AnfoWorld オムニバス情報1(1999.03.13更新)

目次
 
●人の評価と給料(1999.3.13)
●MacWorld Expo 99(1999.2.20)(1999.02.23追記)
●24年の歌姫 ユーミンと中島みゆき(1999.2.06)
●新Power MacintoshG3発売される(1999.01.16)(1999.01.31追記)
●文化(1998.12.30)
●フォレスト・ガンプを読む(1998.12.1)
●マイクロソフトのインターネットブラウザ(1998.11.23)
●星野道夫のこと - 星野道夫 写真展(1998.9.19)
●iMac 日本国内販売開始 - 秋葉原にて(1998.8.31)
●頭の構造IQ、EQ - 社会構造がもたらす子どもの成長(1998.8.29)
●西和彦氏 - 同時代を生きるスーパースター(1998.8.16)
●G3マックとPentium II(1998.8.03)
●Windows98のリリース(1998.8.03)
●我が敬愛するクレイ(Seymour Cray)氏のこと(スーパーコンピュータの系譜)(1998.6.20)
●G3マック MT266の消費電力は1KW!!!(1998.5.25)
●iMac 低価格、インターネット特化のマッキントッシュ登場(1998.5.7)
●マイクロチップに革命!? IBMが開発した1100MHzのPowerPC!!!(1998.3.7)
●MacWorld Expo Tokyo(1998.2.22)
●ビックブルーIBM(1998.2.11)
●Windowsのブラウザ画面で見てしまった私のホームページ(1998.2.6)
●G3に触れる(1998.1.11)
●Macなともだち(1997.12.21)
●ネットスケープとインターネットイクスプローラ(1997.12.21)
●Windowsの世界(1997.12.21)
●インターネットの功罪(1997.12.21)
●ビル・ゲイツ(1997.12.21)
 

●人の評価と給料(1999.3.13)

【給料の査定】
 例年4月になると、一般の会社では、給料の話題が喧しく(かまびすしく)なる。昇給が、その人の能力や人格を評価する大きな度合いとなるため、社員の昇給に対する関心は尋常ではない。
 一般的に言うと、日本経済は芳しくないため、年々、支給率がか細くなり、ほとんどの人が数千円から10,000円程度の昇給となってる。
 給料の査定権を持つ、課長以上の役職者は、この金額の間で各個人の能力の格差をつけるわけだから、部下に納得させる査定を行わせるのは至難の業だ。査定された個々の能力が1,000円程度の開きしかないというのは寂しい限りである。
どんなに頑張っている人でも、「5時までオトコ」の従業員に比べて1,000円引だけの格差では一生懸命働く力が沸いてこなくなってしまう。
 
 近年の日本経済は、物価がどんどん下がって、製品も軒並み安くなってきており、- これをインフレーションの反対のデフレーションというのだが - 、給料が上がらないのも致し方ないのかと受け止めざるを得ない。今は、ほとんどの会社が仕事がないから、仕事があるだけでも感謝しなければならない時なのかも知れない。
 プロ野球選手の年棒とか証券マン、銀行マンの給料が良いとマスコミが喧伝し、我々はそういう報道を見てやるせない思いに駆られるのであるが、やはりそれは一部の会社であって、ほとんどの会社がバラ色の支給をしているのではないということが最近わかってきた。
 上には上があり、下にも下がある。一般社員の給料の不満の鉾先は、大抵他の会社に勤めている友人などのちょっと条件の良い例を聞きかじり、憤満の気炎をブハーッと、酒の席上で上司や会社友人に吹き上げるのが通例である。
 週末の夜の帰宅電車は、一杯ひっかけたサラリーマンが吊革につかまり、会社の体制や、上司との折り合い、部下の不満で気炎を上げる風景をよく見かける。
そんな情景を、昔の私は(20歳の頃の若い時は)、なんて弱い人間だろうと軽蔑していたが、今同じような年になると、痛々しい感情が沸いてくる。おとうさんがんばってるんだなという・・・。
 グダを巻いて(正確には:管を巻いて)それで心の平静が保てるならば、自分も皆の吐き出すそうした汚物を片づけてあげようかなと思ったりもする。心の中の毒物や汚物を体外に排出する行為を心理学用語で「カタルシス」と言う。これは非常に重要な行為で、強気と弱気の精神の綱渡りをしている中、精神を安定させるには汚物を排出させなければならない。体でも汚物を排泄し新しい食物を取り入れるわけであるから当然と言えば当然の行為である。
 
【人の評価】
 人が人を評価するのは、難しいものである。100%評価するのは無理な話。時代々々に要求される能力が変わるであろうし。
 例えば会社を興す時期にはインテリゲンチャより体を張って働いてくれる社員が欲しいが、ある程度会社が安定すると会社間でお付き合いができるインテリ(有名大学卒)が欲しくなる。
 東京大学卒の人間が入社する会社は、それだけで会社のステータスとなる。大学を受験したことがある人なら東京大学受験がいかに難しいかわかろうというものだ。誰でも努力すれば入れるものではない。それでもプロ野球に入るより東大合格の方がはるかに簡単だ。プロ野球は毎年80名弱しか入れない。東京大学は8,000人入学できる。これだけでもプロ野球は選りすぐられた超エリート集団であることがわかる。
 話がずれた。
 会社が安定すると頭のいいヤツが重用されるのは、今も昔もかわりない。豊臣時代も基礎を築き上げたのは、加藤清正、福島正則といった武闘派(彼らは字の読み書きができなかった)だったし、豊臣が天下をとると文筆に明るい石田三成の文人派が重用されるようになった。徳川時代も戦をやっていた時代は、榊原康政、本田平八郎忠勝、安藤直次(紀州家に後見人=家老として赴任)らが活躍するが、政権奪取後は、文人派の本多正信、正純親子、僧天海などの知謀知略家が悪知恵の限りをつくして政権安泰のために東奔西走した。傾向として、武闘派武士の方が潔く、文人派武の方が小賢しい一面がある。
 
 話がまた、ずれた。
 人の評価である。
これは、完全に査定する側に権利がある。相性の良い上司に巡り会えた部下は幸せである。仕事がしやすいし失敗も大目に見てくれる。我が儘も言える。査定も良い。でも現実はそんなうまい具合に上司に巡り会えるとは限らない。
 5年ほど前に、堀田力氏の「おごるな上司」という本を買い求めて読んだ。当時ちょっとしたベストセラーになった本で記憶されている方も多いと思う。堀田力氏は京都大学法学部を卒業して東京地方検察庁の検事としてロッキード裁判に凄腕をふるった人である。
 この本は、耳の痛いことばかり書いてある。合点することも多く、早速取り入れようと思ってもなかなか実行に移せなくてはがゆい思いもしている。禁酒、禁煙が断行できない人の気持ちがよくわかる。人間なんて弱いものである。ベストセラーになるくらいのたくさんの人がこの本を読んでいるのに、会社が一向に良くならないのは禁酒・禁煙ができない人たちの集まりだからかなぁと斜に構えてしまう。
 この本の中で、人の評価に対して面白いコメントがあったので紹介する。
堀田氏は、自己の評価を2割増し評価と規定している。
 「亡くなられた伊藤栄樹元検事総長は、「人は己の能力を2割がた高く評価している」と言われましたが、私の経験からしてもそのとおりで、人事権者と受け取る側の評価の落差は、ほぼ2割くらい。このギャップが人事異動のときに不満となって出てくるのです。」
 「最近は評価を自己申告制にしたり、部下が上司を評定したり、様々な試みがなされるようになりましたが、ひと昔前は勤務評定については完全な秘密主義で、上司が自分にどんな評価をしたかがわからず、人事異動の結果で推し量るしかありませんでした。
 ところが、たまたま私は人事課長になり、秘密資料を見ることができるようになった。そこで私自身の過去の記録を見てみたところ、自分が思っていたよりも平均して2割がた低く評価されていたことに気づいたのでした。」
 「人は、他人の能力に対しても、自分の長所を基準にして評価をしがちです。自分を2割がた高く評価している分が、他人に対する評価にもあらわれてくるのです。
 たとえば、自分は判断が早く、決裁も延ばさず、仕事をスピーディに進めることができるという点に自信を持った中間管理職がいたとしましょう。彼は自分の部下に対しても果敢な即断力を要求し、そうした特徴を持った部下をより高く評価するに違いありません。
 一方、ものごとを慎重に考え、決断を急がない部下に対しては、判断力の鈍い、決断力に欠けた者として、低い評価を下す。その部下自身が、様々な角度から問題を思慮深くとらえ、慎重に対処することを自分の長所だと考えていても、即断力の上司からは低い評価しか受けられないことが多いようです。
 ところが、人事異動でその部署に今度は慎重型の上司がきたとすると、同じ部下でも、一転して慎重型の人が高い評価を受けるようになる。そして即断型の部下は、おっちょこちょいだの、軽挙妄動などと、マイナスの評価を受けるようになるでしょう。」
 
【会社の給与支払いの現実】
 会社は、自らの労働で、従業員に給与を支払わなければならない。500人の従業員の会社で平均給与が35万円とすると、月々の従業員の支払いは、1億7500万円になる。
これを1年間、ボーナスを含め、約18ヶ月の支払いをすると、約31億5000万円かかる。この給与を支払うため、事業所は、少なくとも5倍から10倍以上の年商(300億円以上)を商う必要がある。この給与を確保するため、会社は血道を上げて競争力のある体質作りをすることになる。
 競争力のある体質とは、価値のある商品の開発できる組織であったり、有用な人材の確保であったり、財力の確保であったりする。
 
 従来、給与算出方式は、基本給に仕事の能力を反映するやりかたであったが、こうすると経営上不具合が出るため、基本給は低く抑えて、能力に応じて、能力給、職務手当、ボーナスを支給しようというやり方を大手企業が採用している。
 例えば、定年退職後、国や社会保障機構から払われる年金とは別に、会社自体が長年勤続した従業員に対して、退職後、退職金とは別に一定期間年金のようなものを支払う制度がある。この制度では、支払金額の査定に、勤続年数と基本給が効いてくる。
もらう方にしてみれば、もらう給料は多ければ多いほど良いのだが、それを支払う金額は、会社に残された者が働いてお金を作り、そしてその人たちに支払うというものである。これは、会社が潰れてしまえば当然支払われない。
 こうした年金は、国の年金制度と同様大きな問題となっている。年金の支払いが、入金額より超過してパンク寸前になっていることはマスコミなどでご承知の通りであるが、10年後、20年後には働く若者が確実に減って、我々が受給する年金がストップになる可能性が十分に考えらる。
 
 会社全体で儲かった年には、その製品に直接関わっていなかった人にもボーナスや一時金が支払われる。しかし、全体の業績が悪いと、たとえ、好調に売り上げている部門でも相応の見返りが難しく、彼らのボーナスなどに反映されないという不公平感が出てくる。だからこれを改めるために、厳密に査定しよういう考えもあるが、境界をどうするかというような各論で難しいせめぎ合いがもたれている。
 
【現在の経営者たちは昔、学生運動の急先鋒】
 労働組合の弊害について少し述べてみたい。
日本の労働組合は1960年安保に青春時代を送った若者に大きな発展を見、そして1970年安保を乗り越えた、当時の若者たちが急先鋒となって組織作りを行った。今の年齢でいくと、50歳から60歳の人々である。こうした人々は、搾取と呼ばれる言葉に敏感で、団結という言葉に身を震わせて青春時代を送った。
 我々40歳代は、こうした兄貴達に日和見としてこづかれ、親たちからは、「兄貴たちのようにアカになったら勘当だ!!」とどやされて育った。兄貴達が、ヘルメットを被って集会行動に集まり、火炎瓶を投げつけて体制に立ち向かっている姿を見るにつけ、どうしたらよいのか、悲しい気持ちになった記憶がある。
そんなモラトリアムな三無主義の典型と言われた1950年代組ももうfourties(40歳代)のおやじである。
 
 こうした学生運動をとりまく青春の葛藤は、三田誠広や、柴田翔、庄司薫、村上龍などの芥川賞作家が、その受賞作品にきっちり書いている。三田誠広は「僕って何」という作品の中で学生運動のあり方をコミカルに批判していた(学生運動は腹が減った。パンも食えない、そして与えられないデモ参加なんて改革じゃない)。柴田翔は、「されど我らが日々」の中で自己を見つめすぎ極限まで自分を追いつめる。庄司薫は暗い世相の中、「赤ずきんちゃん気をつけて」で飛び抜けて明るい登場人物を登場させた。村上龍は「限りなく透明に近いブルー」で退廃した青春像を描き出した。
 
【労働組合の崩壊】
 会社員の多くはもはや、労働組合に期待を寄せなくなった。
思想では評価できるものの、実際の政策ではことごとく失敗した。
1989年11月のベルリンの壁の崩壊がその象徴となった。
マルクスは、資本階級が暗躍すると労働階級が搾取されて劣悪な労働条件を強いられると主張した。たしかに資本主義の初期はその傾向がたぶんにあり、米国の奴隷や、英国の植民地政策、日本の富岡の製糸工場、小林多喜二の「蟹工船」などに見られる通り、マルクスの主張を如実に教えてくれるものであった。
しかし、現実は、資本階級に搾取される資本主義国家の方が全体的レベルが向上した。逆に労働者の社会や国は、決して豊かにはならなかった。これは歴史が証明している。
 
 労働組合が失敗した問題点は2つある。
一つは、指導者階級が官僚化したこと
もう一つは、労働者たちの労働意欲が低下したことである。
 
 過日、関連会社の社長と大阪に車で出向く仕事があり、車中でたまたまN自動車の労働組合の話になった。N自動車の凋落ぶりはごぞんじの通りで、その主因の一つに労働組合があまりに強かったことは有名な話。
 その社長は昔、知り合いにN自動車の幹部組合員がいて、大学時代(1970年代)選挙運動に借り出されたという。労働組合幹部達が、昼間から酒を飲み、豪奢に昼飯を食っている(高級料亭に繰り出した)のを横目で見ながら、労働組合の落日を察知したという。
 ことほど左様に、労働組合幹部のモラルが低下してしまった。労働者の組合なんだから絶対そんなことをしてはいけない。共産主義は宗教であるから、貧しい人たちの救われたいとするエネルギーで成り立っている。そうした宗教の教祖が民衆の意に反することをしていはいけないのだ。誰もがわかることなのにできない。ソビエトでも共産党員は随分豊かな暮らしをしていたと言う。北朝鮮では、共産党員に加え「成分(せいぶん)」(出自:家柄、学歴)と賄賂(わいろ)で生活レベルが規定されていると言われている。日本人を親戚にもつ北朝鮮の人たちは成分が悪いと言われ、どれだけ優秀で努力しても組織の幹部には絶対なれないという。
 
 共産主義国にかぎらず労働組合が強かった旧国鉄の仕事ぶりを見ても、労働意欲の低下の根本的原因がどこからくるかわかろうというものだ。つまり「社会主義的”平等”」が問題なわけだ。働いても、働かなくても賃金が同じなのだ。そして事なかれ主義。成功の報酬はわずかで、ライバルの失敗の数を血眼になって探して引きずり降ろす。山崎豊子が「大地の子」で文革(文化大革命)の悲惨さを書いているがあれこそが共産主義の代表的事例だと思っている。
 1984年12月、仕事で10日ほど中国の北京に出張した。米中の国交が樹立して十余年が経ったとはいえ厳然と共産主義を掲げていた中国は、良くも悪くも共産主義の面影を随所に見せていた。おもしろい光景として、中国の人々は昼時の30分も前になると昼飯を食うために食器を用意しそわそわと仕事をしていたことを思い出す。食べ遅れるとろくな物がなくなってしまうので1日の内の一番大切なことを今か今かとまっているのである。
仕事そっちのけで。
だから、我々が11時30分ごろ仕事を頼みに出向こうものなら大変。まったく取り合ってくれず、「午後出直せ」とつっけんどんに断られる。私は、これを北京セミナーで使用した機器を日本に送り返すため、申請手続きのために出向いた役所でこの光景に出くわした。
 そういえば、北京空港の通関もすさまじいものがあった。通関の役人がふんぞり返って通関の業務をしていた。自分の非は認めず相手の非ばかりあげつらう。化粧っけの無い女性担当官が、ヒステリックに老人や若い娘に書類の不備をなじる姿は見ていて気持ちのいいものではなかった。その役人の机の下には昼飯用のアルマイト食器と箸がしっかりとしまわれていたことだろう。
 
 自由主義的平等は、違う。
働きに応じて報酬が受けられるというのが自由主義の平等である。みんな豊になりたいから一生懸命働く。働いた分だけ報酬がもらえる。そうして社会全体が豊になっていった。
 
 話はちょっとそれるが、韓国人は、米国でほんとによく働くそうである。ニューヨークの果物屋は韓国人が経営しているお店が多く、韓国人のお店のリンゴはピカピカに磨かれている。中南米から移民してきた人達のお店のリンゴは磨かれていない。自然、韓国人のお店が繁盛する。米国に移民した民族の内で韓国人は集団で、しかも大金を持って移民してきた民族だそうである。ドイツ人もイタリア人も最初のマイナーな移民は身一つで移住してきたが、韓国人は組織的に移住してきた。
これは、アメリカ史上希有なことである。
そしてロスアンゼルスなどに民族ごとすみついて生活を始め、他のひとたち(エスニック系民族)の仕事(果物屋とかクリーニングとか)を根こそぎ奪っていった。だから韓国人は米国ではあまり人気がない。1992年だったかロスアンゼルスで黒人の韓国人街への暴動事件があったが、今述べたようなことが伏線になったようである。
 
話がまたそれた。
 
今述べた共産主義国家に内在した二つの問題点は、共産主義に限らず、会社運営でも当てはまる。
やる気のある職場。これは永遠のテーマである。
 
自由主義社会は、競争原理で成り立っている。共産主義では否定された原理である。いや弁証法としては競争原理があるが、実際の社会体系の“社会的平等”の中では埋没した。
競争があれば、負けがある。負けがあれば職を失われる。
失われれば明日がない。
 
【今後の我々の生き方】
 生き残り、これが今の全世界の共通の関心事である。
生き残るためにどうするか。働く意欲をどのように活性化させるか。
会社にとって人材は命、幹部だけでとても運営できるものではない。
人の体と同じように強固な人体があって始めて健全な生活が営める。
 
 私は会社の経営者ではないので、使われる者としての考えを述べる。ただ、使われるためには使う側の考えも考慮に入れなければならないので敢えて経営者のような見方をする。
 
 前提は、1年間に支払える給与は500名に対して30億なにがしと決まっていて、財源は有限であることである。それもみんなの助けがあって達成できる額である。
 この金額を有効に使って社員のやる気を起こしたい。そして投資した富を再び膨らませて会社に引き寄せたい。
どれに(どの社員に)投資するか。なにやら競馬の馬券を買うようである。はたまた、株に投資するようなものだ。
 話はそれにそれ続けるが、マイクロソフトのビル・ゲイツは、こうした株の分散投資が抜群にうまいそうだ。大穴を当てる投資は決してしない。しかしけっして損はしない。彼がハーバート大学で大学仲間とポーカーをやって資金を調達したやり方を、マイクロソフトでやり、はたまた、マイクロソフトで設けた金を株に投資している。
 
 話を戻して、会社の社員に対する投資。
ここ数年、多くの企業で従来の終身雇用、年功序列による働く意識低下からの脱却を計っていろいろな試みがなされている。
●自己申告:自己申告によって給料を査定する方法。これによって働く意識を高め、生産性を上げる。
従来は、課長とか部長というポストを社員に与えて、それによって意欲を掻き立てていたが、ピラミッド社会でなくなり、職制上頭でっかちになり(役職者が多くなり)価値がなくなった。
●年棒制:1年間の年棒を取り決める方法。これで経営者は計画的な経営ができる。
●抜擢:従来の年功序列からの脱却。会社は未来永劫永遠に不滅では亡くなったので旧式の体制では生き残れない。生命力に満ちた人材を渇望している。
など、など。
 
話を逆転して使われる側。
 使われる立場から生き残りをかけるのは比較的簡単だ。会社に貢献できるだけの能力を備えることがまず大切。そしてできうれば、会社に忠誠をつくしてまじめに勤め上げる人間が求められる。だが、それじゃぁまるでコンピュータと同じになってしまう。コンピュータと違うところ。つまり、人間だから、人間どうしのつながりが大切となる。
 
 指導者になるには、天才よりも凡人、健康な人よりも病気をしたひとの方が良いと堀田力氏は言う。健康な人は、病気になったときの苦労を知らないから苦しみを理解できないと。天才は、なんでもぱっぱとできちゃうから、凡人が苦しんでいる仕事内容を理解できないと。それは一理ある。しかし、凡人が指導者になると、それはそれで苦労する。部下がその上司を一目おかないからである。
 プロ野球をよく引き合いに出して恐縮するが、天才肌の長島監督と、努力肌の仰木監督。長島さんには人を惹き付ける力がある。仰木さんには人を活用する力がある。でも現役時代の実績がない。そういう人を現役の選手(たとえば清原とか落合とかいった一流の選手)が一目置くかは疑問の残るところであり、それに配慮する監督の心中たるや察して余りある。
 会社でも、何も実績が無い人がリーダになったりすると、かならず赤ちょうちんで酒の肴になってしまう。
 
長い話になったが、
結論としては、人間関係を保てるインターフェースを持った、能力(英語力、電気、機械、工学、マーケティング、帳簿)を持続的に向上できる人が今後求められていく会社員のような気がする。
そうした中で、現場の状況を把握できる人がリーダになって行くんではないかと思う。
日本の社会では突出した給料はもらえない、というのが今現在の私の結論でもある。
 
 
●MacWorld Expo 99(1999.2.20)(1999.2.23 追記)
 2月19日(金曜日)幕張メッセで開かれている「MacWorld Expo99」に参加した。「Think Different」という標語を昨年より掲げて他のコンピュータ会社と差別化を図ってきたアップル社。iMacとG3Macの成功で今年も無事に単独のMacWorldを開くことができた。昨年のMacWorldは、G3を全面に出した展開だったが、今年は、
  性能プラス価格それにファッション性
という一面を付け加えた。
パソコンのシェアも10%に回復し、Macの位置づけもしっかりしてきた感じを受けた。
アップル単独のための展示会、Mac宗教の1年に一度のお祭り。会場もアップルの本堂の周りを、強力なソフトメーカ(ファイルメーカ社、マイクロソフト社、Adobe社、A&A社)、周辺機器メーカ(Yano、松下、Epson、Sony、Fuji)らが取り囲む布陣となった。
 

 今回の私の参加は、休日ではなく、平日だった。休日は、別件でコンピュータの立ち上げが予定されていたためである。

平日にも関わらず人出はまずまずで各展示ブースのショータイムには毎回立見が出ていた。
  (2月23日記:3日間の総入場者数は、175,797人で、昨年の171,749人を上回った。
    [http://www.zdnet.co.jp/macweek/]
   1日減って入場者数が増えたのだから混んでるはずだ。ちなみに昨年のコメントは、
   4日間の総入場者数は、171,749人で、昨年の183,214人を若干下回った。
   Macweek1998年2月22日の報告による
   http://www.zdnet.co.jp/macweek/9802/expo/n_next.html)
 

 ファイルメーカ社やApple社など興味あるブースは一日中講演を聴いていても飽きない。プレゼンテーションの仕方、コンピュータの使い方、プロジェクターの使い方、どれをとっても洗練されている。

 おもしろい傾向として、自動車ショーなどに見られる、みめ麗しい女性がお色気を振りまいて技術説明を行う趣向とは反対に、MacWorldでは若い男性の颯爽とした講演が目立った。もちろん彼らは背広姿ではなく、会社のロゴの入ったトレーナ姿を着たラフな出で立ちである。これがスティーブ・ジョブズを始め、アメリカ西海岸で生まれたパソコン文化の文化人たちが粋(いき)に感じる姿なのだ。このスタンスは、イギリスでもフランスでもましてやドイツや日本では芽生えないものだ。もちろんアメリカの東海岸でも希薄である。
 展示会で女性が説明を行う場合、失礼な言い方だが、鵜呑みの説明が多く、聞いているこちらが浮き足立ってしまう。しかし、今回のプレゼン(presentation)は、ホントによくわかった人が親切に堂々と話すため安心して聞いていられたし、技術的に深いのでとても惹き付けられた。
 特にアップルのメインステージの講演者は自信たっぷりに説明をしていた。
 なにやら、スティーブ・ジョブズを意識したような講演だった。だが、アップルは今年何をするかということを堂々と我々信者に語ってくれた。
 

 朝日新聞(199年2月19日)の朝刊にも、カリスマ スティーブ・ジョブズを中心としたアップル軍団の戦略の慧眼に賛美を送っている。

アップル復活祭――“救世主”ジョブズ氏に喝さい
 マックワールド・エキスポ東京99 
 千葉市の幕張メッセで 一部半透明の新鮮なデザインのパソコン「アイマック」が爆発的な人気を呼び、復活を果たした米アップルコンピュータ社の展示会「マックワールド・エキスポ東京99」が18日、千葉市の幕張メッセで開幕。復活の立役者であるスティーブ・ジョブズ暫定CEO(最高経営責任者)が講演し、マックファンから喝さいを浴びた。
 ジョブズ氏は1977年にアップル社を創業。自分が連れてきた最高経営責任者と意見が合わず、85年に経営から退いた。ところが96年末、当時経営していた別のコンピューター会社がアップル社に買収され、アップル社の経営に復帰。処理速度が速い超小型演算処理装置(MPU)を開発。アイマックを発売するなどして、赤字続きだったアップル社を98年9月期決算で黒字化した。カリスマ的な魅力のある同氏を一目見ようと、講演会場には約6500人の聴衆がつめかけた。
 同氏はノータイにジーンズというトレードマークの服装で壇上に姿を現し、「アイマックは発売から4カ月半の間に世界で80万台売れた。15秒に1台売れている勘定で、今や日米でナンバーワンのパソコンだ」と胸を張った。
 また、記者会見し、「業界は(性能を重視して)何メガヘルツや何メガバイトといった言葉でマーケティングをしているが、私たちに寄せられた消費者からの質問の中で最も多いのは、自分の好きな色のパソコンを作ってくれないかというもの。アイマックはそうした消費者のニーズにこたえた」と人気の秘密を語った。
 
 今回のイベントに先立ち、我々仲間内では、このExpoにスティーブ・ジョブズが何かおみやげを持ってくるに違いない、といった憶測が乱れ飛んでいただけに、出展内容に目新しいものがなく半ばがっかりした。事前には、小型高性能のG3PowerBookがアナウンスされるだろうと喧伝されていただけに残念だった。
だが、今年もアップルは盛りだくさんの企画と戦略で我々を楽しませてくれることは間違いない。その主なものは
・プレーステーション用のゲームが動くソフトウェアの販売
  → 現在米国のConnectics社がソニーエンターテイメント社から訴えられているので、このイベント会場では静かだった。
・Mac OSXの開発
  → 昨年から、喧しく(かまびすしく)アナウンスされているOS。苦難を乗り越えて今年中には市販されるだろうか?
・G4 Macintosh の開発
  → G3Macintoshを出して次は、G4。私はいったいいつ新しいマシンを買えばよいのやら。
・新型G3PowerBookの販売
  → これを待ち望んでいるマックファンは多い。今のPowerbookは重い。私は今でも非力なPowerBook Duo2300cを使っている。
・Open GLの具体化
  → QuickDrawは業界標準とならなかった。openGLを選択したのも時代の流れか。
・AppleShare IP6.1 Applenetworkの進化
  → MacOS8.5でネットワークがかなり進化した。AppleShareはかなりすっきりとし、一発で希望するネットワークに接続できるようになった。
 
【iMacサマサマ】
 今回の展示会の柱の一つがiMac。パソコンの歴史の中で、歴史的大成功を納めたといっても過言ではない。性能やコストもさることながらデザインが大受けに受けた。このファッションとしてのパソコンのあり方に着眼して起死回生のクリーンヒットを放ったアップル社の経営陣の胆力に脱帽したい。
 アップルのメインブースにはそのiMacをずらりとならべ、訪れる客にどんどん触らせていた。この会場でも若い女性客層が多いのに驚いた。こう言っては何だが、あまりコンピュータには詳しくなさそうな客層がかなりこの展示会に押し掛け、MacWorldの祭典を盛り上げている感じを受けた。
 そういう時代に入ってきたのだ。しかめ面して無機質なマシンを動作する感覚ではなく、室内のオブジェとしての位置づけと、そしてしっかり機能を満足させるコンピュータ。それが今のところiMacであるのだ。
 自動車が、オートマチックトランスミッションの導入によって使いやすくなり、エンジンもほとんどメンテナンスフリーとなって女性の市民権を得たように、コンピュータもiMacの登場により、使いやすいファッション性を兼ね備えて生活にとけ込んだコンピュータとなった。iMacは、その提案を他に先駆けて行ったと言ってよい。

【1.3GB容量のMO - Yanoから】

 MO(光磁気ディスク)も1.3GBになった。ライバルJazと熾烈な競争を展開しそうである。CD-ROMの2枚分の容量というのもすごい。大容量なので読み書きが遅いと思いきやさにあらず。読み込みで230MB容量のMOの2.5倍の速度(4.5MB/秒)、書き込みで1.6倍のスピード(1.5MB/秒)を持つ。インターフェースはSCSI-2(Fast SCSI)。2MBのディスクキャッシュを搭載している。価格は\108,000。メディアは\3,000〜\4,000。FireWireやUSBでの接続モデルはなかった。
 

【DVD-RAM - 松下から】

 この製品を見ることを忘れてしまったのだが、松下が他社に先駆けて、DVD(Digital Video Disk)メディア(5.2GB)を使った読み書きができる装置を出展した。ドライバー装置は\100,000。メディアは1枚\4,000。これもすごい記録媒体だ。
 
【クロスプラットフォーム】
 ビジネスではDOS/Vマシンのシェアが高い。個人ユースでは逆にMacの人気が高い。だが今後、iMacの人気とiMacのネットワーク構築の容易さが受けて、ビジネスでもiMacを設備しようという動きが出ている。
DOS/Vの世界、Windowsマシンで活躍しているアプリケーションソフトは、実はマッキントッシュから育っていったものが多い。マイクロソフトのExcelは、マッキントッシュから始まった。Wordもそうだ。Adobeの画像ソフト(フォトショップ、イラストレータ)に至ってはマックを広告業界の標準機にまでさせたソフトウェアだった。Windowsの発展とともに、マックで培われたソフト開発会社の比重がWindowsに移っていく。ソフトをWindows用とマック用の2つ別々に開発するなどとても非効率であるからだ。自然売れるWindowsマシンに力が注がれる。一昨年まではこうして主要なソフトウェアメーカがWindowsへ鞍替えしていった。
 しかし、G3マックの成功、iMacの成功、マイクロソフトの資本参加とアプリケーションソフト(Office98)の開発によって再びマックにも光が射し始めた。アプリケーションソフトを開発するスタッフが戻ってきたのだ。
 クロスプラットフォーム(Windowsでもマックでも動作する)ソフトウェアが急速に進展している。
アップルでは、PCIバス規格やUSB通信規格、RAGE画像表示などDOS/Vマシンの後塵を拝してきた技術を積極的に取り入れ、iMac、G3Macで整備によってDOS/Vマシンと遜色がなくなってきた。また、モニタの画像を表示する方式では、独自のQuickDraw方式を採用し続けてきたけれど、今の主流であるOpenGLのライセンスを取得してシリコングラフィックスなどのコンピュータとデータの互換性が保てる環境も整備されつつある。また、USB、FireWire、100BASEイーサネットなど最新のインターフェースも標準装備した。データの互換性やアプリケーションの互換性に関してもかなりのレベルまで達してきたと言ってよい。
 これにネットワークにつなげてデータを共有する環境が整いつつある。DOS/VのフロッピーもMOも読めるようになった。DOS/Vと通信できるようにもなった。
 
 Windowsと Macintosh を接続するソフトウェアに、Miramar Systems社から出されている「PC MACLAN for Windows 98/95」(\36,000)がある。このソフトウェアをインストールするとイーサネット経由で相手のパソコンを認識できるようになりデータの通信が可能となる。
 Windowsと Macintosh フォーマットのメディアを相互に読み書きするには、Software Architects社の「Mac Mounter98」(\9,800)、「DOS Mounter 98」(\12,800)がある。Windowsには「Mac Mounter98」をインストールし、マックには、「DOS Mounter 98」をインストールする。これで1.44MBのフロッピーディスクはもちろん、MO、Zip、Jaz、SyQuest、Bernouli、PD、CD-ROM、ハードディスクが読めるようになる。
 データの圧縮・解凍用ソフトにはAladdin社が開発した「StuffIt Expander5.0」(\14,800)が極めつけだ。Windowsでよく使われるzip形式の圧縮を解凍することはもちろん、自社のStuffIt形式(.sit)、compactPro方式、bin形式、LHa形式、BASE64形式など様々なデータを解凍してくれる。
 インターネットを介して相互のコンピュータをリモートでアクセス、データの更新ができるソフトウェアがNetpia社の開発している「Timbuktu Pro」だ。ティンブクツと読む。おかしな名前だがアフリカの砂漠にある地名だそうだ。地の果てまでリモートコントロールが可能という意味なのだろう。
 
 上の写真は漫画家のモンキーパンチ氏と、しが・きみえ氏。dit社のブース講演をされた際に撮影したもの。漫画家にはマックを使用している人が多い。漫画家は、マウスは使わないのだそうだ。もっぱらワコムなどのタブレットペンを愛用しているのだそうだ。モンキーパンチ氏はルパン三世などの劇画をマックで仕上げるのにだいたい2日間で終えるという。A3のコンピュータ用紙に描いて、JPEG圧縮で編集部にメールで送るのだそうだ。印刷はA4に縮小されるのだが十分な品質だという。マックのおかげでここ2年ぐらいは編集部の人と顔を会わせたことがないと言っていた。
 

【データベースの統一】

 アップルのソフトウェア部門であった子会社クラリスの一部門が独立してファイルメーカ社となったのは昨年。ユニークなカード型データベースソフト「ファイルメーカPro」の成功によってさらに洗練された統合的なネットワークのデータベース環境を提供しようと意欲的である。
 ビジネス業界では、企業が蓄えたデータを如何に効率よく集約するかが大きな課題になっている。メインフレーム(IBMのような大型計算機)を使用している大手企業では基幹データベースといって「ORACLE」、「SYBASE」を使用しているところが多い。この下に位置するのがWindowsNTをベースにしたネットワークデータベースで、「4D = 4th Dimension」、「Access」、「SQL Server」、「Excel97」などが使われている。
こうしたデータベースを共通の資産としようと提案するるのがTCO = Total Cost of Ownershipと呼ばれるものでファイルメーカーはこれを目指している。またビジネスネットワークで使われているODBC = Open DataBase Connectivity(マイクロソフトが提唱しているAccessなどに使われるデータのインタフェース)対応も目指している。
 インターネットという言葉と、社内(限られたコミュニティ)を電子ネットワークで結ぶイントラネットという言葉が出たと思ったら、インターネットを通じて社外と常時コミュニケーションをとるイクストラネット(Extranet)という言葉が出てきた。これはおもしろかった。
 データベースも最終的には統合的にまとめられるのだろう。現在、パーソナルコンピュータレベルでのデータ管理は、ファイルメーカプロとマイクロソフトのAccess、Excel、それにロータス1-2-3である。ロータスは、残念ながら Macintosh とは全く関係ない世界である。これらが使いやすくなって他のデータと協調性が出るものが次代を生き残っていけるものと考える。私個人は、ファイルメーカをかなりの比率で使用しWindows環境の元でもかなり重宝して使っている。
 
【AOLの戦略】
AOL(America On Line)という米国インターネットプロバイダ会社の出展が目を引いた。左の写真はそのブース。会場に10台程度のiMacを置き、訪れたお客様に自由に電子メールを楽しめるような工夫をしていた。
 折からの映画「You've got M@il」(主演:トム・ハンクス、メグ・ライアン)のコマーシャル権を得ているのか、この映画を展示ブースに大々的に取り上げて日本でのプロバイダ獲得に非常に意欲的なところを見せた。
 AOL社は日本では、まだなじみが薄いかもしれないが、米国では最大規模の会員数を誇るインターネットプロバイダ会社だ。最近インターネットブラウザソフト会社の老舗「Netscape Communications」社を買収して反マイクロソフト陣営の急先鋒になったのは有名なところである。AOLは現在1500万人の会員。これは世界最大なのだそうだ。登録が非常に簡単で、なおかつ最初の100時間は通信が無料。iMacにもすでにバンドルされているのだそうで、おきまりのコースに従って設定をすれば、iMacは購入後速やかにインターネットができるらしい。私の知り合いでiMacを買った女性は、我々がいろいろな助言をし、おきまりの立ち上げをしなかったので立ち上げに結構時間を食ってしまった。
 今回はNIftyServeの出展がなかった。NTTのOCNも出展がなかった。プロバイダ会社の出展がない中、AOLの出展は目を引いた。最近のAOLは、魅力的な戦略もあってか、日本での加入者が激増しており、問い合わせが難しくなっているというのを人づてに聞いた。

【デジタルカメラ戦争】

Casioが先鞭を付けたパーソナルユースのデジタルカメラ。この市場も戦国時代に突入している。Casioやオリンパス、ミノルタ、Kodakらの出展がない中、SonyとFujiフィルムの2社が盛大にデジカメ市場の覇権をねらって火花を散らしていた。Fujiは爆発的人気を呼んだ100万画素のFinePixを進化させた230万画素のデジカメ(FinePix2700、\94,800)を主軸に、他種類のデジカメを出展していた。
 Sonyは、フロッピーにそのまま画像が記録できるデジタルマビカの無料貸し出しサービスを行って、これを借り受けるお客の長い行列ができていた(右写真)。貸し出して撮影したフロッピーはそのまま持って帰ることができ、一般のブラウザソフト(Netscape Communicator、Internet Explorer)で見ることができる。デジタルマビカ(MVC-FD81)は\99,800で85万画素のプログレッシブCCDを採用。VGAモード(640x480画素)で25枚〜40枚の画像をフロッピーにを記録できる。XGAサイズでは10〜16枚。インフォリチウムというバッテリの開発で、使用時間も格段に向上し連続撮影2時間ができるようになった。私のもっている3年前にかったSonyの35万画素のデジカメDSCのバッテリーは30分しかもたないのだ。その昔一斉を風靡したDSCも進化し、211万画素になった(DSC-F55K)。価格は\115,000。カールツァィスレンズを使用して、効率の良い反射光も取り入れた液晶パネルの採用で、バッテリ使用時間も伸び、1,000枚の撮影が可能になった。

 

 

 

●24年の歌姫 ユーミンと中島みゆき(1999.2.06)

 老いも若きも、青春時代にはそれぞれ想い出に残る「歌」がある。
私の親父は、美空ひばりが好きで、彼女の歌がテレビから流れると食い入るように聞き入っていた。
 戦後の廃墟の中で美空ひばりが若者たちに与えた夢と希望は、計り知れないものがあったのだなと、子供を持つ年頃の30歳になって思った。たしかに美空の歌はツヤがあったし、歌もうまい。高校時代は、まったくそんなこと思わなかったのだが・・・。
 
 ここに紹介する二人の女性ミュージシャンは、24年も前から第一線で活躍している大御所である。
ユーミンは、昨年12月、今までの集大成アルバム(但し松任谷時代からのもの)「Yuming Neue Musik」をリリースするや、瞬く間にヒットチャートトップにランキングされた。若い年代層から中年層まで幅広く支持されている。
 
 中島みゆきも20代-40代の女性を中心に根強い人気をキープしている。
一体全体、彼女たちのどこが魅力なのだろう。20年以上もトップランクに座り続けるのは容易じゃない。
 
  ひょっとすると、彼女らは一千年を生きる魔女!?
 
 私が初めてユーミンを知ったのは大学1年生の時(1973年)だった。当時、荒井由美といっていた彼女は、お世辞にもうまいとか、きれいとか言えるシンガーソングライターではなかった。が、メロディーラインがそれまでの女性シンガーソングライター(森山良子、ジョン・バエズ)らとは際だって違っていた。メロディラインがとてもおしゃれだった。ユーミン以前の一流のシンガーソングライターには、思想性が求められ、ジャンヌ・ダルクのような戦闘家でなければならず、声は高音部まで透き通るように伸びなければならず、はたまた音程は決して外してはならなかった。ジョン・バエズしかり、森山良子しかり、赤い鳥しかり、トワ・エ・モアしかり、チェリッシュしかり、ウィッシュしかり。加藤登起子さんはちょっと違うかな。
 
 しかし、ユーミンは全く違った。音程の安定しない歌、しゃがれた声、一風変わった風体。売れない頃の荒井由美は、よく深夜放送にせっせと顔を出し、若者に新作LP(塩ビの黒い30cm円盤レコード)を売り込んでいた。彼女の初期の頃の作品「ルージュの伝言」など今聞いても楽しいメロディだ。歌詞にそれほど深い意味があるわけでなく、おしゃれなメロディラインに沿って感覚的に情景をちりばめているという感じだった。服装と一緒で、彼女の作風には思想性などなくてよく、オシャレという感覚が重要であったのだろう。
 宮崎俊原作の映画「魔女の宅急便」には、ユーミンの歌が使われていたが、彼女のミュージックは、バックミュージックとしてとても乗りやすく映画に似合う音楽である。彼女のメロディラインは、それまでのメロディとは全く異なった新風を巻き起こした。
 
 私が今の会社に入社した1978年、日本の音楽界の大御所、作曲家の古賀政男氏が死去され、その人となりのコメントを求められたユーミンは、「全く関係ないヒト!」と一蹴(いっしゅう)した。他のミュージシャンは、それなりにお愛想を混ぜてコメントしていた。ユーミンのコメントを聞いた当時の営業課長A氏は、烈火の如くユーミン批判をした。当時の新人類であった私は、その集中砲火を受けながら、昭和初期と昭和中期の音楽感覚のズレを感じた。
ちなみに私は、古賀政男氏を尊敬している。「影を慕いて」、「丘を越えて」、「二人は若い」、「湯の町エレジー」の歴史的存在価値を認めている。しかしながら、私の心の支えとなったかどうかは別である。これらの歌を青春時代の歌とする諸先輩とは思い入れが違う。だから、A氏のように、烈火の如く怒るマグマが私にはなかった。
 
 八王子の呉服屋生まれの彼女は幼少期を横田基地の「アメリカ」の雰囲気の中で育ち、ピアノを通じて独特のメロディラインを形成した。彼女の歌は、彼女だけでなく、好んで別のミュージシャン(ハイファイセット、サーカス)が唱っていた。ユーミンは、松任谷正隆氏(当時、吉田拓郎などの編曲を手がけていたミュージカルコーディネータ。車も大好きなぼっちゃんぼっちゃんしたおとなしい性格の大柄な人)と結婚して、さらに音楽のセンスに磨きがかかった。メロディラインにつけるアレンジがとても洗練されていた。こういう夫婦の組み合わせはステキだと思う。
 山下達郎・竹内まりやのコンビもしかり。マンガの世界では弘兼憲史氏(早稲田大卒、松下電器産業を経て課長・島耕作で一躍人気漫画作家になった)と紫門ふみ(さいもん・ふみ、徳島県出身、お茶の水大学卒、弘兼氏のアシスタントを経て、東京ラブストーリで人気、サイモン&ガーファンクルが好きで作家名を紫門とした、ちなみに彼女は私と同じ年のハズ)の夫婦の組み合わせが成功している。弘兼氏の女性の描き方がとても色っぽくなったのは、彼女の影響である。同じ漫画家の本宮ひろし氏も、奥方が森田じゅんで、結婚を境に本宮氏のマンガの女性が生き生きとしてきた。森田じゅんさんは、私の高校時代(1970年代前半)に雑誌「りぼん」で活躍し、顔の表情とキャラクタの動かし方が巧みだった。実姉がマンガが好きで、特に森田じゅんさんのマンガが好きだったのを覚えている。
 作家の司馬遼太郎さんも、奥さんの影響が大きいらしい。産経新聞時代の職場結婚で、新聞社時代は司馬氏より奥さんの方が筆がたったと言われている。司馬さんの女性描写もとても魅力があり、奥さんの影響と信じている。
 
 話を戻して、ユーミン。彼女のステージはとてもケバくて、とても同年代とは思えないほどで、「歌が下手なのを、ステージパフォーマンスでカバーしているんだ」と思っていた。(今でもそう思っている。しかし、ユーミンは、トータル的に雰囲気がある。ドリカムの吉田嬢の方が歌は断然うまいけど、何回も聴けない。ユーミンは何回でも聴ける。)
 彼女の強みは、そうした前衛的な作風の中にも、郷愁をさそう詩風を織り交ぜていることである。「冷たい雨」、「ひこうき雲」、「卒業写真」などメロディーも流れるようにやさしく詩もホロッとくるような所があって、ティーンエージャーの心をググッと引きつけるのだろう。
 大学時代に、「海を見ていた午後」という詩を聞いて、
 --- この詩には、横浜根岸の山手の「ドルフィン」というレストランが出てくるのだが、---
 『ソーダ水の中を、貨物船が通る、』
というフレーズが妙に気に入って、
会社に入社した早々、そのドルフィンとやらに、高校時代からの友人と出かけていき、コップの水を通して日本石油のコンビナートを見た。貨物船は水の中で通らなかったし、晴れた日だったが三浦岬も見えなかった。・・・・。
 
 
 方や、中島みゆき。
彼女はずっと独身。最近はビールの宣伝や郵便葉書の宣伝に出ていたが、昔からコンサートと深夜ラジオのDJ以外、人前に出ることはなかった。シンは強いが結構シャイ(内気)なんだと思う。
北海道札幌の出身で、親父さんは産婦人科の医者。父親の仕事の関係上北海道を転々と移り住んで、高校・大学(札幌藤女子大学)を通じてフォークソンググループのサークル活動をしていた。
私が初めて彼女の存在に気づいたのは、24年前の19歳の時。当時、ヤマハが新人発掘の場として、ポプコンというグランプリを開催していて、23歳の彼女が、1975年の秋の本選会で「時代」という曲でグランプリをとり、世界歌謡祭でもグランプリをとった。その前々年は、たしか、小坂明子の「あなた」という曲。高校三年の受験の年に聴いた曲で、この「あなた」という曲も甘酸っぱい記憶がある。小坂さんはその歌一つだけで終わってしまった。同じ時代には高木麻早、八神純子、チェリッシュ、ウィッシュらがポプコンから輩出された。
 
 中島みゆきを語るときには、この「時代」という曲を外して語ることはできない。女性にしては珍しく哲学的な俯瞰、仏教的な諦観がある詩だ。当時、この詩を聞いた私は、中島みゆきに空恐ろしいものを感じた。長い黒髪を後ろで束ね、ジーンズウェアに身を包み、ギターを抱えて本選会に臨んでいた。ただ、この歌は、米国フォークシンガーのボブ・ディランの唱う「時代は変わる = The Time has changed.」に内容がとても良く似ていて、その和製パクリであると感じていた。当時の彼女の歌唱力はそれほど高くはなく、結構音を外していた。リリースされたLPの「時代」でも音がはずれていた。化粧っけのない女性で、眉が濃くて、髪の毛も黒々。アイヌの血でも混じっているのかと思ったほどである。3年ほどしてやっとパーマをかけた。メロディーもユーミンほどにあか抜けてはいなかった。しかし彼女には、日本人の心をつかむメロディラインを持っていた。
 「時代」という詩が時代と共に受け継がれ、テレビ番組のバックミュージックとしても取り上げられ、ギターのみのインスツルメンタルとしてもなかなか味のある曲となっていった。
10年前に仕事で知り合った若者とスナックで飲んだ時、18歳の青年(私は33歳)が「時代」を歌った。この時、「この歌はスタンダードナンバーになったんだな」と思った。
 中島みゆきの歌には恐ろしい魔力が秘められていて、20年前に思春期や青年期を送り、失恋や片想いに悩んだものにとってはとても思い出深い曲である。
大学4年の頃、友達同士でワイワイがやがややっていて、ふとラジオから中島みゆきの曲が流れてくると、誰も口をきかなくなり、シーンとなった記憶がある。それほどの魔力を持っていた。
その後の彼女の活躍はご存じの通り。
テレビドラマの挿入歌、湿った失恋と怨念を歌わせたら彼女の右に出るものはないであろう。彼女は感受性が強く、人間関係の少々複雑に絡んだ家庭で育ったような感じを受ける。
 
 会社に入り立ての頃、川崎市民ホールに彼女のコンサートがあって、一人でノコノコ出かけて行った。その同じ場所に、今の会社のT営業所の所長K氏(当時、大学三年生)がナケナシの金をはたいて(所長、失礼!)、同じコンサートに見に来ていたという。当時は知る由もなかったが、同世代の者が彼女に引きつけられるのがわかるエピソードである・・・。
あの時、聴いた「鳳仙花(ほうせんか)」という歌が妙に心の中に残っている。
まあ、その、つまり、私も当時、恋をして微熱が続いていた状態にあったわけである。
 「ホームにて」という歌も、それはそれは哀しい歌だ。今でも青色の電車がホームに滑り込んでくるとこの歌を思い出してしまう。
 「遍路」という歌もなかなか捨てがたい歌だ。これは路(みち)をモチーフにしている。
 イルカという女性シンガーソングライターは、伊勢正三さんからもらった「なごり雪」という曲をヒットさせてスタンダードナンバーにしたが、その「なごり雪」にも同じようなシチュエーションのフレーズがある。列車や飛行機、古くは船、そして手紙などが別れのモチーフになるようだ。
 井上揚水の初期の作品「心もよう」にも出てくるとおり、当時の私は、
  遠くで暮らすことは、二人によくない・・・
というフレーズを地でいくような生活を送っていた。
 40も過ぎるとさすがに当時の曲は重苦しく、「時代」以外は聴きたいとも思わなくなった。「時代」はそれほど枯れた歌なのだ。また青春の熱い血をたぎらすだけのエネルギーを持ったとても哲学的な歌なのである。
 
話は戻って、ユーミン。
昨年暮れ、家のカミサンが買ってくれた2枚組のCDアルバム「Yuming Neue Musik」を聴いて年末を過ごした。クリスマスには「恋人がサンタクロース」を聴いて。原田知世の笑顔を思い浮かべながら。「You don't have to worry, worry」と「守ってあげたい」を口ずさみながら。
年を食うと軽い音楽が良い。
 
 作風も、色恋のアプローチも違う二人。
方や叙景をモチーフとし、方や叙情(情念)でうったえる。
作風も、方や軽いスナック菓子のような感じで、方や古来のテンプラのような質感を持つ。
 
 10年後もこの姉御達は頑張っていることだろうか。
私もそれまで元気にがんばろう。これら姉御の10年後を見届けたいという興味があるので。
 
 ここ十数年の私は、新しい音楽とは無関係で生きてきた。が、ひょんな事から土曜日夜にフジTVで放映している吉田拓郎出演の「Love Love愛してる」を見だして、最近のミュージシャンがおぼろげにわかるようになってきた。髪の毛をおったてて髪を染め、メン玉の周りを鴇色(ときいろ)に塗りたくった、いわゆる、ビジュアル系というミュージシャンを見て(私には彼らが全部同じに見える)、これらの中で10年後に果たしてどれだけの歌が忘れられずに、また、どれだけのミュージシャンが生き残っているだろうか?と思った。TMリボルーションも、ウルフルズも20年前の「もんたよしのり」になってしまうのだろうか。ルナ・シーも30年前のグループサウンズ「オックス」と同じ運命なのだろうか。
 はやりは、流行熱のようなものだ。
年を取ると何度もそのうねりを経験して、経験する毎にそのうねりが自分の心の中で振幅の度合いが徐々に小さくなるのがわかる。
 
 
 
 

 ●新Power MacintoshG3発売される(1999.1.15)(1999.1.24追記)

 アップルから、また、新型Power MacintoshG3が発売された。
今回のマッキントッシュは、高性能のG3CPU(第三世代のPower PC)を搭載し、クロックは300MHz、350MHz、400MHzの3種類。このクロック周波数は、2倍のクロック周波数を持つPentiumIIプロセッサの性能に相当する。CPUからデータを受ける二次キャッシュメモリがPentiumと違ってコンピュータの直ぐ近くに配置されていて、そのクロック周波数が高いためである。今のところ、PentiumIIに、600MHz〜800MHzのものはないから、まさにカッ飛びCPUである。
→ 1999.1.23追記 この説明で私のパソコン師匠AY氏よりクレームがついた。「安藤さん、アップルの巧妙な宣伝文句に踊らされて事実とは違う事を述べてはなりません。最近発表されたインテル社のPentium Xeon チップはクロック450MHzを持ち、パワーPCと同じように最高2MBのサイドキャッシュを設けていて決して遅くない(プロセッサ・コアと同じクロックで動く)。アップルのあのやり方はいただけません」と、・・・。お師匠さんご指摘ありがとさん。以後気をつけます。このチップは、ワークステーションの領域を完全に見据えたチップで、コンピュータグラフィックス部門で有名なシリコン・グラフィックス社(SGI)がこのチップを4基搭載して、且つ従来よりかなり安価に設定したコンピュータを発売した。このコンピュータは、速いらしい。SGIがこの安価版コンピュータを発売した背景には、映画「TITANIC」にOpenh GLによるWindowsNTマシンがたくさん使われて、SGIの牙城を脅かしていることに起因している。
でも、現時点のDOS/Vパーソナルコンピュータでは、Photoshopなどの処理はG3のが速いんだって。(まだ、性懲りもなく逆らうかぁ、とお師匠さんから怒られそうですぅ。)
新型G3チップの配線には、電気抵抗の低い銅を使って0.22um巾の配線を施しているという。CPU自体の消費電力は4.1W。開発は、米国IBMが行った。パワーPCは、モトローラとIBMが競争のような形で競って開発をしていて共同ではないようだ。また、昨年は、G4 Power PCの開発アナウンスも米国モトローラ社で行われPower PCの性能は留まるところをしらない(http://www.land-mac.co.jp/land/service/G4/G4.html)。
 システムバスクロックも旧G3Power Macintoshの66MHzから100MHzに変更された。この部分でも50%のパワーアップになっている。こうしてシステム全体がカッ飛びマシンになったわけだ。
 
 また、画面を表示する画像アクセラレータにもATI社のRage128グラフィックアクセラレータが使われている。このアクセラレータは16MBのグラフィックメモリーが搭載されている。これらはかなり強力な機能でQuickDrawが俄然生きてくる回路だ。いままで、マッキントッシュは、DOS/V機に比べると画像表示が遅かった。それは、DOS/V機が各社競って高速の画像ボードを採用するため、画像ボードメーカもこれに対応して高性能のボードを開発したため進歩が速かった。方やアップルはボードから設計するため、最新のPCI画像ボード採用が遅れ、後手後手にまわっていたというのが偽らざるところである。描画速度に関してはDOS/V機にやっと追いついて、トータルでは追い越した感を受ける。
 また、画像表示では、業界標準になりつつあるOpen GL規格にアップルは乗り遅れてしまった。Macには、彼らが独自に開発したQuickDrawががありこれに固執しすぎたこの規格はQuickTime同様アップルの根幹をなす規格であったが、孤立しすぎてしまった。その間OpenGL陣営は着実にシェアを伸ばしコンピュータグラフィックス分野に確固たる地位を築いた。アップルはそうした状勢の中、次期OSからこの規格を取り入りれる方針を打ち出している。
そうは言っても、新型G3Macのカッ飛びは疑うところがない。
 その顕著な表れが、米国コネクティクス社 (Connectix)が開発した、バーチャル・ゲーム・ステーション(Virtual Game Station)である。これは、SONYのプレイステーションのゲームができるソフトウェアである。これがあればプレイステーションのゲームがG3マックで楽しめる。 コネクティクス社が、何故真っ先にG3マック用にバーチャル・ゲーム・ステーション(Virtual Game Station)を開発したかというと、G3プロセッサに基づいたMacはある程度一律のハードウェアを使っているため、様々なグラフィックスカードが使われているインテルベースのシステムよりもソフトウェアの調整がしやすいためだ。
同社は、「Macintoshは技術的にやりやすい」、「Windowsプラットフォームで難しいのはハードウェアが多岐にわたることだ。Macの方が簡単に広範囲の互換性を獲得できる」 ともコメントしている。
→1999.1.23追記: この話題を家の息子と高2の甥っ子に話したら、即座に反応があった。高2の甥っ子はインターネットで関連記事に飛んでいき、どんなソフトウェアが動くか調べてメールをくれた(叔父さんは、プレーステーションはあまりやらないんだよん)。愚息は、愛読書「週刊ザ・プレーステーション」2月5日号(1999 Vol.135)のトップページを指し示し(かのG3の特集)、早く新型G3とバーチャル・ゲーム・ステーションのソフトを買えと暗にモーションをかけてくる。この記事の中に少々興味ある所があったので引用させてもらおう。
 ザ・プレ(雑誌編集部)では、その実用性を確かめるべく複数のMacでVGS(バーチャル・ゲーム・ステーションを動作させ、検証を行った。
  このVGSは、いまのところ「G3Mac」と呼ばれているものに対応が限定されている。これは、VGSがまだ進化途中であり、複数の機種をサポートするより、機種限定でエミュレーション性能を向上させることを優先した結果だ。実際には、G3Macより以前のMacでも動作はしている。だが、そのエミュレーション速度は満足できるものではない。
 しかし、VGSで推奨されているiMacでは、実用に十分な速度を再現している。「鉄拳3」(格闘技ソフト)や「GT」(車のレースソフト)などの3Dポリゴンをふんだんに使った“重い”といわれているソフトに関しては満足がいくものではないが、そのほかのゲームやRPG(ロール・プレーイング・ゲーム=画面がそれほど速く動くものではなくプレーヤがたくさんの選択肢を選びながらすすめるゲーム、ドラゴン・クエストやファイナル・ファンタジー)などは実用に耐えられる速度を実現している。また、「Yosemite」と呼ばれる最新最高速のG3Macでも検証した。このMacであれば、現在の所不安定な動きが多少見られるが、その動作速度は(3Dポリゴンをふんだんに使った)前述のソフトであっても実用に耐えうることがわかった。
 プレーステーションの装置は、今\15,000程度。かたやG3MacはiMacで\160,000、G3Mac400MHzでは\420,000程度する。これにVFSが\5,500。この価格差を考えると、プレーステーションをするためだけにG3Macを買うはずがない。VGSが発売された当初、ソニーは訴えるのではないかと憶測が飛び交ったが、どう考えても訴訟にはいたらない。ソニーは、セガのドリームキャストとシェア争いに躍起。アップルがパソコンでもプレーステーションができますと援護射撃してくれソフトが売れれば結構なのではないか。それに開発元の米国コネクティクス社にロイヤリティを若干でももらって、仲良くした方が絶対賢い。アップルもやっとゲームもできるMacになるし・・・
 ちなみに、ファイナルファンタジーVII(1997.1.31-1991.1)というロール・プレーイング・ソフトは全世界で672万枚売れたんだって。愚息が教えてくれた。そして、来月2月からは第8作が発売されてより動きのリアルになるのだという。う〜ん、672万枚かぁ。すごい数だ。プレイステーション本体は、昨年北米だけで1000万台売れたという。1000万台!!!。iMacは80万台なのに。
 1999.01.29 cnetが伝えるところによると、Sonyは1998年にソニープレーステーションを5,070万台販売したそうな。(1台\20,000とすると、1兆円だ!!)
 また、同社は、このソフト開発と販売について、コネクティクス社を訴えたという。しかし、訴えられてもコネクティクス社は販売の準備を進めている。Sonyが訴えた理由は、このプレーステーションのエミュレーションソフトが出回ることによりゲームのソフトが違法コピーされて出回ることを怖れているためだという。コネクティクス社は、これに対し海賊版ゲームをプロテクトする機能をバージョン1.1から織り込むとしている。  いろんな側面からの利害打算があるんだなぁ。
 
 高性能に加え、値段も非常に魅力的だ。300MHzが20万円台前半、350MHzが30万円前後、400MHzが40万円前後となっている。しかも本体には標準で128MBRAM、9GBHDDがついている。
 この他、
・4基のPCIボードスペース
・4基のSDRAMスロット
 (最大1GBまでのDRAMが装着できる)
・USBインターフェース
(最高127個のUSB周辺機器の取り付け可能)
・FireWireの標準装備
・10/100BASE-Tインターフェース装備
が挙げられる。
 FireWireは、アップルが1986年に発表し、1996年にマイクロソフトが取り上げ、1997年にSonyを始めとしたビデオメーカが本格参入したもので、簡単なケーブル接続で最大400ビット/秒(50Mバイト/秒)のデジタル転送が可能な機能である。この機能は、1000 x 1000画素 8ビットの画像を1秒間に50枚転送できる性能である。
また、DVD(デジタルビデオディスク)が再生できるCD-ROMトレーやオプションでZipが搭載されている。
iMacと同じようにフロッピードライブは装着されていない。
 
 新型G3Macは、モンスターマシンと呼ぶにふさわしい性能で、パーソナルコンピュータのシェアを確実にアップルに呼び寄せている。5期連続の黒字に加え、今期1/4半期も黒字間違いなしであろう。なにせ、本日発売されたばかりのこれらのG3コンピュータが午後4時の秋葉原で品切れの看板が出されたのだから。
 デザインも非常に斬新だ。このデザインは好みが別れるところだが、他のライバルと違いを際ださせ、マックを強烈に印象づけるに成功している。iMac以来アップルは、かなり思いきった経営戦略をたて、これがことごとく当たっている。
 奇抜なデザインは、取り回しがしずらいものであるが、新型G3Macは取り回しが結構いい。
 ワンタッチでコンピュータの腸(はらわた)があけられ、メモリーやPCIボードの取り付けが非常に簡単にできる構造となっている。
 現行のモデルは初代iMacと同じブルーのスケルトンカラーになっているが、おっつけフルーツカラーのコンピュータが出てくるに違いない。
 秋葉原の売場では、女性客が目立った。日頃通い続けている秋葉原のMac量販店なので昔から客の流れを良く知っているつもりであるが、そのお店に、最近とみに女性客が多くなった。
 これはアップルの明確な経営戦略の表れであろう。使いやすいというのがこれほどのマーケットをもつものかと改めて思い知らされた。もっとも、私自身も使いやすいマック故に、仕事に余暇にと良き伴侶として6年以上も付き合っている。
 また、女性客と店員の間でiMacに交わされている会話でボディカラーの話題がかなり多いことに驚いた。おじさんである私は色なんかどうだっていいじゃないかと思うのだが、見目麗しきお嬢さんは、ほんとに熱っぽく「色をどうしよう」と相談していた。あハァ〜ン、という感じである。たしかにコンピュータにカラーリングして売るというのは、旧来あまりなかった。室内の調度品として考えればコンピュータのカラーも大事なわけかと合点した。
 今回の販売戦略の大きな特徴として、「スマートローン」(手頃な月々の支払い)もヒットしていた。コンピュータ販売フロアのデモ機コーナの隣にスマートローンの受付できる申し込み記入のための大きなテーブルが用意されていた。そこでは、見目麗しき女性が2、3人テーブルに向かって、ローン契約書に必要事項を記入していた。たぶん、月々\3,000程度の支払いで、さらに安くなったiMac(\128,000)を手に入れてインターネットや電子メールをはじめようと言うのだろう。
  一昔前の電話とテレビとアルバムが一緒になったのが今のiMac。女性の部屋にiMacがこぞって置かれるのを想像すると、なにやらこれは「革命」ではないかと思えてしまう。家電量販店は面白くないだろうな、おいしいとこすべてアップルに取られてしまってるから。
 何せ、アップルは昨年8月から12月の4ヶ月間で800,000台のiMacを売ったそうなのだ。全世界で15秒に1台の割合で売れたそうである。もちろん単一モデルでの売上の世界新記録。iMacだけの売上で1600億円程度達成した計算となる。
 こうした、万事上向き傾向にあるアップル社は、メシア(宗教上の救世主)であるスティーブ・ジョブズ(Steve Jobs、アップルの創設者でカリスマ)によってその教団が率いられている。ほんとに今のアップルには神がかり的なものさえ感じる。
 ここ2年のアップル社は、スティーブ・ジョブズでなければできない思いきった断行で、結果的にアップルを見事蘇(よみがえ)らせてしまった。スティーブ・ジョブズの人となりについてはまた改めて触れることにしたい。
 現代のパーソナル・コンピュータを支配する人物を2人挙げよと言われれば、私は、ビル・ゲイツとこのスティーブ・ジョブズを挙げる。
 ジョブズには、ビル・ゲイツにはないカリスマ性がある。若い頃のジョブズはとにかく手がつけられないほど思いつきを口に出す人間で、独善的に物事を決め、それを動かした。感情の起伏が激しかったという。だが、人前でスピーチすることや人を引きつける立ち回りには非凡な能力を発揮した。
 このカリスマ性はビル・ゲイツには希薄だ。ビル・ゲイツの才能は、大学時代ポーカーで鍛えた“ばくち”の確率理論を使って、繊細に市場に投資し、確実に投資を回収したところだろう。
 ジョブズは、ジョン・スカリー(元アップル社CEO)に追い出され、新しいコンピュータ会社NeXTを作り、再びアップルに舞い戻ってきた。アップルに復帰してすでに2年が立とうとしているがジョブズの肩書きは、CEOではない。しかし、大きな展示会では、必ず派手なパフォーマンスを披露し、マック教信者を心酔させている。
 アップルは現在の所、家庭、個人ユース向けのパーソナルコンピュータで起死回生の神がかり的な逆襲を試みている。だが、目をビジネス分野に向ければ、まだまだDOS/V機の占める割合が高い。Windows98は成功しているとは言い難いが、WindowsNTは着実に地盤を固めワークステーションの分野にじわりじわりと進出しだしている。シリコングラフィクスもSUNもDECもじりじりとシェアをWindowsNTにうばわれている。それほどWindowsNTマシンは、ネットワーク環境に優れ(もっともDOS/V機だが)、高速性能も顕著になっている。
 アップルも、家庭ユースでのシェアを伸ばしてはいるが、サーバーとしてよく使われているWindowsNTとの融合性を取らなければならない。このネットワークはまだまだ未整理だ。Mac OSXがこのいばらの道を切り開くキーであると言われている。聞けばかなりおもしろいOSである。この新OSもきっとアップルと我々マックユーザに新たな福音をもたらし、いばらの道をさらに切り開いてくれるだろう。
 

 

 

●文化(1998.12.30)

 文化についてふっと考えた。
 
 私の思考はいつも色々なところにふらふらと出かけている。それでいて私の思考は絶えず拠り所を求めている。一つのことを上から下から横から前からながめる所がある。それでいて突然、それを投げ出して別のものを見つめ出す。まあ、これは私に限らず他の人でも、幼児でも同じことなのだが、ちょっと違うところは、その投げ出した物にまた再び戻ることである。もちろん二度と戻らないものもあるが、だいたい戻る。
 戻ってくると、前に見えなかったものが見える。気分が変わっていて新しい観点からそのものを見ることができる。
 
 文化についてもそうである。
 文化を最初に深く意識したのは中学2年と記憶する。友人と二人で私の家で歴史の年表を作っていた。学校の掲示板に貼るためボランティアで全紙5、6枚にわたってまとめていた。そのとき、明治から大正にかけて、盛んに文明とか、文化とかデモクラシーという言葉が出てきた。友人と資料を写し書いていたのだがどうも意味が分からなかった。
文化祭、文化鍋、文化包丁、文化住宅
当時は、文化という言葉が流行していた時代で、新しい科学的なことを文化と言っていたように記憶する。
 

 高校になって、自分の思考や好みが京都の文化人に傾倒していくのがわかった。京都大学教授で南極越冬隊長だった西堀栄三郎の人柄に触れ、あんな人になりたいなぁと思うようになったし、京都大学フランス語教授の桑原武雄の書いた人物書評の筆致の巧みさに、あんな風に簡潔に美しくかけたらなぁと思った。京都大学物理学湯川秀樹教授のものの考え方に強烈に引かれたし、進化論で独自の見知を開いた今西錦司教授にも引かれるものがあった。そして日本の文化を論じたらこの人の右に出るものはいない司馬遼太郎氏、バランスのとれた経済評論家堺屋太一氏、鋭い洞察力で文明を論じた京都大学高坂 正堯教授。京都をとりまく関西には独創的な切り口を見せる文化人がきら星の如くにいる。

 
 文化というのは、ある時代や場所で多くの人たちによって支持されそして普及したもの、と解釈すればわかりがいいだろうか。普遍的なものではなく、流行が大規模になってある一定期間継続されれば文化になるようである。その期間はどのくらいかというと、地域によって異なる。国レベルで言えば30年から50年以上を言うのであろうし、会社なら10年程度、家庭なら5年程度継続すれば文化になろうか。
 
日本の文化の一例をあげる。これは今の日本の風習にはない。しかし、この習わしを通して、日本人は独特の文化を作っていた。
若衆制 ーーー 若衆組、若者組、若連中等とも呼ばれ、時に若衆宿、あるいは単に『やど』ともよばれた。村落における若衆制は、ポリネシア、メラネシア、インドネシアなど太平洋諸島全円に広く存在しているもので中国、朝鮮には存在しない。
若衆達はムラの祭礼を執行する一方、自分の集落の娘たちについては自分たちで彼女らを支配していると思っていた。一種の神聖意識というべき感覚で、他村の若衆がムラに忍んでくるのを許さなかった。
かれらは、夜中、気に入ったムラの娘の家の雨戸を開け、ひそかに通じる。一人の娘に複数の若衆が通(かよ)ってくる場合がしばしばあったが、もし彼女が妊娠した場合、娘の側に、父親はだれだと指名する権利があった。
娘に名指しされれば、たとえ出来心であっても若衆は決して逃げることをせず、これと結婚した。生まれた子が、ときに他の若衆の顔に似ていることもあったが、問題がおこることはなかった。
その集落で生まれた子は共同体の子だという気分があって、そういう気分も、たぶんに血縁集団である集落結束の暗黙の要素になっていたようである。
この制は、明治以後大いにすたれた。
若衆組に加入(やど入り、組入り、若者入り)するのは十五歳前後で、妻帯すると、ふつう脱会する。加入の時は、ムラのオトナ制に属する人の紹介が要る。加入には儀式があり、上座に若衆頭が着座し、左右に世話役がすわり、ついで年齢順に、若衆達が居並ぶなかで、さまざまな宣誓をする。
加入すれば、夜は宿で仲間とともに寝るのである。
           ーーー 司馬遼太郎著 - この国のかたち^ - 、文藝春秋
 
 私は、この本のこのトピックを読んでホントにビックリした。なぜなら、このことを全く知らなかったからである。確かに、平安時代に貴族が夜、慕う女性のもとへ通ったという「通い婚制度」があったことは知っていたが、夢物語のような話で現実味に乏しかった。しかし上のトピックは、西日本の地域で成されてきたことなのである。年頃の娘を持つ家では、夜戸のカギを外していたという。地域がまとまって外部からの危険がなければできない風習である。司馬氏の「菜の花の沖」を読むと、淡路島で育った主人公高田嘉兵衛も成人したときに、この若衆宿に入ったという件がある。ちなみに、南方系のしきたりでは、男は成人するまで下帯(フンドシ)はしなかったそうである。嘉兵衛ももちろん小さい頃はフンドシは締めず、そのままだった。たしかに、江戸時代に描かれた子供の絵を見ると、前髪を垂らした少年が金太郎の腹当てはしているが下半身はむき出しになっている。成人になると、前髪を剃り(月代=さかやき)、褌をしめた。そして名前が変わり、決して童らとは遊べなくなった。この風習は、西日本にあって東日本の習わしにないという。
これが文化というものである。
 
婚姻雑話 ーーー 7世紀の大化改新の後、統一国家の成文 大宝律令ができた。この法律の模範は『唐律』であったが、大宝律令に入れなかったものが三つある。
一つは、道教(唐においては国教)、二つ目は、宦官(かんがん)、三つめは同姓不婚(どうせいふこん)であった。これは、受け皿として盛りようもなかった。日本はいわば南方社会で、いとこ結婚制度を大目に見ねば、大混乱してしまう。
たとえば、大宝律令の編纂中に在位していて、その施行の翌年に崩御した持統天皇(女帝)の配偶者(天武天皇)は、いとこどころか叔父にあたる。またこの時代に生きて、後年、元明天皇(女帝)になるひとも、血縁の濃い草壁皇子と婚姻していた。
「韓国ではどうでしょう」と、友人の玄文叔氏に電話できいてみた。「ありえないことです」。玄氏は、たとえば慶週金氏(けいしゅうきんし=慶州地方の金姓の人々←安藤注)はたとえ百万人をこえるとしても、それはすべて血族だから結婚できない、いとこといえば同姓同本ですから、といった。
           ---- 司馬遼太郎著 - この国のかたち(2) - 、文藝春秋
 
大阪大学溶接工学研究所松縄研の金氏によると、10年に一度特赦が出て同姓でも結婚できる機会があり、どうしても好きになったもの同士はこの時期まで待つという(安藤注)。
 
 日本は、中国や朝鮮からほとんどの文化を取り入れていたかと思ったらどっこい南方の文化も取り入れていたのだ。
そういえば、日本は、纏足(てんそく)という風習も中国から輸入しなかった。
 
 若者に共有する文化、地方に根ざす文化。
茶髪やルーズソックスなどは若者に受け入れられた文化だろう。
食文化で言えば、上方は昆布を中心とした出汁の文化ができ、関東は「かつを出汁」の文化ができた。名古屋は赤味噌の文化を作った。清酒や醤油は元は上方の文化だ、江戸時代の江戸はこれらを生産せずすべて上方から下りてきた「下りもの」であった。価値のあるものを「下りもの」と言い、価値のないものを「下らない」といった。
 
 文化は永遠不変ではない。お祭りに対する文化も、今の若者には引きつける部分が希薄になりつつある。この風潮を哀しいとみるか喜ばしいと見るかは人それぞれである。昔は、それが文化であった。今はまた独自の文化を作り上げている。これが長く続くかどうかはわからない。すたれるかもしれないし長続きするものなのかも知れない。
 「神」についていえば、若者には神々しい神が宿る心がない。神が宿る心のない人間には、決して神は宿らない。たとえ、神がこの世に存在していたとしても。親の愛を感じない子供がいるように。だからイエスは、「(とにかく)信ぜよ、信ずるものは救われる」と説く。救われたいという心が大事なのだ。救われたいという心の持ち主は虐げられた人々に宿る。貧民層、人種差別、身体に障害を持つものはこの心がある。
 今行われている祭事は、みな形骸化された行事になっている。何かしら集まって酒をふるまってワイワイやりたいという文化だけが残り、神が宿ることへの文化は捨てた。
 
 軽佻浮薄な日本の文化の一側面
だから、日本人はなんだってお祭りさわぎにするし、贈り物をする。
クリスマスだって贈り物があるからあれだけ日本人の文化にとけ込んだ。贈り物がなければ絶対輸入されなかった風習だと司馬氏は言い切る。バレンタインだってチョコレートを贈るという行為にすり替えられて定着し、日本の文化になった。お正月はお年玉を贈る。江戸時代から続く商習慣の中元、歳暮の付け届けは国民的行事だ。今はまたハローウィンも輸入しようとしている。これだけ贈り物をする国民も珍しいのではないか。
 
 こだわりの文化
 そうかと思えば、ものへのこだわりも日本独特の文化だ。この文化のおかげで日本の工業製品の品質が向上した。細かいところにまで目を行き渡らせて、きめの細かい壊れない製品や丈夫な製品を作ってきた。これは、かんざしや小道具の細かな芸を愛でる日本人の「目」が転嫁した表れであろう。日本の「職人文化」が形成されていった。日本人は、自分の車に異常に執着する。キズをつけないように神経質になりながら所有し、月に1度はワックスをかけ泥を落とす。その潔癖さは病的なほどだ。
 この文化が生きて、日本の工業製品はあれよあれよという間に世界のトップレベルになってしまった。半導体製品も、非常に高度な技術とこだわりを要求する分野であるが、この生産技術の分野に日本は、東京大学、京都大学をはじめとした超優良な人材を惜しげもなく投入する。欧米ではちょっと考えられない事らしい。ISO9000シリーズを取得しなくても日本には品質を守るという暗黙の不文律のような規則、つまり文化があった。ISO9000は文章化しなければ社会が保てない欧米で発達し、これを形式的でも励行しない限り仲間に入れない風習を作った。仲間外れにされたくない日本はこれに従わざるを得なくなった。ISO9000を取得しても決して品質は向上しない。ISO9000に魂を入れない限り。ISO9000を取得した英国の企業ですさまじく品質の悪い経営をしているのを目の当たりに見ている。
 きれい好きという点では、ヨーロッパ人も清潔好きだ。ドイツ人にいたっては、病原菌(19世紀後半)の発見以前から病的なほどに清潔な衛生文化をもっていた。日本人もきれい好きという点では尋常一様ではない。
 司馬氏は日本人の病的清潔さを「アメリカ素描」の中で、「19世紀から20世紀にかけて、よく働くということで忌み嫌われた日本人が、アメリカ社会でかすかに許容されたのは、清潔好きということだった。清潔好きもまた一つの文化にすぎないのだが、美徳に似たもののようにうけとられた。」と書いている。
 日本の細かい事へのこだわりや、清潔好き、お祭り好きは文化であるから、深い思想に裏付けられている訳ではなく、たんなる集団性癖ととらえた方が話が簡単だ。ドイツにいくと、これに深い思想が加わる。ドイツ人もきれい好きだし細かなこだわりを示すが、こだわりが思索的である。だからこそ、ドイツでは多くの哲学者が輩出されたし、合理的なものの考え方が日本より数段優れている。
 
 文明
 一部の人たちが共有する風習が文化であるのに対し、多くの異民族を経て受け入れられる大きな文化が、文明となる。中国文明も多くの民族の濾過を経て、巨大な統一文化 = 文明を作った。
 現在は、アメリカがその近代文明を形成している。それもおそろしく短い期間で、アメリカ文明を築き上げた。中国文明が何千年の濾過過程を経て文明を築き上げたのに対し、アメリカは200年でそれをやった。アメリカ文明は、アフリカ原住民のリズムであるジャズをアメリカに植え付け、世界に普及させた。マグドナルドも、コーラもジーンズも、バンダナも、コンピュータもアメリカの濾過装置を経て世界に渡った。
 
 何故、こんな文化について思い出したのかというと、今年も師走を迎え、あちこちで、忘年会、クリスマス、宝くじといたるところでお祭りが続き、よくよく日本人は「お祭り好き」なのだと感心したからであった。
 
 
 

●フォレスト・ガンプを読む(1998.12.1)

 いささか旧聞に属しているが、今、フォレスト・ガンプを読んでいる。Tom Hanks主演の映画「Forrest Gump」のビデオを購入し、英語の勉強がてら何度も見る内、原作でも読んでみようと思い立った。
私の英語のドタバタ向上記は、AnfoWorld別館の「英語の話はあのねのね」を参照してほしい。
英語の不断の向上を自分の題目に上げていながら、なぜか読んだ本は、小川敏子訳の講談社から出されている邦訳本であった。 ・・・ 何のことはない、行きつけの図書館で何気なく見つけたので読んで見ようと思い立ったのである。
 原作が、映画とかなり違っていたのにはいささか驚いた。だが、原作もそれはそれで面白かった。映画と違うところは、
・フォレストは、背筋が曲がり、足に障害を持つ少年ではなく、屈強の大男だった。
・母親は、アラバマの大きな家で生涯金に不自由なく暮らしたのではなく、実際は修道院暮らしだった。
・映画のモチーフ「人生はチョコレート箱の中のチョコレート・・・」は原作にない。
・映画では、プレスリー、ジョンソン、ケネディ、ジョン・レノンなど有名人とフォレストを次々と対面させているが、原作はジョンソン大統領(と毛沢東)、それにラケル・ウェルチだけ。
・原作のフォレストは、ハーモニカを吹くのが名人、また、突拍子もなく数学(数式)が秀でている、また、チェスの名手。
・だが、所詮 IQ70 なのがこの小説のテーマで、いたる所で低能ぶりを発揮する。低脳ではあるが、彼の良い一面を行く先々で発揮し脚光を浴びる。が、必ず大きなどんでん返しがあり、周りの者に愛想をつかされる。
・大の親友ババ(邦訳はバッバ)は、軍隊で知り合ったのではなく、大学時代のフットボール寮で一緒だった。
・映画では恋人のジェニー・カランがマリファナを吸っていたが、原作ではフォレストが溺れた。
・巨漢193cmをいかして大学のフットボールの選手にはなったが、映画のようにすがすがしいストーリではない。大学を卒業していない。いくところがないので軍隊に追いやられた。米国政府は、ベトナム戦争のヒーローとしてフォレストを祭り上げたが、軍服を着る(彼にはこれしか着る物がない)フォレストはいたるところで米国国民の反感を買う。それで一悶着を起こしブタ箱に何度も入る。
・卓球では、ある程度頭角を表し中国まででかけ、親善試合で善戦する。毛沢東が沐浴中、川で溺れかけたのを助け中国で英雄視される件あたりから、ホントかいな、と眉唾っぽくなってくる。映画にはこのシーンは出てこない。
・特異まれな才能を見込まれて、宇宙飛行士になって宇宙へ出る。ここまでくると、これはかなりウソだな、と思えてくる。宇宙から帰ってきてアフリカに着陸し土着民族に捕らえられるところはドタバタで、読んでいて飽きる。物語の前半と色調が違う。あまりにフィクションっぽくて感情移入できない。これは映画に出てこない。
・マラソンマンとして全米を走り回るシーンは映画だけで原作にはない。
・ジェニーに子供ができ、それは、フォレストの子供。だが、ジェニーは再婚して夫がいる。映画は、子供を一人で育てていて、最後に彼と一緒になるが母親同様、先に死んでしまう。残された息子と父親がアラバマの大きな家で暮らすのが映画のストーリだが、原作のストーリはかなり違う終わり方をしている。フォレストは、エビ事業で財産を成した後、その財産は目もくれず、宇宙旅行で知り合ったチンパンジー(名前はスー)とハーモニカをもって風来坊をする。その風来の先で、結婚して静かな生活をしているジェニーに偶然会うというストーリである。
 
 こうしてみると映画と原作ではかなり違う。これだけ違ってよく作者Winston Groomが承諾した物だと感心してしまう。両者の色調も違う。原作はもっとフォレストを惨めに書いている。ホントにあきれるぐらいスローモーで、読者の多くが彼にある程度愛想をつかしてしまうだろう。だけども彼はひたむきなため、作中の人たちはフォレストを見放してしまうが、読者は、最終的に彼はいい奴だ、彼の存在を認めようじゃないかと言う気持ちになる。また、どんなに低能でも人より秀でているところが必ずある、という作者の訴えも見て取れる。
 映画では、Tom Hanks演じるフォレストは、観客を100%見方に引き寄せてしまう。こんな奴だったら友達になりたいよ、と思わせてしまう。映画のフォレストは、マリファナは吸わないし、男としてのお行儀もいいし、ボイラーを爆発させないし、大学は無事卒業するし、お金はいっぱい貯まるし・・・。徹底してトム・ハンクスのフォレスト・ガンプ賛歌である。
 
 映画があまりにリアルに制作されているので、ホントかなと思ってしまう。ソモソモその映画を見て、原作に興味を覚え、フォレストは実在の人物かなという興味で読んだ。読むと結構それらしい事が書いているので、フォレストって実在するんだなぁ、まだ生きていれば会ってみたいなぁ、と思ってしまう。
 
 フォレスト・ガンプの邦訳文を読んでいて、関連するようなコンテンツ(記事・内容)がないかとインターネット(Goo 経由)で探していたところ、私以上にフォレスト・ガンプに興味を持ち、しかも邦訳文と原文を読まれている人に出会った。
 この方は、鹿児島大学の医学部で精神関係の研究をされている先生であった。ホームページを読むと、いきなりフォレスト・ガンプは自閉症だった、と書かれてあった。そんなことは気にも留めなかったのでいささかビックリした。
 読んでいくとかなり説得力があり、それに、先生が英語が堪能なのにビックリした。私が英語の原文を読んでも、以下のことなど気がつかなかったに違いない。
 

フォレストガンプは自閉症だった。鹿児島大学医学部のIjichi先生のホームページ

 http://www.synapse.ne.jp/~shinji/jyajya/jyajya.html
 http://www.synapse.ne.jp/~shinji/jyajya/hon/gump.html
 先生のホームページから引用:
「原作を読んでみると,最初の第1〜2章は自閉症者が自分の生い立ちを記録した手記か自伝のようで,私たちにとってはフィクションらしいところが少しも見当たりません.馬鹿者(idiot)の概念にこだわっている傾向が最初のページからでてきており,一貫してみられる同じパターンのスペルミス(supposedがsposed,exceptがcept,helpがhep,allがole,whileがwile,askedがaxed,など)は,主に発音の影響を強く受けています.架空の人物フォレストが自分のことを語っているという設定ですので,IQが約70の人のスペルミスをリアルに創作しているという解釈が一般的でしょうが,全体を読み終えてみてもう一つの可能性を強く感じました.「フォレストの原形となる自閉症者がやはり存在していて,少なくとも学生時代までのストーリーは,その自閉症者の手記を元に書かれているのでは?」という可能性です. 」

 

 映画フォレスト・ガンプでは、主演のTom Hanksが非常に好演していた(彼はホントに頭のいい役者で、フォレストを演ずるとき、どういう話し方をすればIQ70のフォレストになれるか一生懸命勉強し練習したそうだ)。だから私の心の中に、Tom Hanksという人はホントはフォレストのような人ではないかと今でも錯覚してしまう。また映画が実にきれいに仕上げられていて(アラバマの生家とそこに住むお母さんや、どんどん成功していく主人公など)、とてもさわやかな気持ちにさせる。それに特殊効果撮影も手伝って、この映画の内容がホントに実在したかのような錯覚に落とし入れてしまう。
 この映画を作るにあたって監督のRobert Zemeckis(ロバート・ゼメキス)は、
馬鹿だバカだとばかにしては行けない。人それぞれには良いところがあり、素直に生きれば素晴らしい人生が待ち受けている
と教えている。
 映画の主人公フォレストは、最愛の母と妻を亡くしてしまい、最終的に一粒種の息子だけが残る。息子の面倒を彼が見て学校に送るわけだが、このシーンが自分にとっては妙にジンと来る。
愛される立場から愛する立場へ。
 母の手を引かれて行ったフォレストの学校風景と、父親フォレストがその息子を学校に送るシーンが、息子を持つ私の(そして、母親に引かれていった学校のことを思い出す私の)消えゆく記憶を蘇らせる。
 この最後のテーマと最初のシーンをダブらせて鳥の羽を飛ばしながら俯瞰撮影をする場面は、やさしい音楽も手伝って妙に郷愁をそそる。
 鹿児島大学のIjichi先生も、人間の本質的な所の研究をされていらっしゃるが、先生の切り口を拝見させていただき、再度この作品を思うにつけ、人間の本質的なところを少し見せてもらったような気がしている。
 
 

 

●マイクロソフトのインターネットブラウザ(1998.11.23)

 マイクロソフトの勢いがすごい(今に始まったことではないが)。
 もっとも、これを書いている今、日本のマイクロソフト社は自社ソフトの販売で不当な抱き合わせ販売を行ったとの非を認めた。
また、11月24日の朝日新聞朝刊1面にネットスケープ社が米国AOL社(America On Line)に買収されることが濃厚になった旨の記事が出ていた。
http://www.asahi.com/flash/fbusiness.html#fbusiness_473
記事によると、Netscape社のシェアがマイクロソフト社のInternet Explorer(IE)に圧されシェアが90%から60%に落ち込み、MSN(マイクロソフトネットワーク)社とインターネットビジネスで激しく争っているAOL社と利害が一致しての事だという。当初は業務提携だったがネットスケープ社の収益が悪化し買収ということになったのだそうだ。
  最近のMacintoshに組み込まれているブラウザはマイクロソフト社のインターネットイクスプローラ(Internet Explorer)が中心だ。このブラウザは実に良くできているがお節介さもハンパじゃない。
 マイクロソフトと言えば「WORD」に代表されるオフィス用ソフトが有名である。最近、 Macintosh 用にWindows95/98と完全互換ができるOffice98が発売された。このソフトのおかげで Macintosh ユーザも業界標準(というよりも世界標準)である「WORD」が大手を振って使えるようになった。しかし、このWORDは、マックファンの間ではすこぶる人気が悪い。このWORDは重い。ホントに重い。ちょっとしたレポートを仕上げたいだけなのにお節介でちょこまかチョコマカ指図する。だから、私の場合、まともにWORDは使わない。使うのは、Windowsで書かれた文書を開いて読む場合と、Windowsを使用している仲間に正式なレポートをメールで添付する時だけである。ちなみに私のワープロは、エディタソフトのJeditである。これはすこぶる快調。Windowsへの受け渡しも自由。ちょっと凝ったことをするには発売中止になったマックライトIIを使っている。これは使いやすい。
 4年前、国際学会に論文を投稿するのに、 Macintosh によるWORD5.0を使った。WORDのスペルチェックと構文考察が参考になると考えたからである。当時は構文解釈の訂正提示が面白く、また構文のレベル評価(自分の書いた英語がどんくらいのレベルにあるかを判断してくれる)も目新しく愉しんで使った。
 しかし、私が信頼を寄せているアメリカ人学者の論文を打ち込んで評価させたところ、WORDは無機質に構文の訂正提示を行った。この一件以来、このソフトから遠ざかってしまった。
 
 さて、本文の主題のIE(インターネットイクスプローラ)である。インターネットブラウザは大きく分けて2つある。ネットスケープ社のナビゲータ(Navigator)とマイクロソフト社のイクスプローラ(IE)である。こんなに全世界に普及しているインターネットも、この2社がすべてを牛耳っていると思うとビジネスの大きさを痛感する。他のメーカはなぜ出来なのだろうか思ってしまう。
 ネットスケープ社がインターネットブラウザを本格的に発売するのが1994年10月。遅れをとること1年、Windows95に曲がりなりのIEをのせ、1年後、IE3.0が正式リリースされた。当初は圧倒的にナビゲータが優勢で90%以上のシェアを誇っていたが、3年を経た現在、IE4.0はナビゲータを逆転してしまった。
  実はこの両者、もとを辿ると同じブラウザソフト(イリノイ大学のモザイク)であったのをご存じだろうか。
確かに、ナビゲータは、「モザイク」の使用許可を巡って先行開発元のイリノイ大学ともめ、そのためモザイクを凌駕する「モジラ」(モザイクを焼き殺すゴジラをもじったもの)と名前を変え、コーディングもし直して、1994年にネットスケープナビゲータへと進化する。
 一方のIEも、モトを辿るとモザイクである。このモザイクは、イリノイ大学で開発された後、Spyglass社に販売権が移され販売されていた。スパイグラス社はイリノイ大学を出た人たちで作られた会社で同社にはモザイクの開発に携わった1人も勤めていた。インターネットで遅れをとったマイクロソフトがスパイグラス社に働きかけこのソフトの使用権を買い取ったのである。そして、マイクロソフトの優秀な知能と財力をつぎ込んで瞬く間にナビゲータを凌駕するソフトに仕立て上げてしまった。
 
【ネットスケープ社の先見と成功】
 1994年5月、ジム・クラークは12年前の1982年にシリコン・グラフィックス社を創立した時(スタンフォード大学の若者)とまったく同様に、七人の若者たち(この場合はイリノイ大学出身の若者)と新しい会社を旗揚げした。そして、シリコンバレーに、マーク・アンドリーセンを中心とするイリノイ大学でモザイクを開発した若者たちがやって来た。新しい会社の名前はずばり「モザイク・コミュニケーションズ社」。モザイクというインターネットブラウザソフトを作り上げた若者たちの会社であるというメッセージが、ストレートに込められていた。
1994年10月 最初のブラウザソフトモザイク・コミュニケーションズ社製「モジラ・バージョン0.9」をリリースした。
 半年間でここまでたどり着くまでにジム・クラークは12億円(1000万ドル)もの資材を投じていた。苦労の末、巨額を投じてつくられたソフトウェアであったが、彼らはこれをフロッピーに入れて販売せずに、まず自社にある巨大なサーバー室のコンピュータから、インターネットで世界に向けて無料配布した。NCSA(National Center for Supercomputing Appliocations、イリノイ大学にある国立スーパーコンピュータ応用センター)がモザイクを公開したときとまったく同様である。NCSAは文教予算と寄付で運営されている機関だから無料配布という鷹揚なことができた。ところが、ジム・クラークは利潤を追求するための1企業であるにもかかわらず、大事な飯の種をただでばらまいたのである。完成した製品を無料で配ったことに、世間の人は我が目を疑った。誰もが「ネットスケープの奴らは狂人の集団だ」などと噂した。しかし、彼らの製品はあっという間に世界中に広まり、誰もがモザイクより良いと言って使い始めた。盤石に見えた王者モザイクは、わずか1、2ヶ月でモジラにその地位を奪われてしまった。彼らはこの無料ソフトにちょっとしたからくりを仕掛けた。ソフトには使用契約書を添付し、「このソフトはお試し用である。会社で使う場合にはライセンスを買ってほしい」と。
 時をおかずして、たくさんの会社が彼らのブラズザソフトを使ってくれるようになった。
 ジム・クラークは、インターネット時代にいかに金をもうけるかと言う点について熟考し、新しいビジネスプランを編み出していた。作ったソフトウェアは、インターネットでまずばらまき、獲物が網にかかったところでゆっくり味わっていく。「豚は太らせてから食べる」戦法であった。彼らは、1年半で3800万人のユーザを獲得した。これは従来の物を媒介とした輸送手段では不可能でインターネットを通じて初めて可能になったものだった。
 1995年8月9日ネットスケープ社の株公開の日。1株28ドルで公開された同社株は、取引開始10分後には74ドル75セントまで急上昇した。終値は58ドルであった。同社株全体の評価額は2000億円に達した。資産は二階建てのビルたった一つ。まだ利益らしい利益が出ていない企業の株に、投資家が殺到した。株価はその後もひたすら上昇を続け、1995年の末には1株174ドルにまで達した。
 ネットスケープ社の株公開の2週間後、1995年8月24日にWindows95が発売された。
 
【マイクロソフト社のインターネットへの大きな誤算】
 インターネットがこれほどまでに発展しようとは、実は、ビル・ゲイツは考えても見なかった。MS-DOSのOSで成功した彼は、Windowsでも盤石の寄りを見せて世界制覇に乗り出す。1993年当時、マーク・アンドリーセンらイリノイ大学の学生らが昼夜兼行でインターネットブラウザを開発していたちょうどその時、マイクロソフトのビル・ゲイツは、コンピュータ帝国を築き上げるべく次なるプロジェクトを模索していた。
 しかし、その模索は、インターネットではなかった
 ビル・ゲイツを含め、米国の業界が注目していたのは、情報ハイウェーや対話型テレビ、そして500チャンネルを有すると大々的に宣伝されていたケーブルシステムだった。
 ビル・ゲイツは、情報ハイウェーが同社にとって最大の成長部門になると考え、大きな賭にでていた。1993年、デジタル情報が流れるパイプラインを制御する技術の研究開発に、一億ドル(120億円 = ネットスケープナビゲータ開発の100倍)以上もの巨費を追加投資することを承認した。これは、タイガープロジェクトと呼ばれた。
しかし、ネットスケープの出現で全てが変わった。
タイガープロジェクトを見据えて開発が進めれていたWindows95も大きな方向転換を迫られることになる。
 マイクロソフト社は、1994年からスパイグラス社とコンタクトをはじめる。ネットスケープ社がインターネットでブラウザを無料で配布するまでは、スパイグラス社からのコンタクトに興味を示さずその要求に全く応じなかったのに、手のひらを返すように熱心になりはじめた。早急にインターネットに参入したいとするマイクロソフトと、全ての機能面でネットスケープ社に負けた「モザイク」ブラウザをうまい形で売り抜けたいとするスパイグラス社で急速な歩み寄りがなされる。
マイクロソフトは交渉事では渋い粘り腰を発揮する。ねちっこく相手が根を上げるまで交渉を続ける。最後はマイクロソフトの有利な条件で契約が終わってしまう。
これが、マイクロソフトが他のソフトメーカを買収を通して駆逐し、市場を凌駕できた実力の一側面だ。
 最終的に、このソフトの買収は、非常に買い得な製品となった。なぜなら自前のブラウザを作るには半年から1年かかるが、マイクロソフトはこれを手に入れることにより、次期OSのWindows95に載せることができるからだ。
 双方向テレビプロジェクトの情報ハイウェーを模索し巨額の開発費を投資してきたマイクロソフトも1994年に大きな舵を切った足跡を見て取れる。あまりにも大きな舵取りであった。船体がギシギシと音を立てるような方向転換、市場の優位性を維持するための強引とも言える手口。これらは、結果的には成功してるように思える。
だが、強引な商売が法の目を免れてシロと判定されれば、という条件が残っている。
 
 Windowsコンピュータは、買えばWindows95がついてくるし(なにせ他にはらしいOSがないのだから)、インターネットはマイクロソフトのエクスプローラがついているし、ものを書くにはマイクロソフトのWORDがついている。電子メールを出したければ、マイクロソフトのOUTLOOKがついているし、データをまとめようと思えばマイクロソフトのExcelがついている。画像を取り込もうと思えば、マイクロソフトのPaintshopがある。なんだってマイクロソフトである。それが買ったときからついてくる。それもおまけのソフトではなくていっぱいしに通用するソフトである。
 こんな状況で、誰が新しく金を出して、ネットスケープのナビゲータを買うだろう、誰がワープロの一太郎やWordperfectを買うだろう。誰がExcelを止めてLotusを使うというのだろう。
 首根っこを押さえたリーダが全てを支配しようとしてる。昔、石油の採掘から精製、ガソリンスタンドまで傘下におさめてしまった石油王ロックフェラーが、それはあまりにやりすぎだというので、分割させられた。
 ビル・ゲイツの経営するマイクロソフトも、OS部門とアプリケーション部門は分割しなければ自由な競争が生まれないのは肯ける。だって、新しい発想でソフトを開発しようとしても、すべてマイクロソフトにお伺いを立てなくてはならないし、美味しいソフトなら、ああだこうだ言ってマイクロソフトがもらってしまう。
今、ユニークなソフトは、 Macintosh が育てたアドビ社のフォトショップ、イラストレータやクオーク、それに音楽ソフトだけになっている。これらでも特殊用途といえば特殊用途だ。

 これらの舵取りが正しかったかどうかを、我々マックユーザは複雑な思いでながめることにしよう。

 
【ビル・ゲイツと戦った雄志たち】
●ゲーリー・キルドール: MS-DOSのライバルCP/Mの開発者
●レイモンド・ノーダ: ノベル社のCEO
●アラン・アシュトン: ワードプロセッサ「ワードパーフェクト」社のCEO
●ジム・マンジ: ロータス「1-2-3」のCEO
●フィリップ・カーン: dBASEデータベースのボーランドのCEO
●ビル・ジョイ: サン・マイクロシステムズ社の創設者、インターネット、UNIXとNTで競合
●スティーブ・ジョブズ: アップル社
●マーク・アンドリーセン: ネットスケープ社
●ローレンス・エリソン : オラクルの創業者
●米国司法省: 独占禁止法に目を光らせる
 

 

 

●星野道夫のこと - 星野道夫 写真展(1998.9.19)

   9月19日(土)、銀座松屋に星野道夫の写真展を見に行った。木曜日に細君が朝日新聞の夕刊に写真展の記事が載っていたのを目にとめて教えてくれたのである。
 星野道夫氏のことはあまり知らなかった。星野道夫という名前を意識したのは2年前、高校時代からの友人であるAから久しぶりの手紙をもらったのがきっかけだった。そういえば、週刊朝日の後グラビアにアラスカの動物達の写真の特集が組まれていたことがあったことを思い出した。当時の自分は、あれは星野というカメラマンが撮っていたのか、ぐらいの認識だった。友人Aから熱い(厚い)手紙をもらって読んだときも、そういう人もいるのだなという感じしか抱かなかった。米国月刊誌「National Geographic」の1998年1月号に北極グマの特集があり、その中に星野道夫の写真が紹介されていた。友人Aから手紙をもらわなければそのまま気にも止めずそのままになっていたことだろう。その特集には2枚だけ星野道夫の写真が掲載され、他はNorbert Rosing、Glenn Williamsらの写真が掲載されていたからよほど関心がなければ見落としてしまう代物だった。
 その雑誌には、北極グマの知られざる側面がたくさん紹介されていた。曰く
・北極グマは冬期に、30,000平方マイル(200Kmx200Km)の広範囲を徘徊し、冬眠はしない。
・冬眠をせず、極寒の地での体温維持をどのように行っているかはまだわかっていない。
・当然、餌がないため冬期は食が得られない。冬期8ヶ月間、北極クマは絶食する。
 餌は夏期に高カロリーのアザラシやラッコをたらふく食べ皮下脂肪にエネルギーを蓄える。
 どのくらいの量を食べるのかも今のところわかっていない。
 最近になって、北極グマに超小型カメラを取り付け生態活動を監視する試みが始められた。
・時には人里に現れ自動車のラジエータ不凍液を飲んでしまうことがある。これを飲むと死んでしまう。
 北極クマは不凍液がとても好きだという。
・北極グマ体内からおびただしい環境汚染物質(PCB、ダイオキシン、DDT)が検出されている。
 これらはアジア、ヨーロッパ、北米で排出した公害物質を微生物が体内に取り込み、最終的にアザラシ→北極グマへと連鎖される結果だという。
 松屋銀座8Fの催事場で催された星野道夫写真展には非常に多くの人が詰めかけた。老いも若きも、男も女も、たくさんの人がアラスカの自然、星野のカメラファンダーが捕らえた自然を見ようと集まっているように思えた。色合いが実に良く、画像もシャープで、カメラ構図は星野道夫のアラスカの自然に対する情愛を感じさせるものだった。アザラシも、北極クマも人間の表情に似せた作風を作り出している。カメラは、ニコンとマミヤを使用していた。動物はニコンでオーロラや自然はマミヤで撮ったものと思う。フィルムは間違いなくリバーサルフィルムだろう。f200-400mmの長焦点距離を多用し、ザトウクジラの撮影には反射型の長焦点距離(f1,000mmだろうか)レンズも使用していた。会場には、星野が好きだったといわれるアイルランド歌手「ENYA(エンヤ)」の曲が流れていた。インクジェットプリンタ(キャノン)のカタログに使われているアザラシの子供の写真も星野の撮影したものだったことを知った。会場では、テレビ取材を受けた星野の生前のビデオが流れていた。物静かで、瞳の奧がなんとなく哀しく光っている、そんな人物だった。
星野道夫:カメラマン、1952年、千葉県市川市に生まれる。慶応大学卒業後、アラスカにわたる。
アラスカの自然をテーマにした動物たちの新鮮な切り口の写真を撮り続ける。1996年、グリズリーに襲われ43歳で他界。
 この写真展の後、再び友人Aがくれた手紙を読み返した。読み落としていた所や新しい発見があった。彼が私に寄せた「星野道夫」のことを紹介しようと思う。これが、星野道夫を最もよく書き表していると思うから。
 

星野道夫のこと

 
 安藤は、動物写真家の星野道夫を知っているだろうか。アラスカに住み、カリブーやグリズリーの素晴らしい写真を撮っている。いや、撮っていた。
 新聞や雑誌にも意外にたくさん取り上げられていたので知っているかも知れないが、今年の8月、カムチャッカ半島のクリル湖畔でテレビ番組の取材中にヒグマに襲われて亡くなった。夜、テレビ取材のスタッフは小屋で寝ていたのだが、彼だけは小屋のすぐそばに自分用のテントを張っていて、そこを襲われた。
 最初、この事を新聞で読んで信じられなかった。写真集を出すほどアラスカで多くのグリズリーを撮り、クマの行動については熟知していたはずの人がなぜ襲われたのか。
 「サケが川を上る時期は、エサが豊富だから人を襲うような事はない。」
とテレビのスタッフに言っていたそうだが、その判断が甘かったのか。
 
 僕が最初に星野道夫を知ったのは栄(名古屋市中区)の丸善で見つけたWWF(野生生物保護基金、最近は名称が変わったらしいが)のカレンダーだった。確か1989年のカレンダーだったと思う。そこには雪を頂いたマッキンレー山をバックにどこまでも続く草紅葉の原野にたたずむムースや、ワタスゲの穂が逆光に輝く草原に群れるカリブーなどアラスカの野生動物の姿があった。僕はスケールの大きいしかも悲しげな詩情のあるそれらの写真にすっかり魅せられて、3年ほど続けて星野道夫のWWFのカレンダーを買った。どの写真からも突き放すような厳しく、人間のことなど歯牙にもかけない雄大なアラスカの自然が写し取られていた。
 最近は、西表島やらバリ島やら、南の島も大好きになってしまったが、もともと僕は北方指向で、学生時代は東北や北海道など北の山ばかり登っていた。その延長上にあるアラスカは、一番近い氷河の見られる場所(当時はソ連なんて行ける所とは思っていなかった)として僕の長きにわたる憧れの地であった。
 その夢がかなったのは結婚して4年目の1986年のことで、レンタカーを借り、キャンプ場にテントを張りながら約1週間、アンカレッジ周辺やデナリ(マッキンレー)国立公園などを巡った。その時の事を思い出すと本当に夢のようで、ろくに英語をしゃべれもしないくせによく行ったなと思う。
 アラスカの8月はもう秋の入り口で予想よりもずっと寒く、ハイウェイの両側に何処までも続くヤナギランの花が移り行く季節を象徴していた。楽しみにしていたアンカレッジ南のポーテージ氷河では、氷河割れ目の神秘的なブルーを実際に見ることができ感動したが、冷たい雨に打たれて長居はできなかった。天気はずっとはっきりせず、何度もにわか雨に降られ、何度も虹を見た。3日間続いたデナリでもマッキンレー山頂が見えたのはほんのわずかだったが、マッキンレーではその前々年、植村直己が冬季単独登頂後遭難していたこともあって、白い山容がはるか原野の上に浮かび上がったときは少々ジンときた。
 アラスカは本当に広大だ。野生動物もたくさんいるのだがあまりにも広すぎて目立たない。最も目についた哺乳類は車にはねられてハイウェイに横たわるジリスかもしれない。ムースも見たかったのだが、とうとう一度も目にすることはなかった。国立公園内ではシャトルバスのすぐ近くにグリズリーが出てきて驚かされたが、かえってサファリパークみたいで感動が少なかった。むしろ谷を隔てたはるか遠くにゴマ粒のようなグリズリーが2、3頭ゆっくりと歩いていくのを見る方が本物のアラスカを味わっている気がした。
 
 あのアラスカ行きはわずか1週間であったが僕にとっては本当に大きな旅で、その後数ヶ月はボーッとしていた。星野道夫のカレンダーはそのときの厳しく大きなアラスカの自然を思い出させてくれた。
 そして丁度その頃、小説新潮の臨時増刊というかたちで「マザー・ネイチャーズ」というグラフィック雑誌が発行され、その中でまた星野道夫の写真に出会うことができた。その雑誌には毎号と言っていいほど彼の写真が掲載されたし、第2号からは「イニュニック(エスキモー語で「いのち」の意味)」と題してアラスカの生活を綴った文章も書き始めていた。とくにうまいとは思わなかったが、アラスカの自然や、アラスカの人々に対する彼の愛情がひしひしと伝わってくる文章だった。
 僕の手元には5号までしかないので、「マザー・ネイチャーズ」がいつまで続いたかは知らないけれど、1994年1月からは月刊誌「シンラ」に引き継がれた。最初は後継誌とは知らず、女房が買ってきたものを
 「昔あったマザー・ネイチャーズによく似ているが、あっちのほうが良かったかな。」
などと言いながら読んでいた。
         (中 略)
 星野道夫の「イニュニック」も「シンラ」創刊後二年目の1995年1月号から「ノーザンライツ(北半球のオーロラのこと)」として連載が再開された。連載は彼の死によって中断されてしまったのだが、「シンラ」10月号に星野道夫レクイエムとして池澤夏樹(芥川受賞作家)が追悼文を書いている。星野と池澤の繋がりは、おそらく「マザー・ネイチャーズ」頃からの雑誌を通じての関係から始まったのではないかと思う。その追悼文の中で、星野道夫がアラスカへ定住することになったきっかけについて、びっくりするような事を書いていた。
 
 星野道夫とアラスカの関わりの一番の始まりは、神田の古本屋で見つけたアラスカの本に載っていたエスキモーの村の空撮写真に魅せられ、19歳の時にその村に行き、一夏を過ごしたことにあることは、彼の著書「アラスカ、光と風」で知っていた。しかし、すっかりアラスカに行ってしまうきっかけになったのは、中学以来の親友が山で死んだ事だったというのだ。星野がTと書いている友人は、1974年の夏、妙高連山の焼山の頂上でキャンプしているときに、10年以上活動の無かったこの火山の突然の噴火に巻き込まれ、仲間の二人と共に亡くなっている。そして、この時亡くなった3人は僕の同じ大学の同じ学科の3年先輩にあたる。
 僕が大学に入学した頃、学部の食堂の前にマロニエの木が植わっていて、誰かから登山中に亡くなった先輩がいる話を聞いた。マロニエは同級生が植えた追悼の記念樹だという。その木はおそらく僕が入学する前年か前々年に植えられたのであろうが、マロニエの日本名であるベニバナトチノキの名のとおり、薄紅色の花がまだ芽吹いて間もない黄緑色の葉陰に揺れていた。僕は当時珍しかったその花の写真を撮った覚えがあったので、古いアルバムを探してみたら少々色あせてはいたけれど、確かにあのマロニエの写真が出てきた。
 
 池澤夏樹の追悼文を読むと、星野道夫がアラスカの自然と同じように、ヒグマに対しても愛情を持ち、そして良く知っていたのが分かる。
 星野はアラスカのクマの中で最も危険なのは、マッキンレー国立公園のクマだという。大勢の観光客が訪れる国立公園では、本来、クマが人間に対して自然に保つ距離が取れない状況になってしまっている。人間との距離感が麻痺してしまっているクマとの遭遇は事故が起こりやすいというのだ。
 池澤は書いている。
 「彼は基本的に銃を持たない。銃を持つと銃に頼りすぎて、動物と対面する場面で必要な緊張感を失い、不用意な行動をしてしまう。その方が問題だと考えていた。グリズリーと何度も関わって、そのたびにグリズリーがその時々きちんと的確に自分の感情を表現するのを読みとっている。だから手の中に銃があるばかりに、脅威でもないものを脅威と妄想して撃ってしまう方を恐れた。クマを軽んずるのではない。クマに対して十分なだけの畏怖の念が彼にはあったのだ。」
 「シンラ」の記者によれば、事故の1週間ほど前、朝食時に一頭のクマが一行に気がついて近寄ってきたという。こういう時、普通、人が大声を上げたりすればクマは逃げていくのだが、このクマはいくらそうしても怖まず、石を投げてようやく追い払ったそうだ。
 そのクマがやっと立ち去るとき、星野は
 「イヤな奴だな」
とつぶやいたという。
 クリル湖畔はマッキンリーほど人は多く入らないだろうが、研究者などが寝泊まりするロッジも数カ所あり、ここのクマはかなり人に慣れていたようだ。
 
 イヤな感じがあったにもかかわらず、テントで寝ていたのはグループでの仕事で自分の空間が欲しかったからか。そして、どこかに安心感があったからか。
 アラスカで、しかもいつものように単独であったならば、こんなことにはならなかっただろうに。
 
          (中 略)
 
 今の僕の気持ちは、池澤夏樹が週刊朝日に寄せた星野への弔事が代弁してくれる。僕は、これを直接読んでいないのだが、カヌーストの野田知佑が雑誌「BE・PAL」の中で紹介していた。
 「アラスカに、カリブーやムースやクマやクジラと一緒に星野道夫がいるということが、僕の自然観の支えだった。
彼はもういない。僕たちはこの事実に慣れなければならない。残った者にできるのは、彼の写真を見ること、文章を読むこと、彼の考えをもっと深く知ること。彼の人柄を忘れないこと。それだけだ。」

 

 

 

- 1996.10.29 記 -      

 
 
 
●iMac 日本国内販売開始 - 秋葉原にて(1998.8.29)
 いよいよ待ちに待ったiMacの日本登場である。土曜日午後三時、秋葉原界隈のマック量販店では店内の化粧直しも入念に、iMac販売即売会を開催した。
 私がJR秋葉原駅に到着したのは午後2時30分。まず、この界隈で最大のマック店舗面積を誇るLaOXコンピュータMac館に足を運ぶ。週末来、関東地区は台風の影響で大雨にたたられ、おまけに午前中は震度4の地震。今日も雨が心配されたが、店の外はご覧の通り黒山の人だかりだった。このMac館は全5階の販売フロアがあるが各階にデモ用のiMacを並べて来店者に自由に触らせていた。iMacは全部で16台くらいあったろうか。CPUはG3の233MHzなので結構速い。ディスプレー表示もやっとDOS/Vマシン200MHzCPUクラスに搭載されるグラフィックカードに追いついた感じで、滑らかな動画を表示していた。使いやすさは今さら言うまでもない。テレビでも電源と電話線をつなげるだけというコマーシャルを頻繁に流している。
 店の前で列を作って順番待ちをしている客は、事前に予約をした人たちで且つ当日の買う順番用整理券をもらうために並んでいる人たちだった。このビルの裏まで列が作られ販売開始直前で40名程になっていた。一目iMacを見ようと詰めかけた人は圧倒的に若い人たちで、それもデザイナーなど自由業を生業としている人々と見受けられた。土曜日なのでネクタイ姿の人は皆無だった。秋葉原には、このお店の他めぼしい量販店や小売店などを2回、3回と周り、6時まで長居した。このLaOXマック館が最初から最後まで客足が途切れることなく、最後まで購入整理票を記入しているお客が店の受付にいた。
 LaOXマック館の次にソフマップに向かった。ソフマップのマック専用販売ビルはJR秋葉原駅を出て万世橋に向かう中央通りに面した、交通の便の良いところにある。ただ非常に細長いビルで5階の販売フロアを持ってはいるものの1階あたりの面積が細長い。店の外はやはり黒山の人だかり。入り口で整理券を配って狭い店内にむやみに入れさせず、順番に入場させて販売する方法をとっていた。このお店も各階にiMacをおいて自由に触れられるようになっていた。
 次に訪れたのは中央通りを末広町に歩いていった通りの右にあるT-Zone。ここも、店舗が狭いため、整理券を持たない一般の人は完全シャットアウトしていた。店内をかなり改造しiMacの受け渡しをしやすいようにしていた。店の外には人があふれていた。ツクモはiMacを売っているという触れ込みの看板が店の前にあったにもかかわらず、店内(地下1階のみ)にはデモ機もなく、お客もまばらだった。
 石丸電気は、普段は、総合パソコン館3階の一角でマックを販売している。マックの占める面積も同じフロアのWindowsより当然大きくはないのだが、この日は特別なイベントを行うでもなく、デモ機1台をエレベータの近くにおいて客にアピールしている程度だった。LaOXマック館(右写真)やソフマップが注文をひっきりなしに受けているのに比べ、繁盛している感じはなかった。
 店によって取り組み方がまちまちであったが、LaOXコンピュータマック館は、店員一人一人に至るまで客の誘導指示が徹底していて、見ていて気持ちがいいほどテキパキ応対していた。これまで、じり貧だったマックの販売を我慢しながら大きな店舗(コンピュータMac館)を縮小せず維持して、今回こうした大舞台に今までの損失を取り返すように、大きな店舗面積を有効に使って悠々と乗り切っていた(たくさんの客を消化した)感じを受けた。
 今日(8月29日)の朝日新聞では20面と21面両面による全面広告でiMacの発売をアナウンスし、販売しているお店を発表していた。これを見る限り、限られたお店での販売ということらしい。供給が追いつかないための販売制限らしいが、発売前に販売経路を巡ってトラブルがあったようである。お祭りに参加できない小口店舗が寂しげに店を開いていたのは印象的だった。
 これだけフィーバーしていているiMacであるけれど、自分はすぐにも買おうとは考えていない。ゆくゆくはと思うのであるが、私の目下の目標は、300MTG3の購入であり、これにたくさんのRAMメモリとVRAM、ウルトラワイドSCSI、ビデオボードをつけようと考えている。
 iMacの購入に踏み切れない理由の一つに、今まで購入した周辺機器をどうするかという問題がある。iMacの通信手段は100BASEのイーサネットとUSBのポートのみ。イーサネットで環境が組めて2台目を持つのならそれはそれで大いに価値がある。例えばうちの息子がインターネットをやりたくてコンピュータがほしいと言う場合。また、会社においてイーサネットのネットワークのみで使うならばそれも価値がある。私の場合は、会社と自宅を往復し、なおかつモバイルのDuo2300Cを持っているためこれらのコンピュータ間で頻繁にデータ通信を行うとなるとどうしてもSCSI通信による周辺機器を使わざるを得ない。もっともモバイルコンピュータをイーサネット対応にすれば、解決の道が拓けると考えるが。
 iMacが問題となっているのは、フロッピードライブまでそぎ落としてしまったこと。さすがにこの不満の大きさを心配したのか、iMacのデモ機の横には下のようなアナウンス(POP広告)があった。USBポートに接続して1.4MBのフロッピーも120MBのスーパーディスクも読み書きできるPanasonic のSuper Diskの案内である。定価\33,000で予約を受け付けるとあった。3.5インチベースのスーパディスクは次代の標準となるだろうか? CD、DVD、MO、ZIP、JAZ、FDDとメディアが多い中、これらを蹴散らして主導権を握るのは難しいと考える。
日本ならUSBで使えるMOが出ればこれが主導権を握る。これは間違いない。もしくはUSBで使えるCD-ROM及びライター、これも主導権を握る。アメリカならばZIP。イーサネットで直接つなげる周辺機器(MO、HDD、スキャナー)なんて出てくると面白いことになるのだが。
 
 
 さんざん秋葉原界隈を徘徊し、アップルの力を見させてもらった。帰りに念願であった35mmフィルムスキャナー(OLYMPUS ES-10S)を購入して秋葉原を後にした。
 
●8月30日 朝日新聞朝刊7面に掲載されたiMacに関する記事
 アップル「iMac」国内発売  - 新種のリンゴ 味も形も好評
 アップルコンピュータは29日、新鮮なデザインのデスクトップ型パソコンiMac(アイマック)を国内で発売した。マイクロソフトが資本参加を決めた約1年前は経営不振に陥っていたが、新製品の人気は上々。規模の拡大を追わず、的を絞った商品戦略が奏効したようだ。
 iMacは丸みを帯びた半透明なボディーを採用、これまで性能面だけで争われがちだったパソコンの世界にデザインによる競争を持ち込んだ製品と言われる。搭載した中央演算処理装置(CPU)も高性能なうえ、17万8千円と手ごろな価格。日本法人の原田永幸社長は「プロも満足する仕様なのに、一般消費者が求めやすい価格設定をした」と話す。
 発売と同時に各地の量販店前に長い行列ができ、札幌のパソコン店は発表後の約一時間で二百台を売る人気ぶり。既存のパソコン店だけでなく、音楽ファンの取り込みを狙って楽器店にも販路を広げた。15日に発表した事前予約だけで15万台に達し、売り切れ店が続出するなど好評だ。
 アップルは約20機種あった商品群を大幅に見直し、プロ向けのデスクトップとノート、一般向けのデスクトップとノートの四つの分類に的を絞った。経営悪化の要因だった在庫期間を昨年の約12週間から2週間程度に圧縮。マイクロソフトとの提携でマック上で動く応用ソフトの供給が増えたことも寄与した。赤字続きだったが、1997年10月-12月期以降は3・四半期連続で黒字になった。
(新聞に掲載されたカラー写真のコメント:発売記念イベントでiMacの周りに人だかりができた=29日、東京都港区で)

 

 
 
●頭の構造IQ、EQ - 社会構造がもたらす子どもの成長(1998.8.29)
 長いこと人間をやっていると、人間の思考形態、行動原理そのものに深く興味をおぼえるようになる。若い頃は、大人達の思考形態がわからなくて、彼らが非常に大きな存在だったが、自分が大人になって昔なじみの友達も大人になると、「あぁ、こういう人間がこういう大人になっていくのだな」と合点することが多くなった。結婚して2つの命を授かり、命の発達過程を目の当たりにし、今まで見えなかったことが見えてくるようになった。
 

 日本は、学歴社会とよく言われる。義務教育と高等教育を通して、学力に重きを置いた教育がなされ、「学歴」という勲章を得ることによって社会生活のシード権を得る仕組みになっている。日本人の80%が農民で、一部の公家を除いて、明治以降、より良い社会的地位を築いていくために人々は、『お金』か、さもなくば差別できる何かを設けて階層化した。その差別化が学歴だったのだ。日本の教育システムは、明治時代手っ取り早く西洋の教育システムを導入して作り上げた。もともと日本人は江戸時代から教育は盛んで寺子屋がたくさんあったが、それは必要最低限の処方的な生活上の智恵(読み書き算盤)であって、ステータスというほどに昇華したものではなかった。江戸時代、徳川家を補佐するブレーンとして昌平坂学問所を設けてエリートを育成した。しかし、これは広く門戸を開けたシステムではなかった。明治時代になると、官僚を育てる教育機関が必要となり東京帝国大学が設立された。

 

 人間の知恵が重きを置いていなかった当時、体力と腕力に優れたものがリーダシップを取った(戦国時代の武将は字を読むことも書くこともできなかった)。武器を使い始めると、こうしたものを器用に使いこなせ、そうした集団を統率できる人間がリーダになった。頭が良いというのがリーダの一条件となった。頭が良いという判断はいろいろな基準があるので一概に言えないが、知能指数という物差しも、頭の素性を図る上である程度の判断材料にはなる。要するに頭の回転である。物事を認識できる能力、記憶能力、推理能力、類推(るいすい)能力、帰納(きのう)能力、演繹(えんえき)能力などを言う。

知能指数は生まれながらに決まっており生涯大きく変化することはないという。
この事実はショッキングなことだが事実は事実として認めるしかない。
 頭の良さは、身長とか、駆けっこと同じで先天的にある程度決められたものであるので、頭が回転できる範囲で努力しなければならない。
 
 生まれつき足の速い人は、大人になるまで速く、遅い人が突然速くなることはまずあり得ない。速い、遅いは個体差によるもので、運動能力に優れた人(脚力があって筋肉を速く収縮でき、体全体を速やかに前進できる人)が速く走る。これは誰でも認めることであろう。私は小さいころから駆けっこが苦手であった。上背がなかったこともあり背の大きな同級生に比べるとかなりハンディがあった。40名ほどのクラスでの徒競走は遅い方の上だった。背の小さいことより足の遅いことの方のコンプレックスが相当なものであった。私の親父は身長が大きく(大正生まれで175cm)、足も速かったと聞く。私は鈍足で、それがとても辛かった。運動会当日が憂鬱であった。しかし、長距離走は得意であった。小学生の時、中学生と混じって長距離の駆けっこをして上位に入ってほめられたことがある。これは相当うれしくて自信につながった。小学校6年の時には町内会の長距離走で1番になった。物事に集中すれば結果はある程度見えてくるな、とその時そう思った。身体的ハンディキャップも努力すればある程度克服できると痛感した。それが自信につながって、中くらいの上程度だった学業が中学時代には上の上になった。成績が上がったのは、もともとある程度知能が発達していたからだろうと今になって思う。4歳当時は非常におしゃべりで大人でも言い負かしていたと言うから言語に関しては相当知能指数が高かったものと思う。たぶん私の場合、言語によって知能が育まれたと考える。そしてその知能がいろいろな方面に発展したんだろうと思う。知能(頭の血のめぐり)はあっても努力して積み重ねないと実力はつかない。この年になると、学歴ではなく、その人の知能がどの程度あるかがわかるようになる。その持って生まれた知能がどの程度自己研磨されたかも大体わかるようになってきた。
 
    『集中力と持続力』、これが私の一番好きな言葉だ。
 
 知能のある人は興味が湯水の如くあふれるから瞬時にいろいろな観点から物事を見ることができる、物事に対して集中できる能力をもっている。その集中力を途切れることなく続けていけるのが実力となる。
    実力 = 集中力 x 持続力
 この式は、物理で言うところの、速度 = 加速度 x 時間、 移動距離 = 速度 x 時間、に何となく似ている。
 知能があって十分な学歴がないと当人はかなり落ち込む。挫折する。劣等感にさいなまされる。社会的な犯罪や不良のボスはこうした知能の高い挫折した人間が多いのではないかと考える。また、学歴とは関係ないプロスポーツの一流選手も、相当知能が高く、且つ運動能力も高いと思う。
 知能があって社会的に認められない人間は、何らかの形で認められたいと思うようになる。出来得ればそれは社会が認めるような前向きなことであって欲しいのだが、多くは反社会的なことで名を成してしまう。
知能は、身長や駆けっこと同じく、先天的なことなのであまり無理をしてはいけない、させてはいけない、それを息子達に無理強いをさせてはいけない。だからといって努力を怠り、怠け者にしてしまって良いわけではない。できる範囲で努力をして人生を楽しませればそれでよい。普通の人が1時間でできることは、たいてい2時間もしくは3時間かければできるだろう。1/3の知能しかなければ3倍働けばよいのだ。普通の人より2倍も知能がいい人は、大抵2倍は働かない、1/2しか働かない。まれに4倍くらいの知能を持っていて普通の人より3倍くらい働く人がいる。だが、こういう人たちは、多くの場合12倍の見返りはない。自分自身の納得とプライド、生き様で生きている。金銭的、社会的な見返りがなく、納得できなければ納得できるレベルに落として人生を送る。
 知能指数に関して以下の参考文献がある。
 
IQ (知能指数)
 京都大学の学生は見事にIQで輪切りにされていて、その90%以上がIQ140台です。残りの10%の半数はIQ130台で、半数がIQ150以上です。
 IQ130台は200、300人に一人の割でしかいませんので、公立小学校のトップの知能です。実社会でも頭の切れる人で通るはずですが、京大の学生に混じると、ひどく間がぬけて見えるから妙です。
IQ140台は、千人に一人くらいですから、小学校では全校に一人しかいない大秀才ですが、それが京大に入ると平均的学生にしかすぎません。
 IQ150以上ともなると、一万人に一人ですから、同じ年に生まれた全国の子供たちの中から探しても、二百人もいない計算になります。このクラスになると、京大でもできる学生で通ります。
 一般にIQは生まれたときに決まっていて、生涯不変と考えられています。IQ120に生まれたら、小学校ではクラスで一番ですが、京大には間違っても入れません。IQ130で学年で一番なら京大に入れますが、落ちこぼれ学生になるだけです。IQ130の京大の学生がみるみるIQ150以上になって、クラスのトップになったという例は、まだ一度も見たことがありません。二十歳くらいになると、たしかにIQは固定化して、モーロクしないかぎり、生涯不変のように思えます。
 理論的教育で子供のIQを高くすることができることには、りっぱな医学的根拠があります。大脳生理学によると、脳ミソはオマンジュウのように二層になっていて、アンコの部分は呼吸とか消化作用といった、無意識でやる人体の作用をコントロールしています。オマンジュウの皮は大脳古皮質といって、動物や、人間でも赤ん坊のときは、この二層だけで脳ミソができています。古皮質の作用は、早く言えば暗記力で、犬でもかなりのことを覚えるし、小さい子供ほど暗記がうまいのは、すでに古皮質が生まれたときに完成しているからです。
ところが、人間だけは生まれるとすぐに古皮質の上に、もう一層のオマンジュウの皮が発達しはじめて、三重になるのです。この外側の皮が大脳新皮質で、だいたい十歳くらいでこれが完成すると、脳の細胞数は150億くらいになるのです。この細胞はシナプス(細胞結合)といって、10歳から15歳の間に形成されほぼ大人の脳として完成します。そしてこの10歳から15歳までのシナプス形成期に、子供を暗記ではなく、論理的に教育するとシナプスが増加してIQが上昇することがりっぱに証明されています。
 ー わが子といどむ中学入試 - 算数の巻 - 小野博通 1988.10.21 初版 筑摩書房
1941年、神戸生まれ、京都大学医学部卒、外科学専攻、医学博士
 
 【知能指数 IQについて】 胡説綜合科学研究所
http://www.cc.rim.or.jp/~tachi/simple/simple-9.html
司:センセ、前回の解答で「IQ」という言葉が出てきましたが、よく聞く割にはどういうものかよく分かりません。教えてください。
胡:「IQ」とはIntelligence Quotient の略で、日本語では「知能指数」といいます。これは知能の発達の程度を数値化したものですが、算出に用いた式は単純で、
   精神年齢(知能年齢)/実年齢 × 100
で表されます。例を挙げると、実際の年齢が10才で、12才程度の知能があるとすれば、IQは「120」です。また、8才程度の知能であれば「80」となります。
 精神年齢(知能年齢)は実年齢の人の平均をとります。
 ところで、式を見て考えればお分かりになると思いますが、実年齢が上がるに連れて高いIQをとることは難しくなりますし、また大人になってしまうと年齢が上がることと知能が発達することがイコールではなくなりますね。
 例えば、(式の上からは)1才の子がIQ200をとるためには2才程度の知能があればいいですが、20才の人がIQ200をとるには40才程度の知能がなければなりません。ですが、20才の人と40才の人を較べても、知能の発達程度に差があるでしょうか?
 ちなみに、IQを計るのは通常は15才までです。つまり、中学生までですね。実際に私も小学生のときに、学校で何度か知能検査を受けさせられた覚えがあります。結果はどうも親には知らせていたようですよ。
司:そういえば私も受けた覚えが。親は自分の子供のIQを知っているのですか? なんか嫌だなぁ。
胡:最近は「IQでは人は計れない」といって、”心の知能指数”なるものを提唱している人がおります。たしかEQといいましたね。しかし、「指数」といって数値を出し、人を計ろうとしているところが既におかしいと思うのは私だけでしょうか?
司:そういわれればそんな気も。どうもありがとうございました。

 知能は、知識を蓄える能力、それを関連づけて考える能力を言う。これらが優れた人は、瞬時に物事を判断でき複雑な現象にも十分に対応することができる。しかしながら、人間は、社会的な動物であり、人との関係を絶って生きていくことはできない。したがって、知能は、人間としての基本的な情感(喜怒哀楽)をも学習しなければならない。これがEQと呼ばれるものだろう。EQの尺度は算数の計算や、単語の記憶力と違って少し複雑だ。生まれ落ちた社会環境に大きく左右される。
大きな社会犯罪を調べてみると、罪を犯した人の生い立ちや環境が犯罪人に対して逆に犯罪を犯していることに気づく。だが現代の法律では、この環境の社会悪を取り締まることは難しい。どんな境遇におかれようとも手を上げた方が負け、なのである。
 最終的な人間の人間としての源流は、乳房に吸い付いて授乳するときに愛情を持って育てられたどうかで決まるような気がする。
 多くの社会学者が人間の根底を位置づけようと努力しているが、行動と思想の源流は、『母親の乳房』のような気がしてならない。

 

●西和彦氏 - 同時代を生きるスーパースター(1998.8.16)

 西和彦氏 - コンピュータを少しでもかじった事のある人ならこの名前を聞いたことがあるであろう。パソコンの将来性にいち早く着目し、パソコン時代を引っ張ってきた人。野心家、ロマンの持ち主。いろいろなことが取り沙汰されるのも彼のビックさ故のことであろう。
 私が面識も何もない西和彦氏の事を綴ろうとした理由は、一にも二にも彼が私と同年代(同じ年1956年に生まれ、同じ月2月に生まれたこと)というその理由だけである。利害関係も、恩も恨みも何もない。MS-DOSでは1ユーザとしてお世話になった。ASCII出版の本は結構たくさん読んだ。だが、Windowsではなくマックを使っているし、アスキーネットにも入っていない。
 この欄には、ビル・ゲイツ氏のエピソードも紹介した。西氏はビル・ゲイツにあまりにも近い人間だった。ビル・ゲイツとも同年代だった。20歳からの西氏の生きざまは、ビル・ゲイツを抜きにしては考えられない。彼との関係を簡単にくくってしまえばライバルだったのだろう。だが、共通する部分が多い分、相容れない反撥する部分も多かった。それはフィロソフィーというより、もっとプリミティブな、次元の低いというか、生まれもった性格から起因する生理的な好き嫌いのようだった。
 傍目から見る近頃の西氏は落ち目に見える。パソコン業界が彼の一言で決まってしまう時代から比べれば、今は一線を退いた感じを受ける。でも彼は、マイクロソフトの礎石を積み上げたし、彼の配下のものがリッパにマイクロソフトを切り盛りしているし、それに、彼は今後有望株のWindowsNTを持っている。
 最近、西和彦氏についてエピソードを綴った本
 『電脳のサムライたち〜西和彦とその時代』、滝田誠一郎、実業之日本社、1997.12.19初版
を読んだ。この本から、私が生きてきた高校時代の事や大学時代のこと、社会生活のことを、同じ時代に別の生き方をした西氏を通して検証することができて非常に興味深かった。
 私と同じ年代で有名な人物というと、江川卓、掛布雅之、大野豊、中野浩一、千代の富士、中村勘九郎、野田秀樹、桑田佳祐らを思い浮かべる。年代別に群像を特徴づけるのも危険が多いが、われわれの世代は、安保闘争で思いっきり自己主張した兄貴達の社会的なツケを払わされ、ニクソンによるドルショックとオイルショックによる驚異的な物価高騰の中で20歳の峠を越えた世代だった。マスキー法で自動車会社も排ガス対策で四苦八苦していた頃だった。明るい材料は無かった。と、このように私は社会を批判的に見ていた。しかし、西氏は、そんな風潮はどこ吹く風、自分の才能の赴くまま、利用できるものはシャブリつくすように利用しつくした。神戸の裕福な家庭で何一つ不自由なく育ち、自分の思うことは何でも思いのままにできると信じて生きていたようである。生い立ちからして自分と違うナと思った。自分も相当わがままなところがあり、何でも思い通りにならないと癇癪を起こした記憶があるが、家庭の違いからか人様に迷惑をかけないようにと祖父母、母親に徹底的に矯正させられた。それでもわがままに育った。西氏は家庭が良かったので矯正はなかったようだ。たとえば、こんなエピソードがある。
 
【米国での旗揚げ】1977年春、西は『I/O』の編集作業を放り出し、単身アメリカへ渡る。
西は、単身、パンアメリカン航空のサンフランシスコ直行便でサンフランシスコのシビック・オーデトリアムで開かれた第一回ウエストコースト・コンピュータ・フェア(WCCF)会場に乗り込んだ。興味関心の赴くまま、これはと目星をつけた人物をつかまえては話しかけ、最新の情報を聞き出し、立ち話で物足りなければ相手の会社にまで押しかけた。滞米中、コンピュータの関係の有力企業を見学して回っていた西が、そのうちの一社、インテル社の駐車場にチャーターしたヘリコプターで舞い降りた。"パソコンの天才"という形容詞とともに西の人物像が語られるときに、必ずと言っていいほど引き合いに出されるエピソードである。西和彦21歳の時の実話である。
 「いろいろな企業を見て歩くのにタクシーでは非効率だと思ったから、1日1,000ドルでヘリコプターをチャーターした。そうしたらあれは凄いやつじゃないかということで、改めてインテルから招待が来た。怖いもの知らずだったんでしょうね」(西)
 約1ヶ月のアメリカ旅行にかかった費用が300万円というから何とも豪勢だ。その300万円はすべて祖母にねだって出してもらった。西にとって、祖母はよきスポンサーだった。
   -  『電脳のサムライたち〜西和彦とその時代』、滝田誠一郎、実業之日本社
 
【西和彦の人となり 相似のビル・ゲイツと違う点】
 次から次へと新たな商売のネタを見つけては子どものように喜び、夢中になる。西のそういう性格は決して欠点とは言えない。むしろ愛すべき長所と言うべきであろう。西の西らしさの所以である。
 ただし、この西らしさが、彼の性格の別の面と結びつくと、事は少々やっかいなことになってくる。お金に苦労したことがないお坊ちゃん気質、関西風にボンボン気質というべきか、金銭面に関しては西は脇の甘いところがある。
 西が子どもの頃、何かほしいものがあると、なぜそれが欲しいのかを両親にきちんと説明し、両親を納得させなければならなかった。説明があやふやで納得できなければ、いくらねだっても両親は西のほしがるものを買ってくれなかった。そんなとき、西は最後には「欲しいものは欲しいねん」と泣くことになる。それでも駄目だと祖母の元へ駆け込み、祖母に泣きつき、祖母にお金を出してもらって欲しいものを手に入れた。
 何か欲しいものを見つけたとき、何かやりたいことを発見したときの西の発想、行動パターンは、大人になってもそう大きく変わっていない。「欲しいものは欲しいねん」であり、「やりたいことは、やりたいねん」なのである。
 アスキーを創業する際、西は父親に300万円出してもらっている。21才の西は、「出してくれへんかったら、死んでやる」と脅かして父親に300万円を出させた。
 東京で浪人生活を送っていた頃、早稲田での学生時代、そしてアスキー創業からしばらくの間、西のスポンサーは祖母だった。やれテレビが壊れた、冷蔵庫を買い替える、引っ越しをする等々と嘘を言っては祖母に送金してもらった。その金額が合計で数千万円にもなると言うから驚く。マイクロソフトの仕事を始めて日米を煩雑に往復するようになると、ごく当たり前のように飛行機のファーストクラスを利用し、日本ではホテルオークラを定宿として活動するようになる。アスキー、マイクロソフト両社の副社長とはいえ、20代の若者としては何とも贅沢だ。マイクロソフトがその費用を負担した。
 「日本でのマイクロソフトの売り上げの三割プラス経費が、マイクロソフトからアスキーに振り込まれると言うかたちになっていたから、経費に関しては自分の判断で使うことができた。当時、マイクロソフトの人間でファーストクラスに乗っていたのは僕だけだったかな。ビル・ゲイツも驚いていた。参っていた。」(西)
 ビル・ゲイツも裕福な生まれであるが、しかし、ビル・ゲイツについて書かれた書物を読む限り、その金銭感覚は西と大きく異なる。彼の両親、彼の祖父母は質素倹約を心がけていたし、ゲイツにもそう教え込んだ。実際、ゲイツもまた質素倹約を心掛けている。
 マイクロソフトを創業するとき、ゲイツは両親や祖父母が彼に残した信託財産のおかげで裕福だったが、ゲイツは自力で資金調達する決心をし、信託財産には手を着けなかった。ちなみに、自力資金調達の大半がハーバード大学の学友からポーカーで巻き上げたものであることは有名な話である。
 質素倹約はマイクロソフトの社是にもなっているようで、マイクロソフトでは不必要な諸経費や無駄遣いは許されない。そのゲイツからすれば、飛行機はファーストクラス、定宿は一流ホテルという西の金銭感覚はおそらく理解しがたいものだったに違いない。西とゲイツのこの金銭感覚の違いは、二人の間に生じる大きな亀裂へとつながる細かいヒビ何十本かになっているのである。
 金銭面に関して脇の甘いボンボン気質を持つ西、多才にして多感、多情な西。この二人の西が合体するとどうなるか?
 次から次へと新たな商売のネタを見つけては喜び、夢中になり、「欲しいものは欲しい」「やりたいことはやりたい」、その一心でどんどん資金をつぎ込み、突っ走っていくということになる。
 この西の欲求こそが、めちゃくちゃ元気なアスキーの素である。そして、この時期(1987-1991年)に西が欲したもの、やりたかったこと、それはビル・ゲイツに追いつき、追い越し、ビル・ゲイツを見返してやることだった。
     - 『電脳のサムライたち〜西和彦とその時代』、滝田誠一郎、実業之日本社
 ビル・ゲイツが西氏の才能を十分に評価しながらも、西氏からマイクロソフトの商権を取り上げたのも潜在的にはここらあたりが震源ではないかと察する。司馬遼太郎氏が書物の中でよくコメントされている言葉だが、憎しみは次元が低いほど大きいのである。大金持ちになってもセブン・イレブンに立ち寄って50セントのクーポン券でアイスクリームを割り引いて買い、ハンバーガーショップで食事をすますビル・ゲイツと、ホテルオークラに寝泊まりする西氏では互いの才能は認めながらも潜在的に相容れない点があるのも無理はない。最終的には、多角化するアスキーにマイクロソフトが干渉するようになり、その干渉を西氏が拒絶したためにマイクロソフトはアスキーから離れていく。
 しかし、ビル・ゲイツは西氏の才能を評価している。マイクロソフト社が駆け出しの頃、単身アメリカにやってきて副社長として切り盛りをした西氏の手腕や、日本市場でのMS-DOSの拡販に発揮した驚異的な手腕(売上高でアスキーは世界一)を認めていた。冷え切った関係に再び友人としてのヨリが戻った。以下はそのエピソード。
【ビル・ゲイツの結婚】
 1994年1月、38歳になったビル・ゲイツは5年越しの社内恋愛の末に射止めた製品担当マネージャーのメリンダ・フレンチと結婚、ハワイのマウイ島近くにある小さな島で結婚披露パーティを開いた。
 招待客はわずかに30名ほど。新郎新婦にとってかけがえのない友人、無二の親友だけを招いたごく内輪の、こじんまりとした結婚披露パーティだった。
 マイクロソフトの日本法人の会長である古河亨も、社長の成毛真も招待されなかったこの結婚披露パーティに、日本人でただ一人招かれたのが西和彦である。しかも、招待リストの順位は上から二番目。ビル・ゲイツにとって西の存在がいかに大きく、いかに重いかがわかるというものだ。
 ハワイで行われた結婚披露パーティーから2ヶ月後、1994年3月25日、西とゲイツは経団連会館(東京・大手町)で二人揃って記者会見を開き、アスキー・ネットワーク・テクノロジーを設立し、当面は西が代表取締役会長兼社長を務めると発表した。
 マイクロソフトと新たな関係を結ぶことになった西は、当時、これを「7年ぶりの国交回復」と表現したものである。
     - 『電脳のサムライたち〜西和彦とその時代』、滝田誠一郎、実業之日本社
 
 彼は神戸で、甲陽学院に通った。甲陽学院といえば兵庫県下、いや日本でも屈指の進学校である。多くの卒業生が東京大学、京都大学へ進学する。エリート中のエリートである。本の中には旺文社模試の件も出てくる。当時旺文社模試は入試模試としては最大規模で100,000人ほど受けたと記憶する。私は10,000番程度だったろうか。彼は6番だったそうだ。東京大学には3,000名ほど合格するから、西氏はどこを受けても合格間違いなしの成績だ。うちの高校で10番台に入った友人がいた。彼は旺文社から賞状と盾をもらった。われわれは彼を天才と見なしていたから、西氏も天才なんだと思う。だが、彼は東大受験に失敗する。1浪して再度受験するが、また失敗する。その失意は経験したものでなければわからない。才能のある西氏が世の中に自らの才能を示したいという強烈な思いは、ここらあたりがバネになっているような気がする。また、この本に書かれていなかったが、彼が甲陽学院に通っていたこと、このことも強烈な闘争意識を芽生えさせていたと考える。神戸には、全国一の進学校である灘高校がある。目と鼻の先に全国一の高校を見ながら、西少年は何を思ったか想像に難くない。自尊心の人一倍強い彼が何を思っていたか、・・・
 
【プライドと挫折】1975年3月、ビル・ゲイツがアルテア用BASICを完成させたちょうどその頃、西和彦は挫折感に打ちひしがれ沈んでいた。
 1956年2月生まれの西が、まさか落ちるとは思ってもいなかった東大受験に二度までも失敗し、冗談半分に受験した早稲田大学理工学部機械工学科に入学するのがこの年、1975年のことである。
 兵庫県の名門私立高校、甲陽学院高校3年の二学期、西は旺文社の模擬試験で学年トップになった。全国で6位。東大合格率75%と判定された。この結果に意を強くした西は、現役時代、志望校を東大理汕鼾Zに絞って受験する。自信はあったが、しかし、結果は失敗。西にとってはこれがはじめての挫折だったかもしれない。合格発表を見た後、お茶の水駅のプラットフォームに立っているとき、ふっと走り来る列車に飛び込んでしまいたい衝動に駆られたという。
 駿河台高等予備校の中山寮305号室で一年間の浪人生活を送った西は、翌年もまた東大理氓受験する。が、二度目の時はなぜか妙に緊張し、極度の緊張からか下痢になり、試験に身が入らなかった。それでも、まさか二度までも受験に失敗するとは思ってはいなかった。
「当然、受かっているものだと思って合格発表を見に行った。やっぱり、ない。ひょっとしたらコンピュータのミスで理。にあるかもしれないとか思って見に行った。あるわけがない。それでもあきらめられなくて文氓ノ行って、文も、文。もみんな見た。どこにも名前がなかった。」
 夢はまた無惨に破れ、挫折感、劣等感などなど、屈辱的な思いを胸に、1975年、西は早稲田大学に入学するのである。
 二度の受験戦争に負った精神的痛手も手伝っているのだろう。型どおりの大学の講義は西の知的好奇心を満たしてはくれなかった。わずかに刺激することもなかった。そんな知的欲求不満を癒してくれるのがコンピュータだった。
 大学一年の時から研究室に潜り込み、3500万円もするミニコンピュータを使って『テニスゲーム』を作って遊んだりするような学生だった。研究所の教授に頼まれて大学院生の卒論を指導したなどというエピソードも残っている。
 海外のコンピュータの専門誌を読み漁り、秋葉原で買い込んだ電子部品をあれこれいじっては時の経つのを忘れ、ときには日給70,000円という破格の条件でマイコンを使った電子回路の設計・製作のアルバイトをし、アルバイト代が入ると秋葉原に出かけて新たな電子部品を買い込む。そういう学生生活の延長として1976年11月には『I/O』を、そして翌1977年5月にはアスキー出版を設立して『ASCII』を創刊することになるわけである。
    - 『電脳のサムライたち〜西和彦とその時代』、滝田誠一郎、実業之日本社
 
【甲陽学院時代と社会人時代の西】 西和彦は1956年2月生まれ。 祖父は私立須磨学園(神戸市)の創立者で、祖父母、両親共に同学園で教鞭を執っていた。母方の家計には医学者が多く、江戸中期の蘭方医として名高い杉田玄白に医学を教えた先祖もいる。教育者の家系であったことに加え、住まいが学園の敷地に隣接していたこともあり、西はきわめてアカデミックな環境の中で育った。
 自宅は鉄筋コンクリート三階建て。部屋数20室。ドイツの建築雑誌でそのデザインが表彰されたほどの豪邸だったというから、これまたかなり裕福な家庭だったようだ。 飛松中学から私立の甲陽学院高校、そして一浪の末に早稲田大学理工学部に入学するのが75年。大学を休学してアスキー出版を設立するのはその二年後のことである。
 ちなみに、コンピュータとの出会いは甲陽学院高校1年生、15歳の時だという。
「一番最初に使ったのは、ワルサーという西ドイツの鉄砲の会社が作った電子計算機。高校の天文部に所属していたので惑星の軌道計算に使ったりしていた」(西)
 東大受験に二度失敗したとはいえ、西もまた並外れた頭脳の持ち主だ。IQ191というから、それこそ天才といってもいいのかもしれない。
 「IQは抜群に高かった。先生が『おかしい』とかいって、もう一回やらされた。そうしたら二回目は200いくつだった。先生が『やっぱり、おかしい』というの。IQの高さに比べて成績が悪すぎるっていわれた。で、結局IQ150ということにされた。それでも学年で一番高かったけど。小学校の3、4年の頃のことですね」(西)
 性格は西もビル・ゲイツも負けず劣らずアグレッシブだ。一番でなければ気がすまない性格であり、一番になるためには周りを蹴散らしてでも突き進んでいく攻撃性の持ち主である。
 若き日の西は"パソコンの天才"と称された。彼が天才かどうかはともかく、天才肌であることは間違いない。多才にして多感、多情、多産である。
 甲陽学院時代、西は物理部、天文部、英語部、エスペラント部、美術部、写真部、図書部、グリークラブに属していたという。
 この事実は、多才にして多情な西の性格をよく表している。と同時に、彼の人間関係のあり方を説き明かす糸口にもなりそうだ。
 自分の高校時代を思い出してみればわかるはず。自分のクラブに、六つも七つも掛け持ちで他のクラブに入っている部員がいたとして、そういう人間を同じクラブの一員として認めることができるかどうか。仲間として迎え入れ、胸襟を開いて青春のよもやま話に興じることができるかどうか。
 多才で多情でありすぎたために、さまざまな人と関わりながらも西は常に孤高の人であり、孤独な存在であったのではないだろうか。
 高校時代のクラブ活動さながらに、ビジネスの場における西の活動も実に多才、多様である。郡司明郎、塚本慶一郎(現インプレス社長)らとともに月刊誌『ASCII』を創刊(1977年5月)したかと思うと、その翌年には出版事業そっちのけでマイクロソフトと組んでソフトウェア事業に乗り出す。やがてはヤマハと組んで半導体事業を立ち上げる。さらには独自にネットワーク事業に取り組む等々-----。
「いいパソコンを作りたい」という夢を持ち続けている西は、ハードウェアのデザインに熱中していた時期もある。そのため、"日本のスティーブ・ジョブズ(アップル社の創業者)"などといわれたりもした。
 しかし、ビル・ゲイツにはスティーブ・ジョブズになる気持ちなどさらさらなかった。1983年、朝日パーソナル・コンピュータ・ショーで基調講演を行ったビル・ゲイツは、その中で次のように語っている。
「アップル社を設立した私の友人スティーブ・ジョブズは大きな成功を収め、最近ではアメリカの200人の富豪の一人に数えられたほどで、彼はよく私たち(ビル・ゲイツとポール・アレン)も彼と同じ仕事をやっておくべきだったと冗談をいいます。とはいえ、私たちは別に後悔はしていません。マイクロコンピュータの今後の進歩の鍵を握るのはソフトウェアであり、そのソフトウェアの可能性を制約するのは唯一想像力だけだからです。」
 マイクロソフトはあくまでもソフトハウスである、というのがビル・ゲイツの鉄の信条だ。革新的なソフトウェアを開発し、そのユーザーをサポートすることこそがマイクロソフトのビジネスだという考え方は、今も少しも変わらない。
 そのビル・ゲイツにしてみれば、精力的に事業分野を押し広げていく西の多情さがあまりに極端、あまりに性急、あまりに危ういものに見えて仕方がなかったのだろう。
 自らの信念と異なる方向に進みはじめた西を、そしてアスキーを引き止めよう、引き戻そうとして、ビル・ゲイツはさまざまな策を講じる。
   - 『電脳のサムライたち〜西和彦とその時代』、滝田誠一郎、実業之日本社
 そのビル・ゲイツはアメリカ200人の富豪の一人どころか、世界一の大金持ちになった。ハードよりソフトの方がビジネスでは大きなチャンスがあったということになる。西氏は週間アスキーの雑誌の最後のページに彼のビジネススケジュール(西和彦のデジタル日記)を掲載させている。新聞で首相の1日のスケジュールが掲載されてるが、あれよりも事細かに掲載されている。記事は1ヶ月程度古いスケジュールを載せているが彼の行動が手に取るようにわかってしまう。相変わらずビックな振る舞いをしている。 
 パソコン市場も大きくなって個人プレーはしずらい時代に突入した。今後の西氏の活躍も興味あるところである。
 
●G3マックとPentium II(1998.8.03)
 昨日、週間アスキーを買った。マックに関する特集が組まれていたからである。ASCIIもマックの特集を組むのは、EYE.COM時代から数えても実に9年ぶりだと書いてあった。それだけ、アップルが元気で好調なためだろう。その記事の中に、アップルが米国で宣伝しているカタツムリが運ぶPentium IIのコマーシャルが出ていた。アップルによれば新しいマックのチップPowerPC750はPentium IIに比べ倍以上のスピードを持つのだそうである。8月中旬には366MHzまでクロックを上げたチップを搭載したマッキントッシュの発売があり、秋には400MHz以上のマックが発売されるとか。
 
Pentium IIよりも速いPowerPCチップの宣伝。
(http://www.apple.com/hotnews/features/ads/bunny.html)
 
 これだけ速くなると、グラフィックスや画像処理を行うユーザにはたまらないだろう。逆にワープロ程度しか使わないユーザは宝の持ち腐れになってしまう。しかし、この高速コンピュータにWindowsのエミュレーションソフト(Soft Windows95 ver.5.0とかVertual PC2.0)を入れてWindows環境で使う場合はそうでもない。G3 Mac 266MHZでSoftWindowsを起動させOfficeを動かした際の体感スピードはPentium 200MHz程度と言われている。これならマックでWindowsが十分使える範囲である。
 G3Macを買って、Soft Windows95を入れ、通信はPC MACLANで行う。これでWindowsと相互の更新ができる。最近は、Office、Photoshop、FileMakerなど主だったソフトは双方のアプリケーションで使用できるので、好きな環境でデータを作ればよい。
 
Pentium IIと速度比較。
 
 G3マックで忘れてならないのは、チップの消費電力の少なさ(G3266MHzチップは7.9W)である。Pentiumの多くは、チップに冷却用のファンがついているのにG3チップはそれがない。且つ非常に小さい。PowerPC750(G3チップ)の大きさは67mm2でPentium IIの203mm2に比べると約1/3の大きさ。消費電力も1/3と電気を食わない。しかも速度は2倍。消費電力の低さとチップの小ささはノートブックにとって大きな魅力である。現在の所、PowerBook G3 292/14"はノートブックの中で世界最速であると言われている。このチップに勝てるPentium IIは700MHz相当と言われているし、ノートブックに搭載するには熱の問題、バッテリー寿命の問題があるから、当分これを凌ぐWindowsマシンは出てこないのではないかと考える。米国FBIでは、このPowerBook G3を公式コンピュータに決めたそうである。理由は、チップが高速であるため、Soft Windows95を搭載しても実用に十分に耐えるということと、Windows、MacOS、UNIXの好きなOSで使えるためとしている。
 
●Windows98のリリース(1998.8.03)
 7月25日、日本でも、「Windows98」が発売された。秋葉原、新宿、渋谷など大手コンピュータショップが立ち並ぶ地域では深夜0時に盛大なセレモニーが開かれた。私は当日、会社の仕事が深夜に及び、11時45分頃JR秋葉原駅を通った。下車して様子を見ようという気はさらさらなかったが、JR京浜東北線の車窓から秋葉原の様子をチラリと見た。いつもより界隈の明かりは多めについていたような印象で、人もちらほら歩いていた。後でインターネットの関連サイトを見て回った情報によるとかなりの盛況だったようだ。3年前の1995年に比べて遜色ないくらいの出だしであるとか、業界の活性に強い期待、というような記事が踊っていた。
 発売当日、ソフマップ5号店では、Windows98を1000本を販売したという記事も見られた。だが、発売の雰囲気が3年前のWindows95と同程度というのが今回のWindows98の特徴を物語っているような気がする。3年前に比べWindowsのユーザは爆発的に増えており、それに比べ同程度の盛り上がりでは割合的に見て少ないのではないか。(野村総合研究所によると、1997年の全世界のパソコン出荷台数は8,400万台、内マックは250万台とのこと)
 1週間たった今でも、私の周りでWindows98を購入した人は誰もいない。会社でもWindows98をインストールした人はいない。Windows98の話題すらない。仕事上仕方なしにWindowsを使っている人が圧倒的だし、Windows98の御利益があまりなく、OSを入れ換えることによるトラブルを考えると腰が引けてしまうのがホントの所だろう。また、前の環境を損なわないようにOSを再インストールできる人間はそんなにたくさんいない。Windowsユーザの8割以上は中身をいじらずに使っているのではないか。こうした状況では、Windowsをちょっとした知った者にOSの再インストールを依頼するケースが増えてしまう。一人や二人ならお手伝いもするが何十人とやらなければならない場合は、ゾッとする。会社のネットワークにつながったWindowsは何十台とあるから、これを入れ換えるのは並大抵ではない。おまけに正常に動く保証などない。米国の会社では、社員に対しOSをWindows98に換えることを禁止し、勝手に換えた場合はクビにするという通達を出しているところもあると聞く。理解できる話である。
 また、Windows98でなければならない理由も今のところ特に見あたらない。システムの安定さという点ではWindowsNTの方が上であるし、そのNTもバージョンアップが噂されている。
 マイクロソフトは、Windows98の発売と同時にインストールによる問い合わせ電話が殺到しパンク状態であるという。電話の内容の大部分がプリミティブ(基本的)なことであるため、急遽新聞広告でFAQ(よくある質問の応対)を掲載したという。
 こんなわけで、私の周りのものが私にWindows98を見せてくれるのは相当先のことになりそうである。

 

●我が敬愛するクレイ(Seymour Cray)氏のこと(スーパーコンピュータの系譜)(1998.6.20)
 強いアメリカの象徴、スーパーコンピュータの父、セイモア・クレイ氏が交通事故死して2年が経とうとしている。今年の春にこのクレイ氏に関する翻訳本が出版された。
  『スーパーコンピュータを創った男 - 世界最速のマシンに賭けたシーモア・クレイの生涯』
    チャールズ・マーレイ著、小林 達監訳、廣済堂出版 1998年4月30日初版
 科学計算処理にのみ特化し、シミュレーション計算、国防に威力を発揮したクレイ・リサーチコンピュータ。その創設者であるセイモア・クレイ氏の生涯を紹介した本である。
 氏の人となり、スーパーコンピュータにかける情熱。スーパーコンピュータを取り巻く世界情勢が詳しく紹介されている。
 クレイが、最初のスーパーコンピュータを手がけたのは1960年。自分の会社クレイ・リサーチ社を設立する前に勤めていたCDC(Control Data Corporation、ミネアポリス)という会社で、彼が35歳の時である。CDC社は、UNIVACコンピュータで有名なスペリー・ランド社からノリスらによって1957年に独立した会社である。クレイも勿論スペリー・ランドからの転職組である。彼の開発したスーパーコンピュータはCDC1604と呼ばれ、世界で初めてトランジスタを採用していた。このマシンは当時世界最速のマシンであり、5us(0.2MHz)というクロックを有していた。また、真空管を使ったUNIVACよりはるかに小さなキャビネットラックサイズのスーパーコンピュータとなった。CDC1号機はカリフォルニア州モンテレーの海軍大学院に導入された。その直後に、イリノイ大学、ノースロップ、ロッキード、規格基準局、そして核兵器開発用にイスラエルにも販売した。CDC1604は、マシンの命令セットが並外れて明瞭でかつ単純だった。この特徴もCDC1604が世に認められ、名声を不動のものにしていったひとつである。
 彼の立派なところは、自ら設計した設計図を、ハンダゴテを使って自ら製作を手がけたことだった。米国人技術者の間では、実験回路を組み上げるのは技能工の仕事だと考えている。技術者たちは回路を考え、設計し、それらを評価し、テストする能力にプライドを感じているが、製作は技能工に任せてエンジニアはこの種の仕事をしない。しかしクレイはそれを許さなかった。クレイは構成部品に触り、組み上げ、テストし、理解することが好きだった。これがまさにセオモア・クレイの流儀だった。上司は彼の自信と細部への注意力、そして知識の広さに注目した。クレイの下で働く技術者は啓発されると同時に挑戦でもあった。彼の働きぶりは尋常ではなく、いつも真夜中を過ぎてからも仕事をした。いい加減な決定をしたり愚かな質問をする技術者に対しては、すぐに堪忍袋の緒を切った。統括者として、彼の予想通りに仕事が進んでいないとその仕事を取り上げてしまう癖があった。痛烈な皮肉を言い、短気でもあり、考えにふけると周囲には目もくれなかった。しかし、まじめに仕事をする部下に対しては概して寛大で、彼らの犯したミスを自分でかぶることがあった。
 彼は、CDC社でトランジスタを使ったスーパーコンピュータを世界で最初に開発したが、当時トランジスタは高価だった。真空管が1ドルしたときトランジスタは6ドルもした。クレイは電子ショップを探し歩いて1ヶ37セントのゼネラル・トランジスタ社製のトランジスタを見つけた。彼は値段が気に入って店の在庫を全部買い求め、それを工場に運び入れた。彼は、このトランジスタがどうして安いのか気づくことになる。それらの電気特性が全く不揃いで、広範囲にばらついていた。同じ性能を持つものは二つとなかった。トランジスタについての知識を持つコンピュータ設計者で、生の速度に基づいてトランジスタを選別した者などこれまでほとんどいなかった。彼らは実際にトランジスタをひとつずつテストして、それらの値を見てもっとも速いものだけを選んだ。しかし、クレイはそのような贅沢はできなかった。彼が買ったトランジスタに速いものなどなかった。そこでかれは論理回路の許容範囲を広く設計した。彼は自らハンダごてでトランジスタ回路を組み上げていった。
 ほとんど毎日、クレイは夕食時に工場である倉庫を離れ、約13Km離れたブルックリン・センターにある湖畔の自宅に車で戻った。彼と妻のヴェリーヌには小さな子供が三人いて毎晩必ず家族と一緒に夕食をとった。クレイは10時半頃まで家で過ごし、それから車に飛び乗って倉庫に戻り夜遅くまで論理回路についての仕事を続けた。
  そこには彼が大事にした静寂があった。
ついに彼は、トランジスタを二つ使うだけで従来のコンピュータ回路のどれにでも使える基本回路を思いついた。彼は、電流または電圧のゲインを絶えず増やすという方法で、これらの基本を同時に作動させたのである。
 CDC1604の成功の後、次の主力機種6600を開発する。CDC6600はクロック周波数が10MHzにまで高速化され、ナショナル・セミコンダクターが開発した高速シリコントランジスタ(従来はゲルマニウム)を採用していた。高速化のために論理素子を結ぶワイアをできるだけ短くした。それでもマシンから排出される熱は凄まじいものがあった。ワイアを短くするとトランジスタを互いに接近させる必要があり、実装密度が高まり発熱量が増大した。クレイは発熱の問題を解決するため、機械技術者のM.ディーン・ラウシュを担当させた。ラウシュは市販の冷凍庫で使われているような冷媒冷却システムを使って電子部品の間に這わせた冷却用の循環チューブを回路基板と物理的に接触させた。
 CDC6600の成功はアメリカの外交政策に影響を与えるほど強力だった。超高速コンピュータは、アメリカを兵器開発競争の最先端に押し上げた。他の国は実際に爆発させることでしか実験できないのに、アメリカの科学者たちは超高速コンピュータによって核実験をシミュレーションできるようになった。コンピュータをこのように使えることを知って、アメリカはソビエトに対して核実験やこれまで不可能だった兵器シミュレーションの最新技術で優位に立てることを理解した。国務省は、フランスが核兵器計画に6600を使用することを恐れ、フランスへの輸出までも阻止した。
 
 彼は、仕事に全生活をかけ、彼の生まれ故郷、ウィスコンシン北部チッペワ・フォールズ(Chippewa Falls)でクレイ・リサーチを設立する。この町は非常に小さな町で、目抜き通りに2、3の銀行があるほか、デパート、パン屋、薬局、カフェが一軒ずつ、そして数件の酒屋がある程度の町だった。彼は、CDC社でスーパーコンピュータ成功によって会社の実質的なトップとなったが経営には全くと言っていいほど無頓着だった。経営は、CDC社創設の一人ノリスに任せきりだった。ノリスは、IBMがビジネス用に成功し始めたコンピュータ分野にも参入したいと考えクレイに相談した。ビジネスコンピュータは英数字を扱うことを得意とし計算スピードは遅かった。スーパーコンピュータは計算だけに特化しスピードは速かった。彼にとってスピードこそが聖域であった。クレイは経営陣を無視しCDC1604の50倍のスピードを持つマシンを開発することに神経を集中させた。結局、ノリスはクレイの頭脳をあきらめ、別のグループにこれを任せざるを得なかった。こうした状況の下、ミネソタのCDC社では落ち着いて開発に集中できないとして、生まれ故郷ウィスコンシン州北部チッペワ・フォールズ(Chippewa Falls)に彼の開発部隊を移してしまう。これが、後、クレイ・リサーチ社の母胎となる。
 
 クレイ・リサーチは東西冷戦構造下で急成長を遂げる。
 
 1984年 クレイは、ガリウムひ素を用いた新しい素子のスーパコンピュータCRAY-3を着想。しかし、ガリウムひ素は製造技術が確立していずこれを使ったコンピュータ開発は失敗に終わった。トラジスタを用いたスーパーコンピュータで先鞭をつけたクレイだったが、このプロジェクトは失敗に終わった。
 1988年 クレイ・リサーチ社は、C90、セオモア・クレイのCRAY-3の開発費の膨張に伴い。クレイのグループをコロラド・スプリングスに移転する事を決定した。1989年末には、そのコロラドスプリングスのクレイ事業所をクレイに移譲し、クレイ・コンピュータ・コーポレーションが発足した。設立にあたりクレイ・リサーチは1億5000万円の約束手形を支払う約束をした。クレイは新しい会社で再びガリウムひ素を使ったコンピュータ設計に取りかかった。当時は、この素子を製造するメーカが少なく納期もかかったので、1990年8月コロラド・スプリングスの工場にガリウムひ素ウエハー工場を作った。
 1993年になるともはやスーパーコンピュータのユーザは純粋な性能だけを求めなくなった。費用対効果を求めるようになったのである。冷戦が終わってエネルギー研究所の苦難が始まり、ユーザーには独自のOS(オペレーティング・システム)を書く時間も人員もなく、新しいマシンを導入する度にソフトウェアを書き直す資金もなかった。顧客は、互換性、信頼性、ソフトウェア、そして期限通りの納入を求めた。60年代には顧客が一日に7、8行というのんびりしたペースで数十万行に及ぶOSを書いていたことなど今から思うと信じられないことだった。彼らは自分の完璧なマシンを作るために自分たちでOSを作り、より速いマシンを手に入れるためならば、金に糸目を付けなかった。
 しかし、そういう時代は終わったのだ。人々は1ドル当たりのフロップス(FLOPS:1秒当たりの浮動小数点演算)について語るようになり、この業界はもっとも屈辱的な方法によって経済の厳しい現実に対応した。
 1995年3月24日 クレイ・コンピュータ・コーポレーションは倒産した。資金調達困難に陥りCRAY-4完成を見ずに閉鎖された。クレイ・リサーチ社はまだ生き残りT90というパワフルなマシンを1995年半ばに発表して、他のメーカー(ETAシステムズ、ケンドール・スクエア・リサーチ、SSI)が倒産していく中、勢力を拡大した。T90は毎秒60GFLOPSで作動した。このマシンはマクロプロセッサを使用して超並列のマシンを作り上げた。この超並列マシンはこの市場を席巻したが、もはやこの市場は権威のあることではなかった。同じ年にクレイ・リサーチは2億2600万ドルという膨大な赤字を計上した。技術の成熟、冷戦の終結、パソコンの君臨といった要因の全てが、クレイ・リサーチをはじめとするメーカーに逆風となった。1996年2月、セオモア・クレイ氏のいないクレイ・リサーチ社はシリコングラフィックスに買収された。

 1996年始め セオモア・クレイは新しい会社を設立するために動き始めた。会社の名前はSRCコンピューターズ(セオモア・ロジャー・クレー・コンピューターズ)。インテルのマイクロチップを512個使い、超並列コンピュータを作る予定だった。演算速度は1TFLOPS。CRAY-1の12,000倍である。

1996年9月12日日曜日 セオモア・クレイ氏死亡。70歳

 日曜日の午後、地元の店でソフトウェアを買って帰る途中、クレイの乗るグランド・チェロキーは別の車に衝突された。クレイの乗った車は三回転し、国道25号の真ん中でやっと停止した。首を骨折し、頭に重度の外傷を受けたクレイは二度と意識を戻すことはなかった。2週間後クレイは自動車事故で受けた怪我によって他界した。
 
--------- この本を読んで興味深かったこと:
 アメリカは国を挙げて先を争うようにコンピュータを買い求めた。第二次世界大戦とその後の冷戦を通じてコンピュータの需要を高めた。スーパーコンピュータも、一人の天才が自らの信念にのっとり、生活のすべてを賭けて死ぬ直前まで前へ、前へと突き進んだ。スーパーコンピュータはスイッチング素子と論理回路の究極的な高速性能を求めたものであり、1980年代後半は日本のコンピュータメーカの参入で競争が激しくなり、パソコンの普及によるCPUの性能がスーパーコンピュータの領域を逼迫させ、東西冷戦の終焉でその需要が激減した。それにしてもクレイの生き様は、アメリカの平均的な生き方からほど遠く、こうした人もアメリカにいるものだと感心した。ことを成す人というのはこの種のがんばりを兼ね備えてもいるようである。ビル・ゲイツがポール・アレンとBASICをパソコンに移植したときもMITで徹夜状態であったし、インターネットブラウザ「MOSAIC」を書き上げたマーク・アンドリーセンもイリノイ大学NCSAで徹夜をして書き上げた。ただ、彼らは独身で若いときに人生大一番の賭けに出て成功し巨万の富を得たが、事業が安定すると経営にも手を染め始める。クレイはこれを徹底的に嫌った。人前に出ることも嫌った。講演もめったに行わなかった。生涯ひたすら速く走るコンピュータのアーキテクチャとその実現に向けて静かに、深く燃えた。
 
●G3マック MT266の消費電力は1KW!!!(1998.5.25)
 今年の夏場に向けG3を買おうと、心身共に充実した日々を送っている。先立つものもボチボチと雨だれを穿(うが)つような貯蓄ができ、これが達成した暁には夢実現である。日々カタログに目を通し、スペースだの電源だのあれこれ楽しくやっている。
 だがっ、待て。
何気なく目に止まったカタログの値に思わずビックリした。MT266の消費電力がなんと960W(ピークで1070W)と書いてあるではないか!!。
これはDT266の230Wに比べあまりにも大きな大きな値だ。DT266とはビデオボードの違いだけでこれだけの消費電力を食うのだろうか。我が家は、契約電力を40Aにしてるが、電気を食う家電製品が結構たくさんのあり(電子レンジ、洗濯乾燥機、ハイビジョンテレビ、ドライヤー、エアコン2基、1KWの電気掃除機など)、これに大食らいのMT266が加わればいつ何時ブレーカが飛ぶかわからない状況になる。ハードディスクが起動しているときにブレーカが飛ぶことを考えるとぞっとする。
 いろいろ悩んで、会社の仲間に聞いたり、量販店のお店に行って聞いてもらちがあかなかった。そんなとき、インターネットでG3マックについて、ユーザであり技術的に詳しいZap2氏のホームページ(G3 Macs are Go!)を知って藁をもすがる思いでメールを出した。勿論、アップルにも取りあえずメールは出した。が、どこが適当な部署がわからないのでそれらしきところから転送してもらおうとしているが、これは望み薄だろう。
 Zap2氏は実に親切に実験をしその結果の回答を寄せてくれた、のみならず自らのホームページにこの件を紹介してくれた。
 
Zap2氏からの回答:
先ほど実際に測ってみました。
  Power Macintosh G3/MT/266純正構成(HDD, FD, Zip, CD-ROM, etc)
  + SCSI Card: Adaptec PowerDomain 2940UW (max. 7.9W)
  + HDD: Micropolis 4345WS (seeking avarage 12W)
  + 追加冷却ファン 6ヶ (定格値の合計で7W前後)
と言う状態で、起動中及びFD, CD-ROM, Zipへのアクセス中の
AC 100V 入力電流を計測しました。
  1. 待機中:200mA
  2. 起動中:0.52-0.56A 2台のハードディスクが回転し、
   そのうち1台からシステムが読み込まれている状態
  3. 起動終了時(操作無し):0.48-0.51A 2台のハードディスクは回転中
  4. CD-ROM挿入直後:0.61-0.65A メディアを挿入し、ドライブがスピンアップしたとき
  5. CD-ROM spin-up完了後:0.53-0.56A HDD, CDは回転中
  6. Zip spin-up完了後:0.56-0.59A HDD, CDは回転中
  7. FD spin-up完了後:0.56-0.61A HDD, CD, Zipは回転中
マウスとキーボード以外の外付け機器は全て外してあります。
と言うわけで、特別なことをしない限り0.6A前後の測定結果となりました。
 
Zap2氏の実験で、コンピュータというのは(というよりPower PC 750チップは)思ったより電気を食わないものだと変な感心をした。もっとも小さな消費電力といえども小さなマイクロチップでは細い線幅で網の目のような回路を強烈な電流が流れているわけだから、冷却をちゃんとしないと温度上昇により致命的な損傷もまぬがれないだろう。いずれにしてもZap2氏のご厚意に心より感謝したい。この結果から、我が家でG3マックMT266でも電力を心配することなく使用できることがわかった。
 
 
●iMac 低価格、インターネット特化のマッキントッシュ登場(1998.5.7)
 5月7日、Appleの米国ホームページに、iMacの発表が載っていた。教えてくれたのは会社のマックフレンド Y。G3 233MHzのマイクロプロセッサーを搭載して、モニター一体型。Performaよりもっとコンパクトなデザインでモニタのみという感じ。仕様と金額を見て、これはイケルと直感した。
 翌日の朝日新聞にも異例の記事が載っていた。
【朝日新聞】1998.5月8日朝刊
低価格で高性能のデスクトップ投入 - 米アップル、8月に
米アップルコンピュータは六日、低価格のモニター一体型デスクトップパソコン「iMac(アイマック)」を今年八月から全世界に一斉に発売すると発表した。上位機種に搭載されている「G3」を低価格で提供することで、巻き返しを図りたい考えだ。
 「iMac」はCPUに230メガヘルツのパワーPC G3を搭載。15インチモニタ一体型。価格は$1,299(約\170,000)を予定している。
 
米国アップルによると、「iMac」は、Performaと同じコンセプトで買ったその日からコンピュータを起動でき、インターネットに必要な性能はすべて兼ね備えているという。主な仕様は、
・CPU: Power PC G3 233MHz
・キャッシュメモリ: 二次バックサイドキャッシュ512KB
・RAM: 32MB SDRAM(128MBまで拡張可能)
・HDD: 4GB
・OS: Mac OS 8.1
・モニタ: 15インチカラーモニタ
・CD-ROM: 24倍速CD
・イーサネット: 10/100BASE-T
・モデム: 33Kbps
・スピーカ: ステレオスピーカ(SRSサウンド)
・USB(Universal Serial Bus): 標準装備(128Mbps)
・IrDA(赤外線通信): 標準装備(4Mbps)
・付属品: キーボード、マウス、その他、すべての Macintosh に付属する付属品
この仕様を見ただけで、現在の最高級の仕様が盛り込まれていることがわかる。特にG3コンピュータは、その速さは定評があり、Mac OS8.1と相まって快適なコンピュータライフを約束してくれるものと思う。推奨価格が$1,300で、$1,000パソコンが喧しい昨今にあって、よくぞ値をつけたなという感じである。Gateway2000のP6 300MHzでもコンピュータだけで\220,000するから、価格的にも非常に競争力がある製品である。8月の一斉発売といば、Windows98が出る頃で、パソコンの熱い夏となりそうだ。
 

●マイクロチップに革命!? IBMが開発した1100MHzのPowerPC!!!(1998.3.7)

 昨年9月、ロイターが伝えたIBMの新しい半導体技術(参考を参照)によって Macintosh が採用しているCPUがより高速になる。3月5日の日経エレクトロニクスには、これに関係する記事が掲載された。簡単に説明すると、IBMは、現在の半導体の配線をアルミから銅に、それも0.2ミクロンの線で作る技術を確立したという。これによりCPUのクロックを1100MHzまで上げるメドがたち現行のPower PC750には、クロックを500MHzに上げて市販化できるメドも立った。ライバルのインテルペンティアムプロセッサは300MHzまでが限界で、CPU自らの発する発熱量が大きく、ノートパソコンには搭載できない。デスクトップでも冷却のためのファンの音がとてもうるさく、水冷でチップを冷やしているマニアもいるほど。
 このまま Macintosh を使うユーザが増えてくると良いなぁ。
 
以下抜粋。
---------------------
 最先端の半導体開発者が世界中から集まり,1年間の研究成果を競う学会「ISSCC(International Solid State Circuit Conference)」が,2月5 〜7日に米国のSan Francisco市で開かれた。マック・ユーザーの注目は何と言っても,PowerPCの今後を占う米IBM社の2件の発表だろう。1つは1.1GHz(1100MHz)という超高速で動作するPowerPCチップ,もう一つは内部の配線に従来のアルミニウムの代わりに銅を使った「PowerPC 750」で ある。
“世界最高速”の1.1GHz PowerPC
 ISSCCで発表されたマイクロプロセッサーでは,1997年に米Digital Equipment社(DEC)が披露した600MHz動作の「Alpha」がこれまで最速 だった。今回IBM社が発表した1.1GHz PowerPCの動作クロックはこの2倍で,文字通り“世界最高速”と言える。PowerPCにかけるIBM技術開発陣の意気込みがうかがえる発表だ。
 もっとも,このチップは技術的に見れば「試作品」に過ぎず,そのままPower Macに搭載される可能性は低い。現在製品化されているPowerPCが実行できる命令のうち,限られたものしか対応していないため,現在のPowerPC用ソフトウエアをそのまま実行するには難がある。同時に実行できる命令が1個という点からも,製品化が遠いことがうかがえる。高性能のRISC型マイクロプロセッサーでは3個以上の命令を同時実行できるのが当たり前だからだ。
 命令の種類や同時に実行できる命令数を減らせば,チップを構成する回路をぐんと単純化でき,その分,高速動作が容易になる。実際,今回のチップを構成するトランジスタ数は100万個と少なく,この数は68040を下回るほどだ。ちなみに米Intel社のPentium IIプロセッサーのトランジスタ数は750万個,PowerPC 750は650万個である。
 将来のPowerPCの高速化に備えて,高い周波数で動作するマイクロプロセッサーを開発/製造するノウハウを得るのが,今回のチップを開発した最大の目的と言えそうだ。
銅配線の500MHz版750は登場間近
 銅の配線を使ったPowerPC 750の動作周波数は500MHzと,現在製品に比べて約2倍である。期待できるのはこれが試作品ではなく,PowerPC 750の機能をすべて備えている点だ。後は量産化の問題だけなので,500MHz動作のPowerPC 750を搭載したPower Macがユーザーの手元に届くのもそう遠くはなさそうだ。
 このPowerPC 750の最小加工寸法(配線幅)は0.20マイクロメートルと,現行製品の0.25マイクロメートルに比べてより細い。一般にトランジスタ回路は配線幅が細いほど高速にオン/オフを切り替えられるため,より高いクロック周波数で動作可能となる。また付随的にチップ面積が小さくなり,今回のPowerPC 750は40平方ミリメートルと,従来の約3分の2に縮小された。チップ面積は製造コストに影響するから,高速性と経済性を両立できるチップと言えるだろう。
細配線による高抵抗を補う切り札「銅」
ところで,なぜIBM社は銅の配線を採用したのだろうか。理由はこれまでのアルミニウム配線では,PowerPCの動作周波数を上げ続けるのが難しくなってきたことにある。マイクロプロセッサーの性能は,より細い配線を実現する製造技術とともに進歩してきた。ところが配線幅が細くなると,配線の抵抗という弊害が生じる。電子の通り道を狭くするわけだから,信号の伝わり方が遅くなるのだ。せっかく高速動作するトランジスタを作っても,トランジスタ間の信号伝達が遅ければ,意味がなくなってしまう。そこで,IBM社はアルミニウムよりも電気抵抗の小さい銅に着目したのだ。銅の配線は,PowerPCの動作周波数を今後も高め続けるための切り札といえる。
 
参考) IBM、銅を使用した画期的な半導体技術を発表へ(ロイター)1997.9.21
 米IBMの幹部は、同社が、アルミニウムの代わりに銅を使って半導体の電流を流す技術を発見したことを明らかにした。同幹部によると、この技術は、半導体チップの開発で最終的にリードする役割を果たす、とみられている。
 IBMは、22日にこの技術を発表する予定。
 アナリストらは、IBMは、同技術で半導体開発の決定的な主導権を握ることが可能になる、と指摘している。現在の半導体開発では、アルミニウムを使用した場合の技術は限界に近づいている、という。
 IBMのマイクロエレクトロニクス・グループの技術担当バイスプレジデント、ジョン・ケリー氏は、IBMは、この技術にもとづいた半導体チップを、来年初めに市場に投入する、と述べた。
 同氏によると、IBMは、新技術をマイクロプロセッサーなどから導入し、最後にはメモリー分野にも採用する。
 同氏は、新技術はまだ”フェーズ2”の段階にあるとして、予想される市場規模などについて言及を避けている。
 基本的に、すべての半導体は現在、シリコンウェハーで出来ており、この上にトランジスタとアルミニウムの配線が乗っている。
 技術者らは何年もかけて、より小さなデバイスで高パフォーマンスを達成してきたが、その過程で、アルミニウムがもたらす規模と処理速度の限界に近づいていった。
 アルミニウムの使用は、設計の観点からは好都合なものの、電力の伝導率は低い。このため、極度にコンパクトな設計では、十分な電力をトランジスタに伝えることができなくなるという。
 科学者らは、より高い伝導体として銅に目を向けていたが、小次元での稼働が難しく、シリコン・トランジスタを腐敗させるおそれがあるとして、使用には至っていなかった。
 [ニューヨーク 21日 ロイター]
 

●MacWorld Expo Tokyo(1998.2.22)

 2月21日土曜日、休日を利用してMacWorld Expo98に行った。
幕張の会場は昨年の2/3ほどに縮小され、テーマ館も即売場も同じ会場となった。
 少し狭くなったせいか会場の混雑は昨年よりもひどく(昨年も最終日の土曜日に行った)、午後1時当たりからはゆっくりと見て回れないほどの込みようで、まるで芋洗いだった。特に即売場(イケショップ、T-zone)は黒山の人だかりで製品の価格を見ることさえままならなかった。参加者は、20代の若い男の人が6割を占めるのではないかと思うほど多かった。Macオタクは40代、50代と思っていたのに意外だった。
  (2月24日記:4日間の総入場者数は、171,749人で、昨年の183,214人を若干下回った。
   Macweek2月22日の報告によるhttp://www.zdnet.co.jp/macweek/9802/expo/n_next.html)
アップル、クラリス、マイクロソフトが大きなテーマブースを出していた。
【アップル】
 アップルのテーマブースは、G3(第三世代のPower PC)を搭載したコンピュータ(デスクトップ、ノートブック)の紹介とOS8.1の紹介がメインだった。暫定CEOスティーブ・ジョブズが思い切ったリストラを敢行し「Think Different」(違ったことを考えよう)というテーマで失地回復を図っての出展だった。MacOS8、G3コンピュータともに米国ではかなり良好な滑り出しで、デルやGatewayで成功したBTO(Built To Order)販売の立ち上げも良好だとか。アップルのブースには熱心なMacファンが詰めかけ、今後のアップルの方針や現状に対して耳を傾けていた。
 差別化をうたって他のコンピュータとの違いを知らしめたいアップルの意向のようだが、残念ながらソフトも使い勝手も、コンピュータ性能も差別化がなくなってこうしたアピールも難しくなってきているのは否定できない。一度でもMacを使ったことのある人ならばMacのカスタマイズ(自分にあったコンピュータを作る)がすぐれたものであることを理解してもらえるのだが、コンピュータに初めて触る人や、仕事の延長でコンピュータを使わざるを得ない人に理解してもらうのはなかなか難しい。第一、コンピュータが好きな人種なんて全人口のこれっぽっちもいないのだから。こんな中で体制を整えてトップダウンを敢行したMicrosoftは偉いというべきか。IBMのメインフレームもDEC(Sun、HP)のワークステーションも、NECのMS-DOSも、Tronも、そしてアップルも皆この嵐に飲み込まれようとしている。
【クラリス】
 クラリスは、ファイルメーカをエクセルなど他のアプリケーションソフトとは違うプラットフォームと位置づけ、Mac、Windows95、NT完全互換を特徴にして急成長している。同社の今後のマーケット展開を大々的にアピールしていた。同社は、社名を4月からファイルメーカ社と変える。
 Macで成功したアプリケーションソフト(Adobeフォトショップ、プレミール、Excel、ファイルメーカPro、MiniCAD)はすべてWindowsに移植され、Macのみに特化したソフトウェアの供給会社はなくなった。従って、今回のMacWorld Expoは、「Macでなければ」という企業とユーザの参加という印象が目立った。Sonyや東芝、Kodakといった常連の企業の参加がなかった。彼らはMacを「もはや小さなマーケット」と位置づけているのだろう。
【マイクロソフト】
 アップルの株主になったマイクロソフト。大きなブースを出して「Office98」をWindowsと同時発売すると宣伝していた。IE4.0(Internet Exploler4.0)のCDを無料配布して、これも大々的に宣伝していた。そういえばNetscape社は出展していなかった。この無料配布ソフトをもらって我が家のMacに入れてみた。MacUserという月刊誌に付属していたIE4.0は既にインストールして評価版を出していたが、今回もらったソフトは完全版で使い勝手はなかなか良かった。URLのタイプも1、2タイプ打つだけで今まで訪れたURLを即座に表示してくれ扱いやすいものだった。
    
MacWorld Expo幕張の会場。                アップルのブース。
昨年より出展業者が減ってスペースも2/3に。       アップルの今後に熱心に聞き入るMacユーザ
 
 
【クローンメーカ】
 例年、MacOSの供給を受けていたUMAX、Motorola、パイオニア、Akiaなどのメーカもアップルの方針で供給を辞めてしまったため出展はなかった。
 この展示会とは別に、日本ではPC Expoが開催されており、この展示会にはWindows、Macとも両方が出展されるため、MacWorld Expoに出展を控え、この展示会に出展する会社が多くなっているようだ。
【PnasonicのDVD】
 この展示会に向けて世界で初めて出展したのが、松下が他に先駆けて発売するコンピュータ用のDVD。PanasonicのブースではMacに内蔵したDVD-ROMの宣伝を大々的に行っておりDVDソフトのアニメをMacの画面に表示していた。Macの画面にはDVDプレーヤの表示画面が表れ、それをマウスでクリックするだけでアニメが表示される。DVD-ROM画像はMPEG2を採用しているため我々の画像処理屋には利用価値は低いと考える。
 また、別置きでDVD-RAMの出展を行っていたが、これはあまり積極的な宣伝はなされていなかった。DVD-RAMは、昨年9月Sonyがフィリップスらと結託して統一規格を反古にし、東芝・松下陣営に反旗を翻したため統一がとれない状態になっている。これに伴ってNECも富士通も独自の企画を打ち出したので主導権争いに拍車がかかっている。
【CAD:miniCAD】
 CADは、淘汰が激しくパソコン関係ではMacのMiniCAD(米国Diehl Graphsoft社、日本ではA&A Coがローカライズ)が他を圧倒して一人勝ちの感じがある。miniCADはWindowsにも力を入れ始め、miniCAD7.0ではWindows95/NTと完全互換がとれる。miniCADのねらいはMS-DOS分野の覇者AutoCAD。miniCAD7.0では、3D作図がより使いやすくなっている。展示会でプレゼンテーションする会社の社員は話し方が実にうまい。IMI社でもクラリスでもアップルでも、このA&Aでもホントに話術がうまい。コンピュータを扱っている人種のある一部には副次的にこうした才能を持ち合わせた人間がいるのかも知れない。A&Aの社員は見てくれは茶髪のパンク系の出で立ちをしていたが、頭の中はどうしてどうしてしっかり論理立っていた。
 
【動画像ソフト】
 今回目に付いたトピックは、動画処理、ノンリニア編集、3D処理を提案する展示ブースが目に付いた。コンピュータが高性能になりRAMが安価になったせいだろう。STRATAビジョンを持つソフトウェアトゥー社、TARGA編集器を持つFocal Point社、MotoDV・EditDVを持つラディウス社、Puffin Design社の「Commotion」を手がけるイメージアンドメジャーメント(IMI社)が熱心だった。これらは、Macの使用環境とWindowsよりも一歩先んじたソフトウェアで業績を確保しており、逆にシリコングラフィックスを買えないユーザ層を食っていこうという姿勢が目についた。IMI社が扱う、米国ハリウッドPuffin Design社の「commotion」(\420,000)は、ハリウッドのデジタルイフェクトデザイナーが安価な環境で家庭でもどこでも仕事ができるようにという要求からユーザ自ら作ったソフトで、日本でも「モスラ2」にこのソフトが使用されたという。何百枚にわたる動画像をRAMにそのまま入れてリアルタイムにレタッチ処理が連続して行える環境に仕上がっており、また使用する環境もAdobe After Effects、ElectricImageなどと同じように使えるのが大きな特徴だった。アップルが開発したQuickTimeの環境がこの種の業界に着実に浸透しており、パソコンではMacがまだ一歩リードしている感を覚えた。
 グラフィックアクセラレータで有名なラディウス(radius)社は、最近話題のFireWireという通信方式を使ってデジタルカメラのデジタル画像を直接Macに取り込む装置を\80,000〜\140,000で販売し始めた。FireWireはアップルが1986年に発表し1996年にマイクロソフトが取り上げ、昨年Sonyを始めとしたビデオメーカが本格参入したもので、簡単なケーブル接続で最大50Mバイト/秒のデジタル転送が可能な通信規格。
このキットは、SonyのDCR-VX700などのFireWireデジタル出力を持つデジタルカメラにケーブル接続して、PCIバスのFireWireインターフェースカードを介して映像をデジタルにMacに取り込む。DV画像のデータ転送レートは約3.6Mバイト/秒で、1分間のDV映像データは216MBになる。現在の所MacOS上で作成できる1ファイルの最大サイズは2GBなので、最大約10分のQuickTimeムービが作成できるという。デジタルビデオ編集は定番のAdobe Premiereに対応している。
 ビデオ編集で有名なSTRATA社(ソフトウェア・トゥー社扱い)もMacのQuickTimeを取り入れたデジタルビデオ編集ソフト(STRATA Vision3d、STRATA VIDEO Shop)を紹介していた。これらは、QuickTime環境が大前提であるためMacの方が一歩リードしているようだ。来年はWindows環境で出てくるものと思われる。
 NewTek, Inc.が開発(ディ・ストーム社扱い)する「LIGHTWAVE5.5J」も3Dモデラーソフトとしては有名。米国SFX業界で20年前に名を馳せた「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督)に感銘を受けたアラン・ヘスティングとスチュアート・ファーガソンが始めた会社。歴史が古いためコンピュータにとらわれず、ワークステーション(DEC Alpha, SUN)、Windows、シリコングラフィックス、MacなどのOSに対応しており、周辺ソフトは関連ソフトウェア会社が持ち寄って「LIGHTWAVE」を構築している。
 
【CPUアップグレードカード】
 G3の新型Power PCプロセッサの開発により、サードパーティである米国Newer technology社(日本ではメディアヴィジョン社が発売)がMAXpowerG3と呼ぶPowerPC750G3CPUアップグレードカードを発売していた。なにしろこれを現行のPowerMacに差し替えることによりアップル社の標準マシンで最高性能をもつ9600/233より2倍以上、9600/355の性能をも凌ぐマシンに変貌するそうだ。
 Newer社は、PowerMacintosh6100、7100、8100のユーザと7300、7500、7600、8500、8600、9500、9600のユーザ向けにアップグレードカードを供給する予定。このExpoでは、私が現在会社で使っている6100用のカード発表はなかったが、何かワクワクする情報であった。ちなみに価格は225MHzが\70,000前後、266MHzが\90,000前後とのこと。
 この他に、ソネットテクノロジー社も同じようなカードを発売する予定であるという。
【Windows PCカード】
ご存じOrangePC。PCIバスに差し込むと、ハード的にMacがWindowsに早変わり。開発元は米国OrangeMicro Inc.、輸入元はガス屋の岩谷産業。販売・サポートは(株)トランスポート(http://www.transport.co.jp)。このカードには、PentiumMMX200MHzのCPUがのっかっていてWindows95、もしくはWindowsNT4.0の環境で、MacのモニタやHDD、周辺機器がそのまま利用可能となる。事務所や家庭で2つもコンピュータが置けない人にはおすすめかも。価格は\170,000〜\250,000。割高ではあるが周辺機器、スペースを考えると一考の余地もあるかも知れない。
 
【MacとPCのイントラネット】
 MacファンとしてもWindowsとの情報交換無しではすまされない。MacにはPCフロッピーを読み込んだり、MOを読み込む環境が整っている。dit社(ディアイティ社http://www.dit.co.jp/)は、windowsマシンからMacをアクセスしてデータ通信を行うソフトウェアを紹介していた。「PC MACLAN for Windows95」(開発はMiramar Systems, Inc.)は、Macのファイル共有機能を利用してPCからMacのHDD、MO、CD-ROMをネットワークコンピュータのボリュームとして利用できる。Micorosoft Office、ファイルメーカ等のクロスプラットフォームで動作するアプリケーションではWindows95から直接Macのファイルを開くことが可能。接続は、Ethernetで接続しAppleTalkで通信を行う。価格は1ユーザ\36,000、10ユーザ\240,000、30ユーザ\680,000。
 WindowsNT用には「PC MACLAN for WindowsNT」(開発はMiramar Systems, Inc.\45,000)がある。WindowsNTマシンにこのソフトを入れてイーサネットの環境を作っておけば、MacとWindowsNTで双方向の通信が可能になる。
 数多くのMacマシンとUNIXマシンをつなぐには、dit社が扱う「FullPress」(XiNET社開発。6台のMac接続で\1,200,000、64台で\2,820,000)がある。UNIXマシンに接続された高解像度スキャナ、プリンタにデータを渡し、データの保管管理やデータ出力をUNIXマシンで行い、レタッチ、編集を個々のMacで行う。
【Farallon/Timbuktu Pro】
 イントラネット、リモートコントロールでその優秀性を全世界に示したTimbktu Pro(ティンブクツと読むのだそうだ、変な名前だ。ブンブク茶釜のようでおかしい。どういう意味があるのだろう)を開発した米国カリフォルニアのFarallon社の製品。日本では、エムシーパソコン販売(株)(エ03-3351-1614)が販売している。LAN、モデム、インターネットを構築したコンピュータ(Mac)環境でこのソフトをインストールすれば、離れたところから相手のコンピュータ(もしくは自分の別のコンピュータ)を自由に操ることができる。このソフトはMacOS版をはじめ、Windows95版、WindowsNT版が用意されているので、それぞれのマシンにインストールすればクロスプラットフォームで使用することが可能。価格は2ユーザ対応で\30,000〜50,000、10ユーザで\120,000〜150,000。
 エムシーパソコン販売(株)はLANに関する機器も販売している。
 
【グラフィック処理をするにはこんなマシンがおすすめ】
MacWorld Expoで配布していた創刊準備号のGW(Graphics World)。この雑誌は、米国のMacWorldとPublishという2雑誌をニュースソースにグラフィックスの最前線を紹介しようというもの。4月8日創刊。この準備号にコンピュータグラフィックスをするマシンとして代表的なものを紹介していた。性能評価は創刊号に掲載される予定。どんなマシンが最強マシンか興味があったので紹介しておく。

Apple Power Macintosh G3 MT 266
Intergraph
TDZ-2000
Silicon Graphics O2
DIGITAL Personal Workstation
Sun Ultra 10 Workstation
プロセッサ
PowerPC G3/266MHz
Pentium II 300MHz
R5000SC/180MHz〜/R10000SC/195MHz
Alpha 21164A/433MHz〜
UltraSPARC-III 300MHz

キャッシュ

1次32KB(命令)
32KB(データ)
2次:512KB
1次16KB(命令)
16KB(データ)
2次:512KB
[R5000]
1次32KB(命令)
32KB(データ)
2次:512KBまたは1MB。
[R10000]
1次32KB(命令)
32KB(データ)
2次:1MB
1次16KB(チップ)
二次96KB(チップ)
3次キャッシュ:キャッシュレスまたは2MB(ボード)
1次16KB(命令)
16KB(データ)
2次:512KB
RAM
32MB SDRAM DIMM
384MB max
64MB または128MB DIMM、512MB max
32MB または64MB SDRAM DIMM、1GB max
64MB または128MB SDRAM DIMM、768MB max

128MB EDO JEDEC DIMM、1GB max

HDD
6GB IDE
4.3GBまたは9.1GB Ultra Fast/Wide SCSI
2GBまたは4GB Ultra Fast/Wide SCSI
2.1GBまたは4.3GB Ultra Wide SCSI(オプション)

OS
MacOS8
WindowsNT Workstation4.0
IRIX6.3
WindowsNT Workstation4.0
Solaris 2.5.1またはSolaris2.6
ネットワーク
I/O
10BASE-T
10BASE-T/100BASE-TX
10BASE-T/100BASE-TX
10BASE-T/100BASE-TX
10BASE-T/100BASE-TX
拡張バス
PCI x 3基
PCI x 6基
または11基
PCI/ISA x 1基
AGP x 1基
PCI x 1基
PCI x 2基
PCI/SIA x 3基
PCI x 4基
 
 
 
●ビックブルーIBM(1998.2.11)
 コンピュータと言えばIBMである。DECはマサチューセッツ工科大学が母胎となって作られたし、SUNはスタンフォード大学が母胎で作られた。パソコンはご存じマイコンオタクのアップルや、ビックビジネスを夢見た青年実業家ビル・ゲイツがIBMに取り入って世界を変えてしまったコンピュータの総称である。IBMは、決してパソコンの社会になることを望んでいなかったし、そうさせてはならないとも思っていた。そうならないためにあらゆる手を打ってきたはずだった。彼らの戦略は、メインフレーム(大型コンピュータ)の市場の安泰にあり、メインフレームにつながる端末としてパソコンを位置づけた。当時のパソコンの性能ならば大型コンピュータを脅かす要素など何一つない。メインフレームのお客へのホンのサービスのつもりで超大企業ビックブルーはパソコン市場に参入した。IBMはできるだけ手間ひまかけず超特急でパソコンを作り上げるため100%開発を外部に任せ、規格のほとんどを公開した。規格を公開することによりいろいろなメーカが安い価格でものを作りIBMに持ってくると考えたため。CPUとデータのやりとりをするBIOS(基本入出力)のプログラムソースまで公開した。ただし、IBMは、これに罠をしかけた。公開したプログラムに著作権を与え法律的保護を加えた。そしてBIOSのチップは決して販売しなかった。こうしておけばどんなコンピュータメーカもIBM互換機を作ることができないし、BIOSをコピーしようとしても、または一部を借用したとしても世界最大の法律専門部隊を持つIBMが違法であることをたちどころに暴き、多額の賠償金求めることができた。かくてIBMはパソコン市場にも君臨し、メインフレームへの道も赤い絨毯(じゅうたん)が敷かれるはずであった。
 しかし、現実は、違った。・・・崩壊の時が来た。
●コンパック:
コンパック・コンピュータは、このBIOSを独自に開発し完全互換することに成功した。これは、リバースエンジニアリングの勝利であった。リバースエンジニアリングとは、競合他社のマシンが持つ機能を法的に保護されている実行方法を避けてコピーする技術のことである。リバースエンジニアリングには、うんざりするほど長い時間と多くの費用がかかる。その上、この作業はバージン、つまりIBMのROM-BIOSを一度も見たことがないと証明できるプログラマしかまかせられない。しかも優秀なバージンを捜すのが、これまた大変だ。
コンパックは、15人の上級プログラマによる数カ月にわたる労力と100万ドルの資金を費やして、IBM PCのBIOSリバースエンジニアリングに成功した。
 コンパックは1981年、ロッド・キャニオン、ジム・ハリス、ビル・マートで設立された。設立の経緯はあいまいでコンピュータを作ろうとした意志が最初からあったわけではなく、レストラン経営、HDD装置製作、などいろいろな話がなされた。最終的にヒューストンのレストラン、ハウス・オブ・バイズで相談をしていた三人は、テーブルに敷かれたブレースマットにコンパックの最初の構想をメモした。この会社が、うんざりするリバースエンジニアリングによりIBM PCと互換のある(コンパーチブルな)BIOSを開発し、小回りの利点を活かし、絶えずIBM PCより安くパソコンを販売し急成長を遂げるのである。
●フェニックス:
コンパックの成功ののち、ボストンにあるフェニックステクノロジーもIBM互換のBIOSチップを開発した。ただし、この会社は、これでコンピュータを作らず、それをクローンメーカに販売した。フェニックス社から一個25ドルでROM-BIOSを買えば、たとえニュージャージーの倉庫で会社を始めた二人組でも、見た目にIBM PCそっくりでIBM PCと全く同じように動くコンピュータを組み立てられる。しかも、こうして作られたマシンはIBMより30%もやすい値段で買えるのだ。
 この2社の出現により、IBMは訴訟も起こせず、順風に思われた戦略に逆風が吹き始めることになる。かくてPCクローンは雨後の竹の子のように生まれ、PC-DOSの販売権をIBMに売らずに死守したマイクロソフトは、他のフロッピーメーカーやハードディスクドライブメーカと同様クローンメーカにMS-DOSを販売していった。その後のコンパック、マイクロソフトの成功はご存じの通りである。
 IBMは、東海岸の古き良き時代のアメリカの超巨大企業である。米国の巨大企業がどのようなものであるか、このエピソードを通じて見ることができ興味深い。また、米国のエリートと呼ばれる集団の考え方がわかってとても面白いと思う。以下は、巨人IBMをより詳しく掘り下げたトピックである。
【IBMの体質】
 1980年以来、ドン・エストリッジは、IBM PC開発チームのリーダとしてこれまでのIBMでは考えられない方向を打ち出した。彼のチームは、可能な限りIBMらしくなくなることによって成功を収めた。ところがその結果、エストリッジのやり方はIBMのやり方とは違うという理由で、彼は信頼性を失い、製造担当副社長のポストにしかつくことができなかった。
 そんなとき、フロリダ州ボカ・レイトンにある彼の自宅にアップルの腕利きセールスマン、スティーブ・ジョブズ(当時28才)がリクルートに現れる。エストリッジは閑職に追いやられようとしていたし、IBMにいてもおそらくトップにはなれない。アップルとの相性は完璧だし、給料はとてつもない額だった。しかし彼はしばらくの間悩み抜き、親しい友人建ちに相談した結果、この話を断った。内面の心的葛藤である。
 たとえアップルに社長のイスが用意されても、ドン・エストリッジにIBMを辞められるわけがなかった。なぜならアップルはただの会社にすぎないが、IBMは国家だからである。
 年商600億ドルのIBMは、ほとんどの国家より大きなGNPを持つことになる。IBMの従業員数は約38万人。そこに配偶者と一人当たり平均1.8人の子供を加えると、IBMは実に100万人以上の市民をかかえていることになる。
 人口統計学的に見るとIBMはクウェートによく似ているが、気質的にはスイスに近い。IBMはスイスに似て保守的で、いくぶん怠惰で、変化の速度は遅いが裕福だ。どちらの国も、出ていく金より多くの金を手に入れる習慣がある。どちらも学習速度が遅く、自分のペースで周囲に適応していく。スイスもIBMもどんなことが起こっても生き残れる。少なくとも自分たちはそう信じている。どちらもノロマかもしれないが、へたに干渉しない方がいい。両方とも自分たちのものを守るためなら戦うし、小突かれたりしようものなら汚い手を使ってでも仕返しするだろう。
 IBMの市民は、コンピュータを発明したわけではない。最強のコンピュータを作ったわけでもない。IBMの市民は、ほかの誰よりも多くのコンピュータを作っただけである。今でこそジーンズと言えば誰でもリーバイスを思い浮かべるが、リーバイスとは対照的にファッショナブルなジーンズをデザインするグロリア・バンダービルトと競っていた時代があった。だが、辛うじて生き延びたのはリーバイスのほうだった。こうしてリーバイスがジーンズの代名詞になったように、IBMもコンピュータの代名詞になった。
 IBMの社員は独自の言語を持ち、それに固執している。例えば、ミニコンピュータは、「ミッドレンジシステム」と呼ぶ、モニタは、「ディスプレー」だ。外部記憶装置であるハードディスクは、固定されているわけでもないのになぜか「固定ディスク」と呼ばれている。
 IBMの人間はやや独善的で、少々ノロマでいささか太りすぎている。IBMの社員はほとんどが新卒で入社するのでほかの会社で働いた経験がない。彼らの生活スタイルは中流階級そのものであり、シリコンバレーの企業とは全く正反対である。
  ★煙突、摩天楼、半エーカーもあるマホガニーのデスク、社用ジェット機、銀髪、タイムカードを押す顔のない労働者の集団が巨大な工場で組み立てる製品。これが成功した東海岸企業の昔ながらのイメージだ。
  ★バレーボール、ジャンクフード、週100時間労働、だだっ広い事務所に代わる小さな仕切の部屋、Tシャツ、アジアでは見られない働く人も動いている機械も見えない工場。これが、現代のパーソナルコンピュータ業界(シリコンバレー)における成功した企業のイメージである。
 IBMの全従業員は、明らかにマネージャになろうという野心を抱いている。会社側もマネージメントを唯一最大のビジネスにすることによって、従業員がそう望むことを奨励している。IBMの重役が商品をデザインしたり、ソフトウェアを書いたりすることはない。彼らは商品デザインやソフトウェア作成を管理するのだ。彼らはいくつもの会議に出席する。そのため、労力の大半は仕事をマネージしている全マネージャのマネージに費やされることになる。実際に仕事をする重役など、ほとんどいないのだ。すなわち、IBMの大部分のハードウェアとほとんどすべてのソフトウェアは最下層の連中、つまり見習い社員が作っているといっていい。その他の社員は全員、会議やマネージメント、マネージャになるための勉強であまりに忙しすぎて、自分の専門知識をIBMの製品に活かすチャンスがほとんどない。
 IBMには何かの決定をくだすたび、修正するたびに、これをいちいちチェックし、確認するマネージメントの階層が無数にある。この巨大な安全ネットのおかげで、IBMは間違った決定がくだされることはまずない。間違った決定どころか、どんな決定をくだすのもきわめて困難だ。これがこの会社の最大の問題点であり、いずれ決定的な没落の原因となるに違いない。
  IBMは、会社内組織がしっかり構築しすぎているため、きわめて高い地位にある人間を除けば、鈍重で反芻することしか能がない重役たちを生み出す原因にもなった。彼らは命令のことしか頭になく、しかも何をいつやらせるかの指示は会社まかせだ。例えば、新しい仕事にかかる前、IBMの人間はその仕事の遂行に必要だと会社が考えるあらゆる情報を与えられる。このブリーフィングは、自分でそれ以外の資料を読んだり、独自の調査をしたりする社員がいないくらい徹底したものだ。もしIBMのマーケティング担当重役が自社のパーソナルコンピュータと他社の製品との違いを知っているとしたら、それはほぼ間違いなくブリーフィング資料で知ったことである。間違っても他社の製品を自分で調べることなどない。自社製品だってそうだろう。
 
 - このトピックは『コンピュータ帝国の興亡』下、ロバート・X・クリンジリー、薮暁彦 訳、1993.3.21初版、(株)アスキーの記事を参考にしました。 -
 
 

●Windowsのブラウザ画面で見てしまった私のホームページ(1998.2.6)

 日々ホームページを覗きに来てくれる人たちが増えてうれしく思っている。ちょっとでも増えているともっともっと更新しなくてはという使命感みたいなものが生まれる。しかし、ちょっと残念なことがある。訪れてくれる人が見ているブラウザ画面とフォントについてである。
 わたしが、使用しているのはマックのNetscape Navigator4.0(最近これも無料になった)。これを使って表示するフォント「設定」をOsakaにしている。これで読みやすい行間とフォントの大きさを設定しているのに、会社のWindowsのNavigator4.0でチェックすると文字が非常に見ずらくなる。10分と見ていられない。これにはいささかショックを受けた。文字間、行間が詰まりすぎていてとても読みづらいのである。わたしのホームページは文字が多く、図や写真も肉付け途中なので特に目立つ。また、Windowsの画面は横いっぱいに拡がる設定であるため、17インチのような画面でブラウザを開くと文字が地平線の彼方に行くかと思うくらい長くなりすぎて、とても塩梅悪い。少しでも見やすくするためにフォント設定をあれこれ変えてみたが標準で装備されているフォントにはぴったりくるものがなく、MSゴシック、ポイント12で見るのが一番見やすいという結論に達した。だが、これでもまだまだ見づらい。昨日訪問した尼崎にある財団法人研究所のインターネットコーナにWindowsでのExplorerが設置されていたのでこれで確認してみたが、やはり同じだった。
 こんなことがあって以来、マックの画面表示、特にデフォルトフォントであるOsakaがいかに見やすくて眼にやさしいかを再認識した。
 写真についてもそうである。マックでベストな明るさになるようにフォトショップで加工して画面に貼り付けているのに、Windowsで見ると暗く沈みすぎてしまう。モニタ表示が硬いのだろうと調整してもだめだった。
 
 こんなことを、会社のマック仲間と話していたら、その中のT氏曰く、「マウスのドラッグスピードも同じようなことが言える。マックはマウスの画面でのポインタ移動が指数的に速くなるのでフィーリングにフィットする。Windowsは一定速度なので手が疲れる」と。私自身は、Windowsを扱うのは外国語を操るようなものでとてもぎこちないためマウスのフィーリングをとやかく言う前に意識のほとんどが画面にいってしまう。そんな次元なので、マウスのドライブフィールを感じる余裕など全くなく、彼の話を聞いて、あぁ、そういうこともあるのかと思う始末だったのだが、マックの優しさ(易しさ)を知るエピソードでもあった。
 

●G3に触れる(1998.1.11)

 年末と年始にかけて秋ブラ(秋葉原をブラリ)をした。ボーナスも出たこともありマックのソフト、ISDN装置を買うがてらマッキントッシュの新型コンピュータG3(米国1997年11月10日発売)にも触れてみた。速い!!!。コンピュータは一種の麻薬だ。止まることを知らない。18才の時クルマの免許を取ってスピードに惹かれてスポーツカーにあこがれたように、コンピュータに取りつかれるとスピードを追い求めるようになる。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く」というコピーを思い出し苦笑いする。クルマに関してはスピードを追い求めなくなった。それよりも豊かなドライブフィールを楽しめるクルマに興味を持つ歳になっている。しかし、コンピュータに関してはまだまだスピード狂だ。今使っているPerforma5440だって180MHzでそこそこ速いじゃないかと思うのだが、G3はそれよりも速い。フォトショップを開いてフィルターワークを行って見てその快適さに驚く。OS8はファインダーを開くとき少しまごつく感を持つがG3にはそれが無く、パッ、パッと反応する。
 本家アップルは、このG3コンピュータの販売で四半期予測出荷台数の80,000台を大幅に上回る133,000台が出荷され、アップル史上最も成功した新製品導入となったそうだ。アップルニュースによると、この成功により1998年1月14日に発表する予定の1998年度第1四半期の業績を、総売上は約15億7,500万ドル、純利益は4,500万ドルを上回る見込みであると発表した。これで元気になれるかなアップル。マイクロソフトもホントに熱心にマックをバックアップしている節が見受けられインターネットブラウザもWindowsと同じようにさくさく動くバージョンにするようだし、Office98は、Winowsより2、3ヶ月早くマックバージョンをリリースするという。何か気持ち悪い感じ。
 Power Macintosh G3は、インテル社の最高速のマイクロプロセッサPentium IIを搭載するパーソナルコンピュータよりも優れたパフォーマンスで、さらにその価格はデル社やゲートウェイ社のものと比べても競争力のあるもの、とアップル側から強きの発表も見受けられた。
 G3とはPowerPCチップの第三世代をさす呼称で、チップを0.25ミクロンルールで製造しているためコンパクトで低消費電力、ノートブックには最適のチップらしい。CPUの中にキャッシュメモリが内蔵される(バックサイドキャッシュ)ためクロック数を高速化できたとうたっている。
 
●Macなともだち(1997.12.21)
 コンピュータがこれほどまで身近になって隔世の感を抱く。私のコンピュータ人生は別に述べた通りである。学生時代に日立の大型コンピュータにちょっぴり触れFORTRAN(Formula Translation)をかじり、社会人になって、Data General、DECなどのミニコンピュータを使っているエンジニアにその使い方を教えてもらったり、マイコンを使ったコンピュータを作ったり、BASICを勉強して自らプログラムを作ったり、MS-DOSを勉強してNEC-9801を使いだしたり・・・。
 しかし、自分のコンピュータライフの中でMacの出会いこそは、コンピュータを本当に身近に感じることができた出来事だと言っても過言ではない。会社(他人もしくは共同利用)のものではなく自分のコンピュータでそれを使って自らを自由に表現できる。Macにはその表現を十分に反映してくれるナイスなコンピュータと確信している。Macユーザにはこうした仲間が多い。インターネットを通じてマックライフを楽しんでいる仲間をたくさん見つけることができた。
 これほどまで洗練されたコンピュータであるのに、本家アップル社は、シェアの低迷に悩み、多額の借金、販売量の低迷、CEOの空席などたくさんの問題を抱えている。アップルはこれからどこへ行くのか。MacのOSのすばらしさは、Windowsの比ではない。SUNもオラクルもIBMもシリコングラフィックスもこのOSをマイクロソフトに渡したくなかったに違いない。彼らにとってマイクロソフトはいやな相手だ。なにしろ、彼らはビル・ゲイツを嫌っている。彼はパソコンを支配し帝国の王になりたがっている節が見え隠れしている。パソコンのCPUの90%のシェアを誇る米国インテルのアンドリュー・グローブ氏はやり玉に挙げられないで、なぜビル・ゲイツだけが・・・。アンドリューは大人で、ビルは子供だからか?
 ビル・ゲイツ(←これをクリックするとこのコーナーの「ビル・ゲイツ」に移ります)は、マーケットと法律知識、大舞台での立ち回りに関する限りスティーブ・ジョブズ(アップルの創始者)、ゲーリー・キルドール(パソコンのOS CP/Mの元祖)、ミッチー・ケーパー(ロータス1-2-3のプロモータ)などの比ではない。大舞台で知力の限りを尽くし運を呼んだ。しかし、彼にはオリジナリティがない。オリジナリティに固執すればこれほどまで大きくはできなかったのではなかろうか? そういわれればマイクロソフトにはオリジナルの商品がないのもうなずける。
BASIC:これはパブリックドメインになったものでタダ、これをマイコン用にMIT(マサチューセッツ工科大学)のPDPコンピュータでコーディングし直した。
MS-DOS:これもゲーリー・キルドールのOS「CP/M」が基本となっているもの。ビル・ゲイツの会社のすぐ近くにあったパターソンが経営する小さなソフトウェア会社(シアトル・コンピュータ・プロダクツ)がゲーリー・キルドールの持つCP/Mをパクッて16ビットにコーディングし直したQDOS(Quick & Dirty OS:汚いやり方だが即席にできたOS)をビル・ゲイツが50,000ドルで買い取って、それを少し化粧直ししてIBMにMS-DOSとして売り込んだ。彼はこれで巨万の富を築いた。
Windows:ご存じアップル、ゼロックスを巻き込んだ法廷闘争は有名。アップルはGUIを洗練させた消化していったが、マイクロソフトはMS-DOSを引きずっているためか後手に回った。正直なところ、マイクロソフトはアップルの洗練されたGUIがほしいに違いない。
インターネットイクスプローラ:イリノイ大学のMOSAICが開発者の大学生マーク・アンドリーセンがネットスケープ社に去った後、同大学で開発されたインターネットブラズザ「MOSAIC」がSPYGLASS社を通じて販売されていたのをビル・ゲイツが買い取ってインターネットイクスプローラとして仕立て上げたもの。
 ビル・ゲイツは、このようにマーケットを見る目と法の目をかいくぐる能力に図抜けた才能があり、この才能を持ってIBMの巨大企業を向こうに回しMS-DOSの受注にこぎ着け、マイクロソフト大帝国を築き上げることがきた。しかし、彼の本質は、ビジネスでありマーケットの制覇であると信ずる。豊かなコンピュータライフなどあまり興味ないのかも知れない。
Macの仲間は、パソコンを通して得られる豊かな表現の授受を希求する。これらの仲間の目は肥えている。彼らをWindowsに導くにはマイクロソフト側もかなりの努力が必要だろう。もっとも金銭面ではソフト、ハードともWindowsはかなり魅力的ではある。まあ、マイクロソフトも制覇ばかり追い求めないでパーソナルコンピュータの豊かな未来を提示してもらいたい。
 アップルのカリスマ スティーブ・ジョブズにはそうしたビル・ゲイツにはないビジョンがあった。ジョブズの性格はかなりピーキーで、仲間内では付き合いにくい人物で知られていた。ジョブズとビルをどちらをボスに取るかと問えば10人中10人がビルと答える、そんな人間が若かりし頃のジョブズである。そのジョブズがアップルに返ってきた。そんなジョブズが宿命のビル率いるマイクロソフトと手を握った。ジョブズはアップルをどうしようというのだろう。彼に、まだ熱い血潮があるのだろうか。マイクロソフトとの提携など創始者でカリスマのジョブズが言い出さなければ絶対実現しなかった。雇われCEOは、「アンチWindows」が大前提だからこうしたオプションなど及びもつかないにちがいない。彼の今後の舵取りは非常に注目される。
 それと、SUNが開発した新しい言語Java。これは、OSの概念を一蹴するパワーを秘めている。私が今発信しているJabaを基にしたHTML言語によるメッセージは、ユーザの持つWindows、Macなどのコンピュータに関係なく届けることができる。ビル・ゲイツにとってこれは由々しきことに違いない。これが発展するとマイクロソフト大帝国から人民が逃げてしまう。ビル・ゲイツのライバルであるNetscape、SUN、オラクル、DEC、HP、IBMも必死に足がかりを探してパソコン業界での起死回生を狙っている。
 

●ネットスケープとインターネットイクスプローラ(1997.12.21)

 インターネットブラウザのシェア争いで業界の老舗Netscape社と、マイクロソフト社インターネットイクスプローラ(以下IE)が激しく争っている。米国司法省がWindowsのOSとの抱き合わせは「NO」という決断を下した際に、すかさずネットスケープ側はIEを自動的にWindowsのOSからはずすソフトをブラウザソフトに組み込むと息巻いた。WindowsのシステムにはネットスケープNavigatorを故意に動かなくするプログラムが入っているという情報も流れていただけにその報復か? OSはコンピュータの根本なだけに、これが独占になると思うがままにユーザを操ることができる。これは少し危険だ。
 Macユーザは、ネットスケープを使用している割合が高いが、WindowsユーザはIEを使用する割合が高い。なにせタダだから。
 
●Windowsの世界(1997.12.21)
 大きな世界だ。全世界でこの恩恵を受けないパーソナルコンピュータユーザはいない。Windowsに関係のない世界は、広告出版業界のMac。医学業界のMac。大学、学術研究機関のUNIXワークステーション。映画業界のシリコングラフィックス。銀行、輸送などオンライン処理のノンストップコンピュータや大型計算機。そして私たちのようなMacオタク。それ以外はすべてWindows。パソコンが使いやすく安価になり、かつ高性能になったのでミニコン、ワークステーション、オンライン処理分野をも駆逐しはじめている。そして、職を追われつつあるコンピュータエンジニア難民がWindows帝国の軍門に下っている。そうしたエンジニアがWindowsをOSにしたコンピュータソフトを開発する。ユーザは好むと好まざるとに関わらず、しかたなくそれを使う。
 WindowsをベースにしたアプリケーションプログラマはDOS時代に比べ同じ内容のプログラムをコーディングするのに5倍の労力が必要と言っている。マルチタスク、GUI機能だからいろいろなところに気を配ってプログラムしないとプログラムが走らないらしい。マイクソフト社に高いサポート年会費を払ってOSの技術サポートを受けプログラムを開発するのだがなかなか埒があかないらしい。開発しているプログラムが走らない原因を突き止めていったらOSのバグだった。マイクロソフトに高い金払ってマイクロソフトの仕事している、なんていう愚痴も数知れず聞いている。もっともソフトウェア会社は2〜3名でやっているところが多く、そんな会社が日本中に数千社程度あるのだから、これらにいちいち対応する能力の高いサポートエンジニアをマイクロソフトが用意するのも大変なことはよくわかる。でもこれらのエンジニアを大事にしないと新しい波が来た時いとも簡単に離れていってしまうだろう。
 
●インターネットの功罪(1997.12.21)
 どの技術革新にもそれぞれの良さ、問題点がある。モータリゼーションの功罪。電話の功罪。テレビジョンの功罪。パソコンの功罪、など・・・。交通事故を恐れて自動車は乗れない。社員に自由に電話が使われることを恐れて電話は置けない。テレビの一方通行の情報提供を嫌がっていてはテレビの電源を入れることはできない。6年前までは、会社の机でパソコンをいじっている営業マンは仕事をしないオタクの烙印を押され白い目で見られていた。今は、パソコンが扱えない営業マンは白い目で見られる。
 インターネット・電子メールも同じだ。インターネットで今一番問題になっているのは、個人情報の悪用、つまり、クレジットカードなどの盗用である。あとは、秘密に属する情報がいとも簡単に世界中に流れ出てしまうこと、及び、その人に必要のない情報がどっさりメールに送りつけられること。だが、これは、インターネットに限ったことか?という疑問がわく。これらは、上で述べた、電話でもテレビでも郵便でも起こりうる問題である。だが、これらは会社の上層部も経験していることだから対処もある程度可能だ。つまるところ、インターネットという電子機器は社会全体が不慣れなため対処の仕方がわからず、必要以上に過敏になっているのが現状ではないか。
 社会が慣れるまで待つか、失敗を繰り返しながら成長するかは個々の判断に帰するところだが、後者の方が生命力が強いのは言うまでもない。
 
●ビル・ゲイツ(1997.12.21)
 ビル・ゲイツの時代は、私と同じ時代である。ビル・ゲイツの書物もたくさん読んだ。私と同年代だから当然意識する。彼がハーバード大学時代にマイコン「アルティア」にBASICを移植しようとしていたとき、自分は名古屋でクルマばかり乗ったり、カメラをいじってばかりいた。彼がMS-DOS売り込みに大きな立ち回りをしていたとき、自分は高速度カメラをぶん回していた。
 彼にまつわるいろいろなゴシップが飛び交う。20世紀で最も成功した人物だからし方ないことだろう。パソコンを知るには、スティーブ・ジョブズ(アップル)とその仲間、ゲーリー・キルドール(CP/M)、ドン・エストリッジ(IBMのエリート、IBM PCの開発責任者)、ダン・ブリックリン(スプレッド・シート、ビジカルクの開発者)、そしてビル・ゲイツを知れば概要を知ることができる。なぜか評論家はインテルの会長、ハンガリーの難民のアンドリュー・グローブを興味深くネタにしない。彼らの中でビル・ゲイツがパソコンをビジネスとして定着させた功績は大きい。パソコンがホビーとしての領域を出ていなかった時代に、すべての個人の机にコンピュータを置くという青写真を描きそれを成し遂げてしまった先見性と、意志、知力はすばらしいものがある。
 ビル・ゲイツの人となりを知る上には、ロバート・X・クリンジリー(薮暁彦 訳、1993.3.21初版、アスキー)の書いた『コンピュータ帝国の興亡』上巻 の中のビル・ゲイツの話が具体的で面白い。
ビル・ゲイツ【人となり】:
 ある深夜のことだった。ウィリアム・H・ゲイツ三世は、彼が住むシアトルのローレルハースト地区にある、終夜営業のコンビニエンス・ストアで買い物客の列に並んでいた。手にはバターピーカン・アイスクリームの箱を抱えている。列はゆっくり進み、やがてゲイツの番がやってきた。彼はカウンターにアイスクリームといくらかの小銭をおいて、ズボンのポケットを探りはじめた。
 「どこかに50セント割引のクーポンがあるはずなんだけど」と言って、今度はシャツのポケットを探っている。
 店員は待たされ、アイスクリームは溶けだした。ルートビアやビールのバックを抱えて後ろに並んでいる客たちは、ゲイツが見つかりもしないクーポンを探しているのに腹を立てている。
 「ほら、これ」と、すぐ後ろの客がゲイツに25セント硬貨を2枚差し出した。ゲイツはその金を受け取る。
 「100万ドル儲けたときに返してくれればいいさ」とセブンイレブンの慈善家は夜の闇に消えようとするゲイツに声をかけた。客たちはかぶりを振った。あの男が30億の財産を持つかのビル・ゲイツであることを、その場にいた誰もが知っていたのである。
 このゲイツとアイスクリームのエピソードには、何か真実が隠されているように思う。彼は金を受け取った。たかがアイスクリーム代50セントをポケットから出そうとしないなんて、いったいどういう人間だろう。金のない人間?ゲイツは違う。飢えた人間?彼はいまだかって飢えたことなどない。偏執性分裂病の人間のなかには、あの金を受け取る者がいるかもしれない。だが、ゲイツが精神病にかかったという話は聞いたこともない。子供だったら、やはり金を受け取るだろう。そう、たとえば頭はいいが、しつけの悪い9歳の子供なら。
 大当たり(ビンゴ)!
 彼は、いろんな意味で若い。悪い人間ではないが、さまざまな意味で、とりたてて良い人間というわけでもない。昔は当然若かったが今では意図的に若い。かっては一代で築き上げた最年少の億万長者だったゲイツも36歳になり、いまでは一代で築き上げた億万長者のなかで最年少の人間としてふるまっている。一般に若い人は身近なものに関心があり、彼らの住む世界にたいした奥行きはない。彼らの関心は、学校と大衆文化と異性に対する憧れで占領されている。サダム・フセインなど、社会科のテストに出題されない限り問題にならない。音楽は重要だ。服も重要だしダンスパーティも重要だ。ニキビはとてつもなく重要だ。ウィリアム・H・ゲイツ三世は悪い人間ではない。子供たちと同じように二次元的な人間なのである。女の子、車、そして技術の世界の緊張感に満ちた競争が彼の人生だ。社会的に立派な大人になること、彼はそんな一般的な通念はどこかに置き忘れてきてしまっている。
 若いビル・ゲイツは勝たなければならないと考えているから、異様なまでに競争心が強い。だから、彼にハンディをつけようと言えば必ず受けるだろう。有利に立たせてやろうと言えば、それを受け入れるに違いない。彼に50セント貸せば、その、なんというか・・・・。それはともかく、だからといって勝つためなら汚い手を使うと考えるのは間違っている。ゲイツは不名誉な勝利を嫌ったりはしない、ととるのが正しい。どんなものでも勝利は勝利である。
 ゲイツは、勝てないゲームはしない。ハーバート大学に入学したのもそうだった。彼はケンブリッジ大学で数学を専攻するつもりだったが、ケンブリッジには自分より数学の才能のある学生がいることを知ってやめたのである。故郷シアトルでも同じだ。彼の父はシアトルで弁護士として成功し、土地の名士であり、理想の父親像を演じ、市民としての責任を果たし、総じて大人である。
 「彼は人生の義務をいくつか怠っている。たとえば、父親になることだ」と、ゲイツの父は世代の闘いのコートでバックハンドのロブを返す。この人は死ぬまで、この闘いを続けるだろう。
 そこで若いゲイツは、とりあえず大人のコンテストには参加しないことにした。その代わり、父親が存在せず、父親にはまったく経験がないビジネスの世界で、自分のあらゆる優位性を活かすことにこれまでの人生を賭けてきたのだ。この世界なら、賭け率は息子のほうが高い。そして、ゲイツは彼によく似た仲間たちといっしょに、自分が父親の役を演じることができ、同時に大人になる必要がない環境を整えたのだった。
 ビル・ゲイツは1968年に最初のプログラミングを体験した。シアトルのレイクサイド小学校の母親の会が、学校のために他社のコンピュータの利用時間を買ってくれたのである。その年の夏、12歳のビル・ゲイツは2歳年上の友人ポール・アレンと、時間割作成プログラムを書いて4200ドル稼いだ。このプログラムには、自分たちが一番かわいい女の子と同じ授業が受けられる隠れ機能まで仕組まれていたのだった。その後、二人はトラフォデータという会社を作り、ポーンビル電力局が子供とは知らずに発注した北西部送電線網のシミュレーションや、ペルビュー市の交通量記録システムなどを開発した。「ママ、これが前はどんなにうまく動いたか教えて上げてよ」。トラフォデータを作ったばかりの頃、ビル少年はクライアントになりそうな相手に売り込みをしている最中にデモ・プログラムがクラッシュすると、母親に助けを求めてこんなふうに泣きついたものである。
 高校の最終学年で、ゲイツはフルタイムのプログラマとしてTRW社に雇われた。彼が上司を持ったのは、唯一この時期だけである。
 

 AnfoWorld に戻ります。