1.2mmのポリカーボネート円盤(ディスク)を使っている。
- 記録面や記録手法に違いはあれ、形状は同一規格。
- 2. データの読み出し、記録にレーザ(半導体レーザ)を使っている。
- 3. 開発の主動機がオーディオ、及び映画コンテンツの録音/録画・再生であり、
- コンピュータメディアとしてではなかった。
- 4. 長時間にわたる連綿としたデータの読み出しが特徴。
- 5. 絶えず上位互換性が考慮されている。 つまり、DVDが開発されてもCDの読み書きができる機能が考慮され、
- Blu-rayの開発でもDVDとCDが読み書きできる対応が図られている。
- 3者は今のところ(2010年時点)互いを淘汰する気配がない。
- ユーザは、目的に応じて最適なディスクを使用することができる。
- ▲ 3種類のレーザ光源
- 上記の3つのディスクは、高密度・高速再生という時代の要求に応えるために光源を代えてきました。
- つまり、CDの時代は波長780nmの赤外レーザを使い、DVDでは650nmの赤色レーザを用い、Blu-rayでは405nmの紫外に近い青色レーザを使いました。
- 波長を短くすることによりビームスポットを小さくでき、同じ大きさのディスク面積内に高密度に情報を収めることができました。
- CDが開発された時代は、赤外半導体レーザがで始めた時期で緑色や青色の半導体レーザはまだありませんでした。
- CDが開発された1970年代後半は、半導体レーザに安定した高品質のものがなかったので、ヘリウムイオンレーザというガスレーザを使っていました。
- ガラスのチューブでできたこのレーザは、半導体レーザに比べて大きく価格も2000倍以上しました。
- レーザの低価格化が実現されなければ、光ディスク拡販は不可能なのは明白でした。
- 1960年代に着想され、1970年代に花開き、1990年代に大きな発展をみた半導体レーザ、それも青色領域の半導体レーザの実用化がなければ、一連のディスクメディアの大躍進はなかったことでしょう(レーザの項目参照、http://www.anfoworld.com/lasers.html)。
- 光ディスクの読み取り光源に一般の白熱電球を使ったとしたらどうでしょうか。
- おそらくCDもDVDもBDも実用化できなかったことでしょう。
- レーザがなぜ、光メディアになくてはならないものであったかの理由を以下に述べます。
- 1. 指向性、直線性がよいこと - 集光レンズを組みやすい。微小スポットが作りやすい。検出精度が上がる。
- 2. 高密度であること - 効率よい光学系を組み上げやすい。余分な光が散らばらないのでS/Nがよくなる。
- 3. 単一波長であること - 色収差を考慮せずにすむ。ビームスポットも理論に近い値にすることが可能。
- 4. 波面がそろっていること - 干渉をおこしやすいため、これを積極的に 利用して波長レベルの調整、検出が可能。
- ピットの高さを波長の1/4にして、S/Nを向上させている。
- 5. 偏光をもっていること - 偏光を巧みに利用して信号検出の精度を向上させている。
- ▲ 大口径レンズ(高NAレンズ)
- ビームスポットを小さくするための工夫として、レンズの開口数(N.A. = Numerical Aperture)を大きくしました。
- N.A.は、理論的に空気中で最大1となります。
- したがって、Blu-rayで使っているNA 0.85は極めて開口数の大きいレンズと言えます。
- ピックアップレンズの開発もCD/DVD/BDの発展に寄与しました。
- レンズは、組み合わせガラスレンズから、単一の非球面レンズ、プラスチックによるモールドレンズ、回折原理を利用したホログラムレンズ、回折レンズへと進化しました。
- こうして、N.A.0.85という大口径で0.47umのビームスポットを作るレンズができました。
- さらに、一つの対物レンズで3種類の光源(CD/DVD/BD用)に対応したオプチカルピックアップも製品化されました。
- ▲ ディスクの記録面
- 短波長発振レーザと大口径比のレンズの登場により、3種類のディスクでは記録面位置が変わりました。
- すなわち、CDはディスク照射面から奥に記録面が配置されていたのに、DVD、Blu-rayになるにしたがって照射する面の近い位置に記録面が置かれるようになりました。
- ビームスポットを小さくするには開口数を大きくして、かつ焦点距離の短いレンズ(f = 1.5mm〜2mm)を使わなければならないので、レンズとディスクの物理的距離は自ずと短くなります(上中央図参照)。
- CDの記録面は、ディスクの裏面(レーベルの貼ってない面)から1.2mm(ほぼレーベル面)にあります。
- DVDは、当初から2面の記録という設計思想があったので、0.6mm厚のディスクを貼り合わせる構造となっていて厚みの中心に2層の記録面があります。
- 2層の記録面は、実際は30um程度のスペーサ層と20um程度の半透明膜層で分離されています。
- 2層の記録面は、ミクロンオーダで駆動するアクチュエータで焦点調整を行って読み書きを行っています。
- BD(Blu-ray)は、ディスク裏面から0.075mmと0.1mmの位置に記録面を2層持っています。
- 現在では、4層と8層による記録面を持つBDが開発されていて、これらの記録面はこの位置近傍に作られています。
- 上の図からわかるように、BDではディスク面の極めて近い位置にレンズが配置されています。
- CDが開発された当時、ディスクの読み取り面にできる傷によってデータが読み取れなくなる心配がなされましたが、1.2mmの厚みのあるポリカーボネートの奥に記録面があるので、表面のキズはボカされてしまい大きな支障にはなりませんでした。
- また、エラー訂正手法(EFM変調方式)によって確実にデータが読み取られるので、安定したデータの読み取りができCD普及に大きな貢献を果たしました。
- ▲ ポリカーボネート材質
- CDディスクの開発にあたっては、材質の透明度と均質さがとても大事であったそうです。
- つまり、ポリカーボネート材の均質な素材がCDの安定したデータ保存に大きく貢献したのです。
- ディスク素材を決める中で、ポリカーボネート素材に行き着くまでにアクリルやポリエステルや光学ガラスなどが試されてきました。
- アクリルはレーザディスクに使われていた材質で、ポリカーボネートに比べて吸湿性が大きく経年変化も大きかったため、このディスクの寿命は10年と言われていました。
- フロッピーディスクやビデオテープと違い、光ディスクは透過型の記録媒体であるため、そしてミクロンオーダの微小な情報を読み込むために、光学的な品質が厳しく問われます。
- 磁気記録では問題にならなかった透過特性と均質性がとても大事でした。
- 光を透過/反射する材質に欠陥があったり、微小なゴミやボイド(気泡)、脈理(屈折率がことなる部位)があると、データを正しく読み取れなくなります。
- また、材質が反ったり歪んだり、熱と湿度、光によって濁っても品質に大きな影響を与えます。
- ポリカーボネートは、価格の点や製造の点、そして品質の点からCDの材質にもっともふさわしいものでした。
- ポリカーボネートは、以後、DVD、blu-rayになっても素材として使われています。
- これら3種類のディスクは、今後も必要に応じて使い分けられていくものと思われます。
- ディスクドライブはそのためにすべてのディスク(CD、DVD、Blu-ray)を読み書きできるような対応が図られています。
- 半導体レーザでは一つの素子で3種類の発光ができるものが開発されたり、一つの対物レンズで3種類の光を希望する位置に集光するピックアップが開発されています。
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- 半導体による記録
- 【フラッシュメモリ(Flash Memory、Flash-EEPROM】 (2008.05.05記)(201108.15)(2020.03.13追記)
- フラッシュメモリ(Flash Memory)は、正式名を Flash - EEPROM = Flash - Electrically Erasable Programmable Read-Only Memory と言います。
- 半導体素子メモリの中でROMの仲間に入り、電気的に書き換え可能なEEPROMです。
- 2000年あたりから急速な普及を見ました。
- 2011年の時点では、32GB容量のUSBスティックタイプのメモリが10,000円程度で入手できるようになりました。
- 2020年3月の時点では、USB3.1仕様の256GBメモリが10,000円で入手でき、UDB2.0対応の16GB容量は600円程度の価格に下がっています。
- フラッシュメモリはまた、HDD(ハードディスクドライブ)に代わって、大容量のメモリドライブ装置(Flash SSD = Solid State Disk) を搭載したパソコンとして市販されるようになりました。
- 半導体メモリは、フラッシュメモリに限らず半導体素子ができた当初から現在に至るまで絶えず進化を遂げており、電子産業の中核を担っているものです。
- 半導体メモリそのものは、トランジスタができた1950年代当時からアイデアがありました。
- トランジスタに電流を流し電位を保持し続け、メモリ効果を持たせるというものです。
- しかし、この方法では、電気を流さないと情報は消えてしまいます。 電気を流さなくても情報が消えない半導体メモリのことを不揮発性メモリ(Non-Volatile Memory)と言います。 これは絶縁体の中にコンデンサ構造を持たせて、ここに電荷を保持させてメモリ機能を持たせています。
- こうしたメモリは50年の歴史の中で数多く作られてきましたが、一様にメモリ容量が少なくて、書き込み/消去に時間がかかっていました。 従来の紫外線消去型EPROM(Erasable Programmable Read-Only Memory) は、データを消去するのに30分程度かかっていました。
- フラッシュメモリは、こうした不揮発性半導体メモリの欠点をなくしたもので、メモり内容を一気に消去できるものでした。
- データの消去がフラッシュのように消去できるのでフラッシュメモリと名付けられました。
- いったん保存されたデータは、理論上10年程度は保持されます。
- このフラッシュメモリを開発したのは、(株)東芝総合研究所の研究員であった舛岡富士雄 氏(ますおかふじお:1943年〜、東北大学名誉教授)で、1984年6月(特許出願は1980年)のことです。
- フラッシュメモリの特許を巡っては、2004年に桝岡氏と東芝の間で訴訟が起きたのは有名なところです(2006年和解)。
- なぜ訴訟沙汰になったのかというと、桝岡氏が東芝時代(1980年代)に発案して開発していた当時、東芝はこの製品に対して前向きではありませんでした。
- 発明の対価が誠意あるものではなく、冷遇されていました。
- 当時はDRAMが好調で、次代の製品としては過小評価にありました。
- けれどこれが1990年代半ばに世界的なヒットとなって東芝にも大きな利益が生まれることになったため、正当な対価を公式に求めたのだと思います。
- 当時、東芝がこの発明を過小評価したのは、コンピュータ内部のDRAMやDROMに取って代えるには応答速度が遅く大容量メモリとしてHDDに置き換えるビジョンが見通せなかったのです。
- 失意にも似た形で桝岡氏が1994年に東芝を辞し東北大学に移られた頃から市場の機が熟して、現在のフラッシュメモリの時代が到来したのです。
- 桝岡氏のプロジェクトがうまく行かなかった当時、彼のスタッフの少なからぬ人数が東芝を離れて米国Intel社、Micron社、韓国Samsung社に移りました。
- 特に、韓国Samsung社には、1992年にNAND型フラッシュメモリの技術を供与しています。
- Samsung社は、この技術を積極的に取り込み巨額の投資をしてDRAMと伴に世界のナンバーワンシェアを得るに至りました。
- 桝岡氏は、現在(2011年)、日本ユニサンティスエレクトロニクス社の最高技術責任者として、次世代半導体素子(3次元構造半導体)の開発に従事されておられます。
- フラッシュメモリが最初に採用されたのは1985年の学会発表の後のことで、米国フォードモータースが関心を示し、エンジン制御用の半導体メモリとして使われたと言われています。
- 過酷な環境条件で使う信頼性の高い不揮発メモリとして白羽の矢が立ったものと思われます。
- このように、フラッシュメモリは取り扱い勝手が非常に良いことから、デジカメや携帯電話のメモリ(SDカード)として、そして、パソコンの補助メモリ用のUSB対応のスティックメモリとして多く使われるようになりました。 その勢いはCD/DVD/BDを凌ぎ、HDDに迫るまでになっています。
- フラッシュメモリが急速に普及している理由は、CDの640MB容量、DVDの4.7GB容量、BDの25GBと遜色ないデータ容量を持つメモリスティックが安価に出回るようになったことと、携帯電話とデジカメの急速な普及によると言われています。
- フラッシュメモリの持つ持ち運びに便利でバッテリがいらず、そして簡単にデータを追記したり消去ができる機能も、普及を促す要因となりました。
- フラッシュメモリは、上右図にまとめたように、使い勝手の良さから急速に需要を伸ばしています。
- 欠点である耐久性や書き込み速度の問題も、分散処理(ウェアレベリング = wear levelling)手法の導入や並列書き込み手法の導入によって実用レベルに達し、2011年の時点では、HDDと並んでデータストレージの両雄となり現在に至っています。
- 2020年時点では2TBのSSD(PC内蔵用、SATA IIIインターフェース)30,000円程度で販売されています。
- ▲ 半導体メモリの系譜 上の図は、半導体メモリの一覧を示したものです。
- 半導体の構造によってこのように分類されています。
- 半導体メモリは、トランジスタが発明された時代(1950年代)からありました。
- しかし、データ保存用としての存在価値が薄かったのは、製造上、安価で大容量のものができなかったり、電源を切るとデータが消えてしまうという問題を持っていたからです。
- データ保存媒体として望まれる性能は、電源を切ってもデータを保存し続ける不揮発性メモリでした。
- ■ 半導体素子を使ったメモリ
- ここで、トランジスタ(半導体素子)を使ったメモリの基本原理について触れておきます。
- 右図は、デジタル素子を用いたメモリです。
- フリップ・フロップ(Flip Flop)回路と言いますが、デジタル素子(NAND素子)を二つ使って1つの情報(データ)を保持する機能をもっています。
- この回路は、デジタル回路でデータを保持する機能としてよく使われてきました。
- コンピュータに採用されたSRAMは、この回路で作られています。
- 右図のフリップ・フロップ回路は、セットボタンとリセットボタンで構成されているため、R-S-FF(RSタイプ フリップ・フロップ)回路と呼ばれています。
- フリップ・フロップ回路は、このほかにも幾種類かがあります。
- RSフリップ・フロップでは、セットボタンを押すと押したという情報が保持されます。
- その情報は、リセットボタンを押すまで保持され続けます。
- こうしたフリップ・フロップを1ビットのメモリとして使ったのがSRAMです。
- メモリには、先に示したトランジスタで状態を保持するタイプと、素子内部にコンデンサ(キャパシタ)素子を組み込んで、これに蓄えられた電荷で状態を保持するタイプの二種類があります。
- 電荷を比較的長く保持できるものがROMとなり、短い時間しか保持できないものは、都度リフレッシュして状態を保持させるDRAMとなります。
- DRAMとSRAMは、別の項目「DRAMとSRAM」で説明します。
- ■ コンピュータに多用されたメモリ
- コンピュータのそもそもの成り立ちは、プログラムを格納できるメモリの確保が大前提となっていました。
- コンピュータの大きな働きは、膨大なデータを高速で処理することでした。
- データの保存もプログラムを実行する処理にもメモリは大切なコンピュータ要素でした。
- ノイマンが発案したフォン・ノイマン型コンピュータでは、データを予め決められた書式に従って処理しなければならず、これにはデータを格納する装置を演算処理の近くに配置しなければなりません。
- コンピュータを構成する大切なコンポーネントとして電子回路による記憶装置が開発され、周辺機器としてカードパンチ、磁気テープなどが発案されました。
- 半導体メモリは、トランジスタの発明と共に成長を遂げました。
- IC(集積回路)の発明によってメモリも小型になり容量も増えました。
- 右図にコンピュータに使われてきた半導体メモリを示します。
- 半導体メモリが考え出される前の記憶装置は、磁気コアメモリ(Magnetic Core Memory)が主流でした。
- 磁気コアメモリは、1949年にアメリカの物理学者An Wangと Way-Dong Wooによって開発され、IBMコンピュータ台頭と共にコンピュータの主記憶装置とし て1960年代を中心に1970年始めまで使われました。
- 1971年、米国インテル社から1kビットのDRAMが開発されます。
- インテルは、現在(2009年)のパーソナルコンピュータに搭載されているCPUのシェアの実に80%を持つ巨大企業ですが、彼らの真骨頂は半導体メモリの開発製造にありました。
- DRAM(Dynamic Random Access Memory)やSRAM(Static Random Access Memory)、ROM(Read On Memory)などほとんどの半導体メモリがインテルによって開発され製造されてきました。
- インテルの発明したDRAMの出現によって、半導体メモリの時代が始まります。 そして、それまで主流だった磁気コアメモリを駆逐してしまいました。
- その理由は、半導体メモリの持つコンパクトさ、速いアクセス速度、低い消費電力、低価格、高信頼性など、すべてに渡って磁気コアメモリを凌駕していたからです。
- ■ 磁気コアメモリ(Magnetic Core Memory)
- 磁気コアメモリの拡大写真。
- 米粒大のフェライトコアをエナメル線で織り込んでメモり構造を作る。すべて手作業だった。
- クレイの製作したスーパーコンピュータ(1964年)に搭載された64x64ビット(4kビット)の磁気コアメモリ。中心部の網の目の中に米粒大のフェライトコアが詰まる。モジュールの大きさは、106mm x 106mm。
- 資料提供: Wikipedia commons
- 1950年代から20年間にわたって、コンピュータの主記憶装置として使われていた磁気コアメモリというのはどのようなものだったのでしょうか。
- 磁気コアメモリには、記憶部としてドーナッツ状のフェライトコアが使われています。
- このフェライトコアを直交2線のエナメル線が交わる交点に配置し、両方の線に流れる電流によってフェライトコアを磁化させてコアに電気信号を保存するというものです。
- フェライトコアは、数ミリ程度から米粒ぐらいの非常に小さなもので、それに通すエナメル線も極めて細いものでした。
- フェライトコア1ヶが1ビットの情報となるので、1kビットのメモリを得るには1,000個のフェライトコアが必要です。
- これにエナメル線を通すという一種の織り込み作業を行わなければなりませんでした。
- これらはすべて手作業だったそうです。
- 従って、当然高価なものでした。磁気コアの製造には、東南アジア諸国の安価な労働力があてがわれて市販化のメドがたち、一定の普及をみたそうです。
- 1960年代に登場した1kビットの磁気コアメモリの大きさは50cm x 50cm x 20cm程度でした。
- この装置は、100Wの電力を消費していたそうです。
- 大型コンピュータでは、主記憶装置として10MB程度が必要だったので、この装置の設置スペースには15m x 15m程度、つまり、大きな会議室程度を確保しなければならず、電気設備も6,000kW(2,000家庭分の電力設備)という途方もない電力を必要としました。
- 10MBのメモリを稼働するのに、工場で使う電力が必要だったのです。
- 2009年時点のパソコンを見てみると、10MBのDRAMで動くものは見あたりません。
- カバンで持ち運ぶノートパソコンにおいても2GB程度(2,000倍程度)のDRAMが搭載されています。
- 昔の観点から見たら、メモリは小さなバッテリでとてつもなく大きなメモリを動かしていることになります。
- 1993年に私が個人的に購入したパソコン(マッキントッシュLC III)は、4MBのDRAMが標準装備でしたが、まともに使えなくて30,000円で8MBのDRAMを追加しました。
- 12MBのメモリでなんとか動いた記憶があります。
- DRAMは、年を追う毎に大容量・低価格化が進みました。
- DRAMメモリは、コンピュータの歴史を変えたと言っても差し支えないでしょう。
- このことは、逆に見ると、主記憶装置がコンピュータ発展の足かせとなっていたことを伺わせるエピソードです。
- インテルは、このメモリの大切さを知っていたので、半導体メモリを開発する会社として、1968年に設立されました。
- 設立には、当時半導体メーカーであったFairchildセミコンダクター社の社員(ロバート・ノイス、ロジャー・ムーア、アンドリュー・グローブ)が退社して新会社を設立しました。
- インテルは、設立1年後の1969年に64ビットのSRAMを開発し、1970年にDRAM、1971年にUV-EPROMを開発していきます。
- お家芸のCPUは、1971年に4ビットマイコンを日本の嶋さんのリクエストで作り、それが引き金となって1974年に8ビットCPU 8080を開発します。
- 半導体メモリは、その後、日本の東芝が秀逸なものを作るようになっていったので、インテルは軸足をCPUに移して行くことになりました。
- ▲ RAMとROM
- 半導体メモリは、大きく分けて、
- RAM(Random Access Memory)
- ROM(Read On Memory)
- の二つに分けられます(上図の半導体メモリ一覧表を参照)。
- 両者は、揮発性メモリと不揮発性メモリと見なしてもよいほど性格が異なります。
- RAMは電源を絶えず必要とし、電源がないとデータが無くなってしまいます。
- ROMは、電源が無くてもデータを保持しています。
- RAM、特に安価で大容量のDRAMは、コンピュータのCPUの近くに配置されて、テンポラリーな(一時的な)データを保存し処理するのに使われます。
- DRAMはまた、高速でデータの読み書きができるので高速度カメラなどの高速でデータを収録する録画媒体として使われています。
- 実を言うと、DRAMはSRAMに比べて性能は劣っているのだそうです。
- しかしながら、SRAMよりもDRAMが大きな普及を見たのは、一にも二にも価格だったそうです。
- 低価格であることが何よりも大きな需要を生むことをメーカは十分に見切っていて、DRAMのコンパクト大容量化に取り組んでいったそうです。
- ■ RAM - DRAMとSRAM
- RAMのカテゴリには、SRAM(Static Random Access Memory)とDRAM(Dynamic Random Access Memory)の2種類があります。
- SRAMは、■半導体素子を使ったメモリで紹介したように、半導体メモリの最初のものです。 DRAMは、構造が簡単で安価なものとして登場しました。
- 記憶回路にコンデンサ(キャパシタ)を組み込んで、コンデンサの電荷保持によって情報を保存しています。
- 以下にSRAMとDRAMの回路を示します。
- 図の左に示しているSRAMは、6ヶのトランジスタでフリップ・フロップ回路を形成し、1ビットの記憶領域を持っています。 SRAMの状態は安定していて、常時データを保持し続けることができます。
- ただし、電源を落とすと、データは消えてしまいます。
- 方や上図の右に示したDRAMは、3ヶのトランジスタと1ヶのコンデンサ(=キャパシタ)によって1ビットの記憶回路を形成しています。 SRAMの回路に比べると、トランジスタの数が少なくシンプルです。
- 必然的に、製造コストが抑えられていて、同じスペースであるならばたくさんのメモリを実装できることになります。
- ただし、DRAMは、データの保持がコンデンサにチャージされた電荷に依存しているため、時間と共に自己放電によって電荷がなくなってしまいます。
- そのために、定期的にコンデンサに再チャージを行うリフレッシュが必要となります。そのサイクルは素子によって異なりますが、数HZから数十Hzです。
- DRAMがDyamic(ダイナミック = 動的)と呼ばれるのは、このリフレッシュ作業を指しています。 SRAMは、この作業がないため、Static( = 静的)と呼ばれてます。
- 下図にSRAMとDRAMの比較を示します。
- SRAMの方が電力を消費せずに高速動作ができる反面、コストが高く大容量化が難しいのが理解できます。
- そうした理由から、DRAMはコンピュータの主記憶素子として少々動作が遅くしかも電気を消費することには目をつむって、安価で大容量であることが優先されて、触手を伸ばしてきました。
- 安価で大容量のDRAMは、主記憶素子としてコンピュータのCPUの近くに配置されて、テンポラリーな(一時的な)データを保存し処理を行うのに使われています。
- DRAMはまた、高速でデータの読み書きができるので高速度カメラなどの高速でデータを収録する録画媒体として使われています。
- 今述べたように、DRAMはSRAMに比べて性能は劣っています。
- しかしながら、SRAMよりもDRAMの方が大きな普及を見たのは、一にも二にも価格でした。
- 低価格であることが何よりも大きな需要を生むことをメーカは十分に見切っていて、DRAMのコンパクト大容量化に取り組んで行ったのです。
- DRAMは、コンピュータメモリの需要で生産の拡大をはかってきました。
- DRAMは半導体産業の「コメ」と呼ばれて来ました。
- 1980年代は日本のメーカが強く、2000年代に入ると韓国のメーカが市場を席巻するようになりました。
- ■ ROMの仲間 - フラッシュメモリ
- フラッシュメモリは、上の体系図から見ると、ROMのカテゴリーの中の消去・書き込みが可能なEEPROM(Electrically Erasable Programmable Read-Only Memory)の仲間に入ります。
- 従来、半導体メモリの中でROMはRAMに比べてデータ容量が少なく、消去に時間がかかり書き込み時間が遅い、という特性を持っていました。
- それがフラッシュメモリにおいては、メモリの消去が一挙にできて書き込みもそこそこ速い、という性能をもちあわせていました。
- それに加え、データ容量もどんどん大きいものが開発されていきました。
- 需要がフラッシュメモリ改良の後押しをし、より高速で大容量、安価なものにして感じs感じを受けます。
- 半導体メモリは、トランジスタに電流を流して電位を保持し続け、メモリ効果を持たせるのが基本です。
- しかし、この方法は、電気を流しておかないと情報が消えてしまいます。
- 電気を常時流さなくても情報が消えない半導体メモリのことを不揮発性メモリ(Non-Volatile Memory)と言います。
- これは、絶縁体の中にコンデンサ構造を持たせて、ここに電荷を保持させ、これによりメモリ機能を持たせたものです。
- こうしたメモリは、50年の歴史の中で数多く作られてきましたが、一様にメモリ容量が少なくて書き込みと消去に時間がかかるものでした。
- 紫外線を使った消去型EPROM(Erasable Programmable Read-Only Memory) は、データを消去するのに30分程度かかっていました。
- それがフラッシュメモリで一瞬にしてデータを消去できるのです。
- これを開発した桝岡氏が、「フラッシュ」と名付けた理由がよく理解できます。
- フラッシュメモリの基本原理は、左図に示す如く、電荷を長期間保持できる浮遊ゲート部(コンデンサ部もしくはキャパシタ部)をMOSトランジスタ部に作り、そこに総じて高い電圧(約20V)を印加して電荷を保持させるものです。
- 1ビットのデータにコンデンサが1個あてがわれることになります。
- データを保存する浮遊ゲート部は、ポリシリコン膜で形成され、外部とは電気的に絶縁状態となっています。
- この浮遊ゲート部に高電圧をかけて、電子(= ホットエレクトロン)を注入し電荷を蓄えます。
- 扱う電圧が高いために、浮遊ゲート部の耐久性が問題になっていました。
- ■ NAND型フラッシュメモリ、NOR型フラッシュメモリ
- フラッシュメモリは、歴史的に見るとNAND型とNOR型の二つに分かれます。
- NORとかNANDという言葉は、デジタル素子の論理回路からきています。
- デジタル素子では、「AND」、「OR」、「NAND」、「NOR」などの論理演算を行う素子が作られてきました。
- フラッシュメモリにも、そうした論理演算手法が取り入れられているため、このような名前となりました。
- フラッシュメモリは、NAND、NORの他、ANDタイプやDI-NORタイプも開発された経緯があります。
- 現在では、NANDとNORタイプが主流であり、マーケット的にはNANDタイプが大勢を占めています。
- NAND型は、東芝が中心になって開発を進め、NOR型は米国インテル社が開発を進めました。
- 両者は、それぞれに一長一短があり、普及にしのぎを削ってきました。 両者の違いを簡単に述べると次のようになります。
- NAND型は、メモリを数珠つなぎ状に構成するので、一括した読み書きが得意です。
- つまり、ランダムアクセス(任意にデータを読み書きする機能)ができず、ブロック単位での読み書きしかできません。
- しかし、製造上集積化が容易なのでコンパクトで大容量化に向いています。
- NOR型は、NAND型とは逆にメモリ1個ずつアクセスできる構造となっています。
- そのため任意のビットにアクセスすることができランダムアクセスを得意としています。
- 反面、ビット1個の占める占有面積がNAND型に比べ大きくなるため、高集積化は得意ではありません。
- NOR型は、高速性に優れて(速度はSRAM相当)ビット単位でのアクセス性能に優れています。
- NAND型は、メモリスティックやSDカードなどの外部メモリとして普及し、NOR型は携帯電話などの小型機器の内部に組み込むメモリとして使われています。
- 東芝が1988年に開発した4MビットのNAND型フラッシュメモリは、デジタルカメラに使われました。
- 昨今(2011年)では、携帯音楽再生装置(iPod、iPad)やスマートフォン、コンパクトデジタルカメラの急速な普及により、NAND型フラッシュメモリの需要がより一層喚起されています。
- ▲ MCP(Multi-chip Package)- メモリ高集積化技術
- フラッシュメモリが大躍進を続けている裏方の技術として、メモリの高集積化技術が上げられます。
- この技術の一つにシリコン基板を何層にも積み上げて、小さなチップに高い集積度を持たせる高層化技術があります(右図参照)。
- 2004年1月には、東芝が9層構造を開発しました。
- パッケージは、11mm(巾)x 14mm(長)x 1.4mm(厚)の大きさで、1.4mmの厚さに6層のチップと3層のスペーサを積層させています。
- ウェハー基板の厚さは70umの薄さで、この薄さの上にメモりを作りあげ集積化を図っています。 70umもの薄いシリコンウェハーはどうやって作るのでしょう。
- 右の電子顕微鏡写真を見ると、50um程度の細い金線が180umピッチでボンディングされているのがわかります。
- ワイヤーボンディングの技術もミクロンオーダの制御で行っていることを伺わせます。
- こうした技術にあやかって、USBフラッシュメモリでは32GBまでの容量を持つものが市販されるようになりました(2011年時点)。
- また、デジカメ用メモリのに使われるSD/SDHCカードも32GBを持つものが販売され、新しい規格であるSDXC(2009年策定、XC = eXtended Capacity)ではexFAT(extended File Allocation Table)を採用し、2TB(テラバイト)までの容量を確保できるようになりました。
- ▲ NAND型フラッシュメモリの多値化技術(MLC = Multi Level Cell)
- NAND型フラッシュメモリの高集積化技術の一つに、多値化技術があります。
- 従来の半導体メモリは、一つの素子に対して1ビット(電気を保存しているか"1"、そうでないか"0"の2種類)の情報しか持ち得ませんでしたが、この技術はしきい値を4レベルに設定して2ビットの情報を1つの素子に持たせるものです。
- 多値化技術により、高い集積度を得ることができ、大容量化とメモリ製造価格の低減を実現させました。
- MLCに対応する言葉として、従来の1ビットメモリ方式のものをSLC(Single Level Cell)と呼んでいます。
- MLCとSLCを比べると、MLCは集積度が上がり、単純計算で同じサイズで倍のメモリ容量を持つことができます。
- 反面、MLCは、読み込みと読み出しが複雑になる分、読み出し速度と書き込み速度が遅くなります。
- また、電荷を蓄える浮遊ゲートに負荷がかかる分、書き込みのできる回数が少なくなり、SLCの100,000回に対して、MLCは1桁少ない10,000回と言われています。
- ▲ フラッシュSSD(Solid State Drive、Solid State Disk) (2011.08.12)(2020.03.10追記)
- ハードディスクドライブ(HDD)を半導体メモリで置き換えた装置が、フラッシュメモリによる外部記憶装置であり、これをSSDと呼んでいます。
- SSDは、小型ハードディスクドライブと同程度のデータ保存容量(80GB〜3TB)を持ち、半導体メモリの特徴を活かした装置です。
- SSDには、磁気ディスクのようなモータ、磁気ヘッドアームなどの可動部がなく、低消費電力でランダムアクセスが速い、そして起動が速いという特徴を持っています。
- SSDの欠点は、下の表にも示した如く、高価なことです。
- また、フラッシュメモリの原理上、データの書き換えに高電圧を使うためメモリ部であるキャパシタに耐久性上の問題があり10万回の使用でメモリが使えなくなることが指摘されています。
- この問題を回避するため、SSDにはコントローラが内蔵されていて、特定のメモリ部に読み書きが集中しないように管理が行われています。
- SSDは、データの書き込みに時間がかかります。
- これもフラッシュメモリの原理上の問題であり、キャパシタ部に蓄えられた電荷を一旦解除して、再度メモリに書き込むという動作をする必要があるからです。
- このため、SSDでの書き込み(や読み出し)は、メモリコントローラ(バッファメモリと並列処理)により相対的な読み書き速度を高めています。
- SSDのもう一つの欠点は、「プチフリ」と呼ばれる現象です。
- データをSSDに書き込むとき、データの書き込みが集中する際に一時的にフリーズする現象です。 これは、初期の頃のSSDや廉価なSSDに見られるもので、信頼おけるSSDではプリフリを回避する制御機能がコントロール部に搭載されています。
- フラッシュSSDが最初に市販化されたのは、2001年のことです。
- そのデバイスは、Adtron社(米国アリゾナ州フェニックス、1985年設立。2008年SMART Modular Technologies社の傘下)が開発したモデルS35PCというものでした。
- この製品は、以下の仕様で作られました。
- 3.5インチタイプ、
- SCSIインタフェース出力、
- 14GBの容量
- この製品は、当時42,000ドル(約4,500,00円)の価格でした。
- この装置は、北海油田のパイプライン敷設工事の検査工程に使うコンピュータのディスクドライブとして使われたそうです。
- 劣悪な自然環境条件での使用を考慮して、信頼性の高いSSDをシステムディスクとして使うことを決めたそうです。
- Flash SSDは、その後進化を遂げ、2008年には東芝から512GB容量のものが開発され、2009年5月に東芝のPCに搭載されて販売を開始しています。 2008年に発売されたフラッシュSSDは、以下の性能を持ったもので10万円を切る価格で販売されていました。
- ・ 形状: 1.8インチカードタイプ(右写真:東芝)
- ・ データ容量: 128GB
- ・ 書き込み速度: 40MB/s max.
- ・ 読み出し速度: 100MB/s max.
- ・ インタフェース: serial ATA
- 2011年の時点では、フラッシュSSDの256GB容量のものは60,000円から90,000円程度で販売されています。
- SSDパッケージの形状は、HDDと同じ取り付けサイズを採用して、3.5インチ、2.5インチ、1.8インチケースが用意されています。
- データ通信のコネクタは、SATA(Serial Advanced Technology Attachment)が採用され、従来のHDDと互換性を保つように設計されています。 フラッシュSSDの問題点は、大容量化と価格、それに信頼性です。 半導体メモリは、磁気ディスクと比べるとどうしても割高になります。
- また、メモリの消去や書き込みにホットエレクトロンという高い電圧を使うために、データ保存部が劣化して書き込み回数に限界があるという問題も抱えています。
- 2011年にあっては、以下に示すような製品が市販化されています。
- フラッシュSSDのライバルは、意外にもUSB2.0接続のメモリスティックタイプのフラッシュメモリです。
- このタイプが32GB程度(10,000円程度)になって安価に市販されています。
- こうしてみると、フラッシュSSDは360GB程度の容量がないと魅力に感じなくなっています。
- ただこの容量になっても、同じ容量を持つHDDの価格が2011年時点で1万円〜2万円程度なので、普及するにはまだまだ時間がかかりそうです。
- ■ SSDと各種メモリの読み出し/書き込み速度の比較
- 右図に、大容量メモリの読み出し速度と書き込み速度の比較を示します。
- フラッシュメモリを使ったものには、SSD、SDカード、USBメモリ、PCI ExpressカードによるSSDなどがあります。
- フラッシュメモリを使ったメディアは、総じて読み出し速度が速く、USB3.0仕様のUSBメモリタイプで70MB/sの読み出しを行い、USB-C 3.1仕様の高速SSDでは500MB/sの読み出しができます。
- 一般のSSDは、これよりもスピードは落ちます。
- フラッシュメモリで最も高速なものは、PCI Express規格によるボードタイプのものです。
- このSSDは2GB/sの読み出しができ、書き込みも1GB/sの性能を持っています。
- そもそも PCI Expressは従来のPCI規格の16倍の転送速度をもつもので、6GB/sの能力をもっています。
- フラッシュメモリにそこまでの性能はありませんが、SSDの性能を極限まで引き出せる規格のものと言えます。
- 光学ディスクのCDやDVD、Blu-rayは、SSDに比べると2桁ほど読み出し速度が遅くなります。
- 光学ディスクは、カーボネート円板を回転させてレーザ光で微細に穿たれたピットを読み取るという方式を取っているため、SSDのような高速読み取りはできませんし書き込みも遅く、ランダムな書き込みもできません。
- 光学ディスクは映画などの動画や音楽ファイルのような一連の連続したファイルの読み込みや読み出しを得意としています。
- カーボネート製のディスクも100円から300円程度と安価であることから、大量に配布する目的に使われます。
- HDDは、SSDが登場するまでは高速大容量のメディアとしてコンピュータの主要周辺機器として君臨してきました。
- 需要に応えて価格も低価格になり、500GB、1TB、2TBも気軽に購入できるようになりました。
- しかし、このHDDも今後はある程度の割合で役割をSSDに譲って行くものと思います。
- HDDは、SSDに比べて価格と容量の点で魅力的なものの、読み出し速度はSSDの半分から1/4程度となり、システムを立ち上げる時やハードディスクを使って大きなアプリケーションソフトを立ち上げる時に2倍から4倍がかかってしまいます。
- SSDの価格が下がってくれば、電力を消費せず衝撃にも強い特徴が活かされる携帯機器に使われるようになるでしょう。
- ■ SDメモリカード (2020.03.13記)
- フラッシュメモリの需要を引き上げたのは、SDカードの登場と言えましょう。
- SDカードは、デジタルカメラや携帯電話の記録媒体としてたくさんの需要を喚起し供給されました。
- SDカードは、NAND型フラッシュメモリを採用したメモリーカードです。
- 名前の由来は、東芝が構築したDVDの光ディスクの流れを汲んだ「Super Density Disc」から来ています。
- ロゴも光ディスクの図案を彷彿とさせます。
- SDメモリカードは、1999年8月に松下(現:パナソニック)、サンディスク(現:ウェスタン・デジタル)、と東芝によるSD Groupによって規格化されました。
- SDカードの前身にサンディスクとドイツのシーメンス社開発したMMC(マルチメディアカード、1997年)がありました。
- SDカードは、MMCの後継機種と言えます。
- 1999年と言えば携帯電話が急速に普及している時代で、コンパクトデジタルカメラも普及している時代でした。
- これらの普及にフラッシュメモリは大きな役割を果たし、SDカードが急速に受け入れられて行った背景がありました。
- ちなみに、SDカードが開発された時期に開発された他のフラッシュメモリカードとしては、以下のものがあります。
- ・ マルチメディアカード(MMC): 1997年、ドイツ・シーメンス社とサンディスク社の開発。
- ・ スマートメディア(SmartMedia):1995年、東芝が提唱。デジタルカメラや音楽プレーヤー。
- ・コンパクトフラッシュ(CF): 1994年、サンディスク社。SDより大型。
- ・ メモリースティック(MS): 1997年、ソニーが開発。
- ・ xDピクチャーカード(xD): 2002年、オリンパスと富士フイルムによって開発。
- ・ SIMカード : 携帯電話に採用。
- ・ICカード(ICC): クレジットカード、電子カード組み込みIC。
- これら競合製品と比べて、なぜSDカードが勢いを得て大きなシェアを獲得していったのかと言うと、SDカードはライセンス料を安価に設定したことと、そしてmicroカードを投入して携帯電話に採用したことが大きいと言われています。
- SDカードの形状は、上左図に示したような寸法で規格化されています。
- 図にはSDとmicroSD(2006年発売)の二種類を載せていますが、規格ではその中間サイズのminiSDもあります。
- ただ、miniSDは2009年以降の規格には採用されていません。
- microSDがminiSDに取って代わったので、その役割を終えました。
- 標準のSDカードは、カメラやPC のメモリとして使われていて、microSDは携帯電話やカーナビゲーション装置に使われています。
- 開発された当初(1999年)は2GB容量だったものが(SDタイプ)、容量の拡大化に伴って32GB容量のSD HC(2006年)ができ、2TBまでのSD XC(2009年)を経て128TBまでのSD UC(2018年)が規格化されました。
- SDカードは、これまでに4回の容量帯拡張を行ったことになります。
- ファイルフォーマットは、初期のSDはFATでフォーマットされ、SDHCではFAT32、そしてSDXCとSDUCではexFATでフォーマットされます。
- これらのフォーマットによって、割り付けられるデータの最大容量が決まります。
- メモリーの大容量化に伴いデータ通信の高速化も図られ、バスインターフェースが6度に渡って見直され(規格バージョン:SD1.0、SD1.1 、SD3.0、SD4.0、SD6.0、SD7.0)、都度速度が上がり、12.5MB/sから985MB/sまで段階的に向上しました。
- 物理的には、データ転送を行うピン配列の変更がなされ、そしてクロックスピードを上げて行きました。
- データ転送のピン配列の変更は、UHS-IとUHS-IIの2回です。
- UHSは、Ultra High Speedの略です。
- UHS-IIでピン配列を増やし、またそれぞれバスクロックを上げて最低速度を保証しています。
- 下の図のピンレイアウトに両者の変更を示します。
- ピンレイアウトは2種類あり、初期(ノーマルとSD3.0で規格されたUHS-I)のものは1段配列(第一ロウ)のみの9ピンとなります(microSDカードは8ピン)。
- 後期のもの(SD4.0で規格されたUHS-II)は、2段配列(第一ロウと第二ロウ)となっていて、第二ロウに8ピンが追加されてバス数を多くし高速化を図りました。(microSDカードも同数の8ピンが第二ロウに追加されています。)
- UHS-IIは、UHS-Iの上位互換であるので、UHS-II規格のSDカードをUHS-Iのホスト(PCやデジタルカメラなど)に使うことができます。
- これはUSB3.0とUSB2.0の関係と似ています。
- UHS-III(SD6.0で規格)は、内部のクロックを向上させたもので物理的なピンレイアウトはUHS-IIと同じです。
- SD7.0(仕様規格)では、PCI Expressバス(PCIe Gen.3)に直接接続するSD Expressバスとなってさらなる高速データ転送が可能となっています。
- 上図はSDカードの表面です。性能が細かく表記されています。
- この表記によってカードの性能を知ることができ、データ容量や転送速度を確認して目的に応じたものを使うことができます。
- SDカードの性能向上の大きな理由は、ビデオカメラの記録媒体としてニーズが高まったことが挙げられます。
- 2006年11月に、パナソニックからHDC-SD1というSDカードを搭載したデジタルハイビジョンビデオカメラが発売されています。
- 同時期には姉妹機HDC-DX1も発売され、これは8cm径のDVDを記録媒体にしたものでした。
- DVDディスクも揃えたビデオカメラリリースがあった2006年が、SDカード装着のビデオカメラ元年と言えましょう。
- スピード表記は、SDカードの性能向上とともに、ビデオカメラの記録媒体がビデオテープからSDカードに取って代わられるようになり、ユーザの持つビデオカメラに最適なSDカードが使えるように施されるようになったものと思われます。
- 容量ロゴの表示から、HDビデオ、4Kビデオ使用時の目安がわかり、ビデオスピードクラスでは連続録画の際のデータ保存速度を確認することができます。
- 例えば、V30表記では30MB/sのデータ保存ができるため(これはBlu-Rayディスク4.5MB/sの6.7倍の書き込み速度)、MPEG4などの圧縮した動画像をSDカードに保存する場合に、動画像が30MB/s以下のデータ量であればコマ落ちすることなく保存できます。
- ちなみに、V6の性能では4K(4096 x 3072画素)の撮影が可能であり、V60以上では8K(7680 x 4320画素)の撮影が可能となります。
- アイコンで描かれた2種類のスピードクラス(「C」文字の中に記された数字の表記 = スピードクラスと、「U」文字の中に記された数字の表記 = UHSスピードクラス)は、ビデオ機器以外のデータ転送の際の速度目安を示したものです。
- 挿入される機器がUHS対応である場合とそうでない場合の速度を示しています。
- Class表示されるスピードクラスは4種類で、UHSのスピードクラスは、クラス1とクラス3の二種類です。
- これらの表記は最小データ転送速度を示したものであり、実際はそれ以上の性能を発揮します。
- それが表記の「読み取り速度」で示されています。
- しかし、この速度はいつも達成できるものではなく条件によっては達成できないこともあるので、一つの目安としてとらえるべきだと思います。
- ビデオ画像のおよその録画時間は、32GB容量のSDカードを使って、標準画像(Standard Definition, SD、1024 x 576)で約11時間、フルHD動画(1980 x 1080)で約5時間10分、4K動画(4096 x 3072画素)で約60分となります。
- これらはおおよその目安であり対象物の圧縮度合いによって変わります。
- この換算では、動画圧縮は1/100程度となります。
- ■ コンパクトフラッシュ(CompactFlash, CF)(2020.03.13記)
- コンパクトフラッシュは、小型カード型インタフェースとその規格です。
- 1994年にサンディスク社が開発しました。
- 登録商標なので、他メーカーはコンパクトフラッシュという言葉が使うことができず、CFカードやCFと呼んでいます。
- 大きさがPCカードの1/3とコンパクトであったため、コンパクトフラッシュと言う名前がついたそうです。
- しかし、上記で説明したSDカードに比べると横方向が倍程度の大きさとなっています。
- カードの上面部にデータ転送や電源の50ピンが配列されていて、それまでの68ピンのPCカードと電気的な互換をもたせているため、PCカードへの変換アダプターが用意されていました。
- コンパクトフラッシュは、主にデジタル一眼レフカメラのメモリカードとして普及し、上で述べたSDカードは小型のコンパクトデジタルカメラに採用されました。
- SDカードが出始めた当初は、コンパクトフラッシュの方が大容量でかつ高速データ転送が行えました。
- SDカードの高速化と大容量化に伴い、徐々に役割を終えつつあるとは言え、2020年3月時点の高級デジタル一眼レフカメラ(Canon 1DX mkIII、Nikon D6)には、CFexpressカード(type B)が標準で採用されています。
- 高級デジタル一眼レフカメラでは、CFexpressカードの他に、この種のカメラで使われているXQDメモリーカードも採用されています。
- フィルムによる記録 (2010.06.19)(2020.06.05)(2022.11.21)(2023.11.04追記)
- 光の記録原理 その3 - - - 2次元記録(銀塩フィルム)
- ■ 1840年代から180年続いた銀塩感光材 (2002.02.17)(2009.11.23)(2020.05.16)(2022.11.21)(2023.11.04追記)
映画用35mmフィルム。映画館で使われるフィルムは、上のようなフィルム缶に入れられて配給、保管される。フィルム缶にはコアに巻かれたフィルムが入っていて、上映時に映写機に取り付けてフィルムを回す。撮影も同様なコア巻のフィルムがカメラに装てんされる。 - CCD/CMOSカメラを使ったビデオ画像やデジタル画像が全盛となった時代にあって、1900年代を彩ったフィルム銀塩感光材はどのような位置づけにあるのでしょうか。
- フィルム銀塩感光材は、140年の歴史(1879年 〜 )をもちます。
- (銀塩感光材料そのものは、1830年代後半からで180年(1839年 〜 )の歴史を持っています。)
- 銀塩感光材の支持体は、最初、ガラス、もしくは紙でした。
- これがセルロイドフィルム支持体に置き換えられたのは、1879年のカールブット(John Carbutt、1832 - 1905、英国の写真家)が始まりとされています。
- セルロイドフィルムをロール状にして連続撮影に適したものに作り上げたのが、米国のジョージ・イーストマン(George Eastman: 1854 - 1932)で、1888年のことです。
- 彼は商才にたけた人で、「Kodak」(コダック)という誰にでも発音できる商標(ブランド)を作り、Kodakブランドでロールフィルムを大々的に販売促進しました。
- Kodakは二つの大きな世界大戦(戦争)を通して、そしてまた、時流に乗った映画業界を通じて大きなマーケットのイニシアチブを握り、フィルム感光材の世界的シェアを獲得していきました。
- 各種フィルムパッケージ
- 上: 135タイプ 通常のフィルムパトローネ
- 左下: 120タイプブローニー 中判カメラ用
- 右下: 4x5シートフィルム
- ■ テレビの話
- 片やテレビカメラはフィルムの興隆に遅れること約70年。
- ドイツ人物理学者ブラウン(Karl Ferdinand Braun: 1850 - 1918)がテレビの受像管の原形となるブラウン管を発明した1897年をテレビ元年だとしていますが、この時、画像は映し出されていません。
- テレビカメラ(撮影機)がなかったからです。
- テレビカメラが曲がりなりにも組み上がって、テレビ実験に成功したのは1920年です。
- 本格的なテレビカメラができるのは、1931年の米国人発明家フランスワース(Philo.T.Fransworth: 1906 - 1971)のイメージディセクタチューブ(テレビカメラ撮像管の一つ)の開発からです。
- その後、ビジコン(Vidicon)と呼ばれる有名な撮像管が、RCA社のワイマー(Paul.K.Weimer: 1914 - 2005)によって1950年に開発されます。
- このカメラとブラウン管の開発で電子画像が見られるようになりましたが、画質はフィルム画像に比べて及ぶべくもありませんでした。
- テレビ画像が記録できるビデオテープレコーダ(VTR = Video Tape Recorder)の開発は1953年のことで、米国RCA社が4トラック方式のカラーTV録画の研究発表をしたのに端を発します。
- その3年後の1956年に、米国Ampex社が4ヘッドバーティカルスキャン方式のVTRを開発し、実用に耐えるビデオテープレコーダの完成を見ました。
- Ampex社は、従来の音声記録で主流になっていた磁気ヘッドを固定して磁気テープを走行させるという方式を改めて、磁気ヘッドを回転させるという発想で固定ヘッドの諸問題を一気に解決しました。
- 録画、再生ヘッドを固定していたのでは膨大な信号を処理できなかったのです。
- 従って、記録と再生が行える電子画像の歴史は68年程度(1956 - )ということになります。
- ビデオテープレコーダの開発のきっかけは、1950年代米国で始まったテレビ放送です。
- 米国東部と西部とのTV放送時差を解消する手段として、テレビ番組の録画方式が考え出されました。
- RCA社(サーノフ会長)では、1951年当時、三大重要研究項目の一つとして、VTR開発の指示が出され(彼はこれをVideographと名付けた)、2年後の1953年に研究成果の発表がなされたと言われています。
- その後の50年間におけるビデオ画像の歴史、特にデジタル画像機器の躍進はめざましいものがあります。
- ビデオ画像は、正確に言うとアナログ画像とデジタル画像の2種類があります。
- ややもするとビデオ画像は「デジタル」と思われがちですが、両者は歴然と違います。
- 「デジタル」と「アナログ」の違いは、『AnfoWorldオムニバス情報3 - デジタルについて』を参照してください。
- ■ テレビ映像とフィルム映像の世界 (2023.11.04追記)
- ビデオ画像は、即座に見られるという利点が生かされるメディアです。
- 今では当たり前の特徴も、2000年までは画質ではフィルム画像が優位に立っていて、そのフィルム画像は現像処理が必要でした。
- この両者の特徴によってそれまで棲み分けがなされてきました。
- しかしながら、アマチュア向けの世界では安価なデジカメとパソコン・プリンタによるシステムがパソコンの台頭(1990年代後半)とともに主役の座を占めるようになり、写真の領域を浸食して来ました。
- 2007年6月、iPhoneの発売はデジタル画像の世界を一気に浸透させた革命的な出来事でした。
- 銀塩写真は、1860年代にあっては一生に一度写真に収まるかどうかという宝物でした。
- 1950年代から家庭に写真機が普及し、1970年代からはご婦人でも露光条件を気にすること無くシャッターを押すだけの自動機械になりました。
- そしてコンピュータ時代の到来とともに、そしてCCD撮像素子、CMOS撮像素子の開発とともにデジタルカメラの時代となりました。
- 1990年代後半以降がその時代(デジタル映像の時代)と言えましょう。
- 2007年以降は手軽にスナップ写真がとれ簡単にインターネットにあげて瞬時に世界中に拡散できるようになりました。加えて動画(ムービー)も簡単に扱えるようになりました。
- デジタルカメラの普及は、以下の要因に依るものだと考えます。
- 1. デジタル技術の普及(CPUと処理回路の高速化と低価格化)(1980年代以降のマイクロCPUの開発)
- 2. デジタル記録媒体の普及(1990年代以降、CD、DVD、BDの光学媒体から半導体フラッシュメモリの普及)
- 3. CCD、CMOS撮像素子の高性能化と普及(2000年代以降のCMOS撮像素子の普及)
- 4. ネットワークの普及(1990年代後半以降、インターネット、無線通信、クラウド、Wi-Fi通信)
- 5. スマホの普及(2007年以降)(液晶ディスプレイ、リチウムイオン電池)
- デジタルカメラは、画質もそこそこにあって、それにもまして簡便で小型であるため携行に便利です。
- デジタル画像が1000 x 1000画素を超えた時点(1990年代後半)がフィルム写真からデジタル画像変わって行ったターニングポイントだと思います。
- アマチュアの世界では、画質よりも安価であることと簡易であることが好まれます。
- ポラロイド写真に代表されるインスタントフィルムは、簡便ではあったものの思ったほどシェアを伸ばせませんでした。
- その理由は、ポラロイドフィルムは一枚あたりの写真が高価であり、その上「焼き増し」というプリントができなかったのです。
- ここにデジカメの入る隙を作ったのです。
- デジカメは、100万画素を超えるカメラが5万円台で入手できる頃(2000年始め)から急速な発展を見ます。
- プリンタも3万円台の価格で写真画質並みのプリントを提供するようになりました。
- Windowsマシンが10万円代で購入できる社会環境が整う2000年代後半に、堰を切ったようにデジタル画像がシェアを拡大していくようになったのです。
- 1990年代後半に普及したインターネットも画像を多く載せられるようになり画像、動画の時代が始まりました。
- 2020年にあっては、写真をプリントしておくよりも大容量のスマートフォンのメモリに保管したり、クラウドで膨大な画像や動画を保存して、都度検索して閲覧できるようになりました。
- そうした中で、フィルムの生き残る可能性はあるのでしょうか?
- フィルムは2020年時点で、以下のような応用で使われています。
- ● コマーシャルフォト - 広告宣伝、グラビアなどの写真撮影。4x5インチの大判カメラ。
- ● 映画 - 劇場映画。35mmフィルム、70mmフィルム。(IMAXカメラ。「ダンケルク」「トップガン」など)
- ● アマチュア・プロカメラマン - 風景、ドキュメンタリー。
ライカサイズカメラと135タイプフィルム。4x5インチの大判カメラ。- ● コマーシャル撮影 - テレビで放映するコマーシャル。35mm映画カメラとフィルム。
- ● アマチュアスナップ - 「写ルンです」(1986)、
APSフィルム、チェキ(1999)- 【米国における16mmフィルム高速度カメラのこだわり】
スプールに巻かれた16mmフィルム。日中でのカメラ装てんができたので、高速度カメラに使用された。16mmフィルムは、フィルムの両端にパーフォレーション(孔)が刻まれていて、これでフィルムを引っかけて送っていた。 - 日本での高速度カメラの現状は、デジタル高速度カメラを中心としたデジタル画像が一般的になっていて、フィルムカメラを使ったユーザは少なくなってきています。
- しかしながら、カラー撮影で5,000コマ/秒以上が欲しいユーザーや、35mmフィルムを使って美しい高速度撮影をしたい映画関係やコマーシャル関係、それに宇宙開発関係では未だその存在を誇示しています。
- 2002年1月、米国の「Photonics Spectra」という月刊雑誌に面白い記事が出てたので紹介しておきます。
- この記事によりますと、米国の研究機関では依然としてフィルムを使った高速度カメラが現役で活躍していることがわかります。
- 非常に興味ある記事だったので、抄訳を以下に載せておきます。
- 日本では、2002年にあってはほとんど使われなくなった16mm高速度カメラですが、彼らは彼らなりのこだわりと理由を持って高速度フィルムカメラの存在を認め、それらを現役として今だに利用している事実に感銘を受けました。
- (なお、フィルム高速度カメラのトピックは、「AnfoWorld歴史背景とトピック」を参照下さい。)
- CCDs vs. Film for Fast-Frame Impact Testing,
- by Brent D. Johnson(pp.58- 60, December 2001, Photonics Spectra)
- - 衝撃試験に使われている高速度フィルムカメラと高速度ビデオカメラ -
- 自動車安全実験では、1960年代初めより高速度カメラが使われている。
- Arlingtonにある高速道路安全保険協会(The Insurance Institute for Highway Safety)では、16mmフィルムを用いた高速度カメラLocam(Visual Instrumentation Corp. 製)を使用して500コマ/秒の画質の良い映像を得ている。
- また、この施設には、スイスWeinberger社の高速度カメラも所有している。
- 「Locamで撮影した映像は、ビデオに変換録画した際に最高の画質を提供してくれる」 と担当者のPini Kalniteは語っている。
- この協会では、CCDタイプの高速度ビデオカメラの導入を検討しながらも、今なお高速度フィルムカメラの持つ高画質にこだわり、現像、ビデオ編集という問題にも敢えて目をつぶり使用している。
- National Highway Traffic Safety Administration's Vehicle Research and Test Center(オハイオ州 East Liberty)では、車の安全衝突実験に12台の16mm高速度フィルムカメラ(1,000コマ/秒は、Photo Sonics社製のもの、5,000コマ/秒のカメラは、Visual Instruments社製の Hycam)を使って撮影を行っている。
- 航空機分野では、NASA Langley Research Center(ヴァージニア州Norfolk)で14台のミリケンカメラ(Miliken)が航空機衝突試験に使われている。
- NASAはこのカメラを1970年代に導入したが(今から30年以上も前!)、改良しながら現在に至っている。
- 彼らは、この高速度フィルムカメラを現在主流になっているCCDタイプの高速度カメラに代えるつもりはないという。
- 理由は、CCDタイプの高速度カメラの解像力が、現行のフィルムカメラで撮影した画像を2500x1500画素でデジタル画像に変換したものに比べ画質が劣ること、そして、CCDカメラのメモリが2秒間の撮影しかできず、彼らの請け負う実験がとても高価でミスが許されないため。
- メモリタイプのCCD高速度カメラでは、トリガタイミングがずれた場合の記録ミスが致命的になるのを憂慮しているため、と言う。
- 列車の脱線試験を行っているサンディア国立研究所(Sandia National Laboratory)では、やはり16mmフィルムを使った高速度フィルムカメラを使っている。
- この研究所では、放射性物質を特別製のキャスク(Cask)で運ぶ関係上、列車事故を想定してキャスクの衝撃試験を実サイズのモデルで列車に載せて試験を行っている。
- 「5年前までの高速度ビデオカメラは使い物にならなかった。今はかなり良くなっているが、カメラを接続するコンピュータに多大なメモリを必要とするのでまだ買い換える気にはなっていない。
- もし買い換えるとするならば、現状のフィルム式高速度カメラと同程度の画質で4倍から5倍の撮影速度をもつデジタル高速度カメラが現れた時である。」
- と、コメントする主技術員のMark Nissenは、今も16mm高速度フィルムカメラ(Photo Sonics社製の16-1PL、及びVisual Instruments社製の Locam)を用いて16コマ/秒から500コマ/秒で撮影し、それ以上の撮影速度を要求するケースではHycamと呼ばれる高速度フィルムカメラを使って5,000コマ/秒の撮影を行っている。
- ■フィルムは銀を使っている
- 映像記録方式の中で最も歴史があり、かつ、最も素直な記録媒体であったのが「銀」です。
- 銀が光に良く反応することが知られるようになって、銀板感光材が開発されたのは1830年代です。
- 以後、160年の間に銀塩感光材料は驚くほどの進歩を遂げました。
- 1980年代以降、フィルムの諸知識を知らなくてもきれいな写真が撮れるカメラが出回りました。
- この項では、1990年代以降急速に一般化したビデオ技術との比較を念頭におきながらフィルム記録の原理を説明します。
- NikonやPentax、Canonなどの35mmライカサイズカメラは、銀をフィルム上に塗布した記録媒体を使っています。
- (正確には、ハロゲン化銀粒子 = silver halide particles をゼラチンに混ぜて薄く塗布した銀塩感光材の乳剤をアセテート透明フィルムに塗布した記録媒体です。)
- 我々はこれを、単に『フィルム』(Film)と呼んでいます。
- 昔は乳剤を支持するベースにガラス板が使われていたので、乾板(photographic dry plate)と呼ばれていました。(乾板の前はコロジオン湿板 = collodion wet plate) が使われました。これは、撮影の前に写真家 = 化学者が感光材を調合して塗布し、銀塩の感度が高く保たれる濡れた状態で撮影していました。)
- ガラスは割れやすく使い勝手も悪いので、寸法安定性のよい樹脂フィルムの開発が望まれていました。
- セルロイド(ニトロセルロース)(celluloid、nitrocellulose)は、寸法安定性が良いので一時期大いに使用されましたが、発火性が高く危険を伴うので1950年頃からトリアセテートセルロース(triacetate cellulose)を用いるようになりました。
- 1980年代からは、寸法安定性を求める科学フィルム(航空写真)ではポリエステルフィルム(ポリエチレンテレフタレート = polyethylene terephthalate、PETボトルの材料、マイラーフィルム = Mylar film)を用いることもあります。
- しかし、この素材は強じんなためカメラムーブメント、現像機械を壊してしまうおそれがあり、アセテートフィルムから置き換わるにはいたりませんでした。
- 35mm幅フィルムでは、0.13mm〜 0.15mm厚のトリアセテートフィルムベース上に、ハロゲン化した銀粒子(大きさ0.2um 〜 6 um)をゼラチン(gelatin)に混ぜて厚さ数um 〜 20 umで塗布されています。
- この塗布剤を乳剤(エマルジョン、emulsion)と呼んでいます。
- ハロゲン化銀は、通常、臭素と化合し臭化銀としてエマルジョンに含まれています。
- 臭化銀は光エネルギーを受けるとエマルジョン中で反応し銀イオンと臭素イオンに分解されます。
- 従って、臭化銀はエネルギーの高い紫外線、X線によく反応します。
- ただし、ゼラチンは短い紫外線を吸収するため200nm以下の撮影はできません。
- ハロゲン化銀は光エネルギーが強ければ1ナノ秒程度のきわめて短い時間でも反応し、1秒程度まではリニアな特性を示します(光のエネルギー x 露光時間 = 一定)。
- 1秒以上の露出をする場合は、多くの場合、入射する光エネルギーが低いため、ハロゲン化銀を電離させる力が弱く、露光量はリニアではなくなります。
- また、このケース(微弱光下での長時間露光)では、乳剤面中に含まれる酸素と水分子が光エネルギーを吸収してしまうため実効感度が落ちます。
- これが相反則不規(そうはんそくふき)(reciprocity failure of film)と呼ばれる現象です。
- 光によって電離されたゼラチン中のハロゲン化銀は『潜像(せんぞう)』(latent image)と呼ばれています。
- 潜像は人間の眼では見ることのできない臭化銀内部での電離反応です。
- エマルジョン中の潜像を安定した可視化像にするのが『現像』(image development)です。
- 現像は化学反応処理であり、電離(ionaization)した銀イオンを金属銀に還元して黒色の銀像を形成します。
- 現像過程では光に当たってイオン化したハロゲン化銀粒子から還元反応が始まり、徐々に光があまり当たらなかった部位にも還元反応を促すようになります。
- したがって、露光済みフィルムを現像処理液に長時間浸して還元反応を促進させると、すべてのハロゲン化銀が(光が当たっている部位も当たっていない部位も)還元されて金属銀となって黒色化してしまいます。
- 現像における現像時間(と反応を促す現像液温度)が大切な理由がここにあります。
- 現像液はハロゲン化銀を還元する性質をもつアルカリ溶液で、メトール(Metol、硫酸パラメチルアミノフェノール塩酸基)、ハイドロキノン(hydroquinone、C6H4(OH)2)が使われます。
- 現像工程を終えてもエマルジョン中には光に反応できるハロゲン化銀が依然として残存するために、これを除去する必要があります。
- これを定着と呼んでいます。
- 定着(photographic fixer)は酸性溶液の中で行われます。
- ちなみに、現像はアルカリ溶液の中で行われ、現像行程から定着工程に入る際、現像のアルカリ溶液が酸性定着溶液に持ち越されるため定着液が弱まります。
- これを防ぐために、酢酸(酢)溶液の停止液でフィルムを中和もしくは酸性化して定着工程に入れます。
- フィルム上に定着された黒化銀(blackened silver)はきわめて安定になり、長期保存に耐えうることができます。
- 【水素増感法】(Photographic hypersensitization)
- 水素増感を施したフィルムは天体観測用のフィルムとしてアマチュア天文家の間で使われてきました。
- 市販フィルムを水素雰囲気中にさらしておくと実効感度が10倍程度向上します。
- その原理はフィルム中に残存する酸素分子と水分子が光エネルギーを吸収してしまうため、感度に有害なこれらの分子を水素と置換させてしまうものです。
- こうすることにより、ハロゲン銀が効率よく光と反応できるようになります。
- 水素増感法を行う装置には、フィルムを入れる密閉容器(真空、水素フォーミングガスを入れるコック付、デシケータでも流用可能)、真空ポンプ、50℃を保つヒータ、水素8%、窒素92%のフォーミングガスが必要です。
- 市販のフィルムを密閉容器に入れ、水分と酸素を除くため真空引きをします。
- 半日程度真空引きし、水素フォーミングガスを入れて酸素と水分子の抜けた乳剤面の空乏を水素で置換します。
- 置換作業は温度が高い方が効率がいいので密閉容器を50℃近辺にして行います。
- 水素増感法を紹介した記事が「朝日新聞」(1981年3月14日)にありましたのでこれを紹介しておきます。
天文撮影で盛んに行われた水素増感法も、1990年代終わり頃より冷却CCDの登場でその座を奪われて、最近(1990年代)ではこうした処理を行わなくなりました。
- ●美しい星空 はっきり写る - 普及し始めた水素増感法同じ露光でも10倍の差も -
- アマチュア天文ファンは、経験を積んでくると天体の魅力を写真に記録したくなるようだ。
- そんな時、暗い天体を写すのにフィルムの感度が足りないことがあるが、最近、水素ガスを使って前処理するだけで、2倍から条件によっては10倍を超す感度にフィルムを増感できる技法が開発された。
- アメリカでは水素を安全に使うためのキットもすでに売り出されており、日本の天文ファンの中にも手作りの装置で増感フィルムを使い始めた人もいる。
- 水素増感法は、世界的なフィルムメーカのコダック社のT.A.バブコック氏とT.H.ジェームズ氏の二人が1975年に見つけ、最近になって普及した。
- 感度が増すのは、フィルムの感光乳剤の中にある直径0.1〜1ミクロンの臭化銀結晶に水素が作用し、臭素とイオンが結合している銀を還元、2原子の単体の銀を作るからだ。
- 一般にフィルムが感光すると、臭化銀の中で電子とプラスの電気(正孔)が出来、電子を受け取った銀イオンが単体のイオンになる。
- それが、現像の際、触媒の働きをして黒い像を作るのだが、水素で還元された単体の銀が最初からあると、正孔を消滅させる効率が良くなるためだ。
- 天文撮影では露光時間を10秒から1分程度にする撮影が多いので、長時間露光が得意なcooled CCDカメラの方が使い勝手が良いと言えます。
- 高速度カメラでは10usとか1us(百万分の1秒)の露出が必要な場合が多いので、今述べたフィルムを増感する方法は2000年代までは有効な手法でした。
- ■カラーフィルム (2002.05.04)(2020.5.17追記)
- 上の説明で白黒フィルムについて述べました。
- カラーフィルムは白黒フィルム同様銀塩を使っています。
- ただ白黒フィルムと違うのはカラー情報を得るために乳剤面が青、緑、赤の三層に別れていることです。
- 青、緑、赤の各層にはその領域に感ずる増感色素(sensitizing dye) = カプラー(coupler)が含まれていてます。これとハロゲン化銀(silver halide、臭化銀にヨウ化銀が溶け込んだヨウ化臭化銀という固溶体)が交ざって塗布されています。
- その光の吸収によってハロゲン化粒子の表面に潜像中心ができます。
- その潜像した粒子を現像主薬で現像して還元し銀粒子にさせます。
- この還元反応によって現像主薬が酸化されて酸化生成物ができ、この酸化物とカプラー(coupler)が反応して発色色素が作られます。
- そののち(ネガフィルムでは)漂白という過程を経て、定着でフィルム中の銀がすべて洗い流され発色したカプラーだけが残ります。
- カプラー(coupler)とは、フェノール(シアン)、アシルアセトアニリド(イエロー)、1-フェニル-5-ピラゾロン(マゼンタ)に代表される化学薬品で発色の元になるものです。
- カプラーの概念はコダックで開発されました。
- カラーフィルムは今でこそ一般的になっていますがとても複雑な仕組みになっていることがわかります。
- カラー情報を得るために三原色の原理を応用した3層の乳剤を塗布する技術や、三原色に感光する増感剤の開発、発色を受け持つカプラーの開発など興味ある技術が次々と生み出されました。
- 【3原色感度層】 (2005.11.20) (2020.05.17追記)
- カラー写真の考え方は、1891年、ユダヤ人物理学者リップマン(Jonas Ferdinand Gabriel Lippmann: 1845 - 1921)が始めたと言われています。
- リップマン法は光の干渉を使って光の周波数を記録する方式でした。
- 現在使われている光の三原色による方法ではありません。
- この手法が評価されて、1908年にノーベル物理学賞を受賞しています。
- リップマンの方法は像が鮮明でないことや高価なことから一般的にはなりませんでした。
- 実用的な3原色に基づくカラー写真は1855年のマクスウェル(James Clerk Maxwell、1831-1879)がヤング(T.Young)の3原色原理に基づいて提唱したのが始まりとされています。
- マクスウェルは、1861年、王立研究所で3原色に関する興味ある公開実験をしています。
- 彼は色の付いたリボンの写真を三原色のフィルタ(青、緑、赤)を使って、それぞれ白黒の写真に撮影し直して3枚の写真(ポジ)を作りました。
- その写真を撮影の時に使った青、緑、赤のフィルタに再度かけてランタン光で投影しました。
- その3枚の写真をぴったり重ね合わせたところ白黒写真だった画像は見事なカラー写真になったのです。
- マクスウェルは人の目が3原色だけでカラー情報を感じることを実験で示したのです。
- 人の視細胞には3原色を検知する色の受容体があるのです。
- これは、イギリスのトーマス・ヤングも医学の立場から提唱していたことでした。
- 実用的なカラーフィルムが作られるのは、1904年、映画の父と言われたフランス人発明家リュミエール兄弟(A.&L. Lumiere)がモザイクスクリーンを使ったオートクローム乾板(Autochrome Lumière)を発表して商品化したことから始まります。
- 1928年には加色法に属するレンチキュラー法の16mmコダカラーが商品化されます。
- 1935年、コダックのマンネス(L.D. Mannes)とゴドウスキー(L. Godowsky)がフィルムに三原色の三層乳剤を塗布した三層乳剤外型反転発色現像法と呼ばれる減色法によるモノパック法を発明します。
- この方式で作られたフィルムがコダクローム(Kodachrome)という商品名で販売され、三原色を一つのフィルムに多層塗布するカラーフィルムが一般的になりました。
- 現在デジタルカメラの単板CCDカメラの前面に貼り付けられている3原色モザイクフィルタは、ベイヤー(Bayer)フォーマットと呼ばれていますが、このフィルタは、コダックのBayer博士がカラーフィルムの研究中に発明したもので、CCDカメラ用として開発し特許を取ったものではありませんでした。
- カラーフィルムも、ネガフィルム、リバーサルフィルム、外型カプラー方式、内型カプラー方式、インスタントフィルム方式が開発されて製品化されています。
- 【高感度層、中感度層、低感度層】
- 上図のカラーネガティブフィルム断面図の模式図を見ると、カラーフィルムは複雑な多層膜塗布によって作られていることがわかります(多層膜の仕方はメーカによってまちまちですが、代表的な例を上図で示しました)。
- カラーフィルムには青、緑、赤の3つの感度層からなるコーティングが施されていて、各感度層はさらに3つの乳剤層に別れています。
- 3つの乳剤層の一番上は高感度層で、次が中感度層(画像制御層とも呼ばれています)、一番下が低感度層です。
- 高感度層はハロゲン化銀粒子が大きく、粒状は荒いけれど光を良く受ける働きがあります。
- 低感度層は微粒化ハロゲン化銀が塗布されていて、光が十分にあればキメの細かい画像を得ることができます。
- 中間に配置された画像制御層は巧みな働きをします。
- この層が感光して現像されるとこの層に含まれている現像抑制剤が遊離して、上層の高感度の素粒子の乳剤の現像を抑制して微粒子に仕上げます。
- 暗部や露出不足の時は中間感度層がほとんど感光しないため、現像抑制剤が放出されないで上層の高感度乳剤がフルに感度を発揮します。
- この場合は粒状性が低下する結果となります。
- 【黄色フィルタ層】
- カラーフィルムでは、青色感度層のすぐ下にイエローフィルタ層が配置されています。
- この理由は、ハロゲン化銀はもともと青に感度を持っていて赤色領域は感度が低いために、全色に感度を持たせるためにハロゲン化銀に分光増感色素(シニアン色素、メロシニアン色素)を混ぜて長波長にまで感度を持たせました。
- 従って、分光色素を纏ったハロゲン化銀は長波長側にも感度を持つようになります。
- しかし、依然として青色はハロゲン化銀そのものが感じてしまうので、カラーフィルムでは光が最初にあたる上面に青色感度層を塗布し、その下部には青色を吸収して緑と赤を透過するイエローフィルタを配置してあります。
- このイエローフィルタ層は現像過程で取り除かれ透明になります。
- 【カラードカプラー】
- カラーネガティブフィルムには現像処理した際に全体がオレンジを帯びた仕上がりになります。
- これはマゼンタ発色カプラー(緑感度層)が黄色でシアン発色カプラー(赤色感度層)が淡紅色をしているため、現像処理して未発色カプラーが残留してオレンジがかった色になります。
- 予め色を付けておくカプラーのことをカラードカプラー(colored coupler)と呼んでいます。
- 緑感度層と赤色感度層になぜカラードカプラーを使用するかというと、両者のハロゲン化銀は青色にも感度を持っており、両者の感度層では両者の光だけでなく青も若干吸収します。
- これを放置して現像処理をすると青色が強くなるので予め有色カプラーで青色成分を補正して色再現を鮮やかにしているのです。
- ■フィルム乳剤の歴史 (2002.02.03)(2006.02.06) (2020.5.15追記)
- フィルム感光材料はネガティブ フィルムが中心でした。
- 銀塩感光材は陽画からスタートしましたが、プリントを行う必要からネガフィルムの需要が増えてそれが一般的になりました。
- 我々の小学校時代に理科の時間に青写真の実験を行ったことがあります。
- フィルムの感光原理はこれと似ています。
- 青写真では感光紙の上に植物の葉や切り紙を置いて、その上にガラスをのせて30分ほど太陽下にさらします。
- その後、感光紙を現像液につけると光が当たった所が反転して青色に染まります。
- その原理がフィルム感光材にも当てはまります。
- 光が当たったところが黒くなります。
- 普通の感覚では光が当たると明るくなるので白くなり、フィルムでは透明に抜けなければなりませんが、ネガティブフィルムの場合は銀反応による現像工程を経て黒化銀となります。
- つまり、ネガティブフィルムでは濃淡像が反対になります。
- そのフィルムをさらに印画紙に焼き付けて、再度反転させて正しい陰画像を得ます。
- これが一般的なフィルム、つまりフィルム現像とプリント作業です。
- 我々がお店でフィルムを買うフィルムは、ほとんどの場合がネガティブフィルムであり、現像と一緒にプリントを起こしてもらいます。
- カメラフィルムに使われている銀塩感光材は、青写真と違って光に対して感度が良く、以下の特徴を持っています。
- ・ 短時間露光ができる。
- ・ 銀塩の粒状性、感光特性(濃度)が良いので画質の良い陰影が得られる。
- ・ 得られた反転画像(ネガ画像)は、透明支持体に定着できるので印画紙にプリントする際に便利。
- ・ 銀塩の記録像は、記録性が良い。
- 【銀(silver)】
- 光を定着させるために(感光材として)銀が使われるようになったのは興味深いところです。
- 銀は昔から高価でした。
- 中世ヨーロッパでは、金よりも銀の方が価値のある時代があったと言われています。
- もちろん日本も明治になって開国を迎えるまで銀と金との相対価値は銀の方が高かったのです。
- 貨幣が「金」を根本として一元化した金本位制をとって以来「金」が最高の価値になっていますが、昔は、金と銀のそれぞれ独立した複本位制でした。
- イギリスでは、貨幣の単位に「ポンド」(pound)という単位が使われ、重さなのか貨幣なのかわからない単位が使われています。
- その「ポンド」こそ、銀1ポンドの重さの価値だったのです。
- イギリスでは、その銀1ポンドを240等分にわけ240枚の銀貨を作りました。
- その一枚が1ペニー銀貨となりました。 (ペニー銀貨12枚が集まってシリングという銀貨も作られ、20シリングで1ポンドの時代がありました。 ちなみに1ポンド = 4クラウン、1クラウン = 5シリング = 60ペンスという貨幣単位もできたり、ハーフクラウンという貨幣もでき、1ギニー = 21ペンスという単位も使われていました。歴史のなせる技でしょうか。)
- その後、イギリスは1813年に金本位制をとるようになりましたが「ポンド」という名前だけは残りました。
- いずれにしても銀は今も昔も貴金属だったのです。
- 銀は、青白い美しい光沢をもった金属でその光沢の美しさから食器や装飾具に多用されました。
- ただ、金と違って銀は酸化しやすく酸化すると黒い酸化銀を形成します(正確にはオゾンと反応して酸化銀となるそうです。
- 水と酸素に対しては安定しているそうです)。 酸化した銀は磨けばまたもとの青白い美しい光沢を得ることができます。
- 銀は金の次に延性に富み、電気伝導率は金属中最大です。
- こうした特徴に加えて、銀は光によく反応します。
- その光に対する反応を見抜いた、いにしえの人達が陰影像を残す材料として銀塩材料を発展させました。
- 現在(1990年代)では、銀の消費量の約半分が写真工業用として使われているそうです。
- 銀は極めて安定した金属ですが、光に反応し、その上ハロゲンにはたやすく侵される性質をもっています。
- この二つの組み合わせによって、銀を光に反応させてハロゲンと銀をくっつけたり離したりし、光に反応した銀だけを遊離して定着させる写真技術を作り上げました。
- 【カメラ・オブスキュラ】
- 光の陰影を写し出して記録することが始められたのは、1500年頃のカメラ・オブスキュラ(camera obscura、ラテン語でdark chamber、つまり暗箱という意味)からと言われています。
- このカメラは、暗い部屋の壁に小さな穴をあけ、外からその穴を通して入り込む光によって反対側の壁に外の風景を写し出し、写し出された像を中に入った人がナゾって風景を模写したと言います。
- これがカメラの原型となり、その後ピンホールがレンズに代わり、ヒトが描く模写の代わりに感光物質で陰影を露光する技術が発達し、写真が出来上がりました。
- 【感光材】
- 光に反応する物質を発見したのは、1727年、ドイツのヨハン・シュルツ(J.H. Schulze、1687-1744)と言われています。
- 彼は光によって硝酸銀(AgNO3)が黒化することを発見しました。
- 彼は、暗いところで硝酸銀溶液と白亜(石灰岩)の粉を混ぜてガラスびんに入れ、ビンの回りを文字を切り抜いた黒い紙で被い日の当たるところに置いたところ、日のあたった所だけ黒くなり、残りの部分は白いままであったのを見つけたのです。
- この材料を使って英国人のトーマス・ウェッジウッド(T. Wedgewood、1771-1805)がカメラ・オブスキュラの焦点面にこの材料を使いました。
- しかし、これはうまくいきませんでした。
- 彼は、そこで硝酸銀や塩化銀を塗った紙(感光紙)を使って絵を描いたガラスをおいて、数分間日光に当てて絵を写し取ることに成功しました。
- このときの感光紙に写った陰影は絵とは逆の陰画(ネガ)でした。
- 【ニエプスによるヘリオグラフィ】
- 1822年、フランスの発明家ニエプス(Joseph Nicephore Niepce: 1765 - 1833)は、アスファルトを石油(テレピン油)に溶解して、スズ板、銅板、石版上に塗布したものをカメラ・オブスキュラに入れて結像面の像を写し取ることに成功しました。
- これは、ウェッジウッド(T. Wedgewood、1771-1805)の陰画とは逆の陽画(ポジ)の撮影法でした。
- 彼はこれをヘリオグラフィー(heliography)と呼びました。
- 感光材にアスファルトを使ったというのも奇妙な取り合わせです。
- アスファルトには、光を当てると固くなるという性質があります。
- その性質を利用して、写真術が開発される以前から印刷用の原板をこの方法で作っていました。
- グラビア印刷、網目凹版印刷の原型です。 これを写真術に応用したのです。
- 彼は、銀メッキした金属板にアスファルト溶液を塗布し、レンズを使って物体像を何時間もかけて感光板に結ばせました。
- 物体の白い部分はたくさんの光を反射しレンズを通した像にもたくさん光があつまるのでアスファルトは固くなります。
- 暗い物体は、光をたくさん反射しないものなので、暗い物体像はたくさんの光で作られないのでアスファルトは柔らかいままです。
- 感光を終えたアスファルト感光板を油で洗い流した後、ヨード蒸気にさらしました。
- そうすることにより、柔らかいアスファルト(暗い像のある部位)は流れ落ち、明るい物体像のアスファルト部は固いので流れ落ちにくくそのまま残ります。
- 光が当たらなかった部分は銀が露出し、ここにヨードが反応し淡黄色のヨウ化銀が生じます。
- 光が当たって硬化したまま残ったアスファルトは、その後アルコールで溶かして銀面を露出させました。
- こうして得られた画像は、濃淡が実際の景色と同じ陽画になったと言われています。
- しかしながら、この感光材料は感度が悪く、撮影に10時間前後の露光が必要だったそうです。
- 【ダゲレオタイプ写真】
- 1839年8月19日、パリの科学アカデミーで、ルイ・ダゲール(Louis-Jacques-Mande Daguerre、1787-1851)がダゲレオタイプの写真(Daguerreotype、銀板写真)を発表します。
- 同国人ニエプスに遅れること17年のことです。 ニエプスとダゲレオは、当初一緒に写真の研究を行っています。
- この研究を発展させて、さらに感度が良くて画質の良い銀塩写真法を発明しました。
- ダゲレオタイプは、銀板をよく磨いて、ヨード(沃度)蒸気を作用させて銀板表面にヨウ化銀(AgI)を生成させ、をカメラ・オブスキュラに入れて撮影しました。
- 撮影時間は、ニエプスの10時間から20-30分と1/20と大いに短縮され、画質も驚くほど鮮明でした。
- 撮影した銀板は水銀蒸気で現像され、食塩(後にハイポ = チオ硫酸ナトリウム)で定着されました。
- ここに銀塩写真撮影・現像手法の原型が出来上がり、今日の写真の礎となりました。
- ダゲールは、もともとは舞台の風景画家で、風景画に様々な色の照明を当てて臨場感を出す「ジオラマ」の発明者でもありました。
- ダゲールが現代写真術の祖であるとするのに依存がない面白いエピソードがあります。
- ダゲールが活躍した時代(1800年代前半)は、フランスで科学技術がさかんになり出した頃で、数学や光学も発達していました。
- 科学アカデミーの設立が科学技術の促進剤になっていたのは否めません。
- ダゲールが写真術を発明した時、その発明をどのように活かそうかと天文学者アラゴ(Dominique Francois Jean Arago:1786-1853)に相談しました。 アラゴは、当時有名な学者で、フレネルなどりっぱな学者を発掘した人でも知られています。 アラゴは、彼の発明を特許として彼の所有にするのではなく、誰でも自由に写真作れるようにすべきだと提案しました。 そのかわりアラゴは、ダゲールやニエプスの子孫がフランス政府から年金をもらえるように取りはからったのです。
- こうした経緯を経て、1839年8月19日、フランス学士院の科学および美術アカデミーの合同会議の席上でダゲールの発明が公表されたのです。
- このエピソードは、その後の写真発展にはなくてはならぬ出来事でした。
- ただ、この特許はイギリスでは無償とはならず、使用のための特許料を課したそうです。
- 理由は、以下に述べるタルボットの発明したカロタイプの感光材と技術競争に発展していたからです。
- 【カロタイプ写真、Calotype】
- ダゲレオが銀板写真を発明した2年後の1841年、イギリスの数学者であり発明家であったタルボット(William Henry Fox Talbot: 1800 -1877)が、カロタイプ(Calotype)の銀塩感光材料を発明します。
- カロというのはギリシャ語のKalos = 美しい、からきています。
- カロタイプは、原画(ネガ)を作ってそれから多数の陽画プリントをとることができるもので、我々が長年親しんで来たネガフィルムの原形でした。
- タルボットの発案したプリントできる技術は継承され、カロタイプから3世代ほど下ったジョージ・イーストマン(Kodak社)のロールフィルムで大きな普及をみます。
- タルボットの発明が現在の写真の始まりだという説もあります。
- ダゲレオタイプは、プリントができませんでした。
- 実際のところ、ダゲレオタイプのカメラは、タルボットの写真手法ができてのち、廃れてしまいます。
- カロタイプ(Calotype、タルボタイプ = Talbotype)は、繊維質の紙に硝酸銀の水溶液を塗布して乾燥させ、その上にヨウ化カリウムの水溶液をしみ込ませてヨウ化銀を生成させたのち再度乾燥させ、さらに硝酸銀、酢酸、没食子酸混合水溶液に浸してから再び乾燥させたものです。
- これで作った感光紙(6cm x 6cm)をカメラオブスキュラに入れて使用しました。
- 撮影後は、硝酸銀、酢酸、没食子酸混合水溶液で現像して臭化カリウム液で定着を行いました。
- カロタイプは白黒反転したネガ画像なので、これをもう一度カロタイプ紙にプリントしてポジ写真を得ました。
- ネガ紙をポジ紙に密着させて感光させていたのでネガ紙の紙繊維が映り込みダゲレオタイプのようなシャープさにはかけました。
- タルボットは、カロタイプの写真感光材料を発明した3年後の1844年に、世界ではじめての写真入り書物「自然の鉛筆」(Pencil of Nature)を出版しました。 彼の写真は、ネガからたくさんの陽画がプリントできたので出版物に適していました。
- 写真出版書物の先駆けとなったものです。
- 写真術は、フランスとイギリスで深く研究されていたようです。
- 写真術は、1839年のフランスのダゲレオが最初だとされていますが、タルボットはそれよりも早く写真の実験を始めていて、1833年、彼が33才の時にイタリアに新婚旅行に出かけた際に使ったカメラオブスキュラの風景保存から写真術を思いついたそうです。
- 光で紙に直接風景を焼き付ける装置(写真)の考案に取り組みます。
- 1935年、カロタイプの写真を考案します。
- 彼は、しかしこれを中断して彼の本職の一つである数学研究に戻りました。
- 写真術の研究を再び始めるのは、ダゲレオが写真術を完成させたという報告を聞いた直後(1939年)で、王立協会に対して4年前に発明した画像数枚を公開しました。
- また、王立協会のハーシェル(John Frederick William Herchel、1792 - 1871)ら多くの科学者からの協力を得て研究を進め、1840年までに技術を完成させました。
- タルボットは、当時、写真という言葉にPhotographを使わず Photogenic drawing(フォトジェニック・ドローウィング)を使っていました。
- 光を使って風景を描くという意識が強くあったものと思われます。
- 1840年代以降、大いに写真業が勃興します。
- フランスはもちろんのこと、英国にあってもたくさんの写真が職業として従事されるようになりました。
- 高田俊二氏の「写真産業の技術革新史 - その1」(日本写真学会誌2014年77巻2号: 76 - 82)には、写真感光材の歴史がビジネスの側面から詳しく、また、興味深く執筆されています。
- 彼の解説によると、1841年当時、ロンドンに写真家の職業欄はなく、1851年に51人、1861年に2879人と急増したとあります。
- 1851年は、コロジオン湿式感光材ができた年です。
- コロジオン湿式写真は、使い勝手は悪かったものの感度がよかったようです。
- コロジオンを発明したアーチャーは特許を申請しなかったので、自由に使うことができ写真家を増やすことになったのかも知れません。
- 【コロジオン湿板写真】(Collodion process)
- ダゲレオの写真術が発表された12年後の1851年、イギリスの彫刻家スコット・アーチャー(Frederick Scott Archer: 1813 - 1857)によって、コロジオン湿板法(Collodion Process)が発表されました。
- (同時代にフランス人のGustave Le Grayも同様の方式をあみ出したとも言われています。)
- この写真は、ダゲレオタイプより高感度でした。(露光時間は5秒〜15秒、ダゲレオタイプは30分、カロタイプは1分。)
- また、コロジオン湿板写真は、10年ほど前に発明されたタルボットのカロタイプに比べて支持板にガラスを用いることができたため、より鮮明な像を作ることができました。
- コロジオン湿板は、カロタイプと同じくネガ撮影であったので原版から何枚もプリントができ、画質はカロタイプよりも良質で安価でした。(ダゲレオタイプは銀版を使用)。
- また、アーチャーは彼の発明に対して特許を申請しなかったため、短期間でダゲレオタイプとカロタイプを駆逐していったと言われています。
- カロタイプを発明したタルボットは、1840年代、自らの特許に対してかなりの高額な使用料を課していました。
- それは、フランスのダゲレオに勝つために多額の開発費が必要だったからだと言われています。
- 江戸幕末期の安政年間(1854年 - 1860年)に日本に輸入された写真機は、コロジオン湿式タイプでした。
- コロジオン湿板法は、ヨウ化カリウムをコロジオンに溶解してガラス板に塗布し、これを乾燥した後に硝酸銀水溶液につけて濡れたままで撮影し現像する方法です。
- 濡れている間に露光を行わないと、感度が落ちて撮影ができなくなります。
- 感度は良いかも知れませんが、濡れたままの処理であるので取扱は不便でした。
- コロジオンは乾いてしまうと硬い膜を作ってしまうので、乾燥してまう20分の間に撮影を終えなければなりません。
- そして乾かない前に現像して定着させなければなりません。
- 撮影した後、即座に現像処理を行わなければなりませんでした。
- コロジオン(collodion)は、半透膜の一種で強力な薄膜です。
- 硝酸セルロース(ニトロセルロース、nitrodellulose)をエタノール - エーテル混合溶液中で溶かしたもので、溶剤が蒸発すると薄い被膜を作ります。
- ニトロセルロースは、綿花薬とも呼ばれ着火すると激しく燃えます。
- 火薬の原料ともなり、またシートフィルム(セルロイド)の原材料ともなったものです。
- この被膜がコロジオンと呼ばれるもので、これには半透膜の性質があるためコロイドの研究に使われました。 コロジオンは、粘りけのある液体でこれを傷口に塗ると耐水性の被膜ができ、爪に塗るマニュキアの材料としても使われました。
- 写真家は粘りけのある感光板が乾かないうちに撮影するため、木製カメラ内や現像暗室は強いアルコールで充満していたことだろうと想像します。
- コロイド:
- コロイドは、牛乳や、墨汁、エアロゾールなどの比較的大きな粒子(媒質)が媒体中で安易に沈殿しない状態のことを言います。
- 学術的には、イオン化したものより大きな微粒子(10-7〜10-9m)が物質中に分散したとき、溶液と同じように凝集、沈殿することなく分散状態を保つ状態をコロイド状態と言い、これらを総称してコロイドと言います。
- コロイドの一般的な特性としては、
- 1) ブラウン運動をする。
- 2) 濾紙は通るが半透膜は通らない。
- 3) チンダル現象を示す。
- という性質があります。
- コロジオン湿式法は、使い勝手が悪いというので、1864年サイスとボルトンによって乾燥コロジオン(コロジオン + 臭化銀)が考案されてネガや印画紙の乾板製造に使われました。
- しかし湿式に比べて感度が著しく低かったので普及をみることはありませんでした。
- 湿式に変わる乾式銀塩感光材(ハロゲン化銀ゼラチン乳剤)がアーチャーの発明後21年で現れました。
- 【ハロゲン化銀ゼラチン乳剤】
- 1871年、イギリスの医師で写真家のマドックス(Richard Leach Maddox: 1816 - 1902)が発明したこの乳剤が、以後の銀塩感光材の主流となりました。
- 写真感光材は、湿式感光板(wet plate)から乾式感光板(dry plate)となりました。
- この発明は、Maddoxが55才の時の発明ですから、かなり晩年の発明と言えます。
- Maddoxは、当時、顕微鏡医師として名を知られていました。
- 顕微鏡撮影を行っていく中で、コロジオン湿式感光材では使い勝手が悪く、そしてまた顕微鏡を使って長年写真をとってきた彼は写真に用いる有機材料蒸気で健康を害していたため、より安全で簡便な乾式感光材の出現を望んでいました。
- 彼の発明を発表は静かなもので、機関雑誌「British journal of Photography」にゼラチンを使った臭化銀乳剤の作成レシピを載せたのが最初でした。
- その原稿は未完成であり、友人の編集長の突然の要請で出稿してしまったことを残念に思い、その特許の申請もしなかったそうです。
- 彼の発明したゼラチン乳剤は感度が低くてコロジオン湿式感光板に置き換えるほどには至らず、顕微鏡撮影のプレート複製に使っていました。
- 臭化銀を固定するのにゼラチン(Gelatin)を用いたのは、いろいろな「つなぎ」を試した結果もっとも安定していてそして銀の感光作用を阻害しないものだったから、と述べています。
- 彼が試した「つなぎ」材料は、卵白、植物性粘着剤質(地衣 = コケ、アマニ、カリン)、米、タピオカ、サゴなどでした。
- 最後にたどり着いたのが、家庭食材の「ネルソンのゼラチン粉末 = Nelson's Gelatine Granuals」でした。
- ゼラチン乳剤は、銀の微粒子をハロゲンと化合させて活性化させて、これを極めて安定でかつ溶解も容易なゼラチンに混ぜたものです。
- この乳剤を支持板に塗布したものがゼラチン乳剤乾板です。
- 取り扱いが良かったことから写真感光材料の主流となりました。
- ただし、ゼラチン乳剤の初期の感度は、コロジオン湿板のほうがよかったようです。
- ハロゲン化銀ゼラチン乳剤が発明された当初は、カメラマンが自ら調合して使用していました。
- マドックスの発表から2年を経た1873年、バージェス(John Burgess)が臭化銀ゼラチン乾板を商品として販売しました。
- この時までには、感度が湿板に追いついていたとされています。
- しかし、彼の商品は品質が不揃いで人気がでず、商売として成功しませんでした。
- これが、1878年イギリスのリバプール乾板会社(Liverpool Dry Plate Company)のベネット乾板(Bennett Dry Plate)によって成功し発展を見ます。
- 臭化銀ゼラチン乳剤は、その後改良が加えられて高感度化されました。
- マドックスが開発した当時の感度がASA/ISO 0.01程度だったのを、10年ほどでASA/ISO100程度まで向上させたようです。
- イギリスにおける写真乾板製造業者も急速に増えていき、Wratten & Wainwright社(ロンドン、ラッテンフィルターで名前が残る。後にEastman Kodak社に吸収)、Britannia Works社(イルフォード、エセックス州)(イルフォードの乾板で有名、日本での国産化の品質目標)など14社に上ったと言われています。
- 1873年のドイツの写真家・写真化学者のフォーゲル(Hermann Wilhelm Vogel: 1834 - 1898)による分光増感色素の発見によって、それまで青色領域にしか感度がなかった銀塩乾板が緑色領域に感度を持つオルソ乾板になり、さらに赤色に感度を持つパンクロ乾板に成長していきました。
* 代表的フィルムは、一般向け35mmフィルム(135タイプ)をリストアップ (2001年時点での資料)
- フィルム
- ネガ/ポジ
- 色温度
- 特徴
- 代表的フィルム *
- 白黒フィルム
- ネガティブ
- フィルム
- 最も一般的なフィルム。 反転像のためプリント必要。
- 濃度階調はリバーサルフィルムより巾広い。
- ●フジフィルム ネオパンSS
- ●コダックT-MAX T400CN
- リバーサル
- フィルム
- スライド用。
- あまり使われない。
- カラーフィルム
- ネガティブ
- フィルム
- デーライト
- 最も一般的なフィルム。 反転像のためプリント必要。
- 濃度階調はリバーサルフィルムより巾広い。
- ●写ルンです(富士写真) ●フジカラーSuperia 100 (デーライト) ●コダック Gold 100
- (デーライトフィルム)
- タングステン
- リバーサル
- フィルム
- デーライト
- スライド映写用。広告用。 色再現性が高い。 濃度階調はネガティブフィルムより 狭いので、露出設定がクリティカル。
- プロ写真家が好んで使用。
- ●フジクロームProvia 100F (デーライト) ●フジクロームプロフェッショナル 64T タイプII(タングステン) ●コダックエクタクローム ダイナ
- EX100(デーライトフィルム)
- タングステン
- インスタント
- フィルム
- ネガティブ
- フィルム
需要がなく販売中止
- リバーサル
- フィルム
- 一般的なインスタントフィルム。
- 撮影したその場で写真が見られる。
- ●フジインスタントフィルム FP-3000B(白黒剥離タイプ) ●フジフォトラマ FI-800GT ●フジフィルムInstax(チェキ) ●ポラロイド779 ●ポラロイドSX-70TZ (米国ポラロイド社は2001年10月
- 会社更生法を適用、受理)
- ●ゼラチン(Gelatin) (2020.05.16追記)
- エマルジョン(乳剤)に使われる材料にゼラチンがあります。
- いわゆる「つなぎ」材料です。
- 銀塩(おもに臭化銀)をゼラチンに混ぜてセルロースのフィルムに塗布したのがフィルムです。
- 銀塩材料に、なぜゼラチンが使われそれが現在まで生き残ってきたのでしょうか?
- 写真は前にも述べた如く、初期(ダゲレオタイプ)のものは銀の板にヨウ素を使ったハロゲン蒸気を吹きつけ、銀を活性化(ハロゲン化)させて光と反応させていました。
- この手法は、撮影の直前に処方する必要があり、事前に作ったものでは感度がなくなり撮影はできなくなります。
- そのハロゲン銀をコロジオンにして、撮影が終わるまで湿った状態にした(膜を作らないようにした)コロジオン湿式法が編み出され、最終的にゼラチンの中に銀塩粒子を混ぜた銀塩感光材ができあがり、これが現在まで生き延びました。
- 湿式はいかにも使い勝手が悪い感じがします。
- ゼラチン銀塩剤は、使い勝手が良くて感度、解像力、階調が優れたために生き残ったのだと想像します。
- 乳剤としてゼラチンが使われるまでには、今述べたコロジオンや、卵白が使われました。
- ゼラチンは、動物の骨や皮などから得られるコラーゲンを水とともに煮沸し、加水分解して生成するタンパク質の一種です。
- 生成したゼラチンはゼリー状になっていますが、乾燥して粉末として保存することができ、必要に応じて水で戻してゼリー状にすることができます。
- ゼラチンには以下の性質があります。
- 1) 液体状態でも浸透膜を通過することないコロイドである。
- 2) 適当な支持体上にセットされたとき、ゼラチン層は無色で曲げることができる。
- 3) 写真処理液やハロゲン化銀結晶とは反応しない。
- 4) 冷水溶液に浸しても溶けず、ゼラチン自体の重さの10倍までの水分を吸収する。
- ゼラチンのこのような優れた特性は、写真感光材の「つなぎ」として最適なものであり、ハロゲン銀の乳剤を作るのに最も適していたというわけです。
- ゼラチンは、水分を吸収して柔らかくなり、膨張してもハロゲン化物質結晶が流出することもありません。
- また、それが乾燥しても、元の大きさや形に縮んですべての結晶やそれに対応する銀、色素も元の位置に戻るため、画像が歪められることがありません。
- さらに、ゼラチン乳剤は繰り返し湿らせたり乾燥したりしても、そこに形成された画像に影響を与えることはなく、乳剤表面をきめ細かくすることができるのです。
- これが時代を超えてフィルム乳剤の「つなぎ」として使われてきた理由です。
- 【ゼラチンと感度】
- ゼラチンは、長く続く銀塩感光材の「つなぎ」として2000年にいたるまで140年もの長きにわたり使われてきました。
- ゼラチン乳剤による感光材ができた当初の感度はあまりよいものではなく、それまで使われて来たコロジオン湿式感光材の方が1桁以上も良好でした。
- 銀塩感光材の最初のダゲレオタイプのものは、1万ルクス程度の屋外の明るさにおいて30分ほどの露光時間が必要で、これがタルボットのカロタイプになると1分に短縮され、コロジオン湿式感光材になるとさらにその半分の30秒ほどになっていました。
- ゼラチン乾板は、なるほど使い勝手がよいものでしたが、感度については初期のものはそれほど芳しいものではなく、1878年英国のベネットが開発したベネット乾板でようやく感度がASA/ISO 100相当になったと言われています。
- 高感度のゼラチン乳剤が開発されるにつれて、ゼラチン乳剤感光材による写真術が急速に普及していきました。
- 乳剤の高感度化は、ゼラチン製法時の加熱方法(熱熟成法 = オストワルド熟成)によるものでした。
- この方法は、ゼラチン乳剤を乾かす過程で粘い糊になるまで加熱させる処理であり、ゼラチン内に散在している銀粒子を大きな塊にする効果をもたらしていたようです。
- 高感度化は、温度を32度程度にして1週間程度の熟成を施すとさらに効果が生まれました。
- しかし、この方法では時としてゼラチン乳剤が腐敗してしまうという問題が生じたため、アンモニア水を使った熟成で問題を解決していったようです。
- こうしたゼラチン感光材の高感度化は、初期の頃は比較的大らかにその手法が公開されていたものの、同業他社がたくさん現れて競走が生じるようになると非公開として企業秘密となって行きました。
- アマチュアの米国ロチェスターに住むアマチュアのジョージ・イーストマンが、この業界に入り始めた時(1870年代)は写真技術は大らかで、英国の情報雑誌に新しい情報がオープンにされていたので比較的容易に英国の写真術を得ることができたようです。
- それだけビジネスとしての魅力もまだ低く、趣味的な位置にあったと思われます。
- ゼラチン乳剤の感度がASA/ISO 100程度になった時(1882年、Wratten & Wainwright社)が、銀塩感光材としての地位を確立した時でした。
- その年の湿板と乾板の使われ方の比は、湿板1に対して乾板は140ほどであったと言われています。
- 1880年代からは、ゼラチン乳剤使用が主流となって行きました。
- ゼラチン感光材は、120年後の2004年には富士フイルムからASA/ISO 1600相当の感度を持つNATURA1600ものが市販化されています。(ただし、2018年3月に製造が終了しました)。
- ●ハロゲン化銀(Silver Halide)
- ハロゲン化銀は、写真感光物質の主流です。 現在の世の中に出回っているフィルムにはすべてこのハロゲン化銀が入っています。
- 白黒フィルムも、カラーネガフィルムも、カラーリバーサルフィルムも、すべてのフィルム感光材にはこの金属塩粒子が入っています。
- ハロゲン化銀は、銀と塩素、ヨウ素、臭素などハロゲンから構成される塩です。
- しかし、ハロゲン化銀は、銀とハロゲンの直接結合によって形成することはできないので、硝酸に純銀を溶かして作った硝酸銀(AgNO3)溶液と、臭化カリウム(KBr)や塩化ナトリウム(NaCl)のようなハロゲン化物の溶液を混合して作られます。
- この化学式は以下の通りです。
- AgNO3 + KBr → AgBr↓ + KNO3
- この式で示された臭化銀沈殿物(AgBr)は微粒子であり、この粒子の大きさによって感度や解像度が決定されます。
- ハロゲン化銀で注意すべきことは、銀は青から赤まで人間の目と同じような波長感度を持っていないことです。
- ハロゲン化銀そのものは、紫外線から青色にしか感度がありません。
- それでは困る、というので赤色に感度を持たせる技術革新が行われました。
- 写真の初期のものは「色盲」だったのです。
- 現在でも、色に関係がなく濃度だけのプリントをする白黒印画紙には、赤に感度を持たないハロゲン化銀そのものを使用しています。
- 従って、暗室で現像をするとき、赤色ランプの下で現像処理を行ってもカブる事がないのです。
- ハロゲン化銀がこのような波長依存をもった感光材料であるために、乳剤に染料や分光増感剤を添加して赤色領域まで感度を上げる工夫がなされました。
- 白黒ネガフィルムは、このような理由から、5種類ほどのフィルムが開発されました。
- それをまとめると以下のようになります。
- 1. レギュラー(Regular):
- 初期の感光材で、非感色性(non color sensitive)、非整色性、青感性(blue sensitive)、普通性、など呼ばれています。
- このフィルムの感色領域は、紫外、紫、青、及び緑の一部です。
- 主に映画のポジフィルム、サウンドフィルム、一般複写用のプロセスフィルム、X線フィルムに使われています。
- この感色性のフィルムは一般の撮影には不向きですが、暗室に明るい赤色安全灯を使用することができるので 作業がしやすいというメリットがあります。
- またこの感光材は保存性がもっとも良好です。
- 2. オルソ(整色性、Ortho chromatic):
- 感色範囲は、紫外、紫、青、緑、黄色までで、赤色には感度を持っていません。
- 撮影対象物に赤色領域を必要としない場合に使われることがあります。 この感光材を使えば、現像時に赤色安全灯を使うことができるので現像処理が安易にできます。
- 製版用の乾板やシートフィルムを除いて使われることがなくなりました。
- 3. パンクロ(全整色性、Panchromatic):
- 紫外から赤色まですべての可視光にわたって感度を持つ感光材です。
- 白黒フィルムはすべてこのタイプのものです。
- パンクロといっても初期にはA、B、Cと三種類を区別していました。
- A型は初期のパンクロのことで緑色に対する感度が低く、赤に対する感度も低いものでした。
- B型はパンクロの一般的なもので人間の感色にもっとも近いものです。
- B型のことをオルソパン(Ortho Pan)とも呼んでいました。
- C型は、以下で述べるスーパーパンのことです。
- 4. スーパーパン(Super Panchromatic):
- パンクロの中でも特に赤色部に感度が良い感光材です。
- 従って電灯光(タングステンランプ)による照明下の室内や夜景の撮影に適していました。
- 市販のフィルムでは、富士ポートレートパンクロなどがありました。
- 5. 赤外用(Infra-red sensitive):
- 赤外(ピーク波長750nm)に感度をもった感光材で特殊使用に使われました。
- この感光材の特徴は保存寿命が短く数週間から数ヶ月でした。
- 自動車の速度取締用カメラのフィルムとして使われました。
- ●リバーサルフィルム(Reversal Film、Negative Film)
- 写真フィルムの原点は白黒ネガティブフィルムでしたが、カメラ産業が発展していく過程でいろいろなタイプのフィルムが開発され市販されました。
- 撮影したフィルムをそのまま見たいという(わざわざプリントをせずにフィルムを直接見たいという)要求に応えたのがリバーサルフィルムと呼ばれるものです。
- また、光を3色に分けて記録するとカラー記録ができることから、カラーネガティブフィルムが開発され、その後カラーリバーサルフィルムへと進展します。
- ■フィルムのタイプ (2001.01.09)(2009.11.23追記)
- フィルムの基本は上記に述べた通りですが、そのフィルムの外装は実に様々です。
- 新しいカメラが出てくるたびにいろんなタイプのフィルムが現れました。
- 最初は、ガラス板であった銀塩乾板から、扱いやすいセルロース系のフィルムに変わり、さらに一度にたくさんの写真が撮れるようにシート状からロール状のフィルムに変わりました。
- 最終的には、パトローネ入りの35mm巾ロールフィルム、それに60mm巾の黒紙に被われたブローニー(Brownie)タイプのロールフィルム、4 x 5 インチのシートフィルム、APSカートリッジフィルムが市場に出回りました。
- ■ フィルム番号
- フィルムのタイプを番号で表す言い方は、ロールフィルムを世に広めた米国イーストマン・コダック(Eastman Kodak)社の影響が大きいようです。
- 銀塩感光材は、乾板の時代は米国よりもイギリスの方が盛んであったようですが、1891年、イーストマン・コダック社からロールフィルムが発売されて以来、米国のコダック社が主体となって大衆に力を入れたロールフィルムカメラが発売されるようになりました。
- コダックというと、フィルムメーカというイメージが強くありますが、この会社は写真撮影のためのカメラとフィルム、それに現像プロセスのためのケミカル材料を扱ってきました。
- コダックは新しいビジネスの試みとして、まずフィルムを詰めたカメラを客に販売し、客が撮影を終えたらそのカメラを送り返してもらい、フィルムの現像とプリント処理をして、さらに新しいフィルムを詰めてユーザに送り返すというサービスを世界で初めて行い米国で急成長を果たします。
- また、いろんなタイプのカメラを作って、その都度そのカメラに使うフィルムを供給してきました。
- コンシューマ向けのカメラは、映画用フィルムを短く切ってパトローネに入れたライカサイズのカメラが1925年にドイツで作られ、その成功と共に、カメラの流れがドイツに移り、戦後日本に移って現在に至っています。
- フィルムは、米国コダック社が最も力強く業界を牽引してはいたもの、小型スティルカメラを作ったドイツではアグファ社(Agfa: 1864)とベルギーのゲバルト社(Gevaert:1894 )がフィルムを作っていました。
- また、英国ではイルフォード社(Ilford: 1879)、日本では小西六(1873)と富士写真フイルム(1934年、1919年設立の大日本セルロイドから分社化、2006年富士フイルム)が精力的にゼラチン銀塩感光材を製造していました。
- コダックは、1890年代よりカメラ、フィルム、現像、プリントを一手に引き受けていましたが、1910年代ドイツのカメラが世界的に売れるようになると、カメラにフィルムを詰めてお客に渡す商売から、フィルムだけを販売するビジネスに特化するようになって行った感じを持ちます。
- パトローネ(patrone)というのはドイツ語であり、英語ではfilm cartridgeと言います。
- 1895年、コダックがフィルム番号101番を与えて以来、年ごとに1-3種類のフィルムが新しく作られ、20年間に約30種類のフィルムが発売されたと言います。
- 面白いことに、たくさん出されたフィルムの種類は、フィルムが最初にできたのではなく、カメラが最初にできてそれを合わせるようにフィルムができていった感じを与えます。
- それほどフィルムの開発番号とサイズにはなんの脈絡もありませんでした。
- ▲ フィルムのサイズ (2009.11.23記)
- フィルムのサイズは、写真がイギリスとアメリカを中心にして1880年代から1960年代までリーダ的な役割を果たしてきたので、インチでの寸法となったのはよく理解できます。
- しかし、規格のあちこちにメトリック(ミリ寸法)が見え隠れするので混乱します。
- 銀塩写真は、もともと1830年代にフランスで発明されますが、機械工業と光学工業が優れていたイギリスがカメラとレンズを作り上げます。
- 銀塩感光材の発展はイギリスに追うところが大きく、機械工業の発達したイギリスはカメラ(木製)を作り、カメラレンズも優秀なものを作り上げます。
- 感光材料は、当時写真家が自分で作っていました。
- 写真材料を規格化してカメラに合わせて商品化したのは、アメリカのイーストマンコダック社です。
- 写真の大量消費を成功させたのは、コダック社のロールフィルムのおかげでしょう。
- ■ アメリカのインチ規格
- 世界的に最もよく売れたフィルムは、35mm巾のタイプ135というパトローネサイズのものだと思います。
- 35mm巾は、イーストマンがエジソン研究所のために作った映画フィルム1-3/8インチ巾( = 34.925mm)から来ています。
- イーストマンには、当時、2-3/4インチ巾( = 69.85mm)のロールフィルムがあって、動画撮影をするときに、このフィルム巾では大きすぎるので半分の巾にしました。
- それに加えて、両端にフィルムを送るための孔(パーフォレーション、perforation)を設けました。
- (パーフォレーションは、当初はイーストマンでさん孔されずにユーザが行っていたようです。
- フィルム開発当初は、エジソン社が撮影の前にさん孔を行っていたようです。)
- パーフォレーションは、3/16インチ( = 4.7625mm)(後の規格は4.750mm)間隔で空けられました。
- 4つ分のパーフォレーションのスペースに一枚の画像(フレーム)を収めるようにしました。
- 1枚の画面サイズは、縦3/4インチ( = 19.05mm) x 横1インチ( = 25.4mm)でした。 縦横比3:4です。
- これが映画フィルムと映画サイズの規格となりました。(これは40年後に始まるテレビジョンの画面の縦横比ともなりました。)
- 映画フィルムは、1フィート長に64個のパーフォレーションが空けられたので、4個分のパーフォレーションで作られるフレーム は1フィート16枚となりました。
- 当時の映画は、16コマ/秒で撮影撮影されていましたから、1秒の撮影に要するフィルムは1フィートとなり、フィルムの消費量と撮影時間は簡単に換算できました。(1930年代よりトーキーの時代になると、音質の問題上、撮影速度は24フレーム/秒に上げられました。)
- 古いカメラマンは、撮影時間のことを尺数(しゃくすう)と呼んでいました。
- 尺は、日本の尺でなく英国の尺で1フィートです。
- 映画フィルムは、100フィート巻(30.3m)と400フィート巻(121m)が主流なので、それぞれ100秒( = 1分40秒)と400秒( = 6分40秒)の撮影時間容量だったことがわかります。
- ■ フランスのメトリック規格
- アメリカのエジソンと同時期に(実際には1年遅れで)フランスのルイ・リュミエールが同じタイプの映画カメラと映写機を作りました。
- フランスはメトリック提唱の国ですから、寸法規格はメートルです。
- 従って、彼らが作ったカメラはメトリック規格で作られました。
- フィルムは、当時米国のイーストマンコダック社のものが品質が良くてたくさん出回っていたので、これを流用したと思われます。
- しかし画面寸法は、メートルに直して縦18mm x 横24mm(3:4)としました。
- こうした理由から、映画産業は、大所はインチでの寸法によって規格が決められながらも、細部の寸法規定にメトリックが使われたり、インチで作られた規格がメトリックで丸められたりしました。
- フィルムが国際規格になった時も、ヤードポンド法の米国と英国、メトリック法のフランス、ドイツで激しいやりとりがあって、ある所はメトリックで丸められたり(フィルムの巾)、ある所(パーフォレーションのピッチ)はインチのままで規格になったようです。
- 35mm巾の映画フィルムを小型カメラに流用したのが、1913年で、ドイツライツ社のオスカーバルナックでした。
- このカメラの画面サイズは、8パーフォレーションで1画面を構成する縦24mm x 横36mm(ライカサイズ)としました。
- このライカの成功で、小型写真機のフィルムは120ブローニーフィルムから135パトローネタイプのフィルムに変わって行きました。
- ▲ 危険なセルロイド(Celluloid)
- ロールフィルムに使われたセルロイド(Celluloid)は、1862年に英国のパークス(Alexander Parkes: 1813 - 1890)がニトリルセルロース( = NC、Cellulose Nitrate)の製法を発明して特許を申請し、Parkesine(パーキシン)と名付けました。
- 化学樹脂の最初の製品と言われています。
- 1869年、米国の発明家ハイヤット兄弟(John Wesley Hyatt、Isaiah S.Hyatt:1837 - 1920)が、同種のものをセルロイドと名付け大量生産の道を開きました。
- ハイヤットは、ビリヤード球を人造する懸賞に応募するためにセルロイドを発明したといいます。
- 英国人パークスの事業は2年ほどで失敗し、それを受け継いだ英国の実業家ダニエル・スピル(Daniel Spill: 1832 - 1887)の会社も1874年に潰れてしまいます。
- 結局、ハイヤットがセルロイド工場経営に成功したものの、倒産した会社のスピルとの間で特許に関して裁判になったと言います。
- セルロイドは、ニトロセルロース(良質の木綿繊維から作られる綿薬)を原料としてこれに樟脳を可塑剤として硝化させた熱可塑性プラスチックです。
- 寸法安定性が良いため、べっ甲や象牙の代わりに使われました。
- 私が子供の頃の1960年代、石油化学製品から作られるプラスチックの種類が潤沢になかった頃は、化学樹脂と言えばセルロイドかベークライトで、セルロイドは下敷きや筆箱、クシ、ピンポン球などに使われていました。
- 戦前から戦後を通して、日本のセルロイド生産は世界一だったと言われています。
- セルロイドは非常に良く燃えて、壊れた筆箱や下敷きを火にかざすと勢いよく燃えたのを覚えています。
- ▲ 最初のフィルム - Geoge Eastman 【ジョージ・イーストマン】
- この新しい材料に目をつけたのがアメリカ人のジョージ・イーストマン(Geoge Eastman、1854-1932)です。
- 彼は、ニューヨーク(Watervile, New York)の貧しい家に生まれます。
- 14才でロチェスターの公立学校を卒業して、保険会社と銀行に勤めだしました。
- 彼の受けた教育は、義務教育まででした。
- 彼と写真の出合いは、ドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴへの旅行を計画した際に、友だちから旅行の写真記録を撮るようにすすめられたことがきっかけでした。
- 今ならスマートフォンにカメラがついているので何の問題もないのですけれど、1870年代(コロジオン湿式感光材)当時、写真を撮るというのは並み大抵のことではなく、キャンプセットと同じくらいのかさばる撮影機材と感光材料を調合する薬剤や現像処理剤など一式を持ち運ぶ必要がありました。
- 彼はそのことが契機で写真にのめり込んでいきます。
- 彼はまず、写真というものから勉強を始め、1時間5ドルの授業料を払って写真術を学びました。
- 彼はがんばり屋でもあったようです。
- 結局、写真にのめり込み過ぎ、旅行をするお金を写真の勉強に使ってしまったので、旅行は諦めざるを得ない状況になってしまいました。
- イーストマンは、Rochester Saving銀行に簿記係として勤める傍ら、サイドビジネスとして銀行が引けた午後3時から翌朝の朝食時間まで写真材料の製造販売をしていました。
- 当時(1870年代)の写真術は英国が秀でていました。
- タルボットのネガ感光材(カロタイプ)の発明から、アーチャーのコロジオン湿式感光材、マドックスのハロゲン化銀を混ぜたゼラチン乳剤にいたるまで、すべて英国人によって写真術を進化させていました。
- それと、イギリスの機械工業と光学技術、さらに出版技術と大きな経済機構もあって、当時の写真産業は英国が最も秀でていました。
- これらイギリスの力によって、秀逸なカメラ(とレンズ)が作られていました。
- ジョージ・イーストマンは、それらの技術を取り寄せて学んでいきます。
- 当時、こと写真術に関しては、技術知識の習得は大らかで、出版物も包み隠さず新しい技術を公開していたようです。
- アマチュアのジョージ・イーストマンは、「British Journal of Photography」などの書物を取り寄せて知識を吸収していたそうです。
- このようにして、ジョージ・イーストマンは、ガラス板にゼラチン感光乳剤を塗った乾板を製造して販売をするまでに写真にかかわりはじめました。
- 1881年、彼が27才の時、銀行を辞めてEastman Dry Plate Companyを設立します。
- 彼の乾板会社は繁昌しましたが、同業者が増えるにつれ将来に対する不安を覚えるようになりました。
- もっと使いやすい写真を作れば売れるに違いない。
- 苦労人のイーストマンはそう考えました。
- 【カメラと抱き合わせのフィルム販売ビジネス】
- そこで、当時脚光を浴びていた新しい人造樹脂のセルロイドに目をつけて、ガラスや紙を使っていた感光支持体から置き換えられないかと考えました。
- そして、セルロイドに感光材を塗布してロール状にしたロールフィルムを発案し、それに必要なカメラも作って1888年から販売を始めました。
- ガラスでできた感光板は持ち運びに不便で、しかも高価でした。
- 高価なカメラを使った写真撮影を、ロールフィルムの発明によって大衆の持ち物に変えようとしたのです。
- しかし、ロールフィルムの発明そのものでは彼のビジネスはブレークしませんでした。
- 彼はそこで、もう一工夫しました。
- 100枚分撮影できるロールフィルムを詰めたカメラを販売し、撮影が終わったらカメラごと送ってもらい現像とプリントをして再び新しいフィルムを詰めたカメラと一緒に送り返すというシステムを考えだしました。
- これは大いに当たりました。彼は、
- "You press the button, we do the rest" - あなたはカメラのシャッタを押すだけ。後は私達がやります。
- というスローガンをかかげて、「Kodak Camera」を大々的に宣伝し販売しました。
- このカメラとフィルム現像・プリントサービス戦略は大成功し、コダックの名前が全世界に知れ渡るようになりました。
- このカメラは親しみを込めて、「the Kodak」と呼ばれるようになりました。
- 【Kodakの社名】
- このシステム販売戦略の際、彼は自分の会社を最も敬愛する母親の名前のイニシャル『K』を取り、親しみやすい名前の『Kodak』という商標にして、1892年ロチェスター(Rochester, New York)の地に Eastman Kodak Company を設立し、映画用ロールフィルムまで手掛けるようになります。
- コダックの名声を不動のものにしたのは、1912年に売り出したベストポケット・コダック(左写真、Vest Pocket Kodak)でした。
- このカメラとフィルムの成功により、コダックの名前が全世界に知れ渡るようになりました。
- このカメラには127番のロールフィルムが使われていて、このフィルムのことをベストフィルムと呼び、画面サイズが4cm x 6.5cmであったことからこのサイズをベストサイズ(ベスト判)と呼んでいました。
- ベストカメラは、最良(ベスト)のカメラという意味ではなく、ベスト(チョッキ)のポケットにも楽に入るというので名付けられた名前です。
- このカメラによって、写真の需要を一般のアマチュアまで広めたと言われています。
- 【特許争議】
- コダックのロールフィルムは、当然のことながら特許を取得し販売していました。
- しかし、面白いエピソードがあります。
- Eastmanの発明したロールフィルムは、実はKodakがロールフィルムを販売する1年前の1887年、牧師Hannibal Goodwin(1822 - 1900)によってすでに発明されていて、特許申請もされていたのです。
- 65才の牧師Goodwinは、日曜学校でガラス乾板に書かれた聖書をランタン灯のプロジェクタに映して授業をするのを好んでいましたが、操作が面倒くさいと化学的知識のないまま自宅の片隅で試行錯誤の未可撓性の透明セルロイドフィルムを作り出しました。
- 1869年のことです。
- 彼は特許を出願しますが、その書類は化学的な根拠をもたないあいまいな書類だったようです。
- コダックはその特許を知ってか知らずか、間髪を入れずに特許申請して、製造工場を立ち上げ、トーマス・エジソンから映画用のロールフィルム開発の注文まで受けて事業を拡大します。
- 方やGoodwinは、ロールフィルム工場を作ろうにも全く資金がなく、当人も立ち上げ半ばで事故により死んでしまいます。
- 彼の死後、ニューヨークにあるAnthony & Scovil社(1907年にAnsco社)が特許を引き継いでロールフィルムの製造を始めます。
- と同時に、コダックを相手取って1902年より特許権の訴訟を始めます。
- この訴訟は12年の長きに渡って続き、最終的にはGoodwinの特許申請がコダックより早く申請されていた事と、特許内容が極めて酷似していることからコダックの敗訴に終わり、500万ドルの賠償金の支払いが命じられました。
- 裁判に負けたコダックでしたが、その頃にはコダックは事業に大成功していて、ロールフィルムと言えばコダックと言われくらいの大企業に成長し巨大な富みを築き上げていたので、裁判に勝って賠償金を手にしたAnsco社がコダックのライバルになることはありませんでした。
- 【Kodakの成長】
- 大会社の社長となったイーストマンは、自らの会社を医療保険や退職年金、生命保険などの福祉体制をどこの会社よりも早く導入し、多くの財産をマサチューセッツ工科大学や病院に寄付しています。
- さらに多くの育英事業にも多額の寄付を施し、自らが受けられなかった学校教育を多くの人に受けてもらえるようにしました。
- 彼は生涯独身のまま過ごし、健康の衰えを感じた77才の年、1932年に、
- 「自分の仕事は終わった。これ以上生き長らえて死を待つ意味がない。」
- というメモを残し、ピストル自殺で生涯を終えました。
- 【ビジネスとしての写真業】 (2020.08.26追記)
- フィルム産業を世界的な一大事業に押し上げたイーストマンは、写真術だけでなく多方面にわたるビジネスの才能を発揮し自分の会社を一大企業に押し上げました。
- 写真はとても魅力的な産業で、1800年代後半から1900年代に渡って多くの人達がこのビジネスに参入し切磋琢磨してしてきたことだろうと想像します。
- イーストマンはそうした競合会社に打ち勝って、競合会社が追いつけないほどの品質と商品を開発し、経営的にも盤石で全世界を相手に信頼を勝ち得て行きます。
- 特に映画フィルムに関してはハリウッドのお膝元ということもあり、圧倒的な支持を得ていました。
- 私が写真に目覚めた20才の頃(1970年代)、フィルムの品質はコダックが一つ抜けていたように感じていました。
- 社会人になって科学写真に携わるようになると、Kodakの写真に関する技術資料がとても充実していることに驚きました。
- 1979年に発刊された Ensyclopedia of Practical Photography by Eastoman Kodak(全14巻、英語版)は、コダックがまとめた写真に関する百科事典です。
- 麻布にある東京都立中央図書館にそれがあって、時間を見つけてはその図書館に通ってその事典をめくっていました。
- その事典は英語版であったため、日本語が出ないかと待ちわびていたところ、1981年に講談社から写真大百科(全10巻、月に一回発刊、最終巻は1982年5月)が発刊されたので、それを買い求めることができました。
- 日本語版は、英語版の完全和訳ではなく日本の写真家や学術研究者によって大幅に手が入れてあり、現役の写真家用に作られたもでした。
- 私にとっては英語版の事典の方が仕事上情報が深いものでした。
- この事典を含め仕事上で入手したフィルムに関するKodakの技術資料はとてもしっかりしたもので、米国の文化である資料をきちんとまとめ上げる力量と姿勢に舌を巻きました。
- コダックは、難しい写真技術を科学的に探求し品質の極めて高い製品を大量に全世界に送り出していました。
- たくさんの種類のフィルム感光材のみならず、現像に関する薬液や手法、機械まで標準化しました。
- コダックの躍進は、高田俊二氏の「写真産業の技術革新史 - その1」(日本写真学会誌2014年77巻2号: 76 - 82)に詳しく書かれています。
- 氏の論文によると、
- 「銀塩感光材の進展は、1860年代からの英国の写真材料家による功績が大きい。彼らが発明した技術革新の数々を業界誌に惜しげも無く発表し、多くの起業家がそれを読んで産業を盛り上げていった。」
- と書かれてあります。
- コロジオン湿式法も、ゼラチンによる乾式乳剤、ヨウ化銀の熟成による高感度化も英国人の発明でした。
- 米国東海岸ニューヨーク州ロチェスターに住むジョージ イーストマンは、熱心な起業家であり研究家でもあったようです。
- 米国において自社で本格的に写真感光材を製造始めたのは、John CarbuttによるKeystone Dry Works社(フィラデルフィア、1879年)とGustav CramerによるCramer & Nordern社(セントルイス、1879年)、そしてGeorge EastmanのEastman Dry Plate社(のち、Eastman Kodak社)(ロチェスター、1881年)の3社であったと言われています。
- それ以前には米国の輸入会社(Anthony社とScovil社)が感光材を輸入するかたわら自社製造を始めたものの、価格と品質で対抗できず断念した経緯があります。
- 米国の3社は米国内の需要が伸びつつある中にあっても淘汰され、Eastman Kodakが残りました。
- Kodakの経営戦略もさることながら、銀塩感光材の製造に対する真摯な姿勢と品質向上のための設備投資を怠らなかったからだと言われています。
- フィルム感光材の問題点は、ゼラチン品質のバラツキによる感度低下であったと言われています。
- ▲ フィルムベースの変遷
- セルロイド(ニトロセルロース)はかなり危険な材料です。
- その危険なフィルムが何故長い間使われていたのでしょう。
- 映画フィルムは、現像過程を通った後、映写機にかけられ何百回となく使われます。
- 湿度や温度に対し、セルロイドは寸法変化が少なかったのです。
- しかし、着火性が強いため火災の危険がありました。
- セルロイドの主成分であるニトロセルロース(75%)は火薬にも使われるほど可燃性が強く、可塑剤である樟脳(25%)も着火性が強く、100°C 以上の比較的低い温度で分解して、170-180°C で発火します。
- 火炎の伝播速度も速く、着火すると驚く程の勢いで火が回ります。
- 1984年9月3日(月)、東京都中央区の東京国立近代美術館フィルムセンター倉庫からの出火は有名で,330本にも及ぶ古い名画フィルム(セルロイドフィルム製)が焼失してしまいました。
- セルロイドはまた条件によっては熱で分解した時に有毒な窒素酸化物が発生するため、中毒の恐れもありました。
- 戦後、1955年になって、燃えにくい酢酸セルロース系フィルム(トリアセテートセルロース = TAC)が開発され、さらにポリエステル(ポリエチレンテレフタレート、PET)となりフィルムベースによる発火の心配はなくなりました。
- ポリエステルは強靱な樹脂であるため、薄いフィルムにすることが可能です。
- 音楽用のテープや、1980年代に急成長したビデオテープにも使われ、フロッピーディスクの材質にも使われました。
- ペットボトルのPETは、ポリエステル(ポリエチレンテレフタレート)でできています。
- コダックはポリエステルベースフィルムをマイラー(Mylar)ベースフィルムと呼んでいました。
- マイラー(Mylar)は、米国デュポン社の登録商標です。
- 銀塩フィルムでは、4x5シートフィルムにマイラーベースフィルムが使われたものの、35mmフィルムやブローニーフィルムではまず使われることはなく、その前から登場していたトリアセテートフィルムが使われ続けられました。
- その理由は、ポリエステルフィルムが強度的に強すぎるからでした。
- ロールフィルムは機械を使って現像処理を行うため、万が一フィルムが現像機内で乗り上げてしまった場合、大きな事故が想定されました。
- フィルムが強いため機械を壊してしまうのです。
- 1980年代、映像計測用に、主に宇宙開発用にマイラーベースの16mmフィルム、35mmフィルム、70mmフィルムが一部使われました。
- 宇宙空間にフィルムを持っていくとフィルム内に残存している水分が蒸発してフィルムが大変もろくなります。
- また、トリアセテートは低温になると脆くなりフィルムを送る爪でパーフォレーションが破れてしまいます。
- そのような過酷な条件で撮影フィルムを使う時、マイラーフィルムはその良さを発揮しました。
- IMAXに使われる70mmフィルムにはエスターベースのフィルムが使われています。
- 耐久性を考慮した選択です。
- 【60mmロールフィルム(ブローニーフィルム)】
- 60mm巾(正確には、2 1/2インチですから63.5mm巾)のロールフィルムは、一度にたくさんの写真を安価に提供する観点からガラス乾板、シートフィルムに代わって考え出されたものです。
- 歴史的に見て、ロールフィルムはこの60mm巾のものが最初のようです。
- これを発明したコダックは、当初、フィルム巾を2 1/2インチ巾として3種類のタイプ(117番、120番、620番)を出していました。
- 117番は、画面が2 1/4 x 2 1/4 (いわゆる6x6判)、120番は2 1/4 x 3 1/4 (いわゆる6x9判)という具合です。
- 現在では、1901年に発売された120番が、中判カメラ用の代表的なロールフィルムとしてブローニー(Brownie)フィルムという名前で生き残っています。
- ブローニーという名前は、当時コダックがこのフィルムを売り出した時に宣伝に小人を使っていて、その小人の名前がBrownieであったことから名付けられたニックネームです。
- このフィルム(ブローニーフィルム)はその後ハッセルブラッドやマミヤ、富士写真、ゼンザブロニカなどの中判カメラに使われ最後まで残りました。120タイプ、220タイプの2種類があります。
- 我々に馴染みの深いパトローネ(patrone[独]、film cartridge)入りの35mm巾の135タイプと比べると、ブローニーフィルムは細長です。
- ブローニーロールフィルムは、巾62.75mmの細長い黒紙を裏打ちの遮光紙として、それより少し短めのフィルム(61.5mm)を一緒にしてきつくスプールに巻き付けた構造になっています。
- ブローニーフィルムは一方向の送りで、撮影が終わると終わりの黒紙がフィルムを包むようにして巻かれ、裸になった供給スプールは次のロールフィルムを巻き取るために巻き取り側に入れ替えて使います。
- 単純な構造なのですが、この構造は遮光性がしっかりと保て、太陽光線の下でもカメラへの出し入れを行うことができます。
- フィルムと一緒になって巻かれている裏紙の背には、番号がふられていて、カメラの背面の赤か緑の小窓からその番号が見え何枚のフィルムを撮ったがわかるようになっています。
- 後年のカメラは、操作者がフィルム巻き上げノブを回して、小窓からフィルム枚数が確認できるようになってます。
- カメラのメカ精度も上がっているので、フィルムを巻き上げると自動的にフィルム送りがストップする機構になっています。
- このフィルムには、35mmフィルムのようなパーフォレーション(孔)がなく、巻き上げのストローク機構でフィルムを送るようになっています。
- 初期の60mm巾のロールフィルムは、60mm x 90mm サイズが6枚撮れる1種類だけでしたが、その後、ブローニー判とよばれる120サイズに統合されるようになりました。 120サイズはフィルムの長さが825mmあり、これで60mm x 90mm サイズで8枚の撮影ができ、60mm x 60mm で12枚、60mm x 45mm では16枚が撮れる容量となっていました。
- 220サイズのフィルムは、フィルムの前後だけに裏紙をつけてあとはフィルムのみとし、120サイズのフィルムの倍の長さのフィルムが巻き込んであります。
- 220タイプは120の2倍のフィルム長さがあり、60mm x 90mm サイズで16枚、60mm x 60mm で24枚の撮影が可能になっていました。
- ハッセルブラッド(Hasselblad) 2005年 ブローニーフィルムを使用した中判カメラの代表機種。多くのプロカメラマンあこがれのカメラ。 アポロ11号が月に持っていったカメラとして、有名になった。
- 現在は、デジタルバックも手がけている。
- 【インチ寸法】 (2020.05.14追記)
- これらのフィルムサイズは現在ではメトリック(ミリ表示)で言い表わしますが、規格を作った時にはインチでした。
- アメリカは今に至るまで工業製品をインチサイズで作っている国なので、1890年当時、メートルで規格を作ることはあり得なかったはずです。
- フィルムの巾も60mmぴったりの規格とは考えづらく、2 1/2インチ(63.5mm)ではなかったろうかと考えています。
- 古いものを調べる時に、インチの世界をすべてメートルで当てはめると歴史を正しく判断することが難しくなります。
- なぜ、60mm巾のフィルムが登場したのかをメートルの単位系で考えても答えの出しようがないからです。
- こうして見ると60mmフィルムというのは正しくなく、2 1/2インチ(63.5mm)巾というのが正しい言い方のような気がします。
- ロールフィルムができない以前のフィルムはガラス乾板が使われていて、4x5インチ、8x10インチなどのサイズがありました。
- これらの乾板は英国がもっとも盛んに作っていたので、英国規格(インチ規格)になったのは理解できます。
- ロールフィルムは、多くの消費者に渡るものですから規格が大切で切りのいいサイズが当然あったと考えています。
- 現在、ブローニーのフィルム巾の規格は、61.5mm+0/-0.2mmとなっています。
- 61.5mmという寸法をインチに当てはめようとすると、切りの良い数値があてはまりません。
- メートル法は、10進法を適用しているので、10.123というように自由な数値が設定できます。
- 方やインチ寸法は、古来、1/2、1/4、1/8、1/16、1/32という具合に半分ずつで細かくわけていき、分母を2の倍数にして分子を分母の数まで足していくやり方をとっています。
- (右図のノギスにはメトリックとインチ表示の2系列を測定できるようになっていますが、インチ表示は1インチを16分割しバーニアは、8分割されて、1/128インチ単位での測定をするようになっています。)
- つまり、1/8の系列ならば、1/8、1/4、3/8、1/2、5/8、3/4、7/8、1という数列になります。
- 従って10進法のような自由な数値表現が苦手のはずです。
- このことから、私が想定している120ブローニーフィルム巾は、2 1/2インチ(63.5mm)ではなかろうかと邪推しています。
- ところが、JIS規格ではブローニーサイズのフィルムは61.5mm巾と決められていて、その差(2mm)がどうしてできたのか理解に苦しんでいます。
- コダックの寸法規定では、120ロールフィルム巾は、2.41インチ〜2.45(61.24mm〜62.23mm)インチの範囲内で製造していると言われています。
- この数値は10進法表記であるので、これを一般的的な2進数の分数表記に直すと2 7/16インチ(61.9mm)となり、これが設計寸法なのかも知れません。
- しかし、それでも、現在の寸法と0.4mmの誤差が生じてしまいます。
- また、ブローニーとは別に、35mm( = 1-3/8インチ巾)フィルムの原型ともなった70mm巾( = 2-3/4インチ巾)のロールフィルムが初期の頃にあったと思うのですが、この文献も今だ確としたものが見あたりません。
- 銀塩感光材が発明されたのは1830年代終わりのことでフランスで興りました。
- 英国が感光材を改良して(カロタイプ→コロジオンタイプ→ゼラチン乳剤)、同時にカメラ(撮影暗箱とレンズ)も製作して一大産業にしました。
- その後、1880年代初めに新大陸米国のコダックがロールフィルムを開発し、1890年代初めには映画産業が起きて、大いに盛んになっていったという経緯があります。
- これらは寸法規格にも現れ、フィルムの規格も競争力のあるメーカーが覇権を握っていった感を強く持ちます。
- シートフィルムを使うボックスカメラは英国が性能の良いものを手がけたので、インチサイズのシートフィルムができ、ロールフィルムも米国のコダックが開発したのでインチサイズとなりました。
- 映画カメラは米国でさかんになりますが、初期の映画はフランス(リュミエール兄弟のカメラとパテ)も熱心だったので、インチとメトリックの相乗りになった色彩を強く感じます。
- ●フィルムのカーリング(Curling)
- ロールフィルムは非常に薄く、約0.1mm厚のアセテートベースに感光乳剤が塗布されています。
- このために、初期のフィルムでは乳剤塗布面や反対側に湾曲するカーリングに悩まされ、特に現像後のフィルムのカーリングは頭の痛い問題でした。
- このカーリングを防止するため感光材面の反対側に透明なゼラチンを塗布して使用していました。
- 現在でもほとんどのロールフィルムにはゼラチンを素材としたカーリング防止裏引き層が施されていて、現像処理後でもほぼ平らな面を保っています。
- 【35mmロールフィルム】
- 写真カメラができた時のフィルムは木でできた箱形のカメラに使う乾板フィルム(4x5タイプ、8x10)や、その後の60mmロールフィルム(ブローニー)が主流でした。
- カメラはその後、木製の大きなカメラから持ち運びやすいカメラ(ライカカメラ)が作り出されました。
- フィルムは、映画用の35mm巾のフィルムを流用していました。
- 映画用カメラは、100ft長(30.5m)、400ft長(120m)などの専用のマガジンに入れて使っていたので、小型カメラにもそうした専用のマガジンが必要でした。
- 初期のカメラにはフィルム詰替用のマガジンがいくつか用意されていて、使用者は長巻きフィルムを細かく切ってマガジンに詰め替えて使っていました。
- 1913年、ドイツ Ernst Leitz社の技師オスカー・バルナック氏(Oskar Barnack, 1879 - 1936)が、映画用の35mm巾のパーフォレーション付きのフィルムを利用した小型カメラ「ライカ」を作りました。
- このカメラの撮影サイズが24mm x 36mm(8パーフォレーション)であったため、以後このサイズを ライカサイズと呼ぶようになります。
- バルナックが長尺映画フィルムを切ってフィルムカセットに詰めるとき、彼の拡げた両腕の一尋(ひとひろ)の長さ( = 137cm)が36枚撮影できたことから、これがフィルム36枚撮りの標準となりました。
- 36枚撮りマガジンが一般的になってくると、フィルムをマガジンに詰め替える必要のないパトローネ(patrone[独]、film cartridge)入りのフィルムが販売されるようになり、18枚撮り、36枚撮りの白黒とカラーフィルムが売られるようになりました。
- それが135タイプのフィルムでした。現在一般的に使われている135タイプのパトローネ入りの35mmフィルムは、1934年にコダックによって作られて、型番に135が与えられました。
- このパトローネ入りフィルムは、35mmフィルムカメラの急成長に伴って1960年以降フィルムの代名詞になるほどに普及を見ました。
- その後、少量の撮影ができる12枚撮りも市販され、18枚撮りは20枚撮りに変わり、そして24枚撮りとなりました。
- 歴史的にフィルムの撮影容量を見てみますと、36枚撮りが最初で、その半分の18枚撮り、そして36枚の1/3の12枚撮りが登場しました。
- 結果的には、12枚撮りの倍数の24枚、36枚撮りに落ち着いたのは興味があることろです。
- フィルムメーカがこの枚数にこだわっていたのがよくわかります。
- 20枚入りが24枚入りに変わった当時のことを良く覚えています。
- これは私が高校2年生のときですから1972年頃です。
- 日本のフィルムメーカ、小西六(コニカ)が20枚撮りを24枚撮りにしてシェアを伸ばそうとしました。
- 当時人気タレントであった萩本欽一(コント55号)が、「どっちが得か、よぉ〜く、考えてみよう!」というキャッチコピーを流行らせました。
- この宣伝に敏感に反応したのは富士フィルムで、すぐに24枚撮りを出し、当時王者だったコダックは趨勢を見ながら最後に24枚撮りを投入するようになりました。
- 消耗品であるフィルムは、同じ値段であるなら撮影枚数を少なくして売った方が利幅がとれるのです。
- ●パーフォレーション(Perforation)
- 35mmフィルムは映画用に作られたものですから、フィルムを正確に送る必要上フィルムの両側にパーフォレーションと呼ばれる孔が設けられています。
- この孔のピッチは、4.75mm(0.1870インチ = 3/16インチ)と規格で決められているため、一眼レフカメラでは8パーフォレーション(37.998mm、1 1/2インチ)で一枚の画面構成になります。
- このスペースにライカサイズでは、24mm x 36mm (1インチ x 1 1/2インチ)を割り当てています。
- 35mm巾のうちの11mm( = 35mm - 24mm)がパーフォレーション部に割り当てられ、縦方向分の2.08mm( = 38.08mm - 36mm)がフレーム間のスペースとなります。
- こうしたパーフォレーションのおかげで60mmロールフィルムで使われていたような裏紙による枚数表示が不要となりました。
- 135タイプの35mmフィルムは、映画用のフィルムのパーフォレーションより若干大きめに作られているそうです。
- 映画用のパーフォレーションを採用すると、安価なカメラでは巻き上げスプロケットを精密に作ることができないため、巻き上げに誤差が出てうまく巻き上げられない不具合がでてしまうからです。
- ●35mmフィルムのカーリング(Curling)
- 35mmフィルムは、60mmフィルムより面積が小さくカーリングの影響が少ないためカーリング裏引き層は施されていません。
- 映画フィルムは現像後もロール状に巻かれて保存しますし、小型カメラでは撮影したフィルムを短く切って短冊状にして、それを袋にいれて保存するためカーリングの度合いが少ないのです。
- ■ 35mmライカサイズカメラ (2005.09.04記)(2023.09.28追記)
- 写真カメラと言えば「ライカ」と呼ばれるほど有名になったライカサイズのカメラとはどのようなカメラでしょう。
- ライカは、ドイツのエルンスト・ライツ(Ernst Leitz)社のカメラという意味で「Leica」と呼ばれています。
- ライカは、1913年にライツ社のマイスター(職人)オスカー・バルナック(Oskar Barnack:1879-1936)が開発したものです。
- 当時、ドイツでのマイスターは、一つの職場に留まって停年がくるまで(滅私)奉公するという日本のような徒弟制度はとっておらず、新しい技術を求めてドイツ国内を問わず近隣諸国を渡り歩いていました。
- バルナックは、1900年から1910年までの10年間(彼が21才から31才の間)カール・ツァイス財団で働いています。
- しかし、そこでの彼の働きは特筆すべきものはなく、"うだつの上がらない"職人だったようです。
- その後、1年を経て1911年、32才の時に、ツァイス社よりも小さな会社であるウィッツラーにあるエルンスト・ライツ社に入社し、映画機械試験部長として働きはじめました。
- 入社2年後の1913年に、最初のカメラ、Ur Leica(ウル・ライカ。ウルというのはUrbild = 原初という言葉の短縮)を2つ製造しました。
- 映画機械の試験の仕事の合間に、映画フィルムを使ってカメラを自作した感じです。
- バルナックは無類のカメラ好きだったそうで、そして小柄でした。
- 小柄な彼が、当時の箱型の組み立てカメラ(9x12センチ = 90mm x 120mmサイズの大手札判ガラス乾板を用いた蛇腹カメラ)を持ち運んで、撮影するのはとても大変だったようです。
- エルンスト・ライツ社のエンジニア オスカー・バルナックが製作した
- 35mmフィルムカメラ、Ur Leica。1913年。
- ちなみに、当時ドイツの箱形蛇腹カメラに使われたフィルムは、メートルサイズでありインチサイズではありません。
- 当時、米国のKodak社は、4インチx5インチシートフィルムを世に広めていました。メートル法を採用している国はそのためにいろいろな対応を余儀なくされていました。
- (メートルサイズのフィルととインチサイズのフィルムに関しては以下の記事を参照して下さい 「■ メートルフィルムとインチフィルム」。)
- その彼が、片手で持ち運べて簡単に撮影できるカメラに着目したのは納得の行く所です。
- バルナックがカメラに採用したイメージサイズ(24mmx36mm)をライカサイズと呼んで、その後の35mmフィルムカメラの標準サイズとなりました。
- バルナックは、最初、映画と同じイメージサイズ(18mmx24mm)(3/4インチ x 1インチ、メートル寸法と異なるが最初の規格はインチ)のカメラを作りましたが、画質的に良好な結果が得られなかったので、2倍のダブルサイズ(24mmx36mm)(1インチ x 1 1/2インチ)としました。
- カメラに装填するフィルムの長さは、彼が腕を伸ばした長さ(一尋 = ひとひろ)としたため、36枚撮りの長さとなりました。
- 彼が作った2台のUr Leicaのうち、1台を社長のエルンスト・ライツ一世に渡したそうですが、ライツ社長はあまり興味を示さなかったらしく、折からの第一次世界大戦もあって忘れ去られていたそうです。
- 初代社長の死後、後を継いだエルンスト・ライツ二世が、彼のカメラを見てとても興味を示し、30台の試作カメラ(Null Leica)を作らせます。 これは、1923年のことでした。
- ヌル(Null)というのは、「0」という意味で、I型、II型のできる前、すなわち試作機を意味したものです。
- ヌル・ライカの評判は悪く、社内では製品化に反対する声が多かったそうです。
- その理由は、あまりにも突飛なカメラデザインにありました。
- 今ではしごく普通でかっこ良いとさえ思える35mmフィルムカメラの撮影形態、すなわち、偏平のカメラの背面を顔に押し付けてファインダー越しに被写体を睨み、左手でカメラを支えながらレンズを回し、右手でカメラのブレを押さえながらシャッタを切る、という所作が奇妙に見えたのです。
- ライツ社は、しかしこのカメラ、ライカI型を販売することに踏み切りました。
- 最初のデビューは、1925年4月、ライプチヒ・メッセの展示会出展でした。市場に出してみると、ライカの評判はおおむね好調でした。
- 一風変わったカメラが実は非常に実用的であり、簡便なカメラとして市場に受け入れられていったのです。
- この展示会の後、ライツには500台の注文が入り、1年を経たない12月末には1000台の注文を受けたと言います。
- 以後、倍々と生産は伸びていったそうです。
- このライツの成功に引きずられるようにして、ライバルのツァイス・イコン社からは「コンタックス」が発売され、この他に、日本のカメラメーカもこぞってライカを模範としたカメラを設計、製作しました。
- なぜ、ライカは80年の長きに渡って愛され続けているのでしょうか。
- その理由は、カメラ好きの職人が真心を込めて使い手の側に立ったカメラを作った事にあるでしょう。
- ライカの基本構造は極めてシンプルだと言われています。
- しかしそのシンプルさに、機械の神髄が隠されていると言います。
- フィルムの巻き上げの感触と滑らかさは、ライカの前にも後にもない優れたものでした。
- また、フォーカルプレーンシャッターの作動音、ショックの少なさ、操作ノブの質感、クロームメッキの重厚感、どれ一つをとっても持つ者の満足を与える品物であったそうです。
- ライカは、なぜか一眼レフカメラを作っていません。
- 一眼レフカメラの台頭とともにライカの勢いは急速に衰えて、1970年代以降、35mmフィルムカメラと言えば一眼レフカメラと言われるようになり、日本製カメラが全世界を席巻するまでになりました。
- 高級一眼レフカメラは、ライカのようなレンジファインダー方式でなく、ファインダを覗いたままの視野が撮影でき、交換レンズが自由に使えて近接撮影も自由にできるものだったので、ライカ式のレンジファインダーを駆逐していったのです。
- 一説によると、1960年代まではライカがあまりにも性能で優れていたために、日本のメーカがそれに追随するのを諦めて、新しい方式の一眼レフレックスカメラに触手を伸ばさざるを得なかったと言われています。
- 面白いことに、1977年のジャスピンコニカを皮切りとして1980年代からオートフォーカスカメラが台頭し、それが安価なカメラにまで拡大されると、ライカスタイルであるレンジファインダー方式のカメラがすごい勢いで普及していきました。
- 【2000年代のデジタルカメラに影響を与えたフィルムカメラ】 (2012.02.23記) (2022.04.09記)
- 2012年、フィルムカメラの勢いはなりを潜め、代わってCMOS固体撮像素子を記録素子としたデジタルカメラが一世を風靡しています。
- 興味あるところは、記録媒体は銀塩感光材から固体撮像素子に変わりましたが、それをとりまくカメラの形状や付帯装置の多くはフィルムカメラを踏襲しています。
- 例えば、シャッタを切るシャッタ音は、メカニカルシャッタを持たない電子シャッタのデジタルカメラには無いものですが、フィルムカメラ時代のメカシャッタに似せて疑似音を出しています。
- カメラレンズは、フィルムカメラ時代のものが使われ、カメラの感度を示す表記もISO感度相当で表されています。
- デジタル一眼レフカメラでは、フォーカルプレーンシャッタをそのまま採用し、レンズと素子の間にミラーを配置しペンタプリズムで光学像をファインダーに導く従来の方式を取っています。
- このようにカメラの歴史を見てみても、新しい技術が編み出されたとき過去の一切を捨てるのではなく、過去の良いものを取り入れながら組み合わせていくという手法が取り入れられています。
- しかし、当然ながら新しいものができたときに淘汰されていくものもあります。
- デジタルカメラの場合には、銀塩フィルムがまず淘汰され、それに伴い現像処理、紙焼きプリント工程も消えました。
- 代わって、HDD、ICメモリ(SDカード)やCD、DVD、BDなどの電子記録媒体に写真の保存が移り、液晶モニタで映し出して見るという形態に変わってきて、必要に応じてインクジェットプリンタやレーザプリンタで印刷するようになっています。
- こうした流れによって、銀塩フィルムと銀塩紙を使った現像・焼き増しの手法は生き残る余地がなくなりました。(それでも2022年04月現在もフィルムを使っている人達が存在します。
- デジタル時代になってもフィルム = 銀塩感光材料のもつ描写に魅力を感じている人たちが少数ながらもいます。(2022.04.09記))。
- タイプ
- 呼称・番号
- サイズ・備考
- 35mmフィルム
- 126
- 35mmフィルムカートリッジ。インスタマチック用フィルム。
- 1963年。135タイプのカートリッジ版。インスタマチックフィルムに古く使われていた番号を復刻させた。
- 135
- 一般の35mmフィルムカメラ用フィルム パトローネ入り12枚 。
- 映画用フィルムから製作。1934年。
- 35mm長巻
- 30.5m(100ft)缶入り
- ラピッド
- ラピッド方式パトローネ入り、12枚撮り
- APS
- IX240
- フィルム巾24mm、パトローネ入り。
- 1996年
- ロールフィルム
- 127
- カートリッジ入り、16mm巾、裏紙つき
- インスタマチック用、12、20枚撮り
- 120
- ブローニ判、61.5mm x 830mm、裏紙つき 。最も一般的なフィルム。
- 6 x 6、12枚撮り 。1901年。
- 620
- ブローニー判、同上、細軸 。1932年 - 1995年
- 220
- ブローニ判、6 x 6、24枚撮り
- リーダー、トレーラー付き 。1965年。
- 828 616
- 116
日本では使用されず 。
116: 70mm巾(2 1/2 x 4 1/4 、6.5cm x 11 cm)。1899 - 1984
- サブミニチュア
- 16カメラ用
- 16mm巾、パトローネ入り
- ミノックス用
- パックフィルム
- 大名刺(手札) 9 x 12
- 4 x 5
- シート状フィルムを引き出し紙のついた裏紙に貼付し、12枚(10枚、16枚)をケースに入れたもの
- シートフィルム
- 大名刺 手札 4 x 5 キャビネ 八つ切り 8 x 10
- 四つ切り
- 62 x 88mm、名称 JS(2 1/2 x 3 1/2) 81 x 106mm、名称 JS(3 1/4 x 4 1/4) 100 x 125mm、名称 JS(4 x 5) 118 x 163mm、名称 JS(4 3/4 x 6 1/2) 165 x 215mm、名称 JS(6 1/2 x 8 1/2) 200 x 250mm、名称 JS(8 x 10)
- 251 x 302mm、名称 JS(10 x 12)
- 70mmフィルム
- 70mn
- 70mm巾 映画用フィルム
- インスタント写真
- ポラロイド社
- 富士写真
- カートリッジフィルム
- 110
- カートリッジ入り、16mm巾、裏紙つき
- ポケットカメラ用、12、20枚撮り
- 126
- カートリッジ入り、35mm巾、裏紙つき
- インスタマチック用、12、20枚撮り
- ディスクフィルム
- 2.5インチ円板、15枚をディスクに放射状に撮影
- 映画用フィルム
- 8mm
- カートリッジ
- 16mm
- 100ft、400ft
- コア巻き、スプール巻き、両目、片目
- 35mm
- 100ft、200ft、400ft、1,000ft
- コア巻き
- 70mm
- 100ft、200ft、400ft、1,000ft
- コア巻き、パーフォレーションタイプI、II
- 【小型フィルムに対応したカートリッジフィルム】
- ●126サイズ パトローネ(patrone[独]、film cartridge)入りのフィルムは装填の際に巻き取り側に送り込まなければなりません。
- この装填作業が機械に不慣れな人やご婦人にとってかなりのアレルギーを持たせる所作であることを知ったフィルムメーカ(イーストマン・コダック社)は、この煩わしさから開放すべく、1963年にカートリッジ式のフィルムを開発しインスタマチックカメラとして発売しました。
- このカートリッジは35mm巾のフィルムを使用し、片方だけに約26mm間隔のパーフォレーションが施されています。
- 撮影画面の大きさは26mm x 26mm ですから、一画面1パーフォレーションということになります。
- このカートリッジは12枚撮りもしくは20枚撮りの2種類あって、操作が簡単なことから全世界に爆発的な売れ行きを示したそうです。
- わたしは残念ながらこの126タイプのフィルムの存在もカメラも知りません。
- ●110サイズ 110サイズのカメラは1972年に発売され、1980年まで売れました。
- 126タイプの縮小版とも言えるもので、16mm巾のフィルムを使ったカートリッジでパーフォレーションは片側だけに設けられていました。
- 画面の大きさは13mm x 17mm でした。
- 撮影枚数も126タイプと同じで、12枚撮りと20枚撮りの2種類ありました。
- 「ワンテン」と呼ばれ親しまれたこのカメラは、ポケットにすんなり入る大きさと簡単な操作で大衆受けを狙ったもので、ある程度市場に浸透していきました。
- しかし、結果的には撤退を余儀なくされます。
- 失敗の原因は、プリントされた画質があまり芳しくなく、このカメラが販売されたと同時期に、自動焦点、自動露出、自動巻き上げのカメラ(代表カメラはキヤノン・オートボーイ)が急速に台頭してきて、このマーケットを食ってしまったのです。
- 私も何度かこの110サイズフィルムカメラの被写体に収まり、プリントをいただきましたが、粒状が荒くコントラストのつかない画質に「簡便なものはこんなものかな」と思ったものでした。
- ●ディスクフィルム(Disc Film) ディスクフィルムは1982年にコダックが開発した2.5インチ径の薄い円板状のフィルムです。
- フィルムがディスク形の花びら状になっていて、この花びらに15枚ネガフィルムが配列され回転しながら15枚の撮影ができるものでした。
- 薄いフィルムカートリッジを使うためカメラをコンパクトにできました。持ち運びに便利になることが開発の狙いとしていたようです。
- また、現像処理の合理化が図られるメリットもありました。
- しかし、この規格のフィルムも、日の目を見ずに撤退を余儀なくされました。
- 理由は、110サイズの所でも述べましたが135タイプのカメラの小型化と自動化によって画質の良い写真が手軽にできるようになったからです。
- ディスクフィルムのイメージサイズは、11mm x 8mmしかありませんでした。
- また1990年代前半から市販化された紙パック形式の使い捨てカメラ「写るんです」(富士写真フィルム)の出現は、小型カメラ業界を一変するに足る出来事でした。
- 使い勝手のよいコンセプトとそこそこに写る良好な画質が受け、小型カメラ市場を席巻していきました。
- ディスクフィルムは、1998年に製造を中止しました。
- ●APS (2012.02.23追記)
- APSは、Advanced Photo Systemの略のフィルムフォーマット規格です。
- こうした新しい規格は、すべて米国のコダックで作られますが、これもコダックが提唱し、イーストマンコダック、富士写真フイルム、キヤノン、ミノルタ、ニコン各社が共同開発して、1995年4月からサービスを開始しました。
- APSは何が新しいかというと、まず従来から一般的に使われている35mmフィルムに代わって、約60%巾の狭くなった24mmフィルム(IX240)使っていることです。
- 撮影枚数は、15枚、25枚、40枚の3種類がありました。
- フィルムが高画質になったことが手伝って、アマチュアユーザがプリントサイズをそれほど大きくしないことを見込んで装置のコンパクト化を狙い(材料を抑えて同じ値段で売るという、実質的な値上げという穿った見方もある?)サイズを小さくしたようです。
- 記録媒体のフィルムも従来の35ミリフィルムに代わる新しいフィルムを採用し、画面サイズが30.7×16.7ミリとコンパクトで、日付やタイトルなどの情報を磁気情報という形で撮影と同時にフィルムに記録できます。
- フィルムはプラスチックマガジンに収納されていて、フィルムカートリッジをカメラに入れるだけの簡単確実な設計になっています。
- このカートリッジフィルムは、従来の35ミリカメラとの互換性はないので、間違って購入してもAPS用のカメラを持っていないと使用することができません。
- APSのシステムには、画面の大きさがCタイプ、Hタイプ、Pタイプあります。
- 撮影は、画面サイズ30.7×16.7mm(16:9)で撮影し、プリント時に以下のようなサイズを指定してプリントを仕上げてもらいます。
- Cタイプ: 89×127mm (縦横比/2:3)
- 従来の35mmフィルムサイズ(ライカサイズ)と縦横比が同じ
- Hタイプ:89×158mm (縦横比/9:16)
- ハイグレード Pタイプ:89×254mm (縦横比/1:3) パノラマ
- フィルムサイズは本来Hタイプであるので、画質はHタイプが一番良好です。
- 後のサイズは撮影されたフィルム画像の横を切り落としたり上下をトリミングして引き延ばしてプリントするため、必然的に画質が落ちます。
- APSにはもう一つ大きな機能が追加されています。
- それはフィルムに透明な磁気層があって、ここに撮影データやコメントを記録していることです(これをIX情報といいます)。
- この情報は後でコンピュータで追加情報を打ち込んだり、追加記録ができるようになっていてフィルムの管理が簡単にできるようになります。
- 期待をもって登場したIX240フィルム(APS規格)はデジタルカメラの興隆に伴い販路の場を失って販売が思うように行かず、2011年をもって製造を終了しました。
- 16年の歴史ということになります。
- 【インスタント写真】(Instant Film)
- 1948年、第二次世界大戦の3年後、ポラロイド社がインスタント写真とカメラを発明しました。
- 発明したのはエドウィン・ランド博士(Edwin H. Land、1909 - 1991)です。
- 博士はハーバード大学を中退しています。
- 学生時代に偏光現象に傾倒し、中退後、ニューヨーク公立図書館にこもり猛烈な独学自習のすえ偏光に関係のある文献を片っ端から読破し「ポラロイド」偏光フィルタを商品化します。
- そんな中で、インスタントカメラは自分の三歳になるお嬢さんの写真を写した直後に「いま撮った写真をすぐ見せて」とせがまれたことからこれを発想し企業化したそうです。
- (一説にはポラロイド偏光フィルターのビジネスが思わしくなく次のビジネスを思考していた矢先だったとも言われています。)
- 当時、このフィルムカメラは撮影して1分で写真ができるので「1分間写真」と呼ばれていました。
- ポラロイド写真は最初セピア調のモノクロームでしたが、1950年に一般の写真と同様の黒調になり1960年にはカラーを公表して1963年に発売を開始します。
- 1972年にはこれまでの「ピールアパート式」(ネガとポジペーパーを剥がす方式)に代えて、SX-70方式を開発します。1975年にはこの方式によるカラーを発売しました。
- イーストマン・コダック社も1976年に同様のフィルムとカメラを発売します。
- これによりポラロイドという商品名から「インスタントフィルム」という言葉が一般名詞として使われるようになります。
- 富士写真も1981年に同様のフィルムを発売します。
- インスタントフィルムを巡ってはポラロイド社とコダック社の間でパテント問題が起き、1976年に訴訟が起こされ激しい裁判攻防の末1990年にポラロイド社が勝訴し、コダック社は1200億円の賠償とこの分野からの撤退を余儀無くされました。
- 富士写真は日本に対してはこうしたパテント申請をしていなかったポラロイド社の法的効力をかいくぐって、日本に限っての販売を行っています。
- ▲日本での不人気
- インスタント写真は、米国はいざ知らず、日本においては家庭にあまねく浸透したとは言い難い製品でした。
- アメリカでは全家庭の半数がポラロイドカメラを持っていたのに、日本ではなぜアメリカほど普及しなかったのでしょう。
- 私の個人的な思いとして以下の理由によるものと考えます。
- 1. (日本での)ポラロイドはフィルムが高かった。
- 1970年代〜2000年代、1枚150円から200円した。
- 1500円から2000円を出して1パックを買っても10枚程度しか撮れない。
- 2. 焼き増しができず、集合写真などの利用価値が低かった。引き延ばしもできなかった。
- 3. 135タイプのフィルムのDPE(現像、プリント、焼き増し)のコストが年々下がって
- 1時間サービスも出回るようになり、ポラロイドの価値が下がった。
- 4. インスタントフィルムの画質が向上するのにかなりの時間がかかった。
- これらのことが日本でそれほど普及しなかった理由と思っています。
- しかしながら、インスタント写真は企業や公共の研究所などの試験・研究機関にはかなり広く行き渡り利用されていました。
- しかし、1995年以降、デジカメが急速に普及することによって、インスタントフィルムの需要が激減してしまいます。
- ▲ チェキ(Cheki、Instax mini)(2020.04.14追記)
- 1998年頃から富士写真フィルムで新しいタイプのインスタントフィルム「チェキ」が発売されています。
- チェキは俗称で正式名はInstax mini(インスタックス ミニ)です。
- 写真サイズは小さいものの若者の間で受け入れられて良好な販売をしているとの事です。(2004年までの話。)(2020年現在も販売は続けてられて堅調な販売をしています。)
- このインスタントフィルムはデジタルカメラの台頭で使命が終わったと思っていたのですが、デジタルカメラで撮った画像をこのインスタントフィルムを利用してプリンタ用紙として使う需要を掘り起こしました。
- このプリンタのことをチェキプリンタと呼んでいるそうです。
- パソコンを使わずにプリントできるので、簡単に取り扱いができることから女子高生の間で人気があるようです。
- 我々計測の分野ではあまりみかけません。
- ▲ インスタントフィルム産業
- インスタントフィルムは現像を必要とする銀塩フィルムとは異なった性質を持っていたので、市場の一部を確保することができましたが主流とはなりませんでした。
- また、1995年頃より市場に投入され始めたデジタルカメラの興隆によって一気にその市場性が奪われてしまいました。
- 2001年10月、米国Polaroid社は会社更生法の適用を受けるに至っています。
- デジタルカメラの技術革新によって、インスタントフィルムカメラが担っていた仕事をすべて請け負ってしまったのです。
- インスタントカメラがデジタルカメラに何故駆逐されたのかというと、以下の理由が挙げられると思います。
- 1. 2000年当時、1,000x1,000画素クラスのデジタルカメラが3万円台で入手できた。
- 2. インターネットの普及と相まって、家庭にコンピュータが入り込んで デジタルカメラによる
- デジタル画像が簡単に取り込めたり、保管、読み出しができるようになった。
- 3. さらに、インクジェットプリンタメーカが写真画質以上の印刷ができるプリンタ
- が3万円台で供給するようになった。
- 【映画用フィルム】(2020.04.06)(2020.05.09)(2023.10.23追記)
- ●35mmフィルム 映画の第一歩を踏み出したのは、米国トーマス・アルバ・エジソン(Thomas Alva Edison: 1847 - 1931)と彼の研究所の主任研究員ウィリアム・ケネディ・ディクソン(William Kennedy Laurie Dickson、1860 - 1935)と言われています。
- 彼らは、1894年に「キネトグラフ」(Kinetograph)と呼ばれる撮影機と「キネトスコープ(Kinetoscope)」と呼ばれる映写機を発明しています。
- これに使用するフィルムがセルロイドベースに乳剤を塗布したロールフィルムで、パーフォレーションはほぼ現在と同じサイズのものがさん孔されていました。(パーフォレーションはフィルム供給のKodakではなくて、使用する側のエジソンで行われていたようです。)
- ムービー用の長尺フィルムが作られたのは、ジョージ・イーストマンが1885年にロールフィルムを発明してから9年後のことです。
- エジソン研究所のディクソンは、Kinetoscopeを発表する5年前、1889年にイーストマン社にロールフィルムの試作を出していました。
- そのフィルム巾が、1 3/8インチ(34.925mm)で、長さが50ft(15.2m)だったそうです。
- この規格はコダックに70mm巾(2 3/4インチ = 69.85mm)のフィルムがあったので、これを半分にして両サイドにフィルムを送るパーフォレーション(孔)を開けました。
- これ以降、映画フィルムの基本的な巾が35mmと決められ、ライツ社のオスカー・バルナックがこのフィルム流用してライカを開発して後、小型静止画カメラ(ライカサイズ)でも標準使用されるようになりました。
- ■ メートルフィルムとインチフィルム
- フィルム巾が35mmと切りのよい数値になったのは、メートル法の発明国であるフランスの影響が強かったようです。
- 米国で作られた35mmフィルム巾は、最初1- 3/8インチ±0.001インチ(34.925mm±0.025mm)となっていて、これが国際規格になった時は、34.975mm±0.025mmとなりました。フィルム幅が0.05mm大きくなりました。
- 35.00mm巾を上限として、0.05mmまで小さい数値を許容しました。
- このフィルム巾の規格を読み解くと、インチサイズの許容差±0.001インチの上限である34.950mmとして、メトリック数値の下限の34.950mmとして合意をみた感じを受けます。
- 互いに歩み寄ったと言う印象です。
- フランスは写真技術の本家であり、動画も熱心に研究していました。
- 現代の映画館スタイルによる(暗幕で覆った小屋に人を集めて映写機で動画を上映した)映画産業は、フランスで始まりました。(アメリカではありません。)
- 新大陸のジョージ・イーストマンとエジソンは、フランスで始まった映画を横目で睨みながら競争力のある映画カメラと映写機、映写小屋を構築して一大産業にしようとしていました。
- 映画の父はフランスのリュミエール兄弟と言われています。
- 彼らは、最初、乳剤を塗布する下地に紙を使っていました。
- パーフォレーションも1画面1孔でした。
- エジソンのキネトスコープを見てこれを参考にして(特許に触れないように)、自分たちの映画カメラと映写機を作ります。
- わずか1年後です。
- フィルムの規格が1909年に国際規格として決められた時、35mmフィルム巾となったようです。
- フィルムの規格の歴史を紐解くと、「映画フィルムの規定作りに、インチサイズの国(米国・英国)とメトリックサイズの国(仏国、独国)双方が熾烈な主張をして、その結果、妥協の産物で出来上がった」と記しています。
- フィルム巾はメトリック(フランス)が先導し、パーフォレーションのピッチサイズとパーフォレーションの穴に関してはインチサイズ国(米国)の主張が通りました。
- 1900年代前半、フィルムの寸法規格に多くの論議がなされて、寸法規格が国際的に決められました。
- 米国映画産業の人達は、世界が決めた規格を中々取り入れず、彼らが整備してきた1900年代初めからの映写機、プリンターを採用し続け、コダックへのフィルム注文も初期の寸法で注文していました。
- 世界規格に改めると、また新たに映画機材を新しくしなければなりませんでした。
- ■ 35mmフィルムを使ったイメージサイズ
- いくつかあるロールフィルムの中で、35mmフィルム巾が一番生産されてきたものだと思います。
- このフィルムサイズは、コンシューマ用のカメラ(Nikon一眼レフカメラなど)に使われましたし、映画上映用の多くのカメラが35mmフィルムを使っていました。
- 右図が35mm巾のフィルムのイメージフォーマットです。
- 35mm巾と両目4パーフォレーションという縛りはあるものの、イメージフォーマットは比較的自由に決められているのがわかります。
- エジソン、ディクソン、リュミエール兄弟が始めた1890年代のイメージサイズは0.98インチ x 0.735インチでしたが、音声が入る1930年代ではイメージサイズは片方に寄って小さくなりました。
- 計測用カメラは、縦横比3:4で高さを規格いっぱいに取っています。
- ライカサイズのカメラは横にして8パーフォレーションの3:4の画面となっています。
- ■ フィルムの扱い
- 私は、長年映画業界の片隅でフィルムの匂いを少しばかり嗅いで生きてきましたので、フィルムに対するカメラマンの神経の使い方が尋常でないことを知っています。
- 映画を作るカメラマンや監督にとって、フィルムは彼らの全生命がかかっています。
- クランクインが決まったら撮影用の映画フィルムを一気に注文します。
- 3時間程度の撮影となると16,000ft(フィート)分のフィルムが必要です。
- 400ftフィルムで40缶ほどです(およそ320万円 - 2000年時点)。これをフィルム業者に一括で注文します。
- 一括で注文するのは、製造ロットの違いで乳剤の調合が変わり、色が変わるのを嫌うからです。
- ロットで購入したフィルムは、決められた温度・湿度管理下で保管されます。
- そして高価な撮影セットや照明装置、俳優さんを揃えて取り直しのきかない撮影に入ります。
- 彼らは撮影時、1秒24コマのフィルムを送るのに全神経を集中させます。
- フィルムの画面に傷が入らないだろうかとか、カメラはスムーズに回ってくれるだろうかとか、色バランスはロール毎に変わっていないだろうかとか、撮影現場は恐ろしいほどの緊張が走ります。
- それに比べれば、ビデオ撮影はフィルム代がかからないだけ、また、撮影後結果がすぐわかるので緊張感は薄れるでしょう。
- フィムルで映画を撮るというのは、スタッフや俳優間の信頼おける共同作業の証しとも言えましょう。
- テレビドラマで、最後までフィルム撮影を行っていたのは、フジテレビの「鬼平犯科帳」(主演:二代目中村吉右衛門(1944 - 2021)、最終集録2016年12月)です。
- ですから、フィルムを供給するフィルムメーカもフィルムの製造管理や寸法精度についてかなりの神経を使っています。
- (2023年6月、故中村吉右衛門の後を継いで甥の松本幸四郎が新たに鬼平犯科帳の撮影に入ったという情報を耳にしました。新作が従来通り銀塩フィルムを使ったカメラ撮影であるかどうかはわかりません - 2023.10.21記。)
- ■ パーフォレーション(perforation、穿孔)の規格化
- パーフォレーション(フィルムを送る孔)の寸法精度は極めて厳しく規格化されています。
- パーフォレーションの孔あけ精度が0.1mm狂っていたらどうでしょう。
- 18mm x 24mm (3/4インチ x 1インチ)のシネサイズの画面を6m x 16mのスクリーンに映す倍率は、縦方向で333倍です。
- 0.1mmのガタは、スクリーン上に33cmの揺れとなって投影されます。
- 20m離れた観客はこの揺れを0.47度(両ブレで0.94度)でとらえます。
- 人間の目は、1/2000度程度の分解能を持ちますから、6mのスクリーン上では3mmの振れを認めることができます。
- つまり、330mmの揺れは人間の検出限界の110倍の大きな揺れとなるので不快に映ります。
- この揺れをスクリーン上で3mm以内に抑えるには、パーフォレーションの精度を画像の18mmの1/2000、つまり0.01mm程度の精度に抑えないといけないことになります。
- このような理由から、フィルムにはかなりの寸法精度、孔あけ精度が要求されているのです。
- そのような背景から、1900年代初めに米国シカゴで起業したベル・ハウエル社は、この精度に耐えられるさん孔機(パーフォレータ)、プリンタ、カメラを設計製作するにいたります。
- フィルムのパーフォレーションは、フィルム製造会社がさん孔して消費者に届けるものとばかり思っていましたが、いろいろな資料を読んでいくと、初期のロールフィルムは穴あけがされていなくてカメラを回すユーザが自分たちで穴開けをしていたことがわかりました。
- フランスのリュミエール兄弟の作った映画カメラは、1画面1穴(両サイド1穴で合計2欠)でしたし、エジソン研究所を離れて別会社を作ったDicksonのBiographカメラは、撮影時にカメラ内でパーフォレーションの穴開けを行う構造としていました。
- エジソンの特許を避けるためです。
- こうした中で、シカゴのBell & Howell社が、それまで不揃いで規格のとれないフィルムのパーフォレーションに一石を投じ、精密な孔開け機(Peerforator)を製作し販売を始めました(1909年)。
- 孔開けされたフィルムに適合したカメラ(Bell & Howell 2709)も1912年に製作します。
- このパーフォレーション寸法とパーフォレータが秀逸であったため、フィルムメーカーのKodakも採用を決め、国際規格となっていきました。
- 右図のパーフォレーションは、1934年、映画技術者協会(SMPE = Society of Motion Picture Engineer, 1916年設立。後のSMPTE = Society of Motion Picture and Terevision Engineer)で決められた規格です。
- SMPEは、パーフォレーションの形状を2つ認め、また、パーフォレーション間距離を2種類認めました。
- 2種類のパーフォレーションは、BH目とKS目で、BS目はBell & Howell社が採用していたもので、KS目はGeorge Eastman(Kodak)社が採用したものです。
- パーフォレーションピッチは、ロングピッチとショートピッチがあり、映画初期のものがロングピッチで、後年になってショートピッチが採用されました。
- これら微妙な違いが何故収束せずに規格制定されたかと言うと、利権と技術要素が絡まっていたようです。
- フィルムのパーフォレーションは、最初の映画にエジソン(と助手のDickson)が発案し(特許を取得します)、丸穴(φ0.110インチ = 2.794mm)、そして孔間距離0.187インチ(= 4.750mm)で始まりました。
- 丸穴の走行性能(と止まり精度)が芳しくないので、掻き落とし爪(pull down claw)やフィルム止めピン(registered pin)がしっかりホールドできるように走行方向の上下を平にしました。
- これがBH目と呼ばれるものです。
- この孔形状は、1909年ベルハウエル社がフィルムさん孔機(Perforator)で採用し、フィルム会社のKodakが採用したことから米国で業界標準となり世界規格までになりました。
- その後20年程度を経て、KodakがKS目を採用し始めました。
- BS目は、スプロケットやレジストレーションピンをしっかりとホールドする利点はあったものの、しっかりしすぎて長い間何回も映写機を通してフィルムを使うとパーフォレーションが痛む問題が起きていました。
- また、パーフォレーションの寸法がしっかりしているが故にスプロケットからフィルムが離れる際の音が大きくて、フィルムにもダメージを与えることがわかってきました。
- そこでKodak社はパーフォレーションに亀裂が入らないコーナーを丸める工夫と走行方向の巾をやや緩めの大きいもの(KS目)にしました。
- その差は0.005インチ( = 0.127mm)でした。
- また、セルロイドベースのフィルムは、現像後や経年変化でフィルムが縮むことが認められていて、ネガフィルムとプリントフィルムの乳剤面を合わせて連続プリンターに通すと、スプロケット曲率によって両者の曲がり半径に差ができフィルム同士が擦り合う問題が生じてきました。
- その問題を修正するため、オリジナルフィルム(撮影用ネガフィルム)には従来のBH目で0.187インチ間隔(ロングピッチ)のフィルムを使い、プリンタ用及びリバーサルフィルムにはKS目で0.186インチ間隔(ショートピッチ)のフィルムが使われるようになりました。
- これが1934年に制定されて現在に至っています。
- ■ フィルム容量
- 35mm映画フィルムは、100ft(30.5m)容量、200ft(61.0m)容量、400ft(122m)容量、1,000ft(305m)容量、2,000ft(610m)容量が一般的です。
- 映画撮影では、100ftもしくは400ft容量のフィルムが一般的で、映画館での映写では2,000ftが一般的でした。
- 映画上映には2000ft容量を6缶(約2時間)使用していました。
- 映画フィルムの場合、1枚の映像をコマと呼び、1ftあたり16コマの撮影(映画の初期、無声映画での撮影コマ速度)を行います。
- (音声を同時に記録するトーキーの時代になって、16コマ/秒では音質が悪いので24コマ/秒になりました。音声はフィルム側部に光学的に記録していました。)
- 1コマには、4つのパーフォレーション分のスペースが当てられたため、パーフォレーション間隔は、1ft/(16コマ x 4パーフォレーション/コマ) = 4.7625mm(実際の規格は4.750mm)/パーフォレーションとなります。
- 1ftのフィルムで16コマ撮影ができるということは、当時、カメラの撮影速度が16コマ/秒であったので、1秒1フィートと言うわかりやすい尺数になりました。
- こうしてみると、100ftのフィルムは100秒(1分40秒)、400ftは400秒(6分40秒)、1000ftは16分40秒の撮影ができました。
- 現在では1秒間に24コマの映写が規格となっていますから、上記のフィルムでは、100ftで1分7秒、400ftでは4分27秒、1000ftでは11分7秒という計算になります。
- 2時間の映画上映では10,800フィートのフィルムが必要になります。
- 撮影時にはその1.5倍くらいのフィルムが必要でしょうから、16,000フィートのフィルムを確保しておかなければなりません。
- フィルムの価格を100フィート20,000円程度(2000年当時の価格)とすると、3,200,000円のフィルム代が必要となります。
- ■ 映画カメラ
- 映画産業は、先にも述べたように、1894年米国東海岸のエジソン研究所のエジソンとその技師Dicksonが、New York州ロチェスターにあるEastman Kodak社に35mm巾ロールフィルムを発注したことから始まります。
- 今日のスタイルの映画館と映画産業は、一年後の1895年、フランスのリヨンのリュミエール兄弟(Auguste Marie Louis Lumière:1862 - 1954、Louis Jean Lumière:1864 - 1948)が作った映画カメラと映写機、そして彼らの映画館スタイルが最初と言われています。
- 上図の装置が、エジソン(と彼の研究所の技師Dickson)によって発明された最初の映画カメラです。
- 装置の大きさは、オフィス机に乗るくらいあり、重さは100kgを越えていました。
- 持ち運びは到底無理な代物で、もっぱらスタジオ固定での撮影となっていたようです。
- Kinetographは、連続した画像が撮影できるようにロールフィルムを使い、これを横置きにして電動モーター(直流)で駆動させています。
- 電源はバッテリーを用いました。
- DicksonがKodakに発注したフィルムは、50ft長(15.2m)で、上のKinetographの写真を見るとその程度の大きさのフィルムマガジンが収まっていることがわかります。
- 映画カメラに電気モーターを使ったのはエジソンならではと思わせます。(エジソンは発電機を作り電灯を発明したのですから、商業ベースでの電気の父です。)
- 対物レンズの前には回転円板シャッターが組み込まれていて、フィルムを送る時に円板シャッターの黒味が被さって露光を停止し、フィルム送りが停止した時点で円板シャッターの開口部が開いて露光されます。
- この一連の動きは、間欠掻き落とし駆動(intermittent movement)と呼ばれるもので、映画撮影と映写の基本動作となりました。
- エジソンの撮影機は、40コマ/秒から50コマ/秒で撮影したと言われています。
- その理由は、その程度にしないと円板シャッターでのフリッカーが起きて見るに堪えられなかったからだそうです。
- リュミエール兄弟は、その対策として映写時には円板シャッターを1画面に3回切ってフリッカーを抑えたため、16コマ/秒の撮影が可能となったそうです。
- 消費枚数が少ない方が撮影時間が長く取れ費用も安く上がります。
- 実際の所、映画カメラが電動化されるのはずっと後のことで、初期の映画カメラ(1920年代まで)は手動クランクを使って手回しでフィルムを送って動画撮影を行っていました。
- 当時は、電気が潤沢になかったし、水道水の蛇口のように電気コンセントにプラグを指して簡単に電気を取るわけにはいかなかったのです。
- エジソン社では、カメラ(Kinetograph)で撮影したフィルムを上に示すような映写機(Kinetoscope)にかけて、覗き込むように動画を見る装置を開発しました。
- 1894年のことです。
- Kinetoscope(キネトスコープ)は見世物小屋(キネトスコープ・パーラー)に何台も置かれ、観客を呼び込んで動画を見せる興業に使われました。
- 複数台のキネトスコープにはそれぞれに15秒ほどの短編動画が装てんされていて、客はコイン(25セント硬貨)を入れて覗き窓に顔を近づけて動画を見ました。
- キネトスコープはエンドレスのフィルムを使って連続映写を行っていました。
- 現在の映写機のような間欠コマ送りではありません。
- キネトスコープは連続フィルム送りによる映写で、映像がレンズと正しい位置に来たときにそのタイミングに合わせて回転円板シャッタのスリットが開いて、ストロボ効果のように映写をしていました。
- その映写方式は、Zoetrope(ゾートロープ、回転のぞき絵)に似ていて、そこからヒントを得ているように感じます。
- ● リュミエール兄弟
- エジソンの映画の興行を見たフランス・リヨンのリュミエール兄弟は、1年後の1895年、自分たちで撮影機を作ります。
- 彼らの家はフランスのリヨンにあって、写真乾板と印画紙、義手・義足の工場を営んでいて、リュミエール兄弟も工場を引き継いでいました。
- 兄ルイ・リュミエール34才の時、父アントワーヌがリヨンに持ち帰ったエジソンの「キネトスコープ」を見て、彼らが構想していた上映式動画とは違うことに違和感を覚えます。
- エジソンの発明した撮影機(Kinetograph)と映写機(Kinetoscope)は、大きな問題があると彼らは見抜きました。
- リュミエール兄弟が作った撮影機は、ネガフィルムからポジフィルムを作るプリンタとフィルムを映写する映写機の機能も兼ね備えていました。
- 映写機の背後に高輝度のランプを配置して、映像を映し出す部屋は暗くしつらえて、映写機の前方には大きなスクリーンを張って観客を一同に集めてフィルムを上映しました。
- リュミエールの兄弟の興業をシネマトグラフ(Cinématographe)と呼んだので、以後映画はシネマ(シネマトグラフィー)と呼ばれるようになりました。
- 以後主流になる映画館の原形を作ったので、彼らは「映画の父」と呼ばれています。
- 彼らのカメラはエジソン・ディクソンの開発したキネトグラフに比べるてとてもコンパクトで軽く、しかも電気のいらない手回し式の木製箱カメラでした。
- フィルムは、エジソンの使っていたものと同じもので、透明セルロイド35mm巾ロールフィルムで、イメージは18mm x 24mmサイズ、フィルムを送るパーフォレーションは、丸穴で両サイドに一つづつ計2ヶとし、1秒間に16コマの撮影速度で50秒間(800枚)の撮影を行いました。
- フィルムの長さは50ft(15.2m)となります。
- (資料を見ると、フィルムの長さは17メートル(55フィート)で、上映は46秒と書かれてあるのを多く見かけます。フィルム装てん部分長を考慮した値かもしれません。)
- 彼らの映画館で最初に上映されたのは、「工場の出口(Workers Leaving the Lumière Factory)」という46秒の白黒無声短編映画でした。
- この映画は、リュミエールが所有する工場での仕事を終えた社員が退社する様子を社長自らが撮影したものだそうで、一般の人達の情景です。
- フランスの人達は、随分とお洒落な服装で日常を送っていたのだなと思わせます。
- この短編映画を1895年、パリのグラン・カフェ地階のサロン・ナンディアンにて有料で公開しました。
- リュミエール兄弟は、自ら開発したカメラを担いで全世界を巡り、興味ある風景や人々を撮影してそれを劇場で公開しました(日本の風景、居合いの情景、京都の舞妓さんもあります)。
- これらの作品は、46秒のフィルム(50フィート)に収めていましたから、小型コンパクトな手回しカメラを携えて全世界を回ったものと思われます。
- ● パテ兄弟
- リュミエール兄弟はカメラと映画装置を1902年に同国のパテ兄弟商会(Pathè Frères)に売却しました。
- パテ社は1896年に4人の兄弟で蓄音機(フォノグラフレコード)を販売する会社として出発し、映画業界に進出してからは映画スタジオ、映画館、カメラ、映写機、消耗品一切を手がけ、第一次世界大戦(1914 - 1918)直前にはヨーロッパ映画産業の半分以上のシェアを占めていたと言われています。
- そのパテ社は第一次世界大戦が終了したあたりから業績が悪化したため、映画製作関連部門を売却して劇場や配給に専念するようになります。
- リュミエールカメラ以後のパテカメラは右に示すようなもので、パテスタジオと呼ばれました。
- カメラの外観は木製で、その周りを革張りし400ft(フィート)マガジンを装着して撮影時間を8倍に伸ばしました。
- 撮影は手動クランクによるもので、サイレント映画でした。
- カメラの横にはファインダーが付けられています。
- このカメラを使って1,700本の作品が作られたと言われていますから、1900年から1920年代まで主流のカメラだったと言えます。
- 1890年代から1900年代初めにかけて、米国エジソン社が手がけた映画カメラと映画館はどのようになっていたのでしょう。
- フランス・パテ社の映画カメラは、米国東海岸で使われていた資料が多く、エジソン社はカメラ製造に関してはあまり力を入れていなかったように感じます。
- 反面、大型映写装置を作って映画館をつくり、1900年代前半は相当な勢いで映画産業が興隆して行ったようです。
- エジソン社が最初に作ったKinetoscopeは、一人がその映写機を覗き込みコインを投入して見る形式でした。
- これでは一度にたくさんの観客をさばけません。
- リュミエール兄弟の映画館方式を知ったエジソンは、1896年、Kinetoscopeに代えて劇場でたくさんの観客が見られる映写機Vitascopeを開発します。
- エジソンの当初のビジネスプランは、KinetographとKinetoscopeを製造販売して儲ける予定でしたが、上映するフィルムを制作して上映館に渡しロイヤリティを得た方がはるかに利益が出るとして、映画制作にビジネスの梶を切り、カメラや映写機の開発は続けるものの製造には力を入れなくなり、パテントだけに固執するようになりました。
- 彼は、1908年にパテントを管理する会社Motion Picture Patents Company社(MPPC)を設立して、映写機やカメラを作る大小の会社にロイヤリティを取り立てるようにしました。
- それが反トラスト法に抵触するとして大きな裁判となり、その結果、敗訴となり1918年エジソンは映画業界から撤退をすることになりました。
- ● Bell&Howell 2709 (2020.04.08)(2023.10.23)
- 米国では、1912年にBell&Howell社からBell & Howell2709というカメラが作られ、1960年頃まで使われました。
- それまでは、先に述べたフランスのパテカメラが使われていました。
- Bell & Howell2709の出現により、米国の映画産業は米国カメラに置き換わるようになりました。
- Bell & Howell2709は、ハウジングをアルミ鋳鉄製にしたのが特筆でした。
- これにより堅牢で信頼性のある撮影ができました。
- レンズマガジン部は2室式(未露光フィルムを収納する部屋と撮影済フィルムを巻き取る部屋)で、それぞれに丸形のねじ込み蓋を設けて個別に蓋を開けられるようにしました。
- カメラ内部には、32歯の大きなスプロケットを設けて手回しクランクハンドルと直結させ、ハンドル1回転で8コマ[32(歯/回転)/4(パーフォレーション/コマ) = 8コマ/回転]の撮影を行いました。
- 当時の映画は1秒間に16コマの撮影なので、カメラマンは1秒間に2回カメラハンドルを正確に回したことになります。
- フィルムのパーフォレーションは、1フィート(30.48cm)長に64孔( = 16コマ x 4パーフォレーション)が空けられていたので、1秒間に1フィートのフィルム送りとなります。
- このカメラでは、フィルムを正確に掻き落とす爪(claw)に加えて、フィルム送りが終わった後にフィルム送りを停止させて、なおかつフィルムを正しい位置に固定するための固定ピン(fexed pin, registration pin)が入る工夫がなされていました(USパテント:1,038,586 Set.17,1912)。
- 固定ピンはガイドプレートに固定されていて、フィルムを抑えるプレッシャープレートが露光時にフィルムを押しつけてガイドピンでフィルムを固定させました。
- フィルム送りの際は、プレッシャープレートが緩んでフィルムを送りやすくしていました。
- 固定ピンで撮影位置を決められたロールフィルム上の映像は、1枚1枚しっかりと画像位置が固定されるため、撮影による画ブレを極限まで抑えることができました。
- プレッシャープレートは間欠運動で圧接操作を行っているので、撮影時の操作音はバタバタ音を伴う大きいものとなりました。
- これがトーキー映画(音声録音)の時代になると大きな問題となりました。
- カメラレンズは、広角から望遠まで4種類のレンズが簡単に代えられるように4連リボルバー式ターレットになっていて、レンズの前にはレンズフードとフィルターが挿入できるマットボックスが装備されていました。
- レンズの画角調整とフォーカス合わせは次のように行っていました。
- カメラレンズを装着する部位は4連ターレットになっていて、4つのレンズが装着でき90度ずつ回転できるようになっています。
- フォーカスと画角調整を行うには、4つのレンズのうちの撮影に該当するレンズを撮影する位置から180度反対に持って来ます。
- その位置にはフィルムはないけれども、フォーカス用のルーペが配置されています。
- そこで詳細な画角とフォーカス合わせを行って、再度180度ターレットを回してレンズを戻します。
- このまま撮影に入ると180度レンズを回した位置分だけパララックスがでてしまうので、カメラ全体をその分だけ光軸方向にずらす機構がカメラの底部と三脚の間に設けられていました。
- フォーカスと画角の調整は結構面倒なので頻繁にカメラ位置を変えることはできませんでした。
- カメラマン位置から見てカメラの左部にはファインダーが付けられているので、撮影中のおおよその枠取り(画角)は確認できるようになっていました。
- この時代は、優秀なズームレンズはありませんでした。
- レンズコーティング技術もなかったので、レンズ枚数の多いズームレンズは使用に耐えなかったのです。
- それにレンズ設計も複雑なので、コンピュータの発達していなかった1900年初頭はズームレンズは望むべくもありませんでした。
- このカメラは、サイレント映画時代に大いに受け入れられ、チャールズ・チャップリン主演のサイレント映画に使われました。
- ■ Bell & Howell社 (2020.04.08)(2020.04.19)(2023.10.23追記)
- 1900年代初頭のシカゴは、映画産業中心の一つとなっていました。
- そのシカゴにベルハウエル社を興す2人が登場します。
- Donald Joseph Bell(1869 - 1934)は映画館の映写技師として才能を開花させ、スライド映写機やKinodrome(展示ホールやショーダンスで使う映写機材)の改良を手がけていました。
- 一緒に会社を興すAlbert Summers Howell(1879 - 1951)とは映写機の部品製造会社で出会うことになります。
- ベルのほうがハウエルより10才年上で、両者とも技術者です。
- ベルが映画全体を見渡せたのに対し、ハウエルは生粋の機械技術者で、メカニズムの設計と製作、改良の才能が極めつけだったということになります。
- Howellはミシガン生まれであり、その後シカゴに移り映写機を製造・修理する工場で働き出します。
- 1906年にはKinodrome映写機の改良で最初の特許を取得しています。
- ベルの映写技師としての才能とハウエルの機械技師としての天賦の才を互いに認め合った両者は、映画産業界で一旗揚げようと1907年に自分たちの会社を設立します。
- 会社設立時は映画関連機器の製造とリース、修理でした。
- 設立当初の仕事は映写機の修理が売上の半分以上を占めていましたが、10年の間に自身の機器を製作するようになります。
- 当時の映写機は発展途上の機械でもあったため、フィルム走行の安定性の問題と映写上のチラツキ(フリッカー)、そして機器の標準化の問題がありました。
- 当時は作られる映画機械にバラツキがあったのです。
- 彼らは、35mmフィルムを扱う動画機材に集中して規格を整備し標準化を図ります。
- 35mmフィルム機材以外には目もくれなかった感じを受けます。
- 彼らが集中したのは35mmフィルムのパーフォレーションを精度良くさん孔するPerforator(パーフォレーター、鑽孔機)と35mm映画カメラ、そしてネガフィルムから上映フィルムを焼き付けるプリンタでした。
- この3つの機器の標準化を若きベルハウエル社が成し遂げていきました。
- 彼らが最初に35mmフィルム映画カメラを作ったのは1910年で、木箱と革張りのカメラで作られました。
- これはフランスのパテ社のものと変わりません。
- しかし木製・革張りのカメラが問題を起こします。
- 白アリと白カビによってカメラに損傷を与えてしまいました。
- ユーザー(映画監督と女優夫婦、Martin and Osa Johnson)がカメラを携えてアフリカにロケ(映画の題名は「I love Adventure」)に行った時に、その問題が発生したのです。
- そこでベルハウエル社は、カメラのハウジングをアルミダイキャストに代えました。
- ここに金属製映画カメラが初めて完成しました。
- 1912年、このカメラはBell & Howell 2709と名付けられました。
- 金属ハウジングに代わったカメラは内部の駆動メカニズムも精緻となり、これまで作られた映画カメラの中で最も完成度の高いものとして評判になりました。
- 映画産業が西海岸に移っても彼らのカメラは評判で、1919年までにはハリウッドで使われるカメラのほとんどがBell & Howell 2709になりました。
- Bell & Howell 2709カメラは相当に高価で、当時これを所有できたのは個人ではチャーリー・チャップリンのみで、後はすべてスタジオ(映画製作、配給会社)が所有したと言われています。
- チャップリンはこのカメラに随分とご執心で、無声映画からトーキーの時代に変わっていく中でも個人所有のBell & Howell 2709を持ち続け、手回しハンドルによる映画撮影を続けていったと言われています。
- このカメラで撮影した彼の作品には、「A Dog's Life(1918)」、「The Kid(1921)」、「The Gold Rush(1925)」、「City Lights(1931)」、「Modern Times(1936)」などがあります。
- ベルハウエル社は2709カメラの他に携帯用に便利な16mmフィルム用カメラFilmo(フィルモ、1923年)と35mmフィルム用カメラEyemo(アイモ、1925年)を製造し、報道映画(Newsreel)やアマチュア向けに販売したほか、16mm巾フィルム用映写機と8mmフィルムカメラ及び映写機(1934年と1935年)も手がけました。
- ■ ハリウッド(1900年代前半〜)
- 米国の映画産業はイーストマンコダックやエジソン研究所、Bell & Howell社など、東海岸で芽生え発展しました。
- 今の私たちの感覚から見ると、映画産業の本山は西海岸のロスアンゼルスにあるハリウッドだと理解します。
- 米国の映画産業が東海岸から西海岸に移ったのは、1910年代です。
- 1908年、エジソンが映画の興行関連の特許を取得してMPPC(Motion Picture Patents Company) = Edison Trust(エジソントラスト)を設立し、自分たちの利害を守ろうとしていました。
- つまり、MPPCに入らない業者に対しては使用に際して法外な使用料を要求したのです。
- このやり方に反対した中小の映画産業業者は、ニュージャージーやニューヨーク、シカゴなどの東海岸から手の届かない西海岸に逃れて独立した映画産業を興しました。
- 併せて、MPPCの不当性を訴えて裁判を起こしました。
- イーストマンコダックも最初はMPPCに加盟し独占供給契約を結んでいましたが、1911年にMPPC加盟しない団体にもフィルムを供給できるような契約に改められたため、それ以後、米国内で映画館が急増していったそうです。
- MPPCは反トラストである、と裁判所の判断が下され、訴訟の末1917年に消滅しました。
- 西海岸には、自由がありました。
- 気候も温暖で、年中良く晴れるので映画撮影にはうってつけでした。
- 西海岸(ハリウッド)での映画産業を押し上げたのは、ユダヤ人でした。
- ユダヤ人は、東海岸で迫害を受けていたので、新天地での新しいビジネスに非常に積極的で、映画スタジオを次々と設立して行きました。
- 英国やフランスも、そして映画関連業者もハリウッド進出には積極的だったと言われています。
- MPPCの不合理な協定に強固に異を唱えたのは、ユダヤ人のウィリアム・フォックス(William Fox)でした。
- 彼は、1915年、ハリウッドにFox Film Corporation(後の20世紀フォックス)を立ち上げます。
- また、ユニバーサル映画社(1912年)、パラマウント映画社(1916年)、ワーナー・ブラザーズ社(1923年)、コロンビア映画社(1924年)、MGMスタジオ(1924年)など現在も活躍しているハリウッドの映画会社はほとんどすべてユダヤ人による設立と経営でした。
- ● Mitchell(ミッチェル)(2020.04.08)(2020.04.19)(2023.10.23追記)
- Bell & Howell 2709カメラの後に登場したのが、西海岸カルフォルニアで作られた、Mitchell(ミッチェル)カメラです。
- このカメラは1920年代から1960年代にかけて米国映画産業で最も良く使われた35mmフィルム用カメラでした。
- Mitchellカメラが登場する以前のBell & Howellカメラは、堅牢で信頼性が高く使い勝手は良いものの、フィルムを駆動する操作音が大きく(Clipper、クリッパー)、また、画角合わせやフォーカスも煩わしく、なおかつ、ファインダーが左右上下逆転の映像となっていました。
- カメラマンにとってこの二つは不評でした。
- ミッチェルカメラはこれらを解決し、かつ、正確無比のフィルム送り機構を持っていたため、映画カメラ史上不世出のメカニズムと言われ、数多くの支持を集めて行きました。
- 折からのトーキーの時代になって同時録音を迫られた撮影現場では、撮影音の少ないミッチェルカメラは願ってもないカメラだったに違いありません。
- ミッチェルのフィルム駆動ムーブメントはミッチェルカメラ以後のMovicamやPanavisionカメラにも採用され今日に至っています。
- ■ Mitchell Camera Corporation (2020.04.08)(2020.04.19追記)
- ミッチェルカメラ社(Mitchell Camera Corporation)は、1919年にヘンリー・ボガー(Henry Boeger)とジョージ・アルフレッド・ミッチェル(George Alfred Mitchell: Feb. 1889 - Apr. 1980)の二人によって西海岸ロスアンゼルス(ハリウッド近郊)で設立され、1985年に買収の末消滅した会社です。
- ジョージ・ミッチェルは兵役を終えた後の1911年(22才の時)にロスアンゼルスのFrese Optical Companyに機械技術者として入社し、映画業界に入ります。
- 当時のFrese光学社は、測量機器の運用・メンテナンスを主業務としていて、その他に、その地に興った映画産業用のカメラと映写機のメンテナンスも手がけるようになり、ミッチェルはその方面に才能を開花させていきます。
- 1911年当時は先に述べたMPPC(Motion Picture Patents Company、Edison Trust)の影響が強くて、西海岸といえどもMPPCに属していない会社には特許に抵触しない海外のカメラしか使えないため、Frese氏はミッチェルに命じてフランス・パテのカメラや英国のThe Williamsonカメラをコピーさせていました。
- これがミッチェルが映画カメラに関わる最初の出来事だったと言われています。
- 彼は、これらのカメラを細部に至るまで正確にコピーして複製カメラを作ったと言われています。
- ミッチェルは1916年(27才の時)にユニバーサル映画社に移り、映画カメラのメンテナンス要員として働き出します。
- ユニバーサル社での仕事はミッチェルにとってとても魅力的なもので、多くのカメラマンと意見を交わしながら映画カメラの知見を深めていきました。
- 当時、ユニバーサル社はイタリヤ製のPrevost(プレボスト)カメラを使っていて、その他に少数ながらBell&Howellカメラを使っていました。
- (おそらくBell&Howell2709カメラは高価だったと思われます。たくさんの映画作品でBell & Howellカメラを使えるのは限られた人達、つまり予算をたくさん持っている人達だけだったのだろうと思われます。)
- こうしたカメラを維持管理して行く中で、John E. Leonardというカメラマンが自ら設計したカメラを見せにやってきました。
- カメラ自体は完成度の高いものではありませんでしたが、Leonardのアイデアが盛り込まれたラックオーバー方式のファインダー機構はとても斬新でした。
- ラックオーバー(rack-over)式のファインダーとは、カメラ本体をレンズプレートと分離できるようにして、ラックギア方式でカメラ本体の光軸を簡単に切り離してレンズ光軸をファインダーに切り替えるものです。
- ラックピニオンでカメラ本体を光軸と平行に移動させてファインダーの光軸を合わせ、カメラレンズの視野とフォーカスをファインダーで確認できるものでした。
- ラックオーバー式は、Bell & Howell 2709にもありましたが、カメラをまるごと平行に移動させるためカメラ位置が変わります。
- また、フォーカスを行う際には、カメラ前面部の4連ターレットのレンズを180度回して、フィルム面の無い位置で内蔵ファインダー(ルーペ)を使ってフォーカスを合わせていました。
- (撮影中はレンズを通した視野確認はできず、サイドファインダーでおよその視野を確認していました。)
- ミッチェルは、Leonardの持ち込んだカメラの機能にいたく感銘を受け、現存のカメラに改造を施そうとします。
- しかし、彼の勤めていたユニバーサル映画社は映画制作の会社であり、カメラ製造には興味が無かったため彼の主張は通りませんでした。
- そこで、彼は同社を退職し1919年(Mitchell 30才の時)に会社を設立します。
- 1920年、MitchellはMitchell Standard 35mm Cameraを製造し販売します。
- このカメラは、Leonardのアイデアを十分に組み入れたもので、大きな特徴は先に述べたラック&ピニヨンでカメラ本体部を光軸から直角に移動させてレンズ部を直接ファインダで覗くようにしていました。
- ミッチェルカメラは、この他の特徴として、4方式のマットボックスをレンズサポートレール上に配置し手回しネジで簡単に操作できるようにしたことや、レンズ背後に(フィルムとレンズの間に)アイリスを置いて中心部のみならず自由な位置に調整できる特殊効果機能を持たせていました。
- また、フィルターターレットをレンズ背後に配置し、簡単に取り替えられるようにしました。
- 自動シャッター機能もつけて170°シャッター角度からの自動フェードイン/フェードアウトができるようにしました。
- これらのアイデアの多くは、彼と親しくしているハリウッドのカメラマンたちから貰ったもので、ミッチェルは彼らの要望を注意深く判断して設計に反映させました。
- ■ Mitchell high speed movement (2020.04.10)(2023.06.12追記)
- ミッチェルカメラの特筆すべき大きな特徴は、先にも述べたフィルム送り機構です。
- Bell & Howell 2709カメラもフィルム送りは巧妙で精緻なものでしたが、ミッチェルはその特許をかいくぐって、さらに独創的なアイデアを織り込み、より精緻で静粛なものにしました。
- 時代は静粛なカメラを求めていました。サウンド時代(トーキー)に入っていたのです。
- ミッチェルカメラは下図に示すようにレジストレーションピンを動的な構造とし(前後に運動する抜き差し構造とし)、フィルムパーのフォレーション(孔)に挿す構造としています。
- Bell & Howell 2709カメラのレジストレーションピンがカメラのアパーチャーゲートに固定されているのとは違っていました。
- フィルム送り爪(Pull down claw)とレジストレーションピン(Registration pin)は、超精密なギアとカムで連動され爪がフィルムを掻き落とした後に静止用ピンが入ってフィルムを静止させます。
- 回転シャッターが開いて露光が終わると、静止ピンが抜けて掻き落とし爪が再びフィルムパーフォレーションに入り、4パーフォレーション分を送り落とします。
- レジストレーション・ピンは直進(前後)運動でこれを可能にしているのは三角カム(レジストレーションシャフト・カム)です。
- プルダウン・クローは駆動させるギアの回転中心より離れた位置に固定させています(エキセントリック配置)。
- この構造によって撮影に伴う駆動ノイズが大幅に低減し同時録音を可能にしました。
- これら部品は0.0001インチ(2.54μm)の許容範囲で精密加工されました。
- 1920年代はそうしたミクロンオーダーの加工を可能にしていたのです。
- レジストレーション・ピンはフィルムの製造規格の範囲を越えて、0.0005インチ(12.7μm)の許容として、磨き加工がなされていたそうです。
- こうしてみると、米国の機械産業は極めて高度な技術を持っていたことになります。
- ■ Mitchell社のその後
- ミッチェル社はミッチェル氏のカメラ設計者としての天賦の才を発揮した会社とは言え、会社組織としてりっぱに運営がなされて成長を遂げたようには見受けられません。
- ミッチェルカメラの名前はハリウッド映画史上燦然と輝く存在ではあったけれど、1970年代に静かに息を引き取った感じがあります。
- 1970年代の映画カメラはドイツ・ミュンヘンで成長を遂げてきたARII社(Arnold & Richter)社と米国カルフォルニアのPanavision社のカメラが台頭し、両者がフィルムカメラのシェアを広げていました。
- 日本でも1960年代以降の映画制作は、PanavisionかARRIのいずれかのカメラを用いて作品が作られてきました。
- 2000年代に入ってデジタルカメラが普及し始めると、Panavision、ARRIに加えてRED、Sony、Canonがデジタル映画カメラに参入し、多くのデジタルカメラやポストプロダクションが誕生して作品を作り始めています。
- そうしたハリウッド映画の流れの中で、George Mitchell氏は1950年代に一線から退き、1980年に89才の生涯を閉じました。
- Mitchell社の業績は会社設立の時からそれほど芳しくはなかったようです。
- ひとたび映画制作会社にカメラを納品すれば、その後数十年も使い続けられる製品の性質上、多くの利益や注文が舞い込んでくる業種ではなかったようです。
- 1929年の世界恐慌の際は、FOX社(後、20世紀FOX、2019年より20世紀スタジオ社)のFOX氏がMithcell社の多くの株を購入してミッチェル社を支えたと言われています。
- そのFOX氏自体も世界恐慌のあおりで財産をなくし、20世紀社との合併を経ていきます。
- ミッチェル社が開発したカメラは以下の通りです。
- ・1920年 Mitchell Standard 35mm Camera:
- 最初のカメラ。
- ・1929年 Mitchell FC 70mm FOX Grandeur Studio Camera:
- 70mmサイズの大型カメラ
- ・1932年 Mitchell NC/BNC Camera:
- News Reel(ニュースリール)カメラ。
- BNCは、Brimped News Reel (ブリンプタイプ)。
- 同時録音を考慮して撮影音の出ないカメラ(ブリンプに入れたカメラ)を製作。
- ・1932年 Technicolor camera:
- 3ロールフィルムカラーカメラ。
- カラー撮影用に白黒フィルム3ロールを同時駆動するカメラを開発。
- ・1940年 Mitchell GC:
- 高速度撮影用。128コマ/秒。
- ・1940年代 Mitchell SS Camera:
- Single System カメラ。
- 第二次大戦中に米国陸軍用に開発。
- NCの改良機。
- ・1956年 Mitchell VistaVision Camera:
- パラマウント映画のビスタビジョン用カメラ。
- ビスタビジョンは、35mmフィルム8パーフォ(36mm x 18.3mm、1.66:1、横駆動)
- サウンド撮影対応。
- ・1962年 Michell R35 Camera:
- ファインダーをレフレックスタイプにしたもの。
- 1965年にMark IIを発売。
- ・1967年; Mithcell NCR/BNCR Camera:
- ファインダーをレフレックスタイプにしたNC/NCR。
- 以後、このカメラは、パナビジョン(Panavision)社の
- パナフレックス(PnaFlex)に引き継がれた。
- ● Panavision(パナビジョン)(2020.04.08)(2020.04.19追記)
- パナビジョン社は映画機材のレンタル会社としてスタートしています。
- パナビジョンカメラのムーブメントは、ミッチェルのものがそのまま踏襲されています。
- ミッチェルカメラの特許がどのような形でパナビジョンに委譲されたのかは調べ切れていません。
- そのミッチェル社は1960年代後半からミッチェルカメラとしての革新的な仕事をしていません。
- それは、1950年代後半にミッチェル氏が引退した時期と軌を一にしています。
- それと前後するようにPanavisionカメラが登場します。
- 1960年代後半からのハリウッド映画のほとんどは、Panavisionカメラとワイドスクリーン用レンズが使われるようになりました。
- Panavision社はロバート・ゴットシャルク(Robert Gottschalk:1912 - 1982))氏によって、映画産業のレンズを供給する会社として1953年米国カルフォルニア州ロスアンゼルスに設立されました。
- 彼は、米国東部の美大を卒業後、映画産業で身を立てるためハリウッドに移り、20世紀フォックス社のワイドスクリーン映画制作に携わります。
- その制作でアナモフィックレンズ(anamorphic lens)を手がけてシネスコープ・レンズ群を取り扱う会社、Panavision社を設立します。
- Panavision社は拡大映写光学レンズを扱う会社としてスタートし、折からのワイドスクリーン映画の興隆とともに業績を伸ばし、1970年代からは、映画産業機材のトップブランドにまでなりました。
- 同社は、ワイドコンバージョンレンズのビジネスの他に、フィルムカメラも扱うようになりました。
- Panavisionがカメラを扱い出すのは、1962年です。
- MGMが手がけた映画(マーロン・ブランド主演「戦艦バウンティ」)の制作費用が膨大なものになり、MGMの持つカメラ資産をPanavisionに売却されたことからカメラ事業が始まりました。
- 1967年、彼らはミッチェル35mmカメラ用に防音ブリンプを設計製作し、これがPanavision Silent Refrex Camera(PSR)となりました。
- パナビジョンのカメラは、ミッチェルカメラだったのです。
- 1970年代以降のハリウッド映画カメラは、ミッチェル色が失せて来てPanavisionカメラとしてのブランドが定着していったように感じます
- Panavision社はユニークな会社で、映画制作機材を一手に引き受けながら、しかし、機材の販売は行わずすべてレンタルを行っています。
- カメラレンズも、カメラも三脚もすべてレンタルです。
- 映画制作会社にカメラを売ることはしませんでした。
- レンタル会社でありながら、必要なものは作り上げ、しかも自社の製品は徹底的にメンテナンスを施しユーザに満足する体制を取っています。
- おもしろいことに、Panavision社の最大のライバルはドイツ・ARRI社でありながら、ARRI社の大きなお客様でもありました。
- つまり、Panavision社はレンタル業務を行うためにARRI社からたくさんの映画機材を購入しているのです。
- 通常は、ライバル会社であればカメラ販売は躊躇するものでしょうが、Panavision社がハリウッドでは相当なネームバリューを持っていることとや、ワイドスクリーン用のコンバージョンレンズを巾広く手がけていること、65mm/70mmフィルムカメラを持っていること、サービス体制がしっかりしていることなどから、ハリウッドで商売をするならばPanavision社と共存したほうが特だと考えたのかも知れません。
- アメリカ合衆国西海岸のハリウッドの近くBurbankに軍需、産業向けの映画カメラを作っている企業 Photo Sonics社があり、1940年代からフィルムカメラを製造販売していました。
- Photo-Sonics社の開発したカメラムーブメントは、Mitchell社のカメラムーブメントと極めてよく似ています(右図参照)。
- おそらく、当時、その界わいでは映画産業仲間で技術的な交流があって、その流れの中でフィルム送り機構も似たような構造のものが踏襲されていたのではないかと想像します。
- Photo Sonics社とMichell社でライセンス供与があったとか、技術屋の移動があったかどうかはよくわかりません。
- 私自身1978年から2000年までの22年間、この高速度カメラの扱いや技術的な仕事をしていましたけれど、このカメラとMitchellカメラの関係がわかる資料を見たことがありません。
- ● Arriflex(アリフレックス)(2020.04.12)(2020.04.29追記)
- アリ(ARRI、Arnold & Richter)社はドイツ・ミュンヘンにある会社で、August Arnold(1898 - 1983)とRobert Richter(1888 - 1972)の二人が1917年に設立しました。
- 第一次世界大戦後、服役から帰った二人は小さな会社を起こし種々雑多なカメラやプリンタ(フィルム焼き付け装置)、照明装置の修理を行っていました。
- 彼らはまたカメラマンでもあり映画監督でもあり、秀逸な映画作品をいくつか残しました。
- 映画カメラは上にも述べて来たようにフランスと米国東海岸で発明され、国力の強い米国のお家産業となっていました。
- 米国東海岸は映画産業を興したエジソン社、映画フィルムを製造するコダック社、プリンタとカメラを製造するBell &Howell社があり、米国西海岸は東海岸からハリウッドに移った数々の映画スタジオ、カメラのミッチェル社、レンタルやアナモレンズのパナビジョン社などがありました。
- 米国の映画産業は規模が欧州とはまるで違いました。
- ドイツのアリ社はそうした映画産業の趨勢の中で、創業7年後の1924年、小型コンパクトなKINARRI35カメラ(手回し式100ftフィルム収納)を開発します。
- このカメラはハリウッドの主流となっていたミッチェルカメラとは対照的なものでした。
- 彼らは1937年、世界で初めての回転ミラーによるレフレックスカメラARRIFLEX35(写真 左)を開発し、販売を開始します。これは映画カメラ業界の一眼レフカメラとも呼ぶべきものでした。
- このカメラの特徴は重さが6.1kgと小型軽量で、かつ、撮影中でも実際の撮影画面を常時覗き続けられました。
- 回転円板レフレックスシャッターファインダーは、下右図の概念図で示されるように回転円板シャッターの円板部にミラーを貼って、ミラーから反射された光をファインダーで覗く方式としています。
- 回転円板シャッターは円板の半分で1コマ分を相当していたので、16コマ/秒の撮影では円板は撮影速度の半分、つまり、8回転/秒となっています。
- 反射ミラーは撮影速度間隔の半分(シャッターアングル換算で180°、円板シャッターの開角度は90°)を占めているので、この時間以上の露光はできません。
- 回転円板シャッターがフィルム面を覆い被さっている時間内でフィルムを掻き落とします。
- この回転シャッターは可変の遮光円板が設けられていて、この遮光円板が閉じていくと露光時間が短くなっていきます。
- 円板シャッターを使用したアリ社のリフレックスファインダーは、当時のBell &HowellカメラにもMitchellカメラにもない大きな特徴でした。
- アリ社(ARRI)のミラーレフレックスカメラ(Mirror Reflex Camera)と言うことから、アリフレックス(Arriflex)と名付けられました。
- このドイツのコンパクトカメラは第二次世界大戦中に威力を発揮します。
- 連合国アメリカはBell & Howell社のEyemoを携えていました。
- 戦後、ARII35は戦勝国の戦利品として連合国に没収され、レフレックスファインダー機能は戦勝国のものとなりました。
- ARRI社のあるミュンヘンも戦火の中にありましたが、工場はミュンヘン郊外にあったため全焼は免れ、1956年にはARRIFLEX IIを開発することができました。
- Arriflexはミラーレフレックスファインダーを大きな特徴としていて、かつ、サイズもコンパクトで精巧な機構部品ともあいまって、重厚長大なアメリカのカメラとは対照的な製品として位置づけられました。
- 下の写真は1964年東京オリンピックのドキュメンタリー映画「東京オリンピック」(市川崑監督)制作の際に使われたカメラが勢揃いした記念写真です。(中央でタバコを加えて指揮のポーズをとっておられるのが、当時49才の市川崑監督。)
- カメラのほとんどに望遠レンズ (= レンズ鏡筒が長い)が取り付けられているのがわかります。
- 3億7000万円(現在の37億円相当)の制作費をかけたドキュメンタリー映画は、556名のスタッフを擁し、撮影カメラマンは164名を数えました。
- 使用したカメラは合計104台で、アリフレックス(Arriflex 35 II)が46台が使われました。
- この他には、Bell&Howell社のEyemo(アイモ)47台、高速度カメラ(フランス エクレール社カメフレックス、Eclair Cameflex)3台、ミッチェルマークII 2台、そしてミッチェルNCが1台使われました。
- 使用したフィルムは40万フィート(400ftフィルム1000缶、延べ録画時間74時間)に上りました。
- この作品は望遠レンズが多用されていて、遠く離れた位置にカメラを置き、選手の息づかいを望遠レンズで追いかけました。
- 100m走のボブ・ヘイズ(Robert Lee Hays)選手や、マラソンのアベベ(Abebe Bikila)選手のクローズアップショットには、望遠レンズに加えてスローモーション撮影(ハイスピードカメラ)が使われました。
- アリフレックス35IIカメラがなぜ46台も使われたのかと言えば、ドキュメンタリー撮影に最適な性能、すなわちレフレックスファインダーと軽量で堅牢なボディーを兼ね備えていたからです。
- 「長焦点距離レンズ、もしくはズームレンズをカメラに装着して動きの速いスポーツ選手を追いかけるには、このカメラ以外にはなかった」と、この写真は物語っています。
- アリフレックス35IIと同台数が使われたBell&Howell社のEyemoは、小型軽量で手巻きゼンマイの撮影機でした。
- バッテリーは必要ありませんでした。
- 1960年代半ばになっても、相当数のEymeoが使われていたことが理解できます。
- このドキュメンタリー映画を撮影したカメラマンは、当時一匹狼と言われていたニュース映画に携わっていたフィルムカメラマンでした。
- 彼らはテレビニュースが一般になっていなかった1930年代から1960年代に活躍した劇場上映ニュース撮影を専門とした新聞社所属のカメラマンで、映画制作会社に所属していた映画カメラマンとは対象物を追う姿勢が違っていました。
- 映画カメラマンは大きなミッチェルカメラを据えて、照明装置を豪勢に点灯させて舞台を構築して極上の画像を撮ることを旨としていました。
- ニュースカメラマンは、彼らとは反対で、屋外に出て刻々変わる撮影対象の決定的瞬間を撮るために身一つで出かける人達でした。
- カメラも当然戦場に出かけるような身軽なものが求められたので、Arri35やEymeoは彼らの手足のようになって撮影現場を駆け巡っていました。
- こうしたニュースカメラマンもビデオカメラが発展するとともに淘汰され、1980年以降ニュース(報道)現場の座を譲って行くことになりました。
- アーノルド&リヒター社は65mm巾の撮影カメラにはそれほど注力していなかったようで、35mmフィルムと16mmフィルムカメラがメイン製品でした。
- しかし、1970年代後半ハリウッドでの65mmフィルムカメラの要求が高まり、同時録音できる低ノイズフィルムカメラの要求から、ARRI765を1983年に開発しました。
- 1960年代のハリウッドは、Panavisionが65mm用、35mm用のワイドスクリーンカメラで依然としたシェアを保っていましたが、アリフレックスカメラの機動性を重視した作品も作られるようになり、シェアを伸ばしていきました。
- 2000年以降、デジタルカメラがハリウッドでも普及するようになると、デジタルカメラ(Arri Alexa)への移行も成功し、多くのシェアを勝ち得るようになりました。
- ● 16mmフィルム (2020.03.14)(2020.04.20追記)
- 16mm幅のフィルムは1923年にイーストマン・コダック社が開発しました。
- コダックは16mmフィルムを使って動画を撮るCine-Kodak(カメラ)も製作します。
- 35mmフィルムは高価だとするアマチュアユーザー向けに、35mmフィルムの半分の巾を持つフィルムを作ったのがビジネスの動機です。
- 35mm巾の半分は17.5mmですが、16mm巾とした理由がよくわかりません。
- たしかに、17.5mm巾のフィルムは存在していました。
- 調べてみると、17.5mm巾のフィルムは1898年には存在していたようで、英国の写真家で発明家のBirt Acresが自分用に製作したそうです。
- その後、11mm巾(1902年)、28mm巾(1912年)、22mm巾(1912年)、9.5mm巾(1922年)と様々なフォーマットフィルムが作られて、それに対応するカメラと映写機も作られました。
- これらの多くはアマチュアの域を出ておらず、当時一般的になっていたセルロース素材の35mm巾のフィルムを流用、加工して使っていました。
- 個人目的ではなく会社組織でビジネスとして小型映画カメラを製作したのは、フランスのパテ社で、1912年に28mm巾のフィルム用カメラと映写機を作ります。
- 彼らはこのフィルムゲージでアマチュア向けのフィルム映像ビジネス(パテスコープ・ライブラリー)を展開しようとしていました。
- テレビ放送のない時代の家庭用娯楽ビジネスを構築しました。
- コダックも同じビジネスを企画します。
- こうした背景を考えると、おそらくコダック社は、パテ社のフィルムゲージを避けて、かつ28mmフィルムよりコストの低い(17.5mm巾に近い)16mmとしたのだろうと考えます。
- Kodakは16mmフィルム規格(gauge)を開発するにあたって、パテスコープ・アメリカ社(Pathescope company of America)からWillard Beech Cook氏を雇って(おそらく引き抜いて)コダスコープライブラリー(Kodascope Library)を作ります。
- 16mmフィルムを使った娯楽・教育素材を作り、これをレンタルする事業を始めたのです。
- 第一次世界大戦が終わるまでは、パテ社の28mmフィルム(ライブラリー事業)は欧州のみならず米国でもけっこうな普及を見ていたようです。
- コダックはこれを打ち破ったことになります。
- コダック社はアマチュア向けに開発した16mmフィルムに以下の特徴を持たせました。
- 1. フィルム素材に可燃性のセルロイドに代えてアセテートとした。
- セルロイドは火災をよく起こして危険きわまりなく、管理が徹底しない家庭用には不向きだった。
- 2. フィルムはネガティブではなくリバーサルとして現像後直ちに映写できるようにした。
- 3. この規格のフィルムと関連機材(三脚、プロジェクタ、スクリーン、フィルム編集酢プライサー)を
- 低価格で貸し出し、現像処理も全米に拠点を置いた彼の会社ですべて請け負った。
- コダックの大きな資本の力によって、アマチュア向け小型フィルムカメラが家庭に普及していきました。
- 以後、16mmフィルムは2000年までの80有余年、ドキュメント映画やニュース用取材、テレビドラマ制作、高速度カメラ用フィルムに利用されました。
- このフィルムは、基本的には両側にパーフォレーションが設けられていて、1ft当たり40コマの撮影ができました。
- 後になって、フィルム面にサウンドを入れるスペースを確保する関係上、パーフォレーションが片側だけのフィルムも登場します。
- 撮影速度は、35mmフィルムと同じ無声映画の時代は16コマ/秒で、トーキーの時代になってからは24コマ/秒となっています。
- このフィルムの果たした歴史的な役割は、大変大きいものであったと私は思っています。
- このフィルムは、ドキュメント記録用に大活躍しました。
- 第二次大戦の戦場での記録は、小型で携行性に優れた映画カメラが必要とされました。
- 米国ベル&ハウエル(Bell & Howell)社は、この要求に応えるため、1923年にFilmo(フィルモ、右写真)を開発します。
- Bell & Howell社はまたフィルムの兄弟カメラとして1925年にEyemo(アイモ)カメラを開発しています。
- アイモは、35mmフィルムを使用した手巻きカメラでした。
- Filmoは3本式ターレットレンズ(カメラ全部に3本の単一焦点距離レンズを取り付けるリボルバー、顕微鏡のレンズリボルバーのようなもの)がついていて、撮影目的に応じてレンズを回して選択していました。
- ファインダーは二眼方式になっていて、レンズターレットを回すとそれに応じて対応するファインダーがギア駆動でセットされました。
- このカメラは片手で持ち運べ、巻き上げ式のゼンマイでフィルム駆動を行うことができました。
- Filmoは1970年代のビデオニュースカメラ(ENGカメラ)が台頭するまで、テレビ放送局、報道機関で多く使われました。
- また、ドイツではアーノルド&リヒター社がArri 16ST(下の写真)と呼ばれる携帯性の良いレフレックスファインダー方式の16mmフィルムカメラを開発し、安価な映画撮影ができるカメラとして使われました。
- 第二次大戦でも数多く利用されたと思われます。
- (この種のカメラ資料では35mmフィルムカメラのArriflex35が多く見受けられるものの、16mmフィルムカメラのものは見つけられていません。
- Arri16STは、大戦後に作られたカメラですが、同系列の16mmカメラが以前にもあったと思います。
- ただその機種がどれであったか調べ切れていません。)
- 以下の写真は、ARII社のホームページ(「The History of ARRI in a Century of Cinema」)からお借りしている写真です。
- 上の写真は1960年代のオリンピックの報道カメラマンたちの撮影風景だと思われます。
- たくさんのArri16STが使われています。遠い所の撮影を行うため望遠レンズが取り付けられています。
- このカメラは一眼レフレックスであったこと、コンパクトであったこと、メカニズムがしっかりしていたこと、電動で動いたこと、必要に応じて400ftフィルムマガジンが装着できたこと、などの特徴を持っていて、なおかつ高品質で使い勝手が良かったためにこれだけの注目と名声を集めたのだと思います。
- 当時はビデオカメラは無く、放送用のテレビカメラは大きかったため撮影が限られていました。(上記の写真は、テレビ報道用の記録として16mmフィルムが使われたと解釈しています。16mmフィルムカメラで撮影してテレシネで放送されました。映画用には16mmフィルムではなく、35mmフィルムが使われました。「ドキュメンタリー映画 東京オリンピック」)。
- その他、報道用の16mmカメラとしてはスイスのBolex(ボレックス)、ボリュー、フランスのエクレール、日本ではキヤノンのキヤノン スクーピック(Canon Scoopic16 _ 1965)がありました。
- 第二次大戦と戦後を通した1980年代後半までのニュースは、ほとんどこれらの16mmフィルムカメラを使用していました。
- 35mmフィルムはコストがかかりすぎるので、テレビに流すニュース取材はすべて16mmフィルムが使われていて、映画館で流すニュースフィルムには画質の良い35mmフィルムが使われました。
- ビデオテープレコーダ(ENG = Electoronic News Gathering)が普及するのは1980年代後半からで、ニュースを取材するカメラがソニーのベータカムに代表されるビデオカメラに置き換わると、その普及はすさまじく、2000年以降はほとんどのニュース取材やテレビドラマがビデオカメラに置き換わって行きました。
- フィルムカメラは現像工程が入るため即時性に問題があります。
- ビデオカメラの即時性はそれほど魅力があったということです。
- 高速度カメラでは1930年代から1990年代までは16mmフィルムを用いたカメラがほとんどで、16mmフィルムを高速で送りながら10,000コマ/秒までの撮影を行っていました。
- 詳細は「高速度カメラの歴史背景とトピック 間欠掻き落とし式フィルムカメラ」を参照下さい。
- 代表的な高速度カメラとしては、米国Photo-Sonics社(フォトソニックス)の16-1PL、16-1B、米国Photec社(フォテック社、現在はVisual Instruments社)のPhotec、日本のナック社のE-10(1975年以前は日立のHitachi 16HS、16HD)、スイスワインバーガー社のSTALEXなどがあります。
- また、米国ではRedlake社のHycam、Locam、Fastax、フェアチャイルド社ミリケン(Miliken)などがありました。
- 16mmフィルムは、100ft(30.3m)、400ft(121m)タイプが主流です。
- この他に、200ftタイプ、1200ftタイプもありますが特注的な扱いとなります。
- また、これらのフィルムはスプール巻きとコア巻きの二種類があって、高速度カメラ用のフィルムは遮光のためのアルミ製のツバが付けられたスプール(日中装填)が使用されました。
- ● 8mmフィルム(2020.04.18記)
- ビデオカムコーダの8mmではありません。
- フィルムの8mmです。
- このフィルムは1932年にイーストマン・コダック社が開発しました。
- 16mmフィルムではまだ高価であるとするアマチュアユーザ向けに、16mmフィルムの半分巾のフィルムを作ったのが始まりとされています。
- これはダブル8(とかレギュラー8、R-8)と呼ばれていました。
- 当初は16mmフィルムをそのまま使い、露光するアパーチャを半分のサイズにして片側づつ2トラックにして撮影していました。
- 現像処理後にフィルムを中央で切り離し、2本として8mm巾の映写フィルムとしました。
- 16mmフィルムは両目のフィルムを使って二つに切り離すので、パーフォレーションは片側だけとなります。
- またパーフォレーションの孔寸法は同じで、パーフォレーションの孔の数は倍(パーフォレーションピッチは16mmフィルムの半分)に増えていました。
- ダブル8の欠点は16mmフィルムの流用だったので、パーフォレーションが大きく有効寸法画面がフィルム巾の60%しか使えませんでした。
- フィルム上にサウンドトラックを設けようとすると、さらに画面寸法を小さくしなければならないという問題を抱えていました。
- この問題を解決するために、1965年(8mmフィルムは33年間も同じ規格だったんですね!)、16mmフィルム巾に代えて8mmフィルム巾として、8mmフィルム専用のパーフォレーションを空けたものがコダックよりスーパー8という名前で発売されました。
- また、富士フイルムではシングル8という名前で登場しました。
- このフィルムはサウンドトラック用のスペースが確保できたばかりでなく、有効画面寸法も大きくなったため映写画面の質と明るさが向上しました。
- このフィルムは予めカートリッジに入れられ、8mmフィルムカメラに入れるだけで撮影ができるようになり簡便なものとなりました。
- コダックではこの他にやはり16mmフィルムを用いて、パーフォレーション寸法や画像の寸法形状をスーパー8 と同じにしたダブルスーパー8というフィルムも市販していました。
- 興味あることに、35mmフィルム、16mmフィルム用の映画カメラには触手を伸ばさなかった日本のカメラメーカーが、8mmフィルムカメラになると富士写真フィルムやキャノン、エルモ、三協、アルコ、ヤシカ、日本光学(現:ニコン)が製品を製作し販売しました。(キャノンは16mmフィルムカメラを使った報道局向け用にCanon Scoopic 16 = キャノン スクーピック16カメラを1965年から製造していました。)
- コンシューマー用の製品の方が生産・販売台数が見込めるので、日本のメーカーはこうした商品に対して積極的に触手を伸ばすことがこのことからも理解できます。
- 8mmカメラを持つ日本のユーザは、1960年代から1980年代を通してほんの一握りのマニアだけでした。(海外向けの方が販売が期待できました。)
- 1980年代終わりにビデオテープレコーダー(Sony Handycam CCD-TR55)が発売されました。これが一般大衆に大きく受け入れられたアマチュアムービーカメラでした。
- そして、1990年終わりから2000年始めにはデジタルカメラが普及するようになって、8mmフィルムカメラの需要はその波に揉まれて大きなウェーブを作ることなく減っていきました。
- ● 70mm/65mmフィルム(202004.029記)(2023.06.12追記)
- 70mmフィルムは大型劇場用のフィルムです。
- 映画フィルムは、1890年代中頃に35mm巾のロールフィルムで始まりましたが、その倍の巾の70mmロールフィルムを使った映画も当時からあり開発が進められていました。切磋琢磨があったようです。
- ジョージ・イーストマンがロールフィルムを作った当初、すでに70mmフィルムは存在していました。エジソン(とディクソン)は70mmフィルムを半分にした35mmのロールフィルムをイーストマンに注文したといういきさつがあります。
- もちろんパーフォレーションのない帯状のロールフィルムでした。(パーフォレーションはエジソン側で加工をしていました。)
- 映画は、35mmフィルムカメラが主流となりました。
- 本格的に70mmフィルム映画が作られるのは、40年経った1930年代となります。
- その後時代を経て、70mmフィルムの規格は3つとなりました。
- 一つ目は、1930年代のタイプI(イメージサイズは4パーフォレーション)で、二つ目は軍需用のタイプII(イメージサイズは10パーフォレーション)、そして3つ目は、1950年代後半の娯楽映画産業の65mm/70mmフィルム規格(5パーフォレーション)となります。
- 65mm/70mmフィルムにはもう一つ、以下に述べているIMAXがあります。
- これは15パーフォレーションの横走りの映画です。
- 【1930年代の70mmフィルム映画】
- 本格的な70mmフィルムを用いた映画・上映館作りが始まったのは、1928年、FOX映画社を創始したWilliam Fox氏が手がけた「Fox Grandeur(グランデュア)」( = grand cinema)からとなります。
- 70mmカメラはミッチェル社に発注され、1929年にMitchell FCカメラが製作されます。
- FCカメラとはFox-Caseの略で、カメラがFox-Case社から注文されたことから来ています。
- CaseとはTheodore Case氏のことで、彼は音響が専門でフィルムに光学濃度式のサウンドトラックを発明した人として知られています。
- 彼はFox氏と共同で会社(Fox-Case社)を興し、サウンドトラックを組み入れた70mmフィルム映画を作り始めました。
- しかし、1929年は世界恐慌が始まった年で、大がかりな計画は頓挫してFOX映画社自体も経営が怪しくなりました。
- 1930年当時、70mmフィルム映画を上映するのはロスアンゼルスとニューヨークの2館だけでした。
- その時の作品は白黒ミュージカルで「Fox Movietone Follies of 1929」でした。
- 70mmフィルム映画は1930年代から1950年代前半までそれほど大きな前進はなく逆に沈静化していた感があります。
- 資料によると、70mmフィルムはその間忘れ去られていて、映画産業は、35mmフィルムを使ったカラー化、サウンドトラック、複数台のカメラを使ったワイド化に進んで行ったとありました。
- 忘れ去られた70mmフィルムが再度見直されるのは、1940年代後半、テレビ放送の躍進からです。
- テレビの登場によって映画業界はかなりの危機感を持ったと言います。
- テレビにない魅力的な映像が求められ、その一つが大画面上映ができる65mm/70mmフィルムであったと言われています。
- 【1950年代からの70mmフィルム映画】
- 70mmフィルムカメラによる撮影が再開されたのは、1955年です。
- Michael Todd(1909.06 - 1958.03)氏とAmerican Optical Companyによって、Todd-AO(とっどえーおー)というブランドの70mmフィルムワイドスクリーン映画が作られました。
- (American Optical Companyは、1869年にマサチューセッツ州で創業した眼鏡メーカー。軍用のサングラス、ゴーグル、暗視装置などを手がけて来た老舗、Todd-AOの開発は、バッファロー NewYorkの同社で行われたようです。中心人物は光学で著名なDr. O'Brien。)
- Todd-AOは、当時開発されたシネラマ(Cinerama、3台の35mmフィルム映写機を使った145°ワイドスクリーン上映。右の作図は観客からのスクリーンの視野角)に対抗する大画面の上映用として開発されました。
- シネラマが35mmフィルムを3本使うのに対し、70mmフィルム1本の方が技術的に簡単だろうという算段のようでした。(実際に3台のカメラの相互のつなぎ目のズレや、同期撮影、同期映写、音声の同期など技術的な課題も多くあったようです。)
- Todd-AOシステムを開発するにあたり、ワイドスクリーンによる周辺部の光量変化と像面歪曲を解決するため、時の著名なオブライエン博士と契約して、実際の光学部品製作をAmerican Optical Compnynに委託しました。
- カメラは1930年代に開発したミッチェルの70mmカメラ(Mitchell FCカメラ)を65mm巾用に改修しました。
- 初期のものは30コマ/秒で撮影されて上映されました(通常は24コマ/秒です)。
- 撮影時にはサウンドトラック部は必要ないので、それを省いた巾の65mm巾のフィルムで撮影をして、プリント時に左右2チャンネル(フィルム両端、2.5mm x 2 = 5mmの巾)とパーフォレーションの内側に左右それぞれ1チャンネルの合計6チャンネルの音声部(サウンドトラック)とした70mmフィルムにして上映していました(上図参照)。
- 従って、70mmフィルムは1930年代のものとは異なって、パーフォレーションの形状もピッチも位置も違ったものとなりました。
- 撮影に65mmフィルムを使うというのが、1930年代の70mmフィルム撮影との大きな変更点でした。
- Todd-AOのサウンドトラックは、磁気方式の6トラックになっています。
- Todd-AOにはもう一つ特徴があって、70mmフィルム状に記録されたサウンドトラックとは別に、35mmフィルムのすべてに磁気コーティングを施した録音フィルムを用意して、これにサウンドを入れて上映時画像と同期させていました。
- 音にすごくこだわったシステムでした。
- Todd-AOの最初の作品名は、ミュージカル映画の「Oklahoma」(オクラホマ、1955年、アカデミー賞音楽賞受賞)でした。
- Todd-AOはその後「80日間世界一周」(1956年、アカデミー作品賞)を手がけました。
- Todd氏の急逝(飛行機事故)後カメラシステムはパナビジョン社が引き継ぐ形になり、Todd-AO社自体はサウンドトラックに注力するようになりました。
- PanavisionはPanavisionで、同時期、MGMと一緒にMGM Camera 65(のちにUltra Panavision 70)を開発していました。
- MGMも経営が思わしくなく、MGM65は1960年以降、Panavisionカメラとして知られるようになります。
- Panavisionカメラも元はMGMがミッチェルに作らせた70mmフィルムカメラでした。
- Todd-AO方式による映画は1960年以降も「サウンドオブミュージック」(1965年、アカデミー賞、作品賞、音楽賞、他)、「パットン大戦車軍団」(1970年、アカデミー賞 作品賞、監督賞、他)と続きました。
- 【MGM、Panavision】。
- Todd-AOが70mmフィルムを使ったワイドスクリーン化を進めていたのと同じ時期に、映画配給会社MGMもPanavision社と共同して70mmフィルム映画を作り始めました。
- Todd-AOがワイドスクリーンをわん曲にして大画面を上映する方法をとっていたのに対し、MGMはフラットなスクリーンに横長の画面上映する方法を採用しました。
- MGMがパナビジョン社に対して、左右を圧縮撮影し映写時に元に戻して映写画面をワイド化するレンズ系を委託したのです。
- Todd-AOは1958年Mike Todd氏の航空機事故による急死を受けた後、Panavision社に吸収されました。
- Panavision社はまた、1962年以降にMGMが所有していたミッチェルのカメラを譲り受けるようになって、自社ブランドに取り込んで行ったように思います。
- それらのカメラをSuper Panavision70、Ultra Panavision70として構築し、70mmフィルム映画の主導謙を握っていきました。
- これらカメラの心臓部(フィルムムーブメント)はミッチェルカメラであり、画面の左右を圧縮して撮影する光学装置(アナモフィックレンズ、Anamorphic lens)はPanavision社の育んだものでした。
- この装置で、「ベンハー」(1959)、「アラビアのローレンス」(1962)、「マイフェアレディ」(1964)、「サウンドオブミュージック」(1965)を手がけて行きました。
- 70mmフィルム映画は、とにかくお金がかかるのでたくさん制作することはできません。
- 年に2〜3本平均の制作となりました。
- このペースは現在(2020年)でも続けられていて、さすがに全編65mmフィルムカメラとはいかず、置き換えられるところはデジタルカメラで撮影して編集していく方法がとられています。
- また、多くの映画は比較的安価な35mmフィルムで撮影され、70mmフィルム映写のできる映画館には35mmフィルム→70mmフィルムに拡大(ブローアップ)プリントされたものが配給されるようになりました。
- 65mmフィルムで撮影するのは大変なお金がかかるので、35mmフィルムカメラで撮影して、70mmフィルムに拡大プリント(ブローアップ)して上映することが1970年代から行われました。
- 35mmフィルムを使うより粒状性は向上するので、大画面映写上では一定の効果をもたらしました。
- 計測用にも70mmフィルムカメラが用いられ米国の航空宇宙産業分野で使われてきました。
- 上図の米国Photo-Sonics社の70mmフィルムカメラ70-10Rは、計測用のフィルムを使ったカメラで、映画用のフィルム規格とは別でした。
- フィルムは計測用に作られた70mmフィルム Type IIというものが使われ、正方形のイメージサイズ(10パーフォレーション)でした。
- ■ IMAX (2020.04.29)(2020.06.28追記)
- IMAX/OmniMAX(あいまっくす / おむにまっくす)は70mmフィルムを用いた大きなイメージサイズの映写システムです。
- このイメージサイズは130年の映画史上の中でもっとも大きなサイズであり、これ以上の大きさの映画は今後は作られないだろうと言われています。
- 大きなフィルムを使用するといろいろな問題が生じます。
- しかしこのフィルムサイズは経済的な観点(フィルム代、現像、プリント代)ももちろん、撮影上の問題点(大きなカメラの運用)もあります。
- 技術的な観点から見ると、IMAXは大きなサイズのフィルムを走行させる駆動の問題があります。
- 1秒間に24回ものストップ&ゴーを繰り返すフィルムは、かなりの負荷を負うことになり、一日6回、年240回(1500回の使用)の興業で課せられるフィルムへの負荷(擦り傷とパーフォレーションの消耗)を考えると、IMAXフィルムの映写システムが究極で最後であると思わざるを得ません。
- IMAXとOmiMAXの違いは、IMAXが巨大な平面スクリーンに投射する方式であるのに対して、OminiMAXは半ドーム状の球面映写方式で、全天映写となっています。
- IMAXシステムが使用するフィルムは70mmフィルム(撮影は65mmフィルム)で、15パーフォレーション分が1画面になります。
- 70mmロールフィルムの送り方向を横サイズとして、フィルムの巾を縦サイズ(横2.772" x 2.072"、70.4mm x 52.6mm)にしています(1970年のサイズ)。
- 従来の映画フィルムが対象物に向かって撮影ロールフィルムを縦方向に走らせているのに対し、IMAXは横方向に走らせています。
- 右のカメラ写真からもわかるようにフィルムマガジンは横位置になっています。
- ● IMAX社(Multiscreen Corporation、1967)(2023.06.09追記)
- この方式を開発したのはカナダ・トロント近郊のMississaugaにあったIMAX社(前身はMultiscreen社、カナダオンタリオ州Galt、1970年に社名を改名)で、1967年に創設されました。
- IMAXの着想をしたのはRoman Kroitor(1926〜2012)です。
- モントリオール万国博覧会'67のカナダ館の映像展示「ラビリンス = In the Labyrinth」に関わり、35mmフィルムと70mmフィルムを使ったマルチスクリーンを手がけた時に、IMAXを思いついたそうです。
- 彼はその着想をもとに高校時代の友人で同じ仕事をしていたGreeme Ferguson(1929〜2021)と、ビジネスと政治方面に明るいRobert Kerr(1929〜2010、政治家)、それに技術者のWilliam Shaw(1929 〜 2002、元Fordのエンジニア)の4名が集ってMultiscreen社が設立されました。
- 最初のIMAXの興業は1970年の大阪万博の富士グループパビリオンで行われました。
- 横19m x 縦13mの巨大スクリーンに、17分間の「Tiger Child」(虎の仔)が上映されました。
- 当時、大阪万博の中でも飛び切りの催しものが富士グループパビリオンで上映されたIMAXとアメリカパビリオンの月の石だったことを中学3年生だった私はよく覚えています。
- IMAXの映像はど迫力でした。
- 【大阪万博 - 富士グループパビリオン興業顛末】
- IMAX社(前身はMultiscreen社)が設立された1967年当時、彼らのIMAXシステムはまだ完成していなかった。
- 彼らが求めていた展示手法を模索を続ける中で、日本からグッドニュースが飛び込んだ。
- 大阪万博'70の視察団がモントリオール万博に出向いて来ていて、彼らと面談した。
- その中で、富士銀行を旗頭とした36社が集まる富士グループが同社の技術を高く評価し、大阪万博富士グループパビリオンの映像展示に制作のみならず、ハードウェアの開発資金まで用意する提案を受けた。
- 彼らはその申し出に小躍りしたという。
- 大型映像を映写する映写機は、その時点では試行錯誤をする構想中の段階であった。
- 36社のグループの中の一社キャノンは、大型映写機用の映写レンズを新たに設計・製造することを約束してくれた。
- 映写機の設計を一から始めていた時に、偶然が舞い込んで来た。
- オーストラリアのブリスベンに住む映写機修理屋のRon Jonesという人物が、革新的なフィルム送り技術「Rolling Loop」(ローリングループ)の特許を持っていることがわかった。
- この方式は、従来のフィルム掻き落としと違って、フィルムを波打たせてその皺を押し延ばしてフィルムを送るというものであった。
- 彼らはブリスベンに飛び、パテントをかぎつけるであろうハリウッドの競合と面倒なことになる前に、Ron Jonesの特許を買い取った。
- その技術の習得に、自動車会社のエンジニアであった高校時代の友人William Shawをエンジニアとして引き入れ、Rolling Loop技術を自社のものとして新しい映写機を開発した。
- 幸か不幸か、Shawには映写機の根本技術がなかったためすべてにわたり独創的な新しい映写機を作り上げることができた。
- ローリングループ式の初期設計とプロトタイプはできたものの、事はトントン拍子にはいかずスムースなフィルム走行を得るにはほど遠かった。彼はこれをオンタリオ・ハミルトンの大学研究室に持ち込み、走行時のフィルムの力のかかり具合を計算と実験により割り出し、彼の新しいアイデアも盛り込んで、映写機の最適化を成し遂げていった。
- IMAXカメラ:
- 65mm(撮影は65mmフィルム、映写は70mmにプリント)フィルムを使って、15パーフォレーション送りを行うカメラも新規製作であった。
- MGMのRobert Gaffney(1931〜)から、デンマークに腕利きのカメラ設計・製造者がいることを聞き、コンタクトを申し入れた。
- そのエンジニアは、ノルウェー人のJan Jacobsen(1919.12 〜 1998.06)と言った。
- 彼は、映画の世界では名の知れた人物で、小型軽量カメラの設計製作を得意としアナモレンズの組付けや特殊機械製造を手がけていた。
- 会社を興してビジネスを大きくしていくタイプではなかったようで、コンサルタント的な仕事を生業としていたようであった。
- Jacobsenはノルウェー生まれで、ティーンエージャーの頃から大の映画好きであった。
- ドイツ・ハノーバーの大学で無線と通信を学んだが、卒業論文は、16mmフィルムにおける光学音響であった。
- 卒業後、ノルウェーのオスロに戻り音響技術師として働いた。終戦後(1945年、26才頃)米国に渡り映画関連の技術的仕事に携わった。
- その後、英国に渡ってアナモフィックレンズ(画面左右を縮小撮影して映写時拡大撮影する画像圧縮レンズ)の設計製造に携わる。
- その後、ドイツ・ミュンヘンに引越し、アリ(ARRI)社とも関係しながら独自の仕事をしていった。
- 1968年4月(Jacobsen48才)に公開されたスタンリー・キュービック監督の「2001年宇宙の旅」の製作では、特撮の技術的な供与をしたとされている。
- 彼の人生の中で最も大きな仕事がカナダから訪れる。
- 1968年、Multiscreen社のGraeme Ferguson(1929.10.07〜2021.10.07)がミュンヘンを訪れ、Jan Jacobsenと面談し65mmフィルムを使った大型カメラ製作の可能性の話合いを持った。
- Multiscreen社(IMAX社)側の意向は、15パーフォレーションカメラの開発であった。15パーフォのカメラが製作不可能であれば、せめて8パーフォのカメラでもよく、これを15パーフォに拡大プリントしてオリジナルをおこし、これからリリースプリントを作る腹づもりであった。
- Jacobsenの回答は、そんな面倒なことをしなくても15パーフォのカメラは作れる、というものであった。
- Jacobsenは、コペンハーゲンの知人の作業所に移って4ヶ月でカメラを作り上げた。
- 15パーフォ送りの心臓部は、彼がかつて手かげた7- 1/2パーフォのムーブメントであり、これをタンデムにし、相互に7.5パーフォを掻き落として合計15パーフォを送る構造であった。
- 完成したカメラは、1968年の12月にカナダ・オンタリオ州のGaltにあるMultscreen社に届けられた。
- その一ヶ月後、アフリカでの野生動物を撮影した処女フィルムが上がった。
- 大阪万国博で上映する映画「虎の仔」の誕生であった。
- Jan JacobsenのIMAXシステムへの功績は大きい。
- たった4ヶ月でカメラの設計・製造を終え、しかもカメラ重量が25kgと想像以上の軽量に仕上げた。
- その上に彼の作ったカメラは堅牢であった。
- 初号機のカメラは、スカイダイビングの撮影中に事故にあって破壊してしまったものの、その後の12台を越すカメラは30年以上を経ても使い続けられ、16台のカメラがスペースシャトル経由で宇宙に飛び立っていった。
- IMAXの画像は、現在のデジタル画像に換算すると18Kに相当すると言われています。
- IMAXは、開発当初、各種のイベントでの目玉催しとして上映されているのみで、1970年の大阪万国博覧会以降の常設館は地元トロントとワシントン州のスポーカン(Spokane)など数えるほどしかありませんでした。
- 1990年代より世界各地でボツボツと常設館が置かれるようになり、上映する作品も増えて行きました。
- IMAXシアターは、2020年時点で北米を中心に450館以上あるそうです。
- 日本では36館あり、閉館した25館を含め累計61館に上ります。
- 現在では、70mmフィルムでの上映館は少なくなって、日本での常設館は鹿児島私立科学館のIMAX DOMEのみとなり、他の35館は、デジタルシアター(4K相当のデジタルプロジェクター)となっています。
- フィルムでの上映は、俄然臨場感と迫力はあるものの、フィルム上映を維持していくのは大変なようです。
- IMAXシステムを使って作られた最近の映画は、Christopher Nolan(クリストファー・ノーラン、1970.07.30 - )監督が手がけた2017年作品「Dunkirk」(ダンケルク)(ワーナーブラザーズ配給、アカデミー賞編集賞、録音賞、音響編集賞受賞)です。
- ノーラン監督は、IMAXによる映画制作が好きで、彼の手がけた作品、ダークナイト(2008)、ダークナイトライジング(2012)、インターステラー(2014)、TENET テネット(2020)、オッペンハイマー(2023)は、IMAXカメラで撮影されたものです。
- IMAXシステムによる映画制作は仕掛けが大変で、「Dunkirk」で使われた軽量カメラ = IMAX MkII LWの重さは25kgあり、台座、その操作手順、照明装置、使用するフィルム代、現像代、プリント代を考えると撮影失敗も厳しいことから、制作を指揮するプロデューサや監督は65mm/70mmフィルムでの撮影を避け、IMAXデジタルに移行する傾向があります。
- ノーラン監督は、それを嫌い全編65mmフィルムによる制作を旨とし、CG(コンピュータグラフィクス)も極力避ける作風で知られています。
- IMAXカメラを使うカメラマンは、相当に屈強で腕力に自信がある人でないと勤まりません。
- おそらく日本ではこれを使いこなせるスタッフも、監督も、そして財力もないのではないかと思わせます。
- カメラは、基本的に製造販売は行わずレンタルのみのようで、一日当たりのレンタル料金は120万円ほどなので1億円の資産価値のあるカメラのようです。
- 65mm/70mm映画フィルムを作るコダック社は、ノーラン監督から長期フィルム供給の契約を交わすことができたので、ビジネス継続の一定の算段ができたと報道されました(富士フイルムは、2012年に映画フィルム製造を終了して撤退しています。しかし、135タイプのフィルムは製造を継続しています)。
- IMAXに使われる65mm/70mmフィルムの材質は、Estar(ポリエステルベースフィルム、マイラーフィルム)が使われています。
- このフィルムはとても強靱です。ペットボトルに使われているPET(ポリエチレンテレフタレート)も仲間に入ります。
- この材質のフィルム使うとカメラの掻き落としクローやレジストレーションピンが折れてしまうと言われていて、一般ユースにはあまり使われて来ませんでした。
- 現像機に対してもフィルムが強すぎるので、フィルムが詰まると現像機のメカ部のダメージが大きいと言われてきました。
- しかし、70mmフィルムの大画面横送りとなると、映写での耐久性も問題となるため強靱なEstarベースフィルムが採用されたものと思います。
- IMAXカメラには、1000ftのフィルム(重量5.3Kg)が装てんでき、3分弱の撮影ができます。
- また、2022年5月には、6台のIMAXを使用したジェット戦闘機の映画「Top Gun Meveric」(トム・クルーズ主演)(プロデューサー:ジェームズ・ブラッカイマー、監督:ジョセフ・コシンスキー)が上映されました。(ただし、6台のIMAXカメラはフィルムカメラではなく、SONYのデジタルカメラでした。)
- この映画は、1986年に公開された「Top Gun」の続編とも言えるべきもので、戦闘機(F/A-18E/F スーパーホーネット、マクドネル・ダグラス社製)にIMAXカメラを載せて、俳優自らが戦闘機を操るという信じられない撮影を行っています。
- 1986年の作品は、35mmフィルムが使われ、戦闘機のコップピットには35mm高速度カメラ(4パーフォ200コマ/秒、Photo-Sonics 4ML)が使われたことを記憶しています。
- IMAXの画像は、1フレーム70mm x 52mmです。
- これをデジタル画像に換算するとフィルムの場合中心部の解像度は70本/mm程度あるので、これを横方向70mmのイメージサイズで解像度を割り出すと、
- 70(白黒本/ mm) x 2 (本/白黒) x 70 mm x 2 (baye換算)r = 19.6k 画素/1水平ライン
- と換算されます。
- bayer換算(モザイク画像)の2を掛けたのは、単板CMOS素子はRGBのモザイクになっていて、複数の画素で色情報得て輝度情報は飛び飛びになるため、Bayer撮像素子は画素数分の解像力を持ち合わせていないため、フィルム画像に2倍を掛け合わせています。
- 実際は、画像の中心部のみがこの程度のデジタル画素数に換算され、周辺部はこれだけの解像力は持ち得ないと判断します。これはフィルムの問題ではなく、使用するレンズの性能に負うところです。
- しかし、映画鑑賞上は中心部にフォーカスが合っていれば周辺部はそれほどの解像力は重視されず、周辺部は画質が落ちても人の動体視力の関係上大きな問題とはならず、注視している部位がきめ細かであれば周囲部はボケていても大きな問題となりません。
- 撮影レンズは周辺部の解像力は中心部よりも落ち、スクリーンに投影しても周辺部は投影レンズの性能やスクリーンの張り具合でボケや歪みは出ます。
- IMAXのレンズは、ハッセルブラッドカメラで使われる大判レンズが使われているようです。
- 1970年の大阪万博で開発されたカメラのレンズマウントは、Bronicaマウント(日本の中判カメラであるブロニカのマウント)が採用されていました。
- ズームレンズの使用はさすがに無いようで、大判カメラレンズでズームレンズがあるのは聞いたことがありません。
- IMAX撮影も、したがって、単玉レンズの使用がほとんどで、主にf40mmとかf30mmの広角レンズが使われているようです。
- これらのレンズの撮影視野角は、対角線で94度から110度となります。
- IMAXデジタルカメラには、Arri社のAlexa IMAX(6560 x 3102画素)が使われています。
- IMAX 3Dでは、Vision Research社のPhantom65(4096 x 2440画素)が2台使われました。
- 18K相当のフィルムの画質に比べるとデジタルは劣る感じが否めませんけれど、総合的に考えるとデジタルのほうが運用しやすいと思います。
- これらのデジタルカメラは、35mmフィルム映画でも置き換えて使われているカメラなので、これ(4K程度のカメラ)を使うのであればIMAXの利点はあまりなくなるのではないかと思えてしまいます。
- IMAXデジタルでは、ポスト処理で画像補間を行って4Kカメラの画像を8K相当以上にしているようにも感じます。
- ● 2023年現在の映画フィルム製造 (2023.06.09記)
- Kodak(米国ニューヨーク州Rochester)社では、2023年現在も映画フィルムを製造している、という細かい情報がYouTubeに載っていました。
- (Eastman Kodak社は、1892年にニューヨーク州Rochesterで創業し、映像フィルムメーカーとして世界一の規模で経営を行ってきました。2000年代からのデジタル映像ブームでは、先頭を走っていたにも関わらず波に乗ることができず、2012年にChapter 11の破産申請をしました。2013年にはKodakのフィルム部門がスピンオフして「Kodak alaris」社を設立し、銀塩フィルム製造とデジタル画像ソフトウェア/ハードウェアを引き続き運営することになりました。)
- コダックのフィルム製造の様子を詳しく知るクリップが以下のものです。このサイトは、科学映像(特にハイスピードカメラを使った高速現象を撮影する)分野で興味あるトピックを提供しているサイトです。
- コダックはどのようにフィルムを作るのですか?(コダックファクトリーツアー パート1/3) - Smarter Every Day 271(2022)
- コダックはどのようにフィルムを作るのですか?(コダックファクトリーツアー パート2/3) - Smarter Every Day 275(2022)
- How Does Kodak Make Film? - Smarter Every Day 286(2023)
- Kodak Film Factory Tour (2017)
- ● IMAXの映写方式 - Rolling Loog方式
- IMAXの映写機は、通常のパーフォレーション掻き落とし方式と異なりローリングループ(Rolling Loop)式を用いています。
- 70mmフィルムの大きなサイズで、しかも一画面15パーフォレーションと一般70mmフィルム映画の3倍以上の面積を持つフィルムを送るIMAXでは、通常の掻き落とし式によって何度もフィルムを上映していると、掻き落とし爪によってパーフォレーションがズタズタになってしまいます。
- パーフォレーションを使わない方法が考え出されました。フィルムベースは強靱なマイラーフィルム(ポリエステルベースフィルム)が使われています。
- ローリングループとは、走行時にフィルムを波のような"うねり"(ループ)を作り、その"うねり"によってフィルムを搬送させる方式です。
- この方式は、映像を写し出すアパーチャーの直前にうねり(ループ)を作る機構を設け、アパーチャーを通過した後はそのうねりを解除させる構造としています。
- アパーチャー部分は、うねりが通過している時はまともに見られない歪んだ画像になるものの、うねりが通過した後、次のうねりが来るまではフィルム移動がないため静止状態を続けます。
- その静止状態の時にシャッターを開けて光を通し上映します。
- 映写機には、静止精度を高めるためにregistration pin (レジストレーションピン)をパーフォレーションに入れています。(レジストレーションピンは、ループを作る上でも大切な働きをしています。)
- フィルムがアパーチャー上で静止している間に映写シャッターを開けて光をフィルムに通しスクリーンに投射させます。
- ループがアパーチャーを通過するときは、シャッターが閉じていて映像を投射しないようにしています。
- この方式は、従来の掻き落とし爪を使ったフィルム送りよりもフィルムにストレス(特にフィルムパーフォレーション)をかけないため、70mm15パーフォレーションの送り機構としては良好な結果となりました。
- アパーチャ部は、フィルムが移動していない静止中はフィルム面をフラットにするため真空装置でフィルムをアパーチャ部に吸着させ、なおかつ先に説明したようにレジストレーションピンが挿入されて位置精度を高めています。
- この操作を1秒間に24回繰り返して映写をしています。
- 下図が、実際のIMAXの映写装置の心臓部であるRolling Loop機構部です。
- 上図で説明したものは平面送りでしたが、実用版では回転送り機構(ローリング機構)を組み込んでいます。ローリングしながらループを作るので、ローリングループと呼んでいます。
- 上図は、IMAXの映写機を開発したWilliam Shaw氏が1970年に書き残した技術資料をもとに再画描をおこなったものです。
- この図は試作品のようで、1970年に大阪万国博覧会で実際に使われたものは、ローターの大きさが37.5"(952.5mm径)で、これに8ギャップ(ループを作る部位)を配置し、180回転/分で24コマ/秒の映写を行っていました。
- 上図は4ギャップとなっていますからローター径は大阪万博のものより2倍ほど小さく、その分ローターの回転数は2倍だったと思われます。
- この機構を見ると、フィルムがローターに入る部位と出口の2つにスプロケットがあり、フィルムがそれに噛み合って(しっかりとした送りスピードで)ロータ部に入り、そして出て行きます。
- ローターシューズとステーターレールには、フィルムが通るすき間が設けられています。
- 狭すぎても抵抗が起きてフィルムにキズをつけますし、広すぎても走行中にフィルムが踊ってうまく走行できなくなります。
- ステーターレールの一端(上図における下側部)には映写光軸に沿って開口部(アパーチャー)が設けられていて、ここからフィルム像がスクリーンに投射されるようになっています。
- その開口部分でフィルムを静止させる必要があるので、レジストレーションピンが設けられています。
- 入口スプロケットから送り込まれるフィルムは、下流にあるレジストレーションピン(上図の時計方向で短針6時)で動きがストップするため、タイミングを合わせて回転しているギャップ部のローターシューズ(上図の時計方向で短針8時30分)にすくわれてループを作ります。
- ギャップの半時計方向回転とともにギャップの中に入ったフィルムループは成長していき、レジストレーションピンを抜けると(上図時計方向で短針5時30分から3時)小さくなっていきます。
- レジストレーションピンにパーフォレーションを確実に入れければならないため、ループの長さは精度良く管理されなければなりません。
- ループを作る構造やループの高さ、その幅などを決定づける部品を作るにあたっては、細かい実験と試行錯誤、数値計算が行われたようです。
- 特に、入口スプロケットからギャップに入るフィルムの進入角度と初期の山なり形成は重要で、ここでループの成長や大きさが変わってくるため、フィルムを送り込む部品の形状やジェットエアを使ってフィルムを押す工夫がなされました。
- また、レジストレーションピンに入る前段階に薄いパイロットピンを配置して、パーフォレーションがより確実に挿入される工夫もなされたようです。
- この方式によって、フィルム映写時の像の止まり精度は0.03%(走行方向の揺れは0.003インチ = 0.076mm)と極めて精度の高いものになり、かつ、フィルムへの走行ダメージも極めて少なくなり、5000回以上の映写においてパーフォレーションの損傷は最小限であったと言われています。
- アパーチャ部:
- 映写を行うアパーチャ部(レジストレーションピンがある開口部、上図の時計方向で6時)には、像を映し出すためのアパーチャプレートとフィルムをアパーチャプレートに吸引させるための真空装置、それと球面補正のための2枚組の補整光学部が組み込まれていました。
- アパーチャ部は平面とはならず、ローターの曲率に合わせた構造であるため、スクリーンに映すための補整光学系が必要だったようです。
- シャッターと光源:
- フィルムループを作るギャップ部は遮光部(メインシャッター)がもうけられていて、映写ランプからの光源がフィルムに投射されないようになっていました。
- メインシャッターと90度ズレた位置にもう一つのシャッタ(フリッカーシャッターが)があって、この部位は映写光源の光を通すシャッタとなっているようです。
- ただし、フリッカーシャッターは開口部と遮光部が交互に2組ずつ設けられ、シャッターがローターの回転によって投射開口部(アパーチャ)を横切るときに2回シャッターを切っていました。
- 昔から24コマ/秒再生の映写機は1コマ2回のシャッターを切って1秒間48回のシャッターを行っていました。
- 24Hzではチラツキが大きいのです。
- IMAXもそれを踏襲して48回のシャッターを行っていました。
- けれどそのシャッターは48等分感覚ではなく、1/48秒間の1コマ映写を2分割、つまり96Hzでシャッターを切っています。(下図参照)。
- 1コマが1/24秒ではなくなぜ1/48秒なのかと言えば、フィルムを送るために1/24秒の半分、つまり1/48秒を当てなくてはならなため、光を当てるのは1コマ1/48秒となり、その時間で2回のシャッターを切るので24Hz間隔で2シャッター@96Hzの映写となります。
- シャッターの働きと光源の配置はこの図からは読み取れません。
- 当時のIMAXの映写機の映写ランプは、20kW、25kW、30kWの3種類のキセノンショートアークランプが用意されていました。
- 500Wや1kWのクセノンランプは見たことがありますが、25kWのランプは見たことがありません。
- とてもたくさんの電力を消費します。発熱もすごい量です。
- 10リットル(10kg重)の常温の水を7秒で沸騰させてしまいます。
- 逆説的には、それだけの水を循環させてランプを冷やさなければランプは数分と持たずランプ自らが焼損してしまいます。
- この光源を使って、スクリーン中央部を25 lm/ft2(フート・ランベルト)(86 nt、約1,500ルクス)で照射できたそうです。
- 光源(キセノンランプ)は、上図平面図の上部から中心部めがけて落射し、反射ミラーで90度折り曲げられて開口部に導かれ、フィルムを照射します。
- 大光量の投射光とキャノンの開発したf=150mm、f/2.0レンズを使って、富士グループパビリオンの43' x 62' (13.1m x 18.9m)のスクリーンに投影されました。
- ローリングループ方式は、フィルムに無理な負荷がかからない良好な方式だとして、IMAXの成功以降いろいろな人達が映写機に限らず撮影用カメラにも応用しようとしていろいろな試みがなされて来たようですが、特許が切れてからもその種のフィルム機器が現れることはありませんでした。
- アイデアはすばらしいけれど、実用化には相当な問題が山積していることがうかがい知れます。
- ■ 小型簡易白黒現像機 (1998.09.07) 右の写真は、1980年代から1990年代に使っていた卓上フィルム現像機です。(写真は1985年に撮影)。
- 16mm白黒ネガフィルム用のもので英国製だったと記憶しています。16mm映画フィルムの現像を自家現像するのはまことにやっかいな作業です。
- 30m(100ft)もの長いフィルムを暗室で現像するのは結構骨の折れる作業でした。
- 小型白黒現像機はコンパクトで400ft(120m)までの白黒フィルムを自動的に現像してくれまして。
- 液漕は2リットルのタンクで以下の5槽を持っていました。
- 現像タンク→水洗タンク→定着タンク→水洗タンク→乾燥
- 電源はAC100V15A。
- 水道のある近くにおいて現像処理ができます。
- 現像タンクが2リットルと小さいので簡単に現像液を溶くことができます。
- 現像時間は、100ft(30m)で約1時間です。
- 30m/1hr = 8.3mm/秒のフィルム送りということになります。
- トップに戻る
- 【フィルムの特性】(1998.09.07)(2020.05.13追記)
- カラーフィルムは長期保存で退色する恐れがある 白黒フィルムは、金属銀が残っているため非常に安定して保存できますが、リバーサルフィルムは、定着工程で全ての銀がすべて洗い流され、イオン銀で2次反応した発色カプラだけが残ります。
- この発色カプラーは、紫外線などの強い光に弱く、太陽光などに長期間さらされると退色します。
- フィルムの長期保存には、湿気と温度を遮断し暗室で保存する必要があります。
- 濃度情報 フィルム像の記録濃度は、ネガフィルムで10ビット = 1:1000程度(例えば、100 ルクス〜10,000 ルクス)、リバーサルフィルムで7ビット = 1:100程度(例えば、100 ルクス〜10,00 ルクス)を記録することができます。
- 記録媒体としては記録速度も速くダイナミックレンジも広くとれます。
- フィルムでは、濃度を表す単位にD1.0と言う表し方をし、ログ(Log)関数表示となります。
- DはDensity(濃度)の略です。
- D濃度とフィルム上の透過率T(%)の関係は次の通りです。
- T = 1/10 D x 100
- T: フィルム上の透過率 (%)
- D:フィルム濃度 (スキャナー濃度)
- D0.0(濃度ゼロ)は、フィルムに何も濃度が無いことですから像が写っていない素抜けの透明フィルム(透過率100%)を表します。 D1.0は10%の光を透過する濃度を表します。 これは、濃度が1増す毎に透過率が1/10に減り、0.3毎に1/2ずつ減ります。 フィルム濃度は、フィルム濃度計を使ってD値を読みとります。
- 下図が、一般的なフィルム特性曲線です。
- 光の量に対して銀塩がどのような濃度をとるのかという特性曲線です。
- 図の横軸がフィルムに照射される光(白色光)の量で、露光量E(照度と時間をかけ合わせたエネルギー量)を対数に直した値です。
- 縦軸は、ネガフィルムの濃度を対数値で表しています。
- この図から、照射露光量に対するフィルム濃度は、なだらかな山なりの曲線になっていることがわかります。
- 露光量は、ある程度当てないとフィルムに濃度として乗らず、また必要以上の露光量を与えるとそれ以上は濃度を増すことができず、返って濃度が減ってしまうことを示しています(ソラリゼーション)。
- 露光量Eは、フィルム面に当たる照度と露光時間の積で、光エネルギー量に相当します。
- これにLog対数を当てていますから、LogE = -3 は、1/1000ルクス・秒を表し、LogE = 3.0 は、1000ルクス・秒を表します。
- こうしてみると、フィルム特性曲線は両対数曲線となります。
- 上の表にγ(ガンマ)と書かれてありますが、これは、露光量に対するフィルム濃度の傾きを表していることがわかります。
- γ=1というのは露光量と濃度が1:1に対応している事になります。
- 一般的なフィルムは、γが0.8になることをすすめ、現像においてはγ=0.8を標準現像として、現像の仕方、フィルムの特性を紹介しています。
- γが0.8というと、実際の被写体の濃淡に比べてフィルム像の陰影が0.8倍の柔らかいものに変わることになります。
- 科学写真を取る場合には、露光量とフィルム濃度の関係が良くわかった方がよいので曲線の直線部分に露光が入るように露出時間、レンズ絞り、光量調節、現像調整を行います。
- 露光は、カブリ濃度の近辺の「足」部や、濃度が濃い「肩」部を避けるのが一般的です。
- 実際に被写体の明るさの範囲(これをラチチュード = latitude)と呼んでいます。
- ASA100のフィルムですと、光量比でLogEが3.0以上とれますので被写体の明るさが1:1000に及ぶ明るさの範囲をフィルム像に記録することが可能です。
- つまり、フィルムスキャナーが、フィルム像の濃度を1:1000まで読みとれれば、フィルム像は1:1000の情報を得ることができます。
- この階調をコンピュータ用語のビットで表すと10ビットまでの情報を持つことになります。
- ちなみに、フィルム像ではなくCCDカメラ(天体観測用のCCDカメラ)は、濃度が16ビット(1:65,000)階調あるものが市販されています。
- CCD素子の基板はシリコンで作られていて、シリコンは光に対して敏感で、熱による(CCD上の発熱などによる熱のばらつき)ノイズを十分に抑えれば1:100,000程度のダイナミックレンジを持ちます。
- X線医学診断では、このフィルムを使ってX線写真を撮りこのX線フィルムから患者の診断を行っています。
- これを読影(どくえい)といいますが、X線光源、フィルム特性、患者患部のデータを予め頭に入れておき、患部の微細な変化をとぎすまされた経験と勘で発見します。
- 特にガンの早期発見には、ほんのちょっとした異常をX線フィルムから読みとらなくてはならず、CCDカメラをはじめとした電子映像がX線フィルムの性能に追いつく2010年あたりまでX線フィルムが使われてきました(2020.05.11追記)。
- 【ASA感度(ISO感度)】 ASA(ISO)感度の定義について述べます。
- フィルムの歴史は古いので、今までいろいろな感度規格が用いられてきました。
- たとえば、ドイツではDIN感度、日本でもJIS感度。英国ではBSI、ロシアではGOSTと言う具合です。
- 規格がたくさんあると何かと不便なので、国際規格のISOに統一されるに至っています。
- ISO感度は、ASA感度(American Standard Association、この規格はANSI = American National Standards Instituteの前身であるにもかかわらず、なぜかフィルム感度だけは古いASAが生き残っている)がそのまま取り入れられました。
- 従って、フィルム感度のISO表示は、従来のASA感度表示と同じです。
- ISO(=ASA)感度の決め方は、どのくらいの少ない光量でフィルム濃度が得られるかの目安を表します。
- つまり、被写体の暗部のディテールを少ない露出で記録できる感光材が感度が高い、と考えて、上図の特性曲線の足の部分の、カブリの部分より区別がはっきりする濃度、すなわち、ベース濃度 + カブリ濃度 + 0.1( = 0.1D)が得られる○印の点の露光量Eaの逆数で感度を表すことになりました。
- フィルムによっては、光を与えてもなかなか反応せず濃度がのらないものがありますが、0.1D濃度になるときの光量がフィルム感度になるというのが面白いポイントです。 フィルムは、現像によって露光に対する濃度(すなわちγ)が変わってくるので、このEaの点をもう少し厳密に定義する必要があります。
- a点がLogEaより1.3大きい点(これを仮にLogEb)とし、この点で濃度が0.8になるように現像します。
- こうしてγを一定にしておいてEaの値を特定し、ASA感度を求めます。ASA感度は、
- ASA(ISO)感度 = 0.8/Ea ・・・(Rec -47)
- で定義されます。
- 従ってASA100のフィルムは、Eaが1/125(=0.008)の時にASA100と呼ぶことができます。
- これは、0.008ルクス・秒を表します。
- つまり、ASA100のフィルム面に0.008ルクス・秒の光量を与えると0.1Dの濃度を得ることになります。
- ■ フィルムの解像力
- フィルム自体の解像力は、100白黒本/mm 〜 200白黒本/mm程度の性能を持ちます。
- これは、1/200mm〜1/400mm(2.5μm)の分解能に相当し、フィルムを使用する最大の利点となっています。
- この解像力を求めるには精度のよいチャートをフィルムに密着させて露光させ現像します。
- 現像したフィルムを濃度計で計測して細かいところをどこまで分解できているかを判断して解像力を決めています。
- また、特殊なものでは、ガラス板を使ったホログラフィ用の感光材では1,000白黒本/mm程度の性能を持っています。
- 現実的にこれらのフィルムの持つ解像力を最大限引き出すことは困難で、レンズ性能やカメラのフィルム固定精度、フィルム移動機構の安定性、フィルム面の安定性を踏まえた総合解像力という言い方でフィルムカメラの解像力を決めています。
- 画像の解像力評価については、「レンズについて」(http://www.anfoworld.com/Lens.html#Resolving Power)という項目にも詳しく触れていますのでここを参考にして下さい。
- 【MTF】(Modulation Transfer Function): フィルムの解像力を表す現実的な方法にMTFがあります。
- 解像力が100本あるといっても、細かい線がしっかりと記録されているかどうかが問題になります。
- フィルムによってはわずかに見えるか見えないかぐらいの薄くうつっているかも知れません。
- 別のフィルムではしっかりときれいに写っているかも知れません。
- こうした黒と白の解像力をコントラスト(濃度)で示し、横軸に解像力の周波数、縦軸にそのコントラストを表した曲線をMTFと言います。
- 一般に解像力が高くなると(周波数が高くなると)コントラストが低下するのが一般的ですが、フィルムやレンズによってその曲線が変わってきます。
- あるものは、高い周波数で急激にコントラストが落ちたり、べつものは徐々にコントラストが低下したりします。
- もちろん、解像力が高い位置までコントラストが落ちずに伸びているものもあるでしょう。
- このように、画一的に周波数がいくつというよりも、MTFを用いればより詳しくフィルムやレンズの解像力特性がわかってきます。
- ■ 総合解像力
- 実際に良く使われている高速度カメラの総合解像力について触れてみます。 16mmフィルムサイズの高速度カメラは、自動車安全実験用に使われる500コマ/ 秒撮影ができる16mmフィルム掻き落とし式高速度カメラ モデル16-1PL(米国 Photo Sonics社)や、ガソリン・ディーゼル燃焼研究に使われる10,000コマ/ 秒のロータリプリズム式高速度カメラ(モデルE-10、ナック社)が良く使われます。
- 解像力は、カメラ内部に光学部品が無い分フィルム掻き落とし式高速度カメラ(1PL)の方が有利で、TV本に換算すると横1,200本 x 縦840本程度になります。
- E-10は、カメラ内部に撮影を高速にするための回転プリズムやリレーレンズが入るため解像力が劣化し、横700本 x 縦500本程度になります。
- 35mmフィルム高速度カメラは、200コマ/ 秒まで撮影可能な米国 Photo Sonics社の35-4MLがあります。
- 画質がきれいなことからテレビコマーシャルでスローモーション撮影に使われたり、映画撮影の特撮、宇宙衛星打ち上げロケットの追跡撮影に使用されます(1970年代〜2000年)。
- この種のカメラの解像力は、TV本に換算すると横2,200本 x 縦1,600本程度でハイビジョンの映像に匹敵します。
- もちろんこれは高速度カメラでの話であって映画用に使われる映画カメラ、ドイツ アーノルド&リヒター社の ARRI Flex 35 BLなどは、フィルムを高速に駆動しないだけフィルムの停止精度、面精度が良くハイビジョン以上の画質を提供してくれます。
- NikonやPentaxなどの35mmライカサイズのカメラは、最も手軽で最も情報力を持つものです。
- その解像力は、TV本換算で横4,300本 x 縦2,900本に相当し、16mmフィルムを使ったE-10カメラの36倍の情報力になります。
- このほか、70mmフィルムを使った高速度カメラ 米国 Photo Sonics社の70-10Rは、イメージサイズが56mm x 56mmありTV本換算で5,000本以上に相当します。
- このカメラは、次世代ハイビジョンシステム評価用ソースとして使われています。
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- ■ 光の記録原理 その4 - - - 光増幅光学装置(イメージインテンシファイア = Image Intensifier)
- 微弱光撮影には、高速度カメラに高感度光増幅映像装置(イメージインテンシファイア = Image Intensifier)を取り付け、約100〜10,000倍程度の感度増幅させる手法があります。
- イメ−ジインテンシファイア(通称I.I.=アイアイ)は、電子管の一種で光学像を電子像に変換し、電子像を蛍光面で再び可視光像に変換し、入射した光以上の光学像を取り出すものです。
- I.I.で行う光増幅は、基本的に以下の式で求められます。
- 光増幅率 = 光電変換効率 x 印加電圧 x MCP電子増幅 x 蛍光効率 ・・・(Rec -48)
- ▲ 光電面(Photo Cathode)
- 上式は、I.I.の光増幅が光学像を電子像に変える光電面の量子効率と電子が加速され蛍光面まで到達するための印加電圧、及び電子が蛍光面で可視光像に変わるための蛍光効率の積で決まることを表しています。
- 光電面の量子効率や蛍光面の蛍光効率は、使用する材質によって異なり、光電面の材質も蛍光面の材質も1940年代以降いろいろと開発されました。
- 光電面の材質を表すS1やS20などは、元来アメリカEIA (Electronic Industories Associ-ation)に登録された光電デバイスの分光感度特性に付けられた番号であり、これが光電面分光感度特性の代名詞として世界的に使われています。
- 光電面で最も良く使われるS20マルチアルカリ光電面は、アメリカのA.H.ソマー(Sommer)( = 1930年代より1970年代に活躍、数多くの光電面を発明)が1960年代に偶然に発明した光電面で、当時としては可視光に対し非常に高感度な性能を持っていました。
- 高感度は主に長波長への感度の伸びによっています。
- この光電面は、使用する膜材にナトリウム、カリウム等アルカリ金属を多く使用したため、マルチアルカリ光電面と呼ばれています。
- S25マルチアルカリ光電面は、1971年アメリカRCA社で開発されたもので別名 ERMA(Extended Red Multi-Alkari)とも呼ばれています。
- これは、通常のS20面より膜厚が5〜6倍(約150nm)厚いもので、限界波長が900nmに達しているためI.I.のみならずレーザ光検出用光電子増倍管、ウルトラナック(イメージコンバータ式高速度カメラ)に使われるなど重要な光電面になっています。
- ▲ 印加電圧
- チューブ内に印加される電圧は光電面より発生した光電子に力を与え電子を加速させます。
- 加速された電子は蛍光面に衝突し蛍光を発します。
- 蛍光は電子の速度によって輝度が変わります。
- 従って、蛍光面輝度は同じ数の電子が当たる場合には加速電圧に比例します。
- 通常のI.I.の加速電圧は15,000〜17,000V程度で、次に述べるMCP(マイクロチャンネルプレート)内蔵のI.I.で6,000〜7,000V程度になっています。
- 電圧を上げれば電子増幅が高くなりますが、必要以上に電圧を上げてもチューブ内の真空の度合いを考慮しないとマイナス効果になります。
- つまり、チューブ内に残留している分子(イオン)にもエネルギーを与え、そのイオンが蛍光面に衝突して光電面に光が入射していないのに蛍光面がノイズによって発光する問題が生じます。
- これはチューブの寿命にも影響するのみならず得られる像のS/Nも悪くなります。
- この値を EBI(Equivalent Background Illumination)と呼び、蛍光面単位面積当りの光束(ルーメン/cm2)で表します。
- EBI は、通常のI.I.で4 x 10-11ルーメン/cm2程度であり、チューブが大きいほどこの値は不利になります。
- ▲ MCP(マクロチャンネルプレート = Micro Channel Plate)
- MCP(マイクロチャンネルプレート)は、I.I.チューブ内に組み込まれる0.5mm程度の薄いガラス板で、これにφ10〜12μmの孔が無数に空けられ(φ25mmで数百万個)、両端に100V〜900Vの電圧をかけ光電面からの光電子を1,000倍程度の2次電子に増やすものです。
- MCPは、比較的新しい技術で初期のI.I.にはこれが内蔵されていませんでした。
- MCPの導入で光増幅が飛躍的に向上し外観もコンパクトにできるようになりました。
- また、第3世代のI.I.は、形状が非常に薄くなっていて内部に電子レンズが構成されないため像歪みがありません。
- MCPの欠点は、蛍光面輝度がそれを使わないI.I.よりも高くならないことと、MCPが内蔵されている分だけ解像力、階調 = ダイナミックレンジが低下することです。
- 蛍光面輝度は、基本的にブラウン管(CRT)の蛍光面程度の明るさ(10,000ルクス程度)を出すことが可能ですがMCPを内蔵すると1/300程度の30ルクス程度に減ってしまいます。
- これは、MCPの2次電子が蛍光面を10,000ルクス程度まで明るくするだけ放出できないことを示しています。
- 従って明るい光を要求する高速度カメラにMCP内蔵のI.I.を接続しても撮影はできません。
- MCPを内蔵した場合の解像力は、MCPから放出される電子がMCPの開口率で発散して蛍光面に到達するため、MCPと蛍光面の距離をできるだけ近付けないと蛍光面像がボヤけてしまいます。
- ただし、余り近づけると高い電圧がかかっていますので絶縁不良が起きてしまいます。
- 高電圧がかかっている蛍光面とMCPを1/100mm程度の精度で製作する技術が確立した1970年代になって解像力のよいI.I.ができるようになりました。
- ▲ 蛍光面変換効率
- 蛍光面は、蛍光灯やテレビ受像機のように電子が蛍光面に衝突して光を発光するもので発光輝度、発光の色、発光のレスポンス(反応)等でいろいろな蛍光体が開発されています。
- 通常、蛍光面の材質を呼ぶときは、EIA (Electronic Industrial Association)に登録されている番号を使い、P11とかP20という呼び方をします。
- I.I.によく使われる蛍光面は、P20と呼ばれるものとP11です。
- P20は黄緑色の蛍光体で、数ある蛍光面の中でも高輝度で残像も比較的短い特徴をもっています。
- P11は青色の蛍光体で残像が少なく肉眼では暗い感じがしますが写真撮影ではP20よりも感度が得られます。
- I.I.を高速度カメラと接続して使う場合、この蛍光面の輝度と残像が問題になります。
- 高速度カメラは、10,000コマ/秒の撮影条件で、ウルトラナック(イメージコンバータ式高速度カメラ、比較的高感度のカメラ、1990 - 2000)を使う場合30,000ルクス、16mmフィルムカメラE-10(1980 - 1995)では、150,000ルクス程度の蛍光面輝度が必要です。
- 150,000ルクスの明るさは室内蛍光灯の明るさに相当します。
- 従ってE-10高速度カメラは、蛍光灯のような明るさをもつI.I.を使わなければ撮影できないことになります。
- 蛍光材は、明るいものほど残像が多い傾向があります。
- 残像とは蛍光面に電子が当たらなくなってもしばらくの間蛍光を発している現象のことで、レーダなどはこの特性を積極的に利用していますが、高速度カメラでは、次のコマ(映像)に前の像が持ち越されてしまうため的確な映像を得ることができず大きな問題になります。
- 特に、定格以上の電子が蛍光面に当たったときは残像が極端に長くなるため、この症状を引き起こす明るい被写体での撮影では注意が必要です。
- 逆に、蛍光面を短時間だけ光らせた場合の残像は、連続発光に比べ驚くほど改善できるため、第4世代のI.I.を使ってMCPを短時間シャッタリングしてP20の蛍光面残像を100μs以下に抑えることができます。
- ただし、第4世代のI.I.は先にも述べたように蛍光面が構造上明るくできないため、明るくできる第1世代のI.I.と組み合わせ、2段式として高速度カメラに接続します。
- 1996年、英国Imco(→英国Hadland社→DRS社)の開発したILS(Intensified Lens System)は、高速度カメラ用I.I.としては画期的な製品となりました。
- ILSが採用しているI.I.は、基本的に第四世代のゲート式近接型イメージインテンシファイアを用いています。
- 光電面・蛍光面の口径は双方φ40mmと世界最高クラスのイメージサイズを持ち、蛍光面が高速度カメラに耐えられる高輝度構造になっています。
- このコンセプトにより、ウルトラナックイメージコンバータ式カメラは勿論、ハイスピードビデオ(Kodak HS4540、MEMRECAM)、16mmフィルムカメラE-10での装着が可能になりました。
代表的な蛍光面材質の特徴
- P1
- P11
- P20
- P22
- P31
- 用途
- レーダー
- 写真撮影
- イメージ管
- の蛍光面
- カラーテレビ
- オシロ
- 蛍光色
- 黄緑
- 青
- 黄緑
- 白
- (R.G.B.)
- 黄緑
- 残光(10%)
- 24ms
- 60us
- 200us
- 25ms
- 600us
- 蛍光面最大輝度
- (換算照度)
- 7,400ルクス
- 3,600ルクス
- 12,400ルクス
- 17,800ルクス
- 21,000ルクス
- 発光効率(K1)
- (lumen/W)
- 520
- 137
- 480
- 520
- 230
- 発光体効率(K2)
- (%)
- 5
- 17
- 9
- 6
- 22
- エネルギー変換効率
- (K1 x K2)
- 31
- 26
- 43
- 31
- 51
- 特徴
- 最も古い蛍光面
- (スタンダード)
- 青色に感度あるため 写真撮影に効果。
- P20の約2倍
- イメージ管の 一般的蛍光面。 輝度、階調性
- ともに良好
- 輝度最高。 残像長い。
- 蛍光色は白
- オシロの一般的蛍光面。輝度最高。
- 残像長い
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- ● 第一世代イメージインテンシファイア
- 第一世代のI.I.は、第二次世界大戦中の1940年代、夜戦用の暗視装置の要求から米国RCA社で開発されました。
- 構造もシンプルで真空管 I.I. の入力に光電面、出力に蛍光面を配し、内部には電子レンズが置かれ光電面から放出された光電子が電子レンズ中央部でクロスして蛍光面に到達します。
- 光電面像と蛍光面像は倒立像になり、対物レンズと組み合わせて正立像を得ます。
- 光増幅率は、x 10〜x 200 で300ルクス程度に蛍光面輝度を高くすることができます。
- 高速度カメラ用に設計されたものでは蛍光灯並の輝度を持つ高輝度I.I.も製作されています。
- 近年のものは光電面と蛍光面に光ファイバーを使い内部を湾曲に処理して周辺の映像歪みと解像力を向上させています。
- I.I.の中では安価なため今でも暗視装置(ナイトビュア)として市販されています。
- ● 第二世代イメージインテンシファイア
- 第二世代は、第一世代のI.I.にMCPを内蔵させ光増幅度を飛躍的に向上させたもので1960年代から1970年代にかけて開発されました。
- φ10μmのファイバーを製造する技術が確立されてこのタイプのI.I.の完成を見ました。
- 光増幅率は、第一世代に比べ1,000倍ほど向上し微弱な光を検出する道が開かれました。
- しかし、第一世代に比べMCPを使っているため蛍光面輝度が1/3程度と暗くなり、解像力も劣ります。
- ● 第三世代イメージインテンシファイア
- 1970年代になると、ミクロンオーダの製造技術と真空技術が発達し、光電面と蛍光面をできるだけ近づけて (近接させて)配置させる近接型I.I.が開発されました。
- MCP内蔵 近接型I.I.は、第二世代のI.I.の構成から電子レンズを取り除いた形のもので、非常にコンパクトになり増幅度も第二世代のままで、像の歪みが非常に少なくなりました。
- 電子レンズが不用になったため光電面の像がそのまま蛍光面像となる正立像になりました。
- 光電面から放射された光電子がMCPを通りそのまま蛍光面に到達するためMCPを含めた光電面-蛍光面距離をできるだけ短くしないと像がボケてしまい解像力に影響を与えます。
- コンパクトなため第四世代のI.I.と共に非常に良く使われています。
- 蛍光面輝度は、第二世代の半分程度で10〜50ルクスと暗く、CCDカメラとの接続は可能なものの、35mmスティルカメラではISO 400のフィルムを用いても約1/2秒の露光が必要な明るさで、このI.I.単体で高速度カメラと組み合わせるのは不可能です。
- また、1,000コマ/秒以上の撮影では 600μs〜1ms 程度の残像が予想されるため注意が必要です。
- ● 第四世代イメージインテンシファイア
- 第四世代のI.I.は、第三世代のMCPの印加電圧をパルスモードにし希望する時間分のシャッタリングを行えるものです。
- このタイプの原理・構造は、第三世代のものとほとんど同じで、違いはMCPへの印加電圧がDC(連続)かパルスモードであるかだけです。
- 1980年代よりMCP電圧をスイッチングするためのショートパルス高電圧スイッチング素子/回路が開発されて市販化されました。
- 現在では、ナノ秒のゲートパルスがかけられる高圧回路や、2MHzの高周波ゲート発振が可能な高圧パルサーが開発されています。
- 第四世代のI.I.は、CCDカメラと組み合わせシャッタカメラとして良く使われています。
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